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朝の斥候が血相を変えて戻ってきたのは、勝利の翌々日だった。
「南から、ビースト(獣人)族の侵攻です。数は……三百から四百。食料を根こそぎ奪いながら北上しています。我々ゴブリンの集落が三つ、やられました。」
天幕の中に、重い沈黙が落ちた。
ムパンギの顔が、険しくなる。
アキンが拳を握る。
シンは地図を広げた。
南。
ベラゼムリア方面。
エトセニアの山岳地帯の南縁から、獣人族の領域が始まる。
(……目的が違う。)
即座に判断した。
帝国軍は組織的な侵攻だ。
旗があり、補給線があり、戦略があり、指揮系統がある。
だがこれは違う。
食料を奪いながら北上している。
補給が尽きているか、あるいは最初から略奪が目的か。
(飢えている。あるいは、追い詰められている?)
「規模は。」
「三百から四百と。ただ……」
斥候が、言いにくそうに続けた。
「先頭を行く一人が、別格です。他の連中が、その一人の後をついていくような動き方で。」
シンは、地図から目を上げた。
「首魁か。」
「はい。女です。背はそこそこ高くて、髪が紅くて……その、凄まじい速さで動くと。集落の男が束になってかかっても、一瞬で。」
ムパンギが低く唸った。
「……月狼族か。しかももしかすると『紅月の閃光』か。」
「知っているのか。」
「噂は聞いたことがある。まず月狼族はベラゼムリアのビーストの中でも、特別な血筋で支配階級、いわゆる王族だ。夜に強く、速く、そして――」
ムパンギは、シンを見た。
「とにかく、強い。その中でも紅月の閃光と呼ばれる女首領の強さは別格らしい。敵の血で紅い弧を描くシャムシールの剣先からついた二つ名らしいがな。」
シンは地図に視線を戻した。
南からの侵攻路。
山の稜線。
水源の位置。
(……帝国軍と同時に二正面は避けたい。だが、放置すれば集落が根こそぎやられる。)
「迎撃する。」
シンは、静かに言った。
「ただし――目的は撃退ではない。」
全員が、シンを見た。
「交渉する。」
接触は、その日の午後に起きた。
山の南縁、開けた草地。
そこにゴブリンの集落が一つあった。
今朝の時点では、まだ無事だった。
シンたちが到着した時、ビースト族の先頭部隊がちょうど集落の手前に差しかかるところだった。
シンは部隊を止めた。
「アキン、前に出るな。まず観察しろ。」
「しかし――」
「見るんだ。敵はスピードも速いはずだ。うかつに前に出れば危険だ。」
アキンは、歯を食いしばって頷いた。
ビーストたちの先頭に、一人の女がいた。
その姿が見えた瞬間、前列のゴブリン兵が、無意識に半歩下がった。
理由は誰にも説明できない。
ただ、本能が理解していた。
――あれは、自分たちより上位の『捕食者』だと。
燃えるような紅色の髪が、風に揺れている。
シンと変わらないほどの背丈で均整の取れた体躯。
腰にシャムシールを提げ、肩に大きな湾曲刀を担いでいる。
紅い狼の耳が立っている。
その立ち姿は――堂々としていた。
怒りでも、焦りでも、狂気でもない。
ただ、自分が最強だという確信が、全身から滲み出ている。
女がこちらに気づいた。
赤みがかった金色の瞳が、シンたちを見た。値踏みするように。
「おいおい、ゴブリンの群れになんでかエルフと、人間まで一匹いるじゃねえか。」
声は低く、艶があった。
粗野な口調だが、不思議と不快ではない。
獣の声に似た、本能的な響きがあった。
「この集落は、今日からアタシたちがもらう。文句があるなら、かかってきな。」
アキンが前に出た。
「この集落は俺たちゴブリンのものだ。お前たちに渡す気はない。」
「へえ。」
女は、アキンを見た。
その目が、少しだけ面白そうに細くなった。
「言うじゃんか、緑のガキ。じゃあ、止めてみな。」
それから起きたことは、一瞬だった。
アキンが踏み込んだ。
直剣を正眼に構え、速く、正確な突きを放つ。
女は動かなかった。
いや――動いた。
だが、その動きが全く見えなかった。
次の瞬間、アキンは地面に仰向けになっていた。
