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オプスティア南部の都市バジナでいったん補給を行い、バジナのドワーフ南方軍と合流してオプスティア南西の都市メストナスヴァフへ向かう。
メストナスヴァフは、すでに陥落したらしい。
おそらく地獄になっているはずだ。
間に合わなかった。
メストナスヴァフへの道は、シンが知っていた。
グレンツベルク辺境伯領の将校として、この地域の地形は頭に入っている。
父の命で何度か巡察した道だ。
山を抜け、谷を越え、南の街道へ出る。
帝国軍がグレンツベルクから東進するなら、必ずこの道を使う。
馬上で、シンは地図を見ていた。
いや、地図は必要なかった。
目を閉じれば、地形が浮かぶ。
(……ここだ。)
街道が山の裾を回り込む場所。
両脇が急峻な崖になっている区間。
道幅が狭く、大部隊が縦列にならざるを得ない。
しかも、崖の上に岩場がある。
モルガルテンと同じ条件が、ここにも揃っていた。
「シン。」
セリナが、隣に馬を寄せてきた。
「何を考えているの。」
「地形だ。」
「どんな。」
「リストホルトが必ず通る場所。そこで叩く。」
「リストホルトは俗物、だったっけ。」
シンは、一瞬だけセリナを見た。
「どこで聞いた。」
「あなたがうたたねしていたとき、寝言で言っていた。」
「……俺は寝言を言うのか。」
「たまに。難しい言葉で。」
シンは、それ以上追わなかった。
「リストホルトは大公家アルトブルク家の次男だ。アルトブルク家は、兵の数が多いがあまり訓練されていない。あの家は華美が好きなのはいいが、兵站を軽視する。補給線が伸びきったところを叩けば、おそらく崩れる。」
「リストホルト本人は?」
「名門の出で、兄にコンプレックスを持っているからプライドが高く、そして偏屈だ。自分の軍勢の数を過信している。地形を読まない。だから――」
シンは、前を向いた。
「罠にはまる。おそらく簡単に。」
セリナは、その横顔を見た。
戦略を語る時のシンは――別の顔をしている。
冷たいのではない。
何かに集中している時の、研ぎ澄まされた顔だ。
(……でも今日は、もう一つ別の何かがある。)
セリナには、それが何かわかっていた。
ハンス・カイテルがいる。
シンが言わなくても、わかる。
何も言わなかった。
今は、言う時ではない。
夜営地で、シンは全員を集めた。地面に、炭で地図を描いた。
「メストナスヴァフへの道に、ここがある。」
一点を示す。
「街道が山の裾を回り込む区間。道幅が狭い。崖が両脇にある。帝国軍の大部隊は、必ずここで縦列になる。」
アキンが、地図を覗き込んだ。
「……あのときの山岳戦の時と同じか。」
「そうだ。」
「岩は?」
「崖の上に十分な量がある。」
「人員は?」
「崖の上にゴブリンの軽装部隊を配置する。アキン、お前はパイク兵を率いて谷の出口を塞げ。敵が崩れたところを押し込む。」
「わかった。」
アスラが、腕を組んだ。
「あたしは?」
「帝国軍が逃げる方向に回れ。退路を一本だけ残して、残りを塞ぐ。追い立てるだけでいい。深追いはするな。」
「なんで?」
「今日の敵は、リストホルトではないからだ。」
アスラは、シンの目を見た。
その目の奥に、何かが燃えている。
いつもの計算の光ではない。
もっと深い場所にある、暗い火だ。
「……ハンス・カイテルか。」
「そうだ。」
シンは、それ以上言わなかった。
だが、その一言で十分だった。
セリナが、静かに言った。
「私はシンの傍にいる。背中を任せて。」
「……ああ。」
アマディが言う。
「ゴブリン部隊は、参謀殿の指示通りに動きます。」
「エシュト。」
「はい。」
「伝令は素早く。各部隊の状況を俺に上げ続けろ。判断が遅れれば、死ぬ。」
「わかってる。」
シンは、全員を見渡した。
「一つだけ言っておく。今日の戦いは、俺個人の事情がある。だが――それで判断を誤るつもりはない。お前たちを無駄に死なせるつもりもない。」
誰も、何も言わなかった。
ただ、全員が――頷いた。
夜明け前に、全員が配置についた。
霧が出ていた。
崖の上に、ゴブリンの軽装部隊。
アマディが指揮する。
岩と丸太が、斜面に積まれている。
谷の出口に、アキンのパイク兵。
