Ad
夜明け前の天幕の中で、シンは地図を睨んでいた。
炭の線が、羊皮紙の上を縦横に走っている。
谷の形、斜面の角度、水源の位置。
帝国軍が使える道と、使えない道。
この一週間で、アキンたちが命がけで刻んだ数値が、ようやく一枚の絵になりつつあった。
三人の名前が、その絵の裏側に貼りついている。
ゴル、ラン、テッシュ。
地図には残らない。
戦略には関係ない。
それでも、シンはその名前を忘れなかった。
忘れないことだけが、今の自分にできる唯一の「人間的な行為」だという確信が、どこからともなく根を張っていた。
(……俺の中にいる俺の記憶が、そうしろと言っている。)
現世の自我が、静かに応じた。
(……損失が減るなら、それに従う。)
二つの声が、また折り合った。
完全な和解ではない。
ただの、暫定的な停戦だ。
天幕の入口が、音もなく動いた。
「……起きてたんだね。」
ヒディが入ってくる。
薄緑の肌が、焚き火の残り火に照らされている。
小柄な体躯。
だが、その目の色が――いつもと違った。
丸い瞳の奥に、決意に似た何かが静かに燃えている。
「眠れなかったのか。」
「シンこそ。」
「考えることがある。」
「私も。」
ヒディは天幕の中に入り、シンの隣に腰を下ろした。
羊皮紙を覗き込む。
「……これ、地図?」
「ああ。」
「ゴルたちが作ったやつ。」
「そうだ。」
短い沈黙。
ヒディは羊皮紙を、しばらく見ていた。
「……シン。」
「なんだ。」
「次、私も連れて行って。」
シンは手を止めた。
ヒディを見た。
その目を見た。
懇願ではない。
子供のわがままでもない。
これは――申し出だ。
「……お前は拠点防衛がある。」
「アキンたちがいる。私じゃなくてもできる。」
「危険だ。」
「知ってる。」
「わかっているのか。」
「わかってる。」
即答だった。
シンは、その即答の質を、少しの間だけ測った。
軽くない。
「……理由を言え。」
「ゴルたちの分も、戦いたい。」
シンは、返答を失った。
論理ではなかった。
感情だった。
だが――感情を理由に申し出てくる者を、シンは今まで一度も、軽く扱えたことがなかった。
(……カイルも、そうだった。)
「……考える。」
「うん。」
ヒディは頷いた。
それ以上、押さなかった。
ただ、羊皮紙の上の炭の線を、静かに指でなぞった。
「……これ、ゴルたちが歩いたところ?」
「そうだ。」
「じゃあ、ここにいるね。ずっと。」
シンは、その言葉を聞いた。
何も言わなかった。
ただ、炭を持ち直して、地図の続きを描き始めた。
ヒディは、その隣で黙って座っていた。
夜明けまで、二人はそうしていた。
帝国軍が来たのは、昼前だった。
斥候の報告は正確だった。
二百。
正規の歩兵部隊。
旗はエディルリア神聖帝国の白地に金。
神聖騎士団や帝国の本軍の直属ではない――地方の駐屯軍だ。
練度はそこまで高くない。
だが数は、この集落の戦力の三倍を超える。
シンは、天幕の外に出た。
集落の入口に、ムパンギが立っていた。
その後ろに、アキン。
そしてゴブリンの戦士たち。
全員の顔に、緊張がある。
だが、先週とは違う緊張だ。
恐怖ではなく――覚悟の緊張だ。
「シン。」
「ああ。」
「お前の地図通りか。」
「ほぼ。西の斜面から来る。谷の手前で一度止まるはずだ。地形を確認してから進む――それが正規軍の動き方だ。」
「その間に?」
「叩く。」
ムパンギは頷いた。
シンは全員を見渡した。
「聞け。今日の敵は先週の斥候とは違う。練度が高い。正面からぶつかれば、数で押し切られる。だから正面からはぶつからない。」
アキンが前に出た。
「じゃあどうする。」
「地形を使う。」
シンは羊皮紙を広げた。
谷は細長く、中央だけがわずかに広い。
西の岩場はその中央を見下ろし、反対の東側は木々が密集しているが、奥に一本だけ獣道が伸びていた。
逃げるなら、そこしかない。
「西の斜面、この岩場。ここに半数を伏せる。俺とセリナが指揮する。残りはムパンギが率いて、谷の出口を塞ぐ。敵が谷に入った瞬間、両側から挟む。」
「挟撃か。」
「ただし――退路を完全に断つな。」
アキンが眉をひそめた。
「なぜだ。退路を断てば敵は逃げられない。皆殺しにできる。」
「逃げ場のない敵は死に物狂いで戦う。それが一番危ない。退路を一本だけ残せ。敵は逃げることを選ぶ。その方が、こちらの損耗が少ない。」
