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第7話 鉄と誓約の街

  ドワーフの国オプスティアからエトセニアへ帰路、シンは馬上で地図を見ていた。

  手綱を片手で持ち、もう一方の手で羊皮紙を広げている。

  風に煽られながら、それでも視線は地図から外れない。

  セリナが、横から覗き込んだ。

  「……また地図。」

  「考えることがある。」

  「オプスティアのこと?」

  「それもあるが……。何より――」

  シンは、地図の一点を指で押さえた。

  「帝国の動きが、気になる。」

  「具体的には?」

  「オプスティアへの圧力が強まっている。ベドリフ王は、気づいていないが、帝国との通商関係は――帝国にとって、武器の供給源を確保するためだけのものだ。供給源の確保が完了する見通しが成立した瞬間に、関係の性質が変わる。」

  セリナは、少しの間だけ黙った。

  「……それは……いつになりそうなの?」

  「わからない。だから、戻ったら軍勢を整える。不測の事態に備えて、すぐに動ける態勢を作っておく。」

  アスラが、横から声をかけた。

  「用心深いじゃん。」

  「用心深くない者は、死ぬ。」

  「ま、アタシは用心深くなくても、死なないけどね。」

  「お前は例外だ。」

  アスラは、鼻で笑った。

  だが、その目は――満足そうだった。

  ヒディが、アスラの隣に馬を寄せた。

  「アスラ、今日のベドリフ王の顔、見た? アスラが入ってきた瞬間、固まってたよ。」

  「そりゃそうだろ。アタシらビーストが外交使節に混じってくるとは思ってなかったろ。」

  「でも、ちゃんと認識してくれたよね。私たちが一緒にいるって。」

  「それが目的だからね。」

  アスラは、さらりと言った。

  シンが、その会話を聞きながら、地図を畳んだ。

  (……ドワーフに亜人連合の実態を見せることが、今日の最大の成果だ。)

  オプスティアへの訪問で得たものは、通商の基本合意だけではない。

  ドワーフの目に、ゴブリンとビーストとエルフが一つの旗の下に動いているという事実を刻み込んだ。

  まあ、……今のところエルフはセリナ一人だが。

  それが、次の交渉の土台になる。

  アキンが、無言で馬を進めていた。

  その手に、オルドリカから譲り受けた長槍の穂先が、夕陽を受けて光っている。

  オプスティア訪問は、前日に行われていた。

  王都ジェレズニーフラド。

  石造りの街。

  工房が並ぶ通り。

  鉄を叩く音が、絶え間なく響く。

  ドワーフの職人たちが、外からの客人を物珍しそうに見ながら、しかし手を止めずに仕事を続けている。

  シンは、その街を見渡しながら、静かに確信していた。

  (……帝国がここを欲しがる理由が、よくわかる。)

