AdAd
  
第5話 山岳の牙

  霧が、山を食っていた。

  夜明け前のエトセニア山岳地帯。

  稜線が白い闇に溶け、谷が見えない。

  木々の輪郭だけが、墨絵のように浮かんでいる。

  シンは岩場の上に膝をつき、羊皮紙を広げていた。

  炭の線が、この一ヶ月で別物になっていた。

  最初は粗末な輪郭だけだった地図が、今では等高線と水源と道幅と斜面角度を備えた、実戦に耐える精度になっている。

  ゴル、ラン、テッシュが命で刻んだ数値が、今もその線の中に生きていた。

  シンは一点を、長く見ていた。

  谷の入口から三百メートル上流。

  両脇の斜面が急峻に狭まる場所。

  道幅が馬二頭分しかない。

  その上に、巨岩が複数、斜面に引っかかるように乗っている。

  (……ここだ。)

  知識が、音もなく浮かんだ。

  一三一五年。

  モルガルテン。

  ハプスブルク公爵レオポルトの騎士団、五千五百と重装騎兵二千五百。

  スイス森林同盟の民兵、一千五百。

  つまり五分の一の戦力だった。

  山道に密集した騎士団の縦列に、斜面から岩と丸太を落とす。

  隊列が崩れた瞬間に斬り込む。

  騎士の重装甲は平地では無敵だが、山岳の狭隘路では棺桶になる。

  条件が、揃っている。

  帝国軍は二千。

  ゴブリンの戦力は四百。

  数の差は五倍。

  だが、この谷ならば――

  「シン。」

  ムパンギの声だった。

  振り返ると、その巨躯が霧の中から現れた。

  後ろにアキン。

  さらにその後ろに、見慣れない顔が複数いた。

  「各部族の長を連れてきた。」

  シンは立ち上がった。

  七人。

  ゴブリンの部族長たちが、警戒の目でシンを見ている。

  人間への不信が、その目に滲んでいた。

  シンは七人を順番に見た。

  値踏みするような視線を、受け流さずに正面から受け取った。

  「話を聞け。」

  それだけ言って、地図を広げた。

  説得には、一時間かかった。

  最初の三十分は沈黙だった。

  部族長の一人が「人間の言葉は信用できない」と言う。

  別の一人が「ムパンギの客人だから聞いてやる」と言う。

  もう一人が「どうせ俺たちを使い捨てにする気だろう」と言った。

  シンは反論しなかった。

  ただ、地図の上に数字を並べた。

  「帝国軍の進軍速度。一日あたりの移動距離。補給線の限界。この山岳地帯で帝国軍が維持できる最大兵力。」

  数字だけが、そこにあった。

  「お前たちが単独で戦えば、各個撃破される。連携すれば、この数字が逆転する。」

  部族長の一人が、地図を覗き込んだ。

  「……この場所に岩を落とせと言っているのか。」

  「そうだ。」

  「しかし帝国軍がここを通るとは限らない。」

  「通る。」

  「なぜそう言い切れる。」

  「この道以外に、二千の兵と補給荷車が通れる道はない。地形がそう言っている。」

  沈黙。

  部族長たちが、互いに目を見合わせた。

  ムパンギが、腕を組んだまま口を開いた。

  「俺はシンを信用する。理由は単純だ。こいつは今まで、一度も間違えていない。」

  それだけだった。

  それで十分だった。

  夜が明けきらないうちに、斥候が戻ってきた。

  「来ます。二千、旗は白地に金。補給荷車が二十。進軍速度は早い。」

  シンは地図を畳んだ。

  「予定通りだ。配置につけ。」

  部族長たちが、それぞれの部族を率いて散っていく。

  山岳に慣れたゴブリンたちの動きは、音がない。

  霧の中に溶けるように消えていく。

  アキンが、シンの隣に来た。

  「……本当にうまくいくか。」

  「うまくいかせる。」

  「それは答えになってねえ。」

  「お前が心配することじゃない。お前は自分の役割だけをやれ。」

  アキンは、少しだけ黙った。それから、短く頷いた。

  「……わかった。」

  ヒディが、その隣に来た。

  両手に短剣。

  体が低い重心で構えている。

  その目は、怖がっていない。

  「シン。」

  「なんだ。」

  「必ず戻ってきてね。」

  シンは、その言葉を一瞬だけ受け取った。

  「……戻る。」

  短く言って、前を向いた。

  帝国軍の先頭が、谷に入ってきた。

  シンは斜面の上から、それを見ていた。

  白地に金の旗。

  重装歩兵の密集隊形。

  馬上の指揮官。

  補給荷車の列。

  ――整然としている。

  練度が高い。

  これは地方の駐屯軍ではない。

  (……本軍だ。)

