Ad
霧が、山を食っていた。
夜明け前のエトセニア山岳地帯。
稜線が白い闇に溶け、谷が見えない。
木々の輪郭だけが、墨絵のように浮かんでいる。
シンは岩場の上に膝をつき、羊皮紙を広げていた。
炭の線が、この一ヶ月で別物になっていた。
最初は粗末な輪郭だけだった地図が、今では等高線と水源と道幅と斜面角度を備えた、実戦に耐える精度になっている。
ゴル、ラン、テッシュが命で刻んだ数値が、今もその線の中に生きていた。
シンは一点を、長く見ていた。
谷の入口から三百メートル上流。
両脇の斜面が急峻に狭まる場所。
道幅が馬二頭分しかない。
その上に、巨岩が複数、斜面に引っかかるように乗っている。
(……ここだ。)
知識が、音もなく浮かんだ。
一三一五年。
モルガルテン。
ハプスブルク公爵レオポルトの騎士団、五千五百と重装騎兵二千五百。
スイス森林同盟の民兵、一千五百。
つまり五分の一の戦力だった。
山道に密集した騎士団の縦列に、斜面から岩と丸太を落とす。
隊列が崩れた瞬間に斬り込む。
騎士の重装甲は平地では無敵だが、山岳の狭隘路では棺桶になる。
条件が、揃っている。
帝国軍は二千。
ゴブリンの戦力は四百。
数の差は五倍。
だが、この谷ならば――
「シン。」
ムパンギの声だった。
振り返ると、その巨躯が霧の中から現れた。
後ろにアキン。
さらにその後ろに、見慣れない顔が複数いた。
「各部族の長を連れてきた。」
シンは立ち上がった。
七人。
ゴブリンの部族長たちが、警戒の目でシンを見ている。
人間への不信が、その目に滲んでいた。
シンは七人を順番に見た。
値踏みするような視線を、受け流さずに正面から受け取った。
「話を聞け。」
それだけ言って、地図を広げた。
説得には、一時間かかった。
最初の三十分は沈黙だった。
部族長の一人が「人間の言葉は信用できない」と言う。
別の一人が「ムパンギの客人だから聞いてやる」と言う。
もう一人が「どうせ俺たちを使い捨てにする気だろう」と言った。
シンは反論しなかった。
ただ、地図の上に数字を並べた。
「帝国軍の進軍速度。一日あたりの移動距離。補給線の限界。この山岳地帯で帝国軍が維持できる最大兵力。」
数字だけが、そこにあった。
「お前たちが単独で戦えば、各個撃破される。連携すれば、この数字が逆転する。」
部族長の一人が、地図を覗き込んだ。
「……この場所に岩を落とせと言っているのか。」
「そうだ。」
「しかし帝国軍がここを通るとは限らない。」
「通る。」
「なぜそう言い切れる。」
「この道以外に、二千の兵と補給荷車が通れる道はない。地形がそう言っている。」
沈黙。
部族長たちが、互いに目を見合わせた。
ムパンギが、腕を組んだまま口を開いた。
「俺はシンを信用する。理由は単純だ。こいつは今まで、一度も間違えていない。」
それだけだった。
それで十分だった。
夜が明けきらないうちに、斥候が戻ってきた。
「来ます。二千、旗は白地に金。補給荷車が二十。進軍速度は早い。」
シンは地図を畳んだ。
「予定通りだ。配置につけ。」
部族長たちが、それぞれの部族を率いて散っていく。
山岳に慣れたゴブリンたちの動きは、音がない。
霧の中に溶けるように消えていく。
アキンが、シンの隣に来た。
「……本当にうまくいくか。」
「うまくいかせる。」
「それは答えになってねえ。」
「お前が心配することじゃない。お前は自分の役割だけをやれ。」
アキンは、少しだけ黙った。それから、短く頷いた。
「……わかった。」
ヒディが、その隣に来た。
両手に短剣。
体が低い重心で構えている。
その目は、怖がっていない。
「シン。」