  街全体が、巨大な工場だ。

  兵器の供給源として、大陸でも随一の水準を誇る。

  これを手に入れれば、帝国の軍事力は跳ね上がる。

  ――そして、そうなれば俺たちは――終わる。

  アスラが、シンの隣を歩いていた。

  「ドワーフって、思ったよりガタイいいじゃん。」

  「そうだな。」

  「でも背は低いね。アタシの方が頭一つ高い。」

  「戦闘では、低重心が強みになる。」

  「それはそうだけど――」

  アスラは、道の脇に整列するドワーフ歩兵を見た。

  「あの密集の仕方。あれは――簡単には崩せないね。」

  「そうだろうな。」

  「シンはアタシらの突撃でも厳しいと思うかい?」

  「正面からなら、崩れないだろうな。だが側面を突けば――重装騎士と同じだ。」

  「……ははーん、なるほどね。」

  アスラは、素直に頷いた。

  戦術の話になると、この女は驚くほど素直に吸収する。

  本能だけで動いているように見えて、その本能が戦場の真実を掴んでいる。

  ヒディが、アスラと並んで歩いていた。

  二人の身長差は、実はそれほど大きくない。

  ヒディは均整の取れた体型をしている。

  アスラの方が少し高く、肩幅が広い。

  並んで歩くと、対照的な印象だった。

  「アスラって、強いよね。」

  「そりゃそうさ。」

  「私も、もっと強くなりたい。」

  「なればいいじゃん。」

  「簡単に言うね。」

  「簡単さ。やるか、やらないか。それだけじゃね?」

  ヒディは、その答えを聞いて、少しだけ笑った。

  「……そうだね。」

  王城の大広間。

  ベドリフ王との謁見が始まった瞬間、王の目が――ほんの一瞬だけ止まった。

  シンの隣に立つアスラを見て。

  月狼族の族長で紅い髪。

  赤みがかった金色の瞳。

  腰のシャムシール。

  『紅月の閃光』の名はオプスティアにも及んでいる。

  ベラゼムリアのビーストの女王が、外交使節の一員として立っている。

  ベドリフは、すぐに表情を戻した。

  だが、その一瞬が――シンには十分だった。

  「遠路はるばる、ご苦労だった。」

  重厚な声が、広間に響く。

  「グレンツベルク辺境伯の嫡子殿とお見受けする。そして――」

  ベドリフは、アスラを見た。

  「ビースト族のアスラ女王陛下でお間違いないかな。」

  「ああ。アスラ・ザハリア。ベラゼムリアのビーストを率いる者だ。」

  アスラは、臆することなく答えた。

  「シンの同盟者として来た。」

  広間に、わずかなざわめきが起きた。

  ゴブリンとビーストが、同じ旗の下に動いている。

  その事実が、ドワーフの重臣たちの間に静かに広がった。

  シンは、それを確認してから、口を開いた。

  「単刀直入に申し上げます。我々と同盟を結んでいただきたい。」

  ベドリフは、表情を変えなかった。

  「理由を聞こう。」

  「帝国では神聖教団において教父派が実権を掌握しつつあります。そして教父派は、亜人の絶滅を目標としています。もちろんドワーフも例外ではない。」

  「我々は帝国と通商関係にある。彼らにとって、我々の錬成技術は必要不可欠なはずだ。だから我々は、亜人とはいえ、そう簡単に討伐対象にはならないとみている。」

  「今は、そうかもしれません。」

  シンは、一歩前に出た。

  「ですが、教父派の論理は単純です。亜人は穢れている。人間以外は存在自体が許されない。穢れは排除する。経済的な価値は、その論理の前では関係ない。」

  「それは、――卿の見立てだろう。」

  「歴史が証明しています。」

  ベドリフの目が、わずかに細くなった。

  「歴史?」

  「宗教的な狂信が権力を握った時、経済的な合理性は機能しなくなります。有用な者も、有能な者も、信仰の前では関係がなくなる。それは――人間の歴史が繰り返し語っています。」

  広間に、静寂が落ちた。

  ベドリフは、しばらくシンを見ていた。

  「……若いのに、老成した認識をしておるな。」

  「経験から学んだことです。」

  「ならば我々がゴブリンたちと手を組むことで得られるメリットを言ってみるがよい。」

  シンは、羊皮紙を取り出した。

  「エトセニアの山岳防衛線。ビースト族の騎兵戦力。これらを統合すれば、帝国軍の侵攻に対して有効な防衛線を構築できます。オプスティアの錬成技術が加われば――」

  「待て。」

  ベドリフが、手を上げた。

  「お前の言いたいことはわかった。だが――」

  王は、玉座に深く座り直した。

  「ゴブリンたちは、自分たちの領域すら維持できずに山岳に引きこもっているだけではないか。そのような、いつ滅びるかもわからない勢力と手を組んで、我々に何のメリットがある。下手に帝国を刺激して、帝国との通商関係を失うリスクの方が、遥かに大きい。」

  シンは、答えようとした。

  その前に、横から声が飛んだ。

  謁見の途中で、声が飛んできた。

  「父上。その言い方は、失礼じゃないですか。」

  柱の陰から、小柄な影が出てきた。

  黒いドレッドヘアを後ろで束ねている。

  作業着のような簡素な服。

  腰に鍛冶用の工具を提げている。

  王女オルドリカ・フラディスラフだった。

  その目は――好奇心で輝いていた。

  「オルドリカ。謁見の場に――」

  「いいじゃないですか。面白い客人が来たんだから。」

  オルドリカは、シンたちを順番に見た。

  人間に、エルフに、ゴブリンが二人、そしてビーストの女将。

  「うーん。実に興味深い組み合わせだね。」

  ヒディに目が止まった。

  「あなた、名前は?」

  「ヒディ。」

  「私はオルドリカ。よろしく、ヒディ。」

  二人は、あっという間に打ち解けた。

  アスラが、オルドリカを見下ろした。

  「ドワーフの王女にしては、元気じゃん。」

  「ビーストの将にしては、綺麗じゃないですか。」

  アスラは、一瞬だけ目を細めた。

  それから、低く笑った。

  「気に入った。」

  「私もです。」

  セリナが、その様子を横で見ながら、かすかに目を細めた。

  この王女は――人を見る目がある。

  オルドリカは、シンに向き直った。

  「あなたがシン?」

  「そうだ。」

  「さっきの話、聞いてた。父上の言い方は確かに失礼だったけど、あなたの言い方も少し強引だったわね。」

  「そうか。」

  「でも、言ってることは正しいと思う。」

  ベドリフが、娘を見た。

  「オルドリカ。」

  「父上は帝国を信用しすぎです。私は人間を信用していない。あいつらは――私たちを道具だとしか思っていない。道具が役に立たなくなれば、――もしくは別の道具が手に入れば捨てる。それだけ。」