首元に、女のシャムシールの切っ先が当たっている。
何が起きたのか、アキン自身にもわからない顔だった。
「……踏み込みは悪くないね。」
女は、シャムシールを引いた。
「でも、まだ青い。アタシとやるにゃ十年早いな。」
アキンは、その場で固まっていた。
怒りではなかった。
衝撃だった。
自分の全力が、この女には――微塵も届いていない。
それどころか、何をされたかも理解できなかった。
ヒディが飛び出した。
「アキン!」
女は、ヒディを見た。
その目が、わずかに変わった。
「……こっちの娘は、速いねえ。」
ヒディが両の短剣を構える。
低い重心。
爆発的な加速の予備動作。
女は、今度は迎え撃つ構えを取った。
その瞬間――
「ヒディ、下がれ。」
シンの声だった。
ヒディが、一瞬だけ迷った。
だが、シンの声の質が、いつもと違った。
命令ではなく――計算の完了した声だった。
ヒディは下がった。
女が、シンを見た。
「あんたが指揮官?」
「そうだ。」
「お前、人間のくせに、ゴブリン率いてんのかよ。面白いじゃん。」
「お前に話がある。」
「話?」
女は、肩に担いだ湾曲刀を揺らした。
「話なら剣で聞くよ。アタシはそういう性分でね。」
「ああ、かまわん。それでいい。」
シンは、大剣を背から抜いた。
女の目が、細くなった。
セリナが、ヒディの隣に来た。
「……大丈夫?」
「うん。でも、シンは――」
「見ていて。」
セリナは静かに言った。
その目は、シンの背中に向いていた。
「あの人は、もう決めている。」
「何を?」
「勝ち方を。」
ヒディは、セリナの横顔を見た。
セリナは、シンのことが――
「セリナ。」
「なに?」
「シンのこと、好きなの?」
セリナは、少しだけ間を置いた。
「……どうしてそう思うの。」
「だって、いつもシンを見てる。心配そうな顔で。でも、シンが戦ってる時は、信頼してる顔になる。」
セリナは、ヒディを見た。
真剣だった。
「……鋭いわね。」
「ごまかした。」
「……ごまかしていないわ。」
セリナは、また前を向いた。
「ただ、まだ言葉にする時じゃない。それだけよ。」
ヒディは、その答えを聞いて胸の奥で、何かが静かに動いた。
セリナが大好き。
そのセリナはシンのことが好き。
そして自分も――
(……私は。)
その思考を、ヒディは途中で止めた。
今は、シンを見ていなければ。
シンと女は、草地の中央で向き合っていた。
風が吹いた。
女の白い髪が、流れる。
「名前を聞かせろ。」
シンが言った。
「アスラ・ザハリアだ。ベラゼムリアの月狼族の女王でビースト族を率いている。あんたは?」
「シン。」
「シン。……人間にしては、いい目をしてるじゃねえか。」
アスラは、シャムシールを抜いた。刃が、午後の光を受けて白く光る。
「じゃあ、始めようか。」
「一つだけ聞く。」
「なんだい。」
「お前は、どんな地形でも俺に勝てると思うか。」
アスラの目が、わずかに細くなった。
「……当たり前じゃん。どこでだって、あんたなんざ一瞬さ。」
「ならば――」
シンは、視線だけで草地の端を示した。
「あそこでやろう。」
アスラが、示された方向を見た。
草地の端に、湿地があった。先日の雨で増水した、膝まで泥に沈む湿地帯。
アスラの目が、そこを見た。
それからシンを見た。
「……なんでそこなんだ?」
「俺が相手なら、どこでも勝てるんだろう?」
アスラは、一瞬だけ黙った。
その目が、鋭くなった。
そして、一気に――アスラの殺気が増幅する。
「……おもしれえこと、ほざきやがるじゃねえか。」
低い声で言って、野獣のような狂気の笑みを浮かべながらアスラは歩き始めた。
湿地へ向かって。
二人が湿地に入った。
最初の一歩で、アスラの足が泥に沈んだ。
膝まで。
ぬるり、と泥が脚に絡みつく。
跳ぼうとした瞬間、重心が死んだ。
月狼族の脚力は、一歩目で獲物を喰い殺すためのものだ。
だが今、その『一歩目』が存在しない。
跳べない。
踏み込めない。
重心が取れない。
アスラは速さを奪われる感覚を味わっていた。
(……まあ、そうなるわな。)
アスラは、即座に判断した。