沈黙。
アキンは、その論理を咀嚼するように黙っていた。
それから、短く頷いた。
「……わかった。」
シンは全員を見渡した。
「一つだけ言っておく。今日の目的は皆殺しではない。この集落を守ることだ。敵を退けることができれば、それで十分だ。余計なことに力を使うな。」
誰も、反論しなかった。
「……それに、何があったかを語らせることも大事だ。――恐怖を伝染させなければならないからな。」
戦闘は、シンの読み通りに進んだ。
帝国軍は谷の手前で止まった。
地形を確認する。
その間、三分。
その三分で、全員が配置についた。
帝国軍が谷に入った瞬間、セリナの弓が鳴った。
先頭の指揮官が落ちた。
次の瞬間、岩場からゴブリンの戦士たちが躍り出た。
アキンが先頭だった。
その動きに迷いはなかった。
先週とは違う。
地図を作った男が、今日は地図の上で戦っている。
帝国軍に混乱が走った。
退路を一本だけ残してある。
敵の後方指揮官が、それを見つけた。
「退けッ! 罠だ、退けッ!」
帝国軍が崩れ始めた。
その瞬間――
「シン。」
セリナの声が、隣から飛んだ。
シンが振り返る前に、小さな影が風のように横を抜けた。
両手に短剣を持ったヒディ。
体が低い。
地面を這うように疾走する。
その速さは――アキンより、速かった。
崩れかけた帝国兵の一人が、逃げながら後ろを向き、弓を引いた。
標的はアキンだ。
矢が放たれる。
それより早く、ヒディの短剣が弓手の喉を断っていた。
着地。
振り返らない。
次の標的へ。
シンは、その動きを、一瞬だけ目で追った。
(……速い。)
単純な感想だった。
だが、その速さの質が――尋常ではなかった。
体格の小ささを補うどころか、武器にしている。
重心が低い。
死角から来る。
捌けない。
(……これは、才能だ。)
前世の記憶が、静かに応じた。
(小柄な剣士の強みを最大化している。リーチの短さを速度と角度で補う。歴史上、同じ戦い方をした者たちがいた――)
現世の自我が、その思考を打ち切った。
(今は戦場だ。)
「セリナ、右だ。」
「見えてる。」
弓が鳴った。
帝国軍の残存部隊が、退路へ向かって崩れていく。
ムパンギの部隊が、その退路を「塞がずに」追い立てる。
五分で、谷は静かになった。
戦闘が終わった後、アキンがヒディの前に立った。
「……お前、いつの間にそんなに速くなった。」
「ずっと練習してた。」
「俺に黙って?」
「アキンは止めるから。」
アキンは、しばらくヒディを見ていた。それから、深く息を吐いた。
「……俺より速かった。」
「うん。」
「……悔しい。」
「ごめん。」
「謝るな。」
アキンは、ヒディの頭を乱暴に撫でた。
ヒディは、少しだけ目を細めた。
シンは、そのやり取りを遠くから見ていた。
(……双子だ。)
今更のように、その事実が目に入った。
同じ顔の輪郭。
同じ目の形。
だが、中身は全然違う。
(……似ているが、似ていない兄妹だ。)
前世の記憶が、ふと滲んだ。
(兄妹というのは、そういうものだ。血が同じでも――)
現世の自我が、その先を打ち切った。
感傷は、後でいい。
夕暮れが山を赤く染めた頃、集落に宴の準備が始まった。
ムパンギが大声で笑いながら、酒の入った大きな壺を担いでいる。
アキンが焚き火を大きく起こしている。
ヒディが煮炊きを手伝いながら、何かを歌っている。
勝利だった。
死者はゼロだった。
その事実が、集落全体に火を灯したように広がっていた。
セリナが、シンの隣に来た。
「……珍しい顔をしているわ。」
「どんな顔だ。」
「少し、楽そうな顔。」
シンは、何も言わなかった。
「悪いことじゃないわ。」
「……そうか。」
「たまには休んでもいい。」
「休み方がわからない。」
セリナは、少しだけ目を細めた。
それから、静かに言った。
「なら、今夜教えてあげる。」
宴が深まった頃、三人は自然と輪から離れていた。
シンが人の多い場所を好まないことを、セリナもヒディも、もう知っていた。
集落の外れ、小さな岩場の上。
眼下に焚き火の光が揺れている。
遠くから笑い声と歌声が届く。
空には星が出ていた。
「……綺麗だね。」
ヒディが空を見上げながら言った。
「エトセニアの星は多い。帝国の街では見えない星が、ここにはある。」
シンが答えた。
「帝国では、星が見えないとこにいたの?」