  「根拠は。」

  「職人の勘です。」

  オルドリカは、シンを見た。

  「あなたの話には続きがあるはず。聞かせてもらえますか。」

  シンは、少しだけ間を置いた。

  それから、羊皮紙を広げ直した。

  謁見は、それから一時間続いた。

  ベドリフは、最終的に首を縦に振らなかった。

  「同盟や明らかな軍事支援は、現時点では難しい。だが――」

  王は、シンを見た。

  「通商ならば、考える余地がある。君たちに必要な武器や装備を、正規の取引として提供することはできる。表に出さない範囲でなら融通はある程度効かせることもできる。食料もある程度支援しよう。ただ、あくまでも我々は表向き中立だ。」

  「それで十分です。」

  シンは、即座に答えた。

  「今は、それで十分です。」

  ベドリフは、わずかに眉を上げた。

  「……強引に同盟を迫って食い下がると思っていたが。」

  「強引に結んだ同盟は、強引に破られます。今は『通商』から始める方が、長続きします。」

  ベドリフは、しばらくシンを見ていた。

  それから、低く笑った。

  「……面白い人間だ。オルドリカが興味を持つのも、わかる気がする。」

  謁見の後、オルドリカがシンたちを工房へ案内した。

  その中で、アキンがドワーフ歩兵の密集隊形を見た。

  肩と肩が触れるほどの間隔で、槍を前に揃えて立っている。

  一人一人は小柄でも、その壁は――崩せない気がした。

  (……これだ。)

  アキンは、その感覚を、胸の奥で静かに確認した。

  工房の中で、オルドリカが棚から長槍を取り出した。

  「これ。ドワーフ製の長槍。穂先の角度が――」

  「触っていいか。」

  「どうぞ。」

  アキンは、槍を受け取った。

  重心を確かめる。

  穂先を見る。

  柄の長さを測る。

  それから、シンを振り返った。

  「シン。」

  「なんだ。」

  「俺、槍にする。」

  シンは、アキンを見た。

  「理由を言え。」

  「お前が前に出るなら、俺は壁になる。剣じゃ、それができない。」

  静寂。

  シンは、少しの間だけ、アキンを見ていた。

  それから、小さく頷いた。

  「……そうしろ。」

  それだけだった。

  だが、アキンの目が――何かを決めた目になった。

  オルドリカは、その二人のやり取りを見ていた。

  (……面白い。)

  特に、あの黒髪の男。

  戦略を語る時と、今の「そうしろ」と言った時と、目の質が違う。

  「槍ね。どんな使い方をしたいの?」

  「密集して、壁を作る。崩れない壁。」

  「パイク兵か。ドワーフの歩兵の基本戦術よ。見ていく?」

  アキンは、即座に頷いた。

  