  胃の底が、冷えた。

  だが、手は動いている。

  思考は回っている。

  冷えるのは感情だけで、判断は別の場所にある。

  谷の道幅は、馬二頭分。

  密集隊形が一列縦隊に変わらざるを得ない。

  重装甲の騎士が、山道の石畳に蹄を取られながら進んでいる。

  (……今は、待つ。)

  先頭が通り過ぎる。

  中列が入ってくる。

  後列が谷の入口にさしかかる。

  全員が谷の中に入った瞬間を、待つ。

  帝国軍の指揮官が、馬上で辺りを見回した。

  静かすぎる、と思っているはずだ。

  山に慣れた指揮官なら、この静けさを異常だと感じる。

  だが遅い。

  シンは、右手を上げた。

  次の瞬間――

  山が、鳴った。

  最初は低い振動だった。

  地の底を巨人が歩くような、腹に響く唸り。

  斜面の巨岩が、ゆっくりと動く。

  石と石が擦れ合う。

  嫌な音だった。

  そして――崩れた。

  岩が、落ちる。

  一つではない。

  十、二十、三十。

  斜面の上から、人の胴体ほどの岩塊が、重力だけを燃料にして谷底へ向かって転がり落ちていく。

  最初の岩が着弾した瞬間、谷が絶叫した。

  重装歩兵がまとめて潰れる。

  鉄がひしゃげ、馬が砕け、血と泥が石畳に弾け飛ぶ。

  逃げ場はない。

  前へ進めない。

  後ろへ下がれない。

  横は断崖。

  空だけが、遠かった。

  そこへ、第二波の岩塊が落ちてきた。

  金属が砕ける音。

  馬の悲鳴。

  人間の叫び。

  誰かが潰れた仲間を押し退けようとしている。

  後列が前列を押している。

  倒れた者が、次の岩に潰される。

  密集隊形が、一瞬で地獄になった。

  両脇は急峻な斜面。

  前は岩に潰された仲間の死体。

  後ろは後続の部隊。

  「今だ。」

  シンは斜面を駆け下りた。

  谷底に降りた瞬間、帝国兵の一人がシンに気づいた。

  「敵だ! 殺――」

  声が終わる前に、シンはその男を腰から抜いた剣で斬る。

  一秒もかからない。

  だが、その剣は細剣だった。

  シンの戦い方には合わない。

  視線を走らせる。

  二メートル先に、岩に潰された騎士が倒れていた。

  その手に、柄だけが見えている。

  大剣ツヴァイハンダーだ。

  シンは走った。

  岩を踏み台にして跳ぶ。

  騎士の手からツヴァイハンダーを引き抜く。

  重い。

  片手剣とは比較にならない重量。

  普通の兵なら、振るだけで体勢を崩す。

  だが――

  シンの指が、自然に柄を握り直していた。

  重心。

  間合い。

  肩への負荷。

  刃の慣性。

  忘れていた感覚が、骨の奥から浮かび上がる。

  (……これだ。)

  手に馴染む。

  いや。

  馴染んでしまう。

  失ったはずの戦場の感覚が、音もなく戻ってきた。

  「敵の剣で、やらせてもらう。」

  誰に向けた言葉でもなかった。

  大剣が、唸った。

  一人目。

  密集から外れて逃げようとした重装歩兵。

  甲冑の継ぎ目を狙い、肩口から斜めに断つ。

  鎧ごと裂ける。

  二人目。

  背後から組みつこうとした槍兵。

  振り返りざまに柄頭で顎を砕く。

  倒れたところを踏む。

  三人目。

  馬上から剣を振り下ろしてくる騎士。

  刃を受けるのではなく、馬の脚を払う。

  馬が倒れ、騎士が落ちる。

  地面に叩きつけられた騎士の首に、大剣の切っ先を当てる。

  「動くな。」

  騎士が、動きを止めた。

  「武器を捨てろ。」

  騎士が、剣を落とした。

  「退路はあの方向だ。今すぐ走れ。」

  一瞬だけ、騎士はシンを見た。

  そして走った。

  シンは、その背中を見送った。

  一秒だけ。

  (……退路を残す。逃げる者は追わない。それが損耗を減らす。)