この人間は、最初からここで戦うつもりだったんだろう。
だから「どこでも勝てるか」と挑発するように聞いてきた。
自分が「当たり前だ」と答えることを計算して。
沼地に誘ってこちらの速さを奪おうと小賢しく考えたことくらいお見通しだ。
しかし、そのくらいで自分の優位性は失われない。
なんせ奴はどう見ても身動きのとりにくい大剣持ちだ。
最初から速度を捨てている。
――なめやがって。
だから奴の姑息な罠にかかったふりをした。
だが――
おかしい。
奴は、――奴は動いている。
「それがわかっても、――もう遅い。」
シンの声が、すぐ隣から来た。
泥の中で、シンは動いていた。
重いツヴァイハンダーを、泥の中でも振れる動き。
重心を低く、踏み込まず、体の回転だけで力を生む。
泥濘の中専用の戦い方だ。
(……なぜだ。なぜ奴は動ける。)
アスラが横へ流れようとした。
泥が足を引く。
一瞬だけ遅れる。
その一瞬に、シンは踏み込んだ。
重いツヴァイハンダーが、泥を裂く。
(――取った。)
そう思った瞬間だった。
アスラの体が消えた。
いや――違う。
沈んだ足を無理やり引き抜き、泥の抵抗ごと利用して体を回転させたのだ。
月狼族の身体能力。
それは、単純な速さではなかった。
どんな状況でも、一瞬の隙を喰らうための獣の反射だった。
「っ……!」
シンがわずかに目を細める。
アスラのシャムシールが閃いた。
だが――
シンは紙一重で身を引く。
刃は頬をかすめ、赤い線が走る。
「……速いな。」
シンが初めて、感嘆の声を漏らした。
アスラは笑った。
「当たり前だろうが。泥の中でも、アタシは狼だ。」
だが、その瞬間、アスラの体勢が崩れた。
無理やり引き抜いた足。
その代償で、次の動きが遅れる。
そして――
剣の腹が、アスラの側面を叩いた。
刃ではない。
腹だ。
殺す気はない。
アスラの体が、泥の中で傾いた。
「っ――!」
倒れる前に、アスラは踏ん張った。
だが泥の中では踏ん張れない。
片膝をついた。
次の瞬間、剣の切っ先が、アスラの首元に当たっていた。
静止。
風が吹いた。
アスラは、その切っ先を見た。
それから、シンを見た。
シンの顔は――涼しかった。
息も、ほとんど乱れていない。
「……マジかよ。」
アスラは、短く言った。
「まいった。」
シンは、剣を引いた。
「立てるか。」
「自分で立つよ。」
アスラは、泥の中から自力で立ち上がった。
泥だらけになりながら。
その様子は――どこかおかしかった。
「しかし、ずっりーな。せこすぎだろ、お前。」
「戦場に公平な条件はない。」
「そりゃあ、そうだけどさ。」
アスラは、泥を払った。
それから、シンをじっと見た。
「……お前、最初からここで戦うつもりだったんだろ。」
「そうだ。」
「アタシが『どこでも勝てる』と答えることも、計算して。そして挑発した。」
「そうだ。」
「そして、そのお前の企みをアタシが読んだうえで、それでもアタシがお前に勝てると判断するところまで計算してたよな。」
「ああ、そうだ。」
「……なんで、お前は泥の中であれだけ動けたんだ?」
「それは訓練していたからだ。泥沼の中に落ちたときを想定してな。」
「……なるほどな。最初から勝算があったってわけか。」
アスラは、少しの間だけ黙っていた。
それから――笑った。
豪快に、遠慮なく笑った。
「はははっ!一本取られたさ!完全にはめられたじゃねえか!まさかアタシが一瞬で負けるとはな!」
その笑い声は、草地に響いた。
遠くで見ていたゴブリンたちが、互いに顔を見合わせた。
ビーストたちは、アスラの敗北に驚愕した表情を浮かべていた。
「……気が済んだか。」
「全然。でも――」
アスラは、笑いを収めた。
その目が、真剣になった。
「負けは負けだ。認めるさ。――で、話ってのは何だい。」
草地に、全員が集まった。
シンとアスラが向き合い、その後ろにムパンギ、アキン、セリナ、ヒディ。
「なぜ北上してきた。」
シンが単刀直入に聞いた。
「食料が尽きた。西からの帝国軍の侵攻で、海岸部を押さえられた。それであたしたちの海からの糧食路が断たれた。このまま南にいれば、餓死する。」