「城塞の中だ。空が狭い。」
「じゃあ、ここの方がいいね。」
「……そうかもしれないな。」
セリナは、その会話を横で聞きながら、静かに夜風を受けていた。
この男が「そうかもしれない」と言う時、それは本心に近い。
断言できないのは、まだ自分の感情を信用していないからだ。
(……少しずつ、変わってきている。)
その変化が、セリナには――
思考が、途切れる。
空気が、変わった。
一瞬で。
セリナの耳が、音のない異変を拾った。
空気が冷えた。
吐息が、白くなる。
「――シン。」
その声と同時に、闇が動いた。
何かが、岩場の上に降り立った。
音がなかった。
人間ではない。
その着地の静けさだけで、それがわかった。
シンが立ち上がる。
腰の剣に手をかける。
セリナが弓を引き絞る。
ヒディが両の短剣を抜く。
三人の視線の先に、人影が立っていた。
女だった。
星の光を弾く銀色の長い髪と白い肌。
その美しさは――この世界の理から外れていた。
完璧すぎる。
完成されすぎている。
まるで、美しさという概念を人の形に押し込めたような。
赤い瞳が、三人を順番に見た。
品定めをしている。
だが、その品定めの視線が――シンの上で、止まった。
「……ふふ。」
声は低く、柔らかく、そして奇妙なほど愉快そうだった。
「聞いた通りだな。」
「……誰だ。」
シンの声は、感情を抜いていた。
女は答えなかった。
代わりに、一歩前へ出た。
その瞬間、セリナの矢が放たれた。
女は身を動かさなかった。
矢が、女の頬の横を――通り抜けた。
通り抜けた?
否。
女の指が、矢を摘まんでいた。
放たれた矢を、指二本で。
「……エルフの弓か。なかなかに速い。いい腕だ。でも、まだ足りない。」
矢を、無造作に地面へ落とした。
セリナの顔から、血の気が引いた。
ヒディが踏み込んだ。
低い体勢。
速い。
風のような疾走。
右の短剣が、女の脇腹を狙う。
女は半歩だけ退いた。
その半歩が、ヒディの軌道を完全に外した。
「速いな。だが――」
女の手が、ヒディの手首を掴んだ。
「まだ動きが若い。」
そのまま、軽く――投げた。
ヒディの体が宙を舞い、地面の上に転がった。
「ヒディ!」
セリナの声が、遠くから聞こえた。
シンは、その間に距離を詰めていた。
剣が、女の首を狙う。
女は、それを――小剣で受けた。
刃が交差するが、それ以上びくとも動かない。
シンの手に、全く相手の刃が動かない感触が返ってきた。
(……力が、強い。とてつもなく。)
「ここまで攻めてきたやつは初めてだ。誇れ。」
女は、至近距離でシンを見た。
赤い瞳が、シンの目を、正面から覗き込む。
「……面白い目をしているな。ただの軍人じゃないな、貴様は。」
「何者だ。」
「それはまだ教えてはやらん。」
女は一歩退いた。
シンも追う。
女の手が、シンの剣を持つ手首を掴んだ。
冷たかった。
氷のような冷たさ。
人間の体温ではない。
「そう焦るな。また来る。」
そして――
女の顔が、シンの首筋に近づいた。
一瞬だけ。
鼻先が、肌の近くを掠めた。
まるで、匂いを嗅ぐように。
「……いい血だな。」
囁きだった。
次の瞬間、女は闇に溶けた。
音もなく。跡もなく。
残ったのは、冷たい夜気と、シンの手首に残る氷の感触だけだった。
三人は、しばらく動けなかった。
最初に口を開いたのは、ヒディだった。
「……誰、あれ……。」
「……わからん。」
シンは、剣を鞘に戻した。
手が、わずかに震えていた。
認めたくなかったが――あれは、強い。
圧倒的に。
シンの今までの経験が通用しない強さだ。
「ヴァンパイアね。」
セリナが静かに言った。
「……見たことがあるのか。」
「ハルティアメッツァの書物に。東の魔皇国の魔族の中に、そういう種族がいると。南東のカルミネスティアもヴァンパイアたちの国になっている。」
「東、か。」
シンは、夜の闇を見つめた。
東には、魔族のディアベルスキア魔皇国がある。そして西には人間のエディルリア神聖帝国。
(……二方向から挟まれる可能性がある。)
前世の記憶が、静かに補足した。
(二正面作戦は最も避けるべき状況だ。ナポレオンも、ヒトラーも、それで滅んだ――)
現世の自我が、その思考を引き取った。
(だが、まだ断定できない。あれが東の勢力かどうか、確認が取れていない。)
「……セリナ。あの強さは、どの程度だと思う?」