  夕暮れが、石造りの街を赤く染めた。

  シンたちは、翌日にはエトセニアへ戻る予定だった。

  通商の基本合意は取れた。

  武器の供給ルートが生まれる。

  それだけでも、この訪問は成功だった。

  オルドリカが、城門まで見送りに来た。

  「また来てね。」

  「機会があれば。」

  「機会は作るものじゃないの?」

  シンは、少しだけ口角を上げた。

  「そうだな。」

  「あなた、笑えるんだ。」

  「……何だ、それは。」

  「さっきまで、ずっと硬い顔してたから。」

  オルドリカは、ヒディに向かって言った。

  「ヒディ、また来てね。短剣の話、もっとしたかった。」

  「うん! 絶対来る!」

  セリナに向かって。

  「あなたも。エルフの使節がここに来ることは少ないから、また話を聞かせて。」

  「ええ。ぜひ。」

  アキンに向かって。

  「あなたは――」

  オルドリカは、少しだけ間を置いた。

  「――強くなってね。」

  「……ああ。槍、ありがとな。」

  「いいのよ。頑張って練習してね。次来た時、見せてもらう。」

  アキンは、短く頷いた。

  オルドリカは、それを見て――小さく笑った。

  そして一行の背中が見えなくなるまで、見送り続けた。

  エトセニアの拠点に戻ったのは、その翌日だった。

  ムパンギが出迎えた。

  「お帰り。成果は?」

  「通商の合意はできた。同盟はまだだ。」

  「まだ、か。結べると思うか。」

  「時間はかかる。だが、次の手は打ってある。いずれは結ぶことになると思う。」

  シンは、馬を降りながら周囲を見渡した。

  拠点の様子が、出発前と変わっている。

  武器の手入れをしている者が増えた。

  見張りの数が増えた。

  壮年のゴブリンの武将が、ゴブリンの若い戦士たちに何かを指示している。

  「アマディ。」

  「ああ、お帰りなさい、参謀殿。」

  アマディが、静かに頭を下げた。酸いも甘いも知り尽くしたような、深い皺の顔。

  「何かあったのか。」

  「帝国の斥候が、北の山道で三度確認されました。いずれも単独で、すぐに引いていきましたが――」

  「偵察だな。何かを確認している。」

  「そのように判断して、守りを固めています。」

  「正しい判断だ。」

  シンは、アマディを見た。

  この男は信用できる。

  感情で動かない。

  状況を正確に読む。

  「引き続き、警戒を続けろ。俺も戦略を見直す。」

  「承知しました。」

  その夕方、拠点に見慣れない顔があった。

  ゴブリンの少女だった。

  背丈はヒディとほぼ同じくらい。

  だが、体型は少し違う。

  俊敏そうな、引き締まった体躯。

  目が鋭い。

  ヒディが、その少女を見た瞬間――顔が輝いた。

  「エシュト!」

  「ヒディ!」

  二人が、駆け寄った。

  セリナが、微笑んだ。

  「知り合い?」

  「幼馴染! 別の部族なんだけど、子供の頃からずっと仲良しなんだ!」

  エシュト・ハイレ・タデッセは、ヒディの手を取りながら、周囲を見渡した。

  そして――アキンを見た。

  一瞬だけ、目が止まった。

  「……アキン……。」

  エシュトは、アキンを見た。

  アキンは、オルドリカにもらった新しい長槍の手入れをしていた。

  黙々と、丁寧に。その横顔は――真剣だった。

  「……。」

  エシュトの目が、細くなった。

  ヒディは、その目の変化を見た。

  「エシュト?」

  「え?ううん。なんでもない。」

  エシュトは、視線を外した。

  だが、その頬が――わずかに色づいていた。

  ヒディは、しばらくエシュトを見ていた。

  それから、こっそりセリナに耳打ちした。

  「セリナ。エシュト、アキンのこと――」

  「見ればわかるわ。」

  セリナは、静かに言った。

  「そっとしておきなさい。」

  「うん。」

  ヒディは、頷いた。

  だが、その目が――少しだけ、複雑な色を帯びていた。

  エシュトの気持ちには、前からうっすらと気づいてはいた。

  アキンが、誰かに想われている。

  それは、嬉しいはずだった。

  なのに、最近なぜか――

  (……なんで、こんな気持ちになるんだろう。)

  ヒディは、その感情の正体を、まだ知らなかった。

  夜、シンは地図と関係資料を広げていた。

  エシュトが、ムパンギの使者として別部族からの情報を持ってきていた。

  北の山道の帝国斥候。

  東の街道の不審な動き。

  それらを地図に落としながら、シンは静かに確信していた。

  (……来る。近い。おそらく目的は……オプスティアだ。)