  次の敵が来た。

  戦場は、計算通りに動いていた。

  いや――計算を超えていた。

  ゴブリンたちは強かった。

  山岳民族としての本能が、この地形で最大限に機能している。

  重装甲の帝国兵が身動きできない場所で、軽装のゴブリンたちが縦横に動き回る。

  岩場を駆け上り、木々の間を抜け、死角から叩き、霧に消える。

  アキンが先頭で斬り込んでいた。

  先週より速い。

  先週より正確だ。

  そして――

  ヒディが、風になっていた。

  二刀が、閃光のように走る。

  帝国兵の隙間を縫うように入り込み、急所だけを正確に断つ。

  体が小柄な分、視界に入りにくい。

  気づいた時には、もう次の標的に向かっている。

  (……本物だ。)

  シンは、その動きを見ながら、大剣を振るい続けた。

  四人目。

  五人目。

  六人目。

  岩で潰れた密集隊形が、完全に瓦解しつつある。

  指揮官が叫んでいるが、声が届かない。

  混乱が混乱を呼ぶ。

  隊列が隊列を押しつぶす。

  帝国軍の後列が、退路を探し始めた。

  (……今だ。)

  「ムパンギ!」

  「わかってる!」

  谷の出口側から、ムパンギの部隊が動いた。

  退路を「塞がずに」、一本だけ残して圧迫する。

  帝国軍が、その一本の退路に殺到し始めた。

  そこからは、崩壊だった。

  先頭が退路へ向かう。

  後続が押し合う。

  指揮系統が完全に死ぬ。

  組織が、ただの群衆になる。

  群衆は、戦えない。

  シンは、崩れていく帝国軍の中で、大剣を振るい続けた。

  止まれない。

  止まれば、囲まれる。

  動き続けることだけが、生存だ。

  七人目。

  八人目。

  九人目。

  血が、顔にかかる。拭わない。

  視界の端に、何かが光る。

  矢だ。

  躱す。

  次の敵が来る。

  大剣を薙ぐ。

  十人目。

  十一人目。

  十二——

  「シン! 右!」

  セリナの声。

  振り返る前に、体が動いていた。

  右から来た槍を、大剣の腹で弾く。

  弾いた勢いで半回転。

  返す刃が、槍兵の胸甲を叩き割る。

  肺が焼ける。

  左肩の古傷が、熱を持ち始めている。

  だが――

  (まだだ。)

  シンは、前を向いた。

  決着がついたのは、それから二十分後だった。

  谷に、静寂が戻った。

  帝国軍の死者、およそ六百。

  残りは退路から逃走。

  ゴブリン側の死者、十七。

  シンは、大剣を地面に突き立て、それに体重を預けた。

  膝が笑っている。

  古傷が熱い。

  全身が鉛だ。

  だが、立っている。

  「……シン。」

  ヒディの声だった。

  振り返ると、小さな体が走ってくる。

  血まみれだが、自分の血ではない。

  その目が、濡れていた。

  「……無事か。」

  「うん。シンは?」

  「立っている。」

  「立ってるだけじゃん。」

  「十分だ。」

  ヒディは、シンの隣に来て、ぴったりと寄り添った。

  何も言わなかった。

  ただ、その小さな体の温度が、シンの腕に触れた。

  シンは、その温度を、黙って受け取った。

  戦場の片付けが始まった。

  谷には、まだ音が残っていた。

  崖のどこかで、小石が遅れて転がり落ちる。

  砕けた甲冑が風に揺れる。

  さっきまでの絶叫だけが、山肌の奥にまだ貼りついている気がした。

  武器の回収。

  死者の確認。

  シンは、それらを指示しながら、谷の中を歩いた。

  帝国兵の死体が、谷底に散らばっている。

  岩に潰されたもの。

  刃で斬られたもの。

  踏み潰されたもの。

  シンは、その光景を、一つ一つ確認しながら歩いた。

  感情はない。

  感情は、ない。

  ――ない。

  (……六百だ。)