「なんだ。」
「必ず戻ってきてね。」
シンは、その言葉を一瞬だけ受け取った。
「……戻る。」
短く言って、前を向いた。
帝国軍の先頭が、谷に入ってきた。
シンは斜面の上から、それを見ていた。
白地に金の旗。
重装歩兵の密集隊形。
馬上の指揮官。
補給荷車の列。
――整然としている。
練度が高い。
これは地方の駐屯軍ではない。
(……本軍だ。)
胃の底が、冷えた。
だが、手は動いている。
思考は回っている。
冷えるのは感情だけで、判断は別の場所にある。
谷の道幅は、馬二頭分。
密集隊形が一列縦隊に変わらざるを得ない。
重装甲の騎士が、山道の石畳に蹄を取られながら進んでいる。
(……今は、待つ。)
先頭が通り過ぎる。
中列が入ってくる。
後列が谷の入口にさしかかる。
全員が谷の中に入った瞬間を、待つ。
帝国軍の指揮官が、馬上で辺りを見回した。
静かすぎる、と思っているはずだ。
山に慣れた指揮官なら、この静けさを異常だと感じる。
だが遅い。
シンは、右手を上げた。
次の瞬間――
山が、鳴った。
最初は低い振動だった。
地の底を巨人が歩くような、腹に響く唸り。
斜面の巨岩が、ゆっくりと動く。
石と石が擦れ合う。
嫌な音だった。
そして――崩れた。
岩が、落ちる。
一つではない。
十、二十、三十。
斜面の上から、人の胴体ほどの岩塊が、重力だけを燃料にして谷底へ向かって転がり落ちていく。
最初の岩が着弾した瞬間、谷が絶叫した。
重装歩兵がまとめて潰れる。
鉄がひしゃげ、馬が砕け、血と泥が石畳に弾け飛ぶ。
逃げ場はない。
前へ進めない。
後ろへ下がれない。
横は断崖。
空だけが、遠かった。
そこへ、第二波の岩塊が落ちてきた。
金属が砕ける音。
馬の悲鳴。
人間の叫び。
誰かが潰れた仲間を押し退けようとしている。
後列が前列を押している。
倒れた者が、次の岩に潰される。
密集隊形が、一瞬で地獄になった。
両脇は急峻な斜面。
前は岩に潰された仲間の死体。
後ろは後続の部隊。
「今だ。」
シンは斜面を駆け下りた。
谷底に降りた瞬間、帝国兵の一人がシンに気づいた。
「敵だ! 殺――」
声が終わる前に、シンはその男を腰から抜いた剣で斬る。
一秒もかからない。
だが、その剣は細剣だった。
シンの戦い方には合わない。
視線を走らせる。
二メートル先に、岩に潰された騎士が倒れていた。
その手に、柄だけが見えている。
大剣ツヴァイハンダーだ。
シンは走った。
岩を踏み台にして跳ぶ。
騎士の手からツヴァイハンダーを引き抜く。
重い。
片手剣とは比較にならない重量。
普通の兵なら、振るだけで体勢を崩す。
だが――
シンの指が、自然に柄を握り直していた。
重心。
間合い。
肩への負荷。
刃の慣性。
忘れていた感覚が、骨の奥から浮かび上がる。
(……これだ。)
手に馴染む。
いや。
馴染んでしまう。
失ったはずの戦場の感覚が、音もなく戻ってきた。
「敵の剣で、やらせてもらう。」
誰に向けた言葉でもなかった。
大剣が、唸った。
一人目。
密集から外れて逃げようとした重装歩兵。
甲冑の継ぎ目を狙い、肩口から斜めに断つ。
鎧ごと裂ける。
二人目。
背後から組みつこうとした槍兵。
振り返りざまに柄頭で顎を砕く。
倒れたところを踏む。
三人目。
馬上から剣を振り下ろしてくる騎士。
刃を受けるのではなく、馬の脚を払う。
馬が倒れ、騎士が落ちる。
地面に叩きつけられた騎士の首に、大剣の切っ先を当てる。
「動くな。」
騎士が、動きを止めた。
「武器を捨てろ。」
騎士が、剣を落とした。
「退路はあの方向だ。今すぐ走れ。」
一瞬だけ、騎士はシンを見た。
そして走った。