  帝国軍の偵察が、複数の方向から入っている。

  これは単独の作戦ではない。

  複数方向からの同時侵攻の準備だ。

  「シン。」

  ムパンギが、天幕に入ってきた。

  「族長たち全員を呼び集めるか?」

  「明日の朝に。今夜は各自、休ませろ。」

  「わかった。」

  ムパンギは、出ていきかけて――止まった。

  「……シン。オプスティアと同盟を結べると思うか?」

  「まだ今は難しい。だが――」

  シンは、地図を見たまま言った。

  「向こうから来る理由を、作る。」

  「どういう意味だ。」

  「帝国が動けば、ドワーフは自分たちが中立でいられないことを理解する。その時に、俺たちがそこにいれば――自然に、手を組むことになる。」

  ムパンギは、しばらく黙っていた。

  「……なんというか、冷たい考え方にも聞こえるな。」

  「現実的な考え方だ。」

  「同じことか。」

  「違う。」

  シンは、ムパンギを見た。

  「冷たいのは、助けに行かないことだ。俺は助けに行く。ただ、それが同時に外交的な成果につながる。それだけだ。」

  ムパンギは、その言葉を受け取った。

  それから、低く笑った。

  「……お前は、どこまで計算しているんだ。」

  「必要な範囲だ。」

  「その『必要な範囲』が、どうも俺には測れない。」

  「測れなくていい。お前は、俺が出した答えを理解して実行してくれればいい。」

  「信用してくれているんだな、俺を。」

  「している。そして信頼もしている。」

  即答だった。

  ムパンギは、その答えに――満足そうに頷いた。

  「……俺も、お前を信頼している。シン。」

  天幕の外で、焚き火が揺れていた。

  翌朝、夜明けとともに早馬が来た。

  「帝国軍がオプスティアへ全面侵攻を開始しました! 三方向から同時に!」

  シンは、地図を広げていた天幕から出た。

  拠点全体が、一瞬で緊張した。

  緊急で予定より早く族長会議が開かれる。

  不安に駆られる族長たちの中、ムパンギが斥候に報告を命じる。

  「詳細を言え。」

  「北方軍が国境を越えて、首都ジェレズニーフラドへ直接侵攻。北東軍が工業地域を制圧中。南方軍がグレンツベルクから西方の都市メストナスヴァフへ向かっています。」

  「南方軍の指揮官は。」

  「南方軍総司令官はリストホルト・フォン・アルトブルク。そして――神聖騎士団の神官将ハンス・カイテルが同行しています。」

  シンの目が、一瞬だけ――変わった。

  ハンス・カイテル。

  カイルの喉を貫いた矢を命じた男。

  全員の処刑を命じた男。

  「穢れた血よ」と言い放った男。

  現世の自我が、静かに燃えた。

  (……いる。)

  ムパンギが、シンの横に立った。

  「……どうする。」

  「南方軍を先に叩く。」

  シンは、全員を見渡した。

  アキン、ヒディ、セリナ、アスラ、アマディ、エシュト、そして族長たち。

  「全員、聞け。帝国軍がオプスティアへ侵攻を開始した。三方向からの同時侵攻だ。」

  誰も、声を上げなかった。

  ただ、全員の目が――シンに向いた。

  「俺たちはまず、南方軍を叩くため西方の都市メストナスヴァフへ向かう。南方軍を撃退してから、ジェレズニーフラドへ直行する。」

  「兵力は?」

  アマディが、静かに聞いた。

  「ここにいるゴブリン軍から六百。アスラのビースト軍を含めて、千。南方軍は二千から三千だ。」

  ムパンギが問う。

  「……三倍以上の敵に、正面からぶつかるのか。」

  「正面からはぶつからない。」

  シンは、地図を広げた。

  「グレンツベルクから進撃してくるなら、残念ながらメストナスヴァフ救援はおそらく間に合わない。とするなら、メストナスヴァフから南方のパジナへの進軍中を狙うことになる。」