  数として処理した。

  六百。

  この谷で、今日、六百の命が消えた。

  それは自分の判断の結果だ。

  兵站の限界を突いた。

  地形を活かした。

  損耗を最小化した。

  ゴブリンの死者は十七。

  帝国軍の六百と比較すれば、圧倒的な効率だ。

  正しい。

  正しい。

  正し――

  足が、止まった。

  

  目の前に、帝国兵が一人倒れていた。

  若い。

  二十歳前後。

  シンと同じくらいの年齢だ。

  岩に腰から下を潰されている。

  まだ、――生きていた。

  目が合った。

  帝国兵の目が、シンを見た。

  恐怖ではなかった。

  もうそんな力もない目だった。

  ただ、何かを言おうとして、口が動いていた。

  言葉にならない。

  シンは、その男の前に膝をついた。

  水筒を取り出して、口元に当てた。

  男が、水を飲んだ。

  そして、目を閉じた。

  それだけだった。

  シンは立ち上がった。

  何も感じていない。

  感じていない。

  感じて――

  (……それでいい。)

  頭の中で、声がした気がした。

  自分の声だった。

  (六百人が死んだ。だが、その六百人が生きていれば、もっと多くのゴブリンが死んでいた。計算は正しい。判断は正しい。俺は正しい選択をした。)

  正しい。

  正しい。

  では、なぜ――

  足元の男の顔が、消えない。

  二十歳前後。シンと同じくらい。

  神の名を信じて、命令に従って、この谷に来た。

  ただそれだけの男が、今、岩の下にいる。

  (……この男にも、カイルのような誰かがいたのかもしれない。)

  その思考が、浮かんだ瞬間、シンは強引に別の思考で上書きした。

  (関係ない。敵だ。戦場での死だ。これは殺人ではなく、戦争だ。)

  そうだ。

  戦争だ。

  戦争に来た人間が、戦争で死んだ。

  戦争で敵を倒すのは正義だ。

  一人でも多くの仲間を助けるため。

  いかに多くの敵を殺すかが戦場の正義だ。

  ただ、それだけだ。

  なのに、――俺は何を迷っている。

  シンは歩き始めた。

  次の死体の横を、通り過ぎた。

  また次の死体の横を、通り過ぎた。

  また。

  ――また。

  ――――また。

  谷の出口まで歩いた。

  百メートルほどの距離に、何十もの死体があった。

  一つ一つ横を通り過ぎるたびに、何かが――

  (やめろ。)

  自分に命じた。

  (数えるな。顔を見るな。名前を想像するな。それをやれば、次が動けなくなる。動けなくなれば、仲間が死ぬ。俺が壊れることは、仲間の死に直結する。だから――)

  「シン。」

  ムパンギの声だった。

  振り返ると、その顔が――珍しく、真剣だった。

  「……お前、大丈夫か。」

  「大丈夫だ。」

  「顔色が悪い。」

  「戦闘の後だ。」

  「それだけじゃない。」

  シンは、ムパンギを見た。

  この男の目は、誤魔化せない。

  戦場で生き残ってきた者の目は、嘘を見抜く。

  「……問題ない。」

  「そうか。」

  ムパンギは、それ以上追わなかった。

  ただ、大きな手をシンの肩に置いた。

  「……俺たちはお前のおかげで助かった。お前のおかげで生きているんだ。……だから、お前が今日やったことは、正しかった。それは俺が保証する。」

  「……ああ。」

  「それだけわかっていれば、十分だ。」

  シンは、その手の重さを、黙って受け取った。

  谷に、風だけが吹いていた。

  夜が来た。

  集落では、また宴が始まっていた。

  今日の勝利は、先週の比ではない。

  六百の帝国軍を、十七の損耗で壊滅させた。

  その事実が、難民集落全体を熱狂させていた。

  シンは、天幕の中にいた。

  宴には出なかった。

  出られなかった。

  地図を広げていた。

  次の手を考えていた。

  帝国軍は必ず報復に来る。

  次は規模が大きくなる。

  今の兵站では、次の戦いを支えられない。

  武器が足りない。

  食料が足りない。

  部族間の連携が、まだ脆い。

  考えることは、無限にあった。

  だから、考え続けていれば――余計なことを、考えずに済む。

  