「……私が知る限り、ヴァンパイアの中でもかなり上位の存在でしょうね。普通の戦い方では、まず勝てない。」
「弱点は。」
「日光にはあんまり得意じゃないと聞いたことがある。……ただし、あの強さなら、弱点を突いても無効化される可能性がある。」
シンは、しばらく黙っていた。
「……ムパンギに報告する。今夜の宴は終わりだ。」
三人が立ち上がりかけた、その時――
「シン。」
ヒディが、シンの袖を引いた。
「……なんだ。」
「怖かった?」
シンは、ヒディを見た。
その目が、真剣だった。
責めているのではない。
ただ、知りたがっている。
「……少し、な。」
珍しく、正直に答えた。
「私も。」
ヒディは、そう言って小さく笑った。
「でも、シンが怖いって言ってくれると、なんか安心する。」
「……なぜだ。」
「シンが怖くないって言ったら、嘘だと思うから。正直な方が、信用できる。」
シンは、その言葉を受け取った。
何も言わなかった。
だが、その言葉の重さを、静かに飲み込んだ。
(……この子は。)
前世の自我が、ふと滲んだ。
(賢い。感情で動きながら、本質を掴む。これは――)
現世の自我が、その思考を静かに閉じた。
今は、それだけでいい。
集落に戻りながら、シンは空を見上げた。
星が出ている。
あの女は、どこへ消えた。
そして――なぜ、首筋の匂いを嗅いだ。
その問いに、答えは出なかった。
ただ、手首に残る氷の感触だけが、しつこく残っていた。
山を隔てた場所に、二つの人影があった。
夜の木々の間、月明かりだけが届く岩場の上。
一方は、先ほどまで三人を翻弄していた女だった。
長い銀髪を夜風に遊ばせ、赤い瞳で月を見上げている。
その横顔に、まだ先ほどの愉悦が残っていた。
もう一方は――
夜の色に溶け込むような、黒い外套の女。
フードを深く被り、顔は見えない。
だが、その立ち姿には、隠しようのない優雅さがあった。
「で、どうだった?」
フードの女が、先に口を開いた。
その声は低く、柔らかく、そしてどこか楽しげだった。
まるで、答えを知りながら聞いているような。
「思ったより面白かった。」
銀髪の女――カリッサが、月を見上げたまま答えた。
「ほう。」
「あの目。あれは普通ではないな。ただの軍人の目ではない。戦場にいるのに、戦場の外から戦場を見ている目をしている。」
「……そう。」
「お前が面白いと言った意味が、――少しわかった。」
フードの女は、小さく笑った。
「ふふ。少し、ね。」
「……お前は全部わかっているつもりだろうがな。」
「さあ、どうかしら。」
カリッサは、フードの女を横目で見た。
「あの血の匂い。古代種の血だ。間違いない。」
「ええ。ところでいつ嗅ぎ当てたの?そんな機会あった?」
「――偶然、な。」
カリッサは、少しだけ目を細めた。
「ふうん、偶然、ね。」
フードの女は、妖しく笑う。
夜風が、二人の間を通り抜けた。
「カリッサ。」
「ん?なんだ。」
「……あの子、どうするつもり?」
カリッサは、月から視線を外した。
山の向こう、集落の方角を見た。
焚き火の光が、遠くに揺れている。
「……まだ決めていない。」
「へー、珍しい。」
「……そうか?」
「いつもは、なんでも即断即決じゃない。」
カリッサは、少しの間だけ黙っていた。
「……迷っているわけじゃない。」
「じゃあ?」
「……楽しみにしている。」
その言葉に、フードの女がわずかに肩を揺らした。
笑っているのかもしれない。
「それも珍しい。」
「うるさい。」
カリッサは、再び月を見上げた。
「あと、お前の報告にはなかった点が一つ。あれは魂に揺らぎがある。」
「私が見ていたときには揺らぎなんてなかったから、最近になってからってこと?」
「おそらくな。何かがあったのかもしれん。」
「……壊れる可能性は?」
「大丈夫だ。あれは、その程度では壊れん。」
断言だった。
迷いのない、確信だった。
「なぜそう思うの?」
「あの目がそう言っていた。あれは――まだ、何かを諦めていない目だ。」
そしてにやりと微笑む。
「それにすぐ傍で健気に見守っている者がいるしな。」
フードの女は、それ以上何も言わなかった。
ただ、夜風の中で、かすかに――ほんの一拍だけ遅れて、笑った。
その笑みを、カリッサは見ていなかった。
二人の影が、夜の森に溶けていく。
焚き火の光だけが、遠くで揺れ続けていた。
Ad