  指が、一点を示した。

  「ここで叩く。」

  アマディは、地図を見た。

  それから、深く頷いた。

  「……わかりました。」

  エシュトの父、西方のタデス族長ハイレ・タデッセが問う。

  「シン、エトセニアに帝国が進撃してくる可能性は?」

  「おそらくないはずだ。帝国の動員兵力の状況から見て、オプスティアへの侵攻に集中しているようだ。」

  「ならば我らの兵力の一部で防衛しておこう。」

  「ムパンギとハイレは第二軍として待機していてくれ。状況によっては増援を頼むかもしれない。アスラはベラゼムリアからビーストの第二軍をこちらに向かわせてくれ。」

  「……うむ、わかった。俺とハイレで、できる限り兵力を集めておこう。」

  「わかった。まかせときな。」

  「オプスティアが落ちれば俺たちは終わる。全力でいくぞ。」

  アスラが、シャムシールを鳴らした。

  「面白くなってきたじゃん。アタシの部隊、遠慮なく使いな。」

  「使う。」

  「お礼はいらない。アンタのもとでアタシが戦いたいだけだから。」

  アスラは、不敵に笑った。

  アキンが、長槍を握り直した。

  ヒディが、短剣を確かめた。

  セリナが、静かにシンの隣に立った。

  「……行くわ。」

  「ああ。」

  シンは、地図を畳んだ。

  「出発は一時間後だ。準備しろ。」

  出発の前に、エシュトがシンの前に来た。

  「シン。」

  「なんだ。」

  「あたしも連れて行って。情報をまとめる役ができる。自分で自分は守れるし伝令も走れる。」

  シンは、エシュトを見た。

  この目は――負けず嫌いの目だ。

  だが、感情だけではない。

  自分の役割を明確に提示している。

  「……わかった。伝令と情報集約を頼む。」

  「任せて。」

  エシュトは、きっぱりと答えた。

  その横で、ヒディが小さく笑った。

  「エシュト、やるじゃん。」

  「ヒディには負けない。」

  「何で競ってるの。」

  「全部よ。」

  エシュトは、それだけ言って背を向けた。

  その背中が――どこかアキンの方向を向いていた。

  ヒディは、その背中を見ていた。

  複雑な気持ちが、また胸の奥で動いた。

  だが今は――戦場に向かう時間だ。

  一行が動き出した。

  山道を南へ。

  メストナスヴァフへ。

  途中オプスティアの南方の町バジナで補給し、バジナ駐留のドワーフ軍五百人も合流することになった。別動隊として動いてもらうことになる。

  シンは、先頭で馬を進めながら、頭の中で計算を続けていた。

  南方軍の進軍速度。

  地形の制約。

  補給線の位置。

  弱点。

  そして――ハンス・カイテルの顔が、頭の中で浮かんでは消えた。

  (……待っていろ。)

  その声が、どちらの自我から来たものか――シンには、わからなかった。

  山の稜線が、朝の光に染まっていた。

  その頃、オプスティアの北部では。

  ゴルフの町が燃えていた。

  神聖騎士団治安維持局長ルドルフ・ハーゲンは、書類に目を通していた。

  ドワーフ虐殺の記録。

  数字が並んでいる。

  「今日の成果は?」

  「北東工業地域の第三区画、制圧完了。職人は確保。その他は――全て駆除、処理しました。」

  「ご苦労。明日は第四区画だ。同じように進めろ。」

  ルドルフは、窓の外の炎を見た。

  「神の秩序は、……かくして成る。」

  感情のない声だった。

  王都ジェレズニーフラドのベドリフ王のもとに、北部の報告が届いたのは――その翌朝のことだった。

  「……あの男の言っていた通りだったか。」

  広間に、重い沈黙が落ちた。

  ベドリフは苦悶する。

  守りは固めていたし、警戒は緩めていなかった。

  そこまで甘く考えていたわけではない。

  それでも、帝国と国交を結んでいる以上、関係悪化はもっと段階的に動くものと考えていた。

  帝国の豹変は、いかに自分たちドワーフを「下に見ているか」が明らかだった。

  どうにでもできる。ただの「道具」だと――。

  ――亜人は穢れている。人間以外は存在自体が許されない。

  ――宗教的な狂信が権力を握った時、経済的な合理性は機能しなくなります。

  ――それは歴史が証明している。

  シンの言葉が思い出される。

  そして戦慄する。

  帝国の狂気を、決して軽んじていたわけではない。

  いずれは何らかの行動を起こすと感じてはいた。

  しかし「見なければいけない現実」を見て、行動するのが王の務めだ。

  つまり最悪の場合を常に考慮しておかねばならなかった。

  だが、いつのまにか「見たいと思う現実」しか「見ようとしていなかった」のではないか。

  ――その結果、守れたはずの民を、見殺しにしてしまったのではないか。

  オルドリカが、父王の隣に立った。

  「父上。今からでも遅くない。」

  「……シン殿は、どう動いておる。」

  「バジナ駐留軍と合流し南方軍を叩いてから、ここへ来ると連絡が入りました。」

  ベドリフは、目を閉じた。

  (同盟を断ったというのに、我らのために――すでに動いてくれているのか。いや、それだけではない。彼らにとっても我々の滅亡はそのまま自分たちの滅亡につながる。つまりすべてを読んだうえで既にこの事態を想定して動いていたのか……。かなわぬな、あの男には。)

  それから、立ち上がった。

  「アレシュ、城の守りを固めろ。ツティボルは出撃して北部軍の侵攻をできる限り遅らせろ。シン殿が来た時に――共に戦える態勢を整えておく。」

  「はっ!防衛の任かしこまりました!」

  「ハッハー!待ってましたぜ、王!」

  アレシュが応じ、ツティボルが、豪快に笑った。

  オルドリカは、南の空を見た。

  (……シン。早く来て。)

  その目に――焦りと、信頼、そして切ない希望が混在していた。

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