  天幕の入口が、静かに開いた。

  「……入るわ。」

  セリナだった。

  手に、木椀を二つ持っている。

  「食べていないでしょう。」

  「後で食べる。」

  「今食べて。」

  強制ではなかった。

  だが、有無を言わせない静けさだった。

  シンは、木椀を受け取った。

  セリナは、シンの隣に座った。

  自分の木椀を、静かに飲んだ。

  しばらく、沈黙が続いた。

  外から、宴の声が届く。

  笑い声。

  歌声。

  「……セリナ。」

  「なに。」

  「今日、何人死んだか、わかるか。」

  「帝国軍の話?」

  「そうだ。」

  「六百と少し。」

  「そうだ。」

  シンは、木椀を見た。

  「俺が、殺した。戦争で――、俺が、――殺した。」

  セリナは、その訂正を、黙って受け取った。

  「正しい判断だった。数字は証明している。ゴブリンの死者は十七だ。六百対十七。これ以上ない効率だ。」

  「……ええ。」

  「だから、問題ないはずだ。むしろ最高の結果といえる。」

  「……そうね。」

  「問題ない。」

  シンの声が、少しだけ――揺れた。

  ほんの少し。一瞬だけ。

  「……問題ないはずだ。」

  セリナは、シンを見た。

  その横顔が――今夜だけは、二十歳の男の顔をしていた。

  戦略家でも、指揮官でも、兵士でもない。

  ただの、二十歳の、幼さの残る、ほんの少し年下の男の子の顔。

  (……やっぱり。)

  セリナの中で、何かが決まった。

  「シン。」

  「なんだ。」

  「地図を、閉じて。」

  「まだ――」

  「閉じて。」

  シンは、しばらく動かなかった。

  それから、静かに羊皮紙を畳んだ。

  セリナは、シンの方へ向き直った。

  「今夜だけ、全部置いていい。」

  「……置けない。置いたら――」

  「置いても、明日になれば戻ってくる。戦場も、数字も、判断も、全部。」

  「……それは――」

  「今夜だけ。」

  セリナの手が、シンの頬に触れた。

  冷たかった。

  いや、シンの頬が熱すぎた。

  「……あなたは、今日、正しいことをした。」

  「セリナも、そう言うのか。」

  「ええ。でも――」

  セリナは、少しだけ間を置いた。

  「正しいことをした人間が、苦しんではいけないという理由はない。」

  シンは、その言葉を受け取った。

  受け取って――

  何かが、崩れた。

  音はなかった。見えもしなかった。

  ただ、長い間、鉄で塞いでいた何かが――セリナの一言で、静かに、形を失った。

  「……俺は。」

  「うん。」

  「わからなくなる時がある。」

  「どんな時?」

  「軍人として『最適』な結果を出している時だ。」

  セリナは、何も言わなかった。

  代わりに、シンの肩に手を回した。

  そっと、引き寄せた。

  シンは、抵抗しなかった。

  セリナの肩に、額を預けた。

  外では、宴が続いている。

  笑い声が、遠い。

  天幕の中は、静かだった。

  焚き火の光だけが、布越しに揺れていた。

  「……セリナ。」

  「なに。」

  「お前は、なぜここにいる。」

  「あなたの傍が、――私の場所だって、決めたから。」

  即答だった。

  迷いのない、確信だった。

  シンは、その言葉の重さを、静かに全部受け取った。

  蝋燭が、一本、静かに揺れた。

  二人は並んで座る。

  そして長い時間話した。

  戦のことではなかった。

  故郷のこと。

  空のこと。

  失ったもののこと。

  言葉にならないことを、言葉にしようとしながら、夜が白んでいった。

  シンが目を覚ました時、天幕の中に朝の光が差していた。

  隣に、セリナがいた。

  いつの間にか眠っていたのだろう、その体がシンの肩に、静かに寄りかかっていた。

  金色の髪が、暁の光を受けて輝いている。

  その寝顔だけが、昨夜の凪いだ表情とは少し違った。

  柔らかかった。

  シンは、しばらくその顔を見ていた。

  動かなかった。

  起こすのが、――惜しかった。

  シンは静かに、地図を広げた。

  そして次の手を、考え始めた。

  だが今朝は――少しだけ、手が軽かった。

AdAd