「帝国軍がベラゼムリアにも来ているのか。」
「来てはいるが完全に制圧はされていない。海岸だけだ。山岳が多いからね。地形的にアタシたちに有利だから負けはしないと言いたいところだが、このままだと食糧事情が厳しいからいずれ落ちる。」
忌々しそうにアスラは語り続ける。
「あいつらは亜人全員を殺したいんだろ。だったら、アタシたちも全滅じゃん。だから、エトセニアに進出しようとして先遣隊をアタシ自ら率いてきたわけさ。陸なら簡単には負けない。ゴブリンどもを従えて、帝国の奴らに襲い掛かろうと思ったのさ。」
シンは、その言葉を受け取った。
(……条件が揃っている。)
「提案がある。」
「聞こうじゃねえの。」
「お前たちの食料は、こちらが手配する。代わりに、お前たちの戦力をこちらに貸せ。」
アスラの目が、鋭くなった。
「……手駒になれってことかい。」
「対等な同盟でいい。指揮権はそれぞれが持つ。ただし、作戦の立案は俺が行う。」
「なぜアタシたちがお前の言うことを聞かなきゃいけない?」
「お前は女王なんだろう?ならば、さっき、俺に負けたからだ。」
アスラは、少しだけ目を細めた。
それから、また笑った。
今度は小さく。
「……はっきり言うじゃん。」
「回りくどいのは性に合わない。」
「奇遇だな。アタシもさ。」
アスラは、腕を組んだ。
「食料の手配って、どこから出すんだ。」
「ヴィシュバリアのレーカ女帝からある程度の支援が来ている。量は足りないが、お前たちの分を上乗せする交渉をする。」
「レーカか。……あのオーク女とは、あまり気が合わないけどね。」
「好き嫌いは後でいい。今は生き残ることが先だ。これならどっちが頭を張るかは変わるが、当初のお前たちの目的とはそう変わらないだろう。」
アスラは、しばらくシンを見ていた。
その目が――少しずつ、変わっていった。
値踏みから、好奇心へ。
好奇心から、何か別のものへ。
「……お前、面白いな。」
「そうか。」
「人間のくせに、亜人のために戦って。しかも頭がよくて、泥の中でも勝てる。」
「泥の中でしか勝てないさ。」
「でもこのアタシに勝った。自慢じゃないが、今まで一度も負けたことはないんだ。」
アスラは、シャムシールを鞘に収めた。
「わかった。乗ってやる。」
ムパンギが、低く頷いた。
アキンは――複雑な顔をしていた。
その夜、アキンは一人で剣の素振りをしていた。
集落の外れ。
焚き火の光も届かない場所で、ただ黙々と。
シンが、その前を通りかかった。
「……まだやっているのか。」
「うっせ。」
アキンの声は、荒れていた。
怒りではなく――焦りだった。
シンは、その隣に立った。
「今日のアスラの動きが、見えなかったか。」
「……ああ。」
「悔しいか。」
「当たり前だろ!」
アキンは、剣を止めた。
振り返る。
その目が、赤かった。
「俺は、毎日練習してる。ヒディに負けないように。あの帝国軍相手でも、それなりに戦えたんだ。なのに――あの女には、何も、…何もできなかった。何をされたかさえ、わからなかったんだ。」
「そうだな。」
「少しは慰めろよ。」
「慰める理由がない。お前は今日、自分の限界を見た。それは良いことだ。」
アキンは、シンを見た。
「良いことって――どこがだよ。」
「限界が見えない者は、限界を超えられない。お前は今日、超えるべき壁を見た。」
沈黙。
「……アスラは、あんときどんな動きしていたんだ。」
「俺にもわからない。見えなかったからな。」
「動きのわからない相手に、勝てたのかよ。」
「そうだ。わからない相手に正面からぶつかるのは愚かだ。だから、わからなくても勝てる場所を選んだ。」
アキンは、その言葉を、しばらく噛んでいた。
「……それは、ずるくないか。」
「さっき、本人にも言われたさ。」
「お前はなんて答えたんだ。」
「戦場に公平な条件はない。」
アキンは、少しだけ黙った。
「……それが、お前の戦い方か。」
「そうだ。」
「俺は――」
アキンは、剣を握り直した。
「俺は、正面から勝ちたい。お前みたいな戦い方は、性に合わない。」
「それでいい。」
シンは、短く言った。