シンは、その背中を見送った。
一秒だけ。
(……退路を残す。逃げる者は追わない。それが損耗を減らす。)
次の敵が来た。
戦場は、計算通りに動いていた。
いや――計算を超えていた。
ゴブリンたちは強かった。
山岳民族としての本能が、この地形で最大限に機能している。
重装甲の帝国兵が身動きできない場所で、軽装のゴブリンたちが縦横に動き回る。
岩場を駆け上り、木々の間を抜け、死角から叩き、霧に消える。
アキンが先頭で斬り込んでいた。
先週より速い。
先週より正確だ。
そして――
ヒディが、風になっていた。
二刀が、閃光のように走る。
帝国兵の隙間を縫うように入り込み、急所だけを正確に断つ。
体が小柄な分、視界に入りにくい。
気づいた時には、もう次の標的に向かっている。
(……本物だ。)
シンは、その動きを見ながら、大剣を振るい続けた。
四人目。
五人目。
六人目。
岩で潰れた密集隊形が、完全に瓦解しつつある。
指揮官が叫んでいるが、声が届かない。
混乱が混乱を呼ぶ。
隊列が隊列を押しつぶす。
帝国軍の後列が、退路を探し始めた。
(……今だ。)
「ムパンギ!」
「わかってる!」
谷の出口側から、ムパンギの部隊が動いた。
退路を「塞がずに」、一本だけ残して圧迫する。
帝国軍が、その一本の退路に殺到し始めた。
そこからは、崩壊だった。
先頭が退路へ向かう。
後続が押し合う。
指揮系統が完全に死ぬ。
組織が、ただの群衆になる。
群衆は、戦えない。
シンは、崩れていく帝国軍の中で、大剣を振るい続けた。
止まれない。
止まれば、囲まれる。
動き続けることだけが、生存だ。
七人目。
八人目。
九人目。
血が、顔にかかる。拭わない。
視界の端に、何かが光る。
矢だ。
躱す。
次の敵が来る。
大剣を薙ぐ。
十人目。
十一人目。
十二——
「シン! 右!」
セリナの声。
振り返る前に、体が動いていた。
右から来た槍を、大剣の腹で弾く。
弾いた勢いで半回転。
返す刃が、槍兵の胸甲を叩き割る。
肺が焼ける。
左肩の古傷が、熱を持ち始めている。
だが――
(まだだ。)
シンは、前を向いた。
決着がついたのは、それから二十分後だった。
谷に、静寂が戻った。
帝国軍の死者、およそ六百。
残りは退路から逃走。
ゴブリン側の死者、十七。
シンは、大剣を地面に突き立て、それに体重を預けた。
膝が笑っている。
古傷が熱い。
全身が鉛だ。
だが、立っている。
「……シン。」
ヒディの声だった。
振り返ると、小さな体が走ってくる。
血まみれだが、自分の血ではない。
その目が、濡れていた。
「……無事か。」
「うん。シンは?」
「立っている。」
「立ってるだけじゃん。」
「十分だ。」
ヒディは、シンの隣に来て、ぴったりと寄り添った。
何も言わなかった。
ただ、その小さな体の温度が、シンの腕に触れた。
シンは、その温度を、黙って受け取った。
戦場の片付けが始まった。
谷には、まだ音が残っていた。
崖のどこかで、小石が遅れて転がり落ちる。
砕けた甲冑が風に揺れる。
さっきまでの絶叫だけが、山肌の奥にまだ貼りついている気がした。
武器の回収。
死者の確認。
シンは、それらを指示しながら、谷の中を歩いた。
帝国兵の死体が、谷底に散らばっている。
岩に潰されたもの。
刃で斬られたもの。
踏み潰されたもの。
シンは、その光景を、一つ一つ確認しながら歩いた。
感情はない。
感情は、ない。
――ない。
(……六百だ。)
数として処理した。
六百。
この谷で、今日、六百の命が消えた。
それは自分の判断の結果だ。
兵站の限界を突いた。
地形を活かした。
損耗を最小化した。