「俺にできないことが、お前にはできる。俺には大剣しかない。だがお前は、正面から強くなれる。それが必要な場面は、必ず来る。」
アキンは、シンを見た。
「……お前は、俺に期待しているのか。」
「している。」
即答だった。
アキンの目が、わずかに揺れた。
「……なぜだ。」
「――カイルに、……どこか似ているからな。」
その名前が出た瞬間、シンの声が――ほんの少しだけ、変わった。
アキンは、その変化を聞いた。
「……カイルって、誰だよ。」
「俺の副官だった。お前と同じくらいの年で、お前と同じように、正面からしか戦えなかった。だが、いつも俺の一歩後ろにいた。」
「……今は。」
「いない。」
沈黙。
アキンは、その沈黙の意味を、静かに受け取った。
「……俺は、そいつの代わりじゃない。」
「そうだ。お前はお前だ。」
「でも――期待するのか。」
「している。」
アキンは、剣を鞘に収めた。
それから、深く息を吐いた。
「……わかった。強くなる。正面から、アスラを倒せるくらいに。」
「ちゃんと時間をかけろ。急いで強くなった剣士は、急いで死ぬ。」
「……なんか、お前に言われたくないけどな。」
アキンは、そう言いながら――少しだけ、笑った。
シンも、わずかに口角が上がった。
その夜から――アキンの素振りの質が、変わった。
天幕に戻ると、セリナとヒディが焚き火の傍に座っていた。
二人で、何かを話していた。
シンが近づくと、ヒディが振り返った。
「あ、シン。アキンは?」
「まだ外にいる。」
「そっか。」
ヒディは、焚き火を見た。その横顔に、何かが浮かんでいた。
「……シン。アスラって、強いね。」
「ああ。」
「今の……私よりも圧倒的に強いよね。」
「……ああ。強いな。」
「あの、前に襲ってきたヴァンパイアとどっちが強いかな。」
「わからん。ただ二人とも通常の強さではないのは確かだ。今まで見たことのないレベルだからな。」
「……そっか。」
ヒディは、少しだけ黙った。
「じゃあ、私も強くなる。」
「なぜだ。」
「シンの傍にいるなら、強くないといけないから。」
シンは、その言葉を受け取った。
何も言わなかった。
だが、セリナが――ヒディの肩に、そっと手を置いた。
「ヒディは今でも十分強い。」
「セリナは優しいね。」
「本当のことを言っているだけよ。」
ヒディは、セリナの手を見た。それから、その手に自分の手を重ねた。
「セリナ。」
「なに?」
「私、セリナのこと大好きだよ。お姉ちゃんみたい。」
セリナは、少しだけ目を細めた。
「……私もよ。ヒディ。」
焚き火が、静かに揺れた。
シンは、その光景を、少しの間だけ見ていた。
何も言わなかった。
ただ、天幕の中に入りながら――今夜は、地図を広げるのが少しだけ遅くなった。
その夜遅く。
アスラは一人、集落の外れに座っていた。
月が出ていた。
白い月。
アスラは、月を見上げながら、シャムシールを掲げていた。
負けた。
その事実を、もう一度、静かに確認した。
悔しくないか。
悔しい。
凄まじく悔しい。
だが――
(面白いじゃん。)
あの人間の目。
戦場の外から戦場を見ている目。
自分が最強だという自負も、力への酔いも、何もない。
ただ、冷静に、全部を計算している目。
そういう目を持った人間を、アスラは今まで見たことがなかった。
人間なら今まで何人も殺してきた。
数だけが頼りの、姑息で脆弱な生き物のはずだ。
だが――
月狼族の血が、本能的に反応していた。
強い。
強いというのは、筋肉や速度の話ではない。
この男は――
不思議だった。
あの人間を思い出すたび、胸の奥が妙に熱くなる。
獲物を見つけた時とも、強敵に出会った時とも違う。
なのに、鼓動だけが速かった。
いや、血が騒ぐ。
(……おもしれえ、……絶対、手に入れてやる。)
アスラは、シャムシールを鞘に収めた。
月を見上げたまま、小さく笑った。
それは、戦士が強敵を認めた時の笑みではなかった。
獲物を見つけた獣の笑みだった。
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