ゴブリンの死者は十七。
帝国軍の六百と比較すれば、圧倒的な効率だ。
正しい。
正しい。
正し――
足が、止まった。
目の前に、帝国兵が一人倒れていた。
若い。
二十歳前後。
シンと同じくらいの年齢だ。
岩に腰から下を潰されている。
まだ、――生きていた。
目が合った。
帝国兵の目が、シンを見た。
恐怖ではなかった。
もうそんな力もない目だった。
ただ、何かを言おうとして、口が動いていた。
言葉にならない。
シンは、その男の前に膝をついた。
水筒を取り出して、口元に当てた。
男が、水を飲んだ。
そして、目を閉じた。
それだけだった。
シンは立ち上がった。
何も感じていない。
感じていない。
感じて――
(……それでいい。)
頭の中で、声がした気がした。
自分の声だった。
(六百人が死んだ。だが、その六百人が生きていれば、もっと多くのゴブリンが死んでいた。計算は正しい。判断は正しい。俺は正しい選択をした。)
正しい。
正しい。
では、なぜ――
足元の男の顔が、消えない。
二十歳前後。シンと同じくらい。
神の名を信じて、命令に従って、この谷に来た。
ただそれだけの男が、今、岩の下にいる。
(……この男にも、カイルのような誰かがいたのかもしれない。)
その思考が、浮かんだ瞬間、シンは強引に別の思考で上書きした。
(関係ない。敵だ。戦場での死だ。これは殺人ではなく、戦争だ。)
そうだ。
戦争だ。
戦争に来た人間が、戦争で死んだ。
戦争で敵を倒すのは正義だ。
一人でも多くの仲間を助けるため。
いかに多くの敵を殺すかが戦場の正義だ。
ただ、それだけだ。
なのに、――俺は何を迷っている。
シンは歩き始めた。
次の死体の横を、通り過ぎた。
また次の死体の横を、通り過ぎた。
また。
――また。
――――また。
谷の出口まで歩いた。
百メートルほどの距離に、何十もの死体があった。
一つ一つ横を通り過ぎるたびに、何かが――
(やめろ。)
自分に命じた。
(数えるな。顔を見るな。名前を想像するな。それをやれば、次が動けなくなる。動けなくなれば、仲間が死ぬ。俺が壊れることは、仲間の死に直結する。だから――)
「シン。」
ムパンギの声だった。
振り返ると、その顔が――珍しく、真剣だった。
「……お前、大丈夫か。」
「大丈夫だ。」
「顔色が悪い。」
「戦闘の後だ。」
「それだけじゃない。」
シンは、ムパンギを見た。
この男の目は、誤魔化せない。
戦場で生き残ってきた者の目は、嘘を見抜く。
「……問題ない。」
「そうか。」
ムパンギは、それ以上追わなかった。
ただ、大きな手をシンの肩に置いた。
「……俺たちはお前のおかげで助かった。お前のおかげで生きているんだ。……だから、お前が今日やったことは、正しかった。それは俺が保証する。」
「……ああ。」
「それだけわかっていれば、十分だ。」
シンは、その手の重さを、黙って受け取った。
谷に、風だけが吹いていた。
夜が来た。
集落では、また宴が始まっていた。
今日の勝利は、先週の比ではない。
六百の帝国軍を、十七の損耗で壊滅させた。
その事実が、難民集落全体を熱狂させていた。
シンは、天幕の中にいた。
宴には出なかった。
出られなかった。
地図を広げていた。
次の手を考えていた。
帝国軍は必ず報復に来る。
次は規模が大きくなる。
今の兵站では、次の戦いを支えられない。
武器が足りない。
食料が足りない。
部族間の連携が、まだ脆い。
考えることは、無限にあった。
だから、考え続けていれば――余計なことを、考えずに済む。
天幕の入口が、静かに開いた。
「……入るわ。」
セリナだった。
手に、木椀を二つ持っている。
「食べていないでしょう。」
「後で食べる。」
「今食べて。」
強制ではなかった。
だが、有無を言わせない静けさだった。
シンは、木椀を受け取った。
セリナは、シンの隣に座った。
自分の木椀を、静かに飲んだ。
しばらく、沈黙が続いた。
外から、宴の声が届く。
笑い声。
歌声。
「……セリナ。」
「なに。」
「今日、何人死んだか、わかるか。」
「帝国軍の話?」
「そうだ。」
「六百と少し。」
「そうだ。」
シンは、木椀を見た。
「俺が、殺した。戦争で――、俺が、――殺した。」
セリナは、その訂正を、黙って受け取った。
「正しい判断だった。数字は証明している。ゴブリンの死者は十七だ。六百対十七。これ以上ない効率だ。」
「……ええ。」
「だから、問題ないはずだ。むしろ最高の結果といえる。」
「……そうね。」
「問題ない。」
シンの声が、少しだけ――揺れた。
ほんの少し。一瞬だけ。
「……問題ないはずだ。」
セリナは、シンを見た。
その横顔が――今夜だけは、二十歳の男の顔をしていた。
戦略家でも、指揮官でも、兵士でもない。
ただの、二十歳の、幼さの残る、ほんの少し年下の男の子の顔。
(……やっぱり。)
セリナの中で、何かが決まった。
「シン。」
「なんだ。」
「地図を、閉じて。」
「まだ――」
「閉じて。」
シンは、しばらく動かなかった。
それから、静かに羊皮紙を畳んだ。
セリナは、シンの方へ向き直った。
「今夜だけ、全部置いていい。」
「……置けない。置いたら――」
「置いても、明日になれば戻ってくる。戦場も、数字も、判断も、全部。」
「……それは――」
「今夜だけ。」
セリナの手が、シンの頬に触れた。
冷たかった。
いや、シンの頬が熱すぎた。
「……あなたは、今日、正しいことをした。」
「セリナも、そう言うのか。」
「ええ。でも――」
セリナは、少しだけ間を置いた。
「正しいことをした人間が、苦しんではいけないという理由はない。」
シンは、その言葉を受け取った。
受け取って――
何かが、崩れた。
音はなかった。見えもしなかった。
ただ、長い間、鉄で塞いでいた何かが――セリナの一言で、静かに、形を失った。
「……俺は。」
「うん。」
「わからなくなる時がある。」
「どんな時?」
「軍人として『最適』な結果を出している時だ。」
セリナは、何も言わなかった。
代わりに、シンの肩に手を回した。
そっと、引き寄せた。
シンは、抵抗しなかった。
セリナの肩に、額を預けた。
外では、宴が続いている。
笑い声が、遠い。
天幕の中は、静かだった。
焚き火の光だけが、布越しに揺れていた。
「……セリナ。」
「なに。」
「お前は、なぜここにいる。」
「あなたの傍が、――私の場所だって、決めたから。」
即答だった。
迷いのない、確信だった。
シンは、その言葉の重さを、静かに全部受け取った。
蝋燭が、一本、静かに揺れた。
二人は並んで座る。
そして長い時間話した。
戦のことではなかった。
故郷のこと。
空のこと。
失ったもののこと。
言葉にならないことを、言葉にしようとしながら、夜が白んでいった。
シンが目を覚ました時、天幕の中に朝の光が差していた。
隣に、セリナがいた。
いつの間にか眠っていたのだろう、その体がシンの肩に、静かに寄りかかっていた。
金色の髪が、暁の光を受けて輝いている。
その寝顔だけが、昨夜の凪いだ表情とは少し違った。
柔らかかった。
シンは、しばらくその顔を見ていた。
動かなかった。
起こすのが、――惜しかった。
シンは静かに、地図を広げた。
そして次の手を、考え始めた。
だが今朝は――少しだけ、手が軽かった。
Ad