槍を前に揃えて、密集している。
その目は――先週より、ずっと静かだった。
側面に、アスラのビースト隊。
副官のアルマンが寡黙に部隊を制している。
同じく武将のレイラが興奮を殺しきれずに足を踏み鳴らしている。
シンは、谷の入口近くの岩陰に立っていた。
セリナが、隣にいた。
弓を持ち、小盾を左腕に括り付けている。
腰にレイピアが下がっている。
「……来る。」
セリナの耳が、先に拾った。
遠くから、蹄の音。
鎧の擦れる音。
大部隊の重い足音が、霧の中から近づいてくる。
シンは、大剣の柄に手をかけた。
帝国軍の先頭が、霧の中に現れた。
白地に金の旗。
重装騎兵。
その後ろに歩兵の密集隊形。
数は――多い。
二千は下らない。
先頭の騎馬に、豊かな装飾の鎧を纏った小太りの男がいた。
馬上で周囲に命令を下している。
その声は――甲高く、自信に満ちていた。
リストホルト・フォン・アルトブルク。
そして――その後方に。
白銀の法衣。
痩せた体躯。
馬上で羊皮紙を持つ男。
神官将ハンス・カイテル。
シンの手が、大剣の柄を強く握った。
(……いる。)
頭の奥で、何かが燃え始めた。
だが――まずリストホルトを崩す。
それが先だ。
シンは、右手を上げた。
岩が、落ちた。
一つではない。
十、二十、三十。
帝国軍の密集隊形に、岩が着弾した瞬間――世界が、音に満ちた。
金属が砕ける音。
馬の悲鳴。
人間の叫び。
リストホルトの声が、甲高く上がった。
隊列は崩れている。
だが――完全には死んでいない。
統制を保った小隊が、ところどころで踏みとどまっている。
「何事だ!なぜ岩が――前を見ろ!退くな!退くな!」
だが、密集隊形の中で岩に潰された兵が、後続の隊列を押しつぶしていく。
連鎖的な混乱が、瞬く間に広がる。
「行く。」
シンは、岩陰から出た。
大剣を抜く。
霧の中を、直進する。
気配が変わる。
足が、わずかに止まる。
白い霧の中、シンの前に壁が立った。
崩れきらなかった帝国兵だ。
五人、十人――いや、それ以上。
盾を重ね、槍を突き出し、即席の防御陣を作っている。
「止めろォッ!」
怒号とともに、槍が一斉に突き出された。
シンは踏み込んだ。
大剣が唸る。
正面の槍を叩き折り、盾ごと兵士を吹き飛ばす。
だが――止まらない。
横から剣が来る。
下から槍が来る。
背後から、矢の音がした。
セリナだ。
シンを狙った弓手の肩を、セリナの矢が正確に射抜く。
「シン!右、二人!」
シンは右に半歩動く。
二人の歩兵が、すれ違いざまに大剣で両断される。
別の弓兵がシンを狙う。
セリナの矢が、その喉を射抜いた。
「左、三!」
声と同時に、シンの剣が軌道を変える。
三人まとめて薙ぎ払う。
だが一瞬、足が止まる。
――その一瞬で、包囲が閉じる。
(……遅い。)
思考より先に、体が動いた。
前ではなく、斜めに踏み込む。
壁を『抜く』のではなく、『崩す』。
一人を叩きつけ、隙間を作り――滑り込む。
隊列が、裂けた。
セリナが弓を収め、レイピアを抜いて駆けつける。
左から回り込もうとした兵士の剣を、小盾で受ける。
流れるように体を捌き、レイピアの切っ先が脇腹の鎧の隙間を正確に突く。
静かだ。
無駄がない。
シンの背後で、セリナは――戦場に溶けるように動いていた。
シンの死角から、短槍が突き込まれた。
「――伏せて!」
声と同時に、セリナの小盾が横から割り込む。
穂先が弾かれ、頬をかすめて逸れた。
一拍遅れていれば――喉だった。
リストホルトの声が、甲高く割れた。
「退け! 退くのだ! 全軍、退けッ!」
帝国軍の後方から、崩壊が波状的に始まる。
谷の奥で、ゴブリンの第二波が岩陰から躍り出る。
退路に流れ込む兵を、横から削る。
出口では、アキンのパイク兵が一歩ずつ前へ押し上げていた。
逃げ場を、じわじわと狭める。
側面では、アスラのビースト隊が円を描くように圧をかける。
退路は一本――だが、それも『選ばされている』だけだ。
その退路に、帝国軍が殺到する。
リストホルトの馬が、混乱の中で暴れた。
騎士に支えられながら、男は後方へ向かって逃げていく。
シンはその背中を見た。
追わない。
今日、追うべき男は――別にいる。
周囲の喧騒が、遠のく。
霧の中で、白銀の法衣だけを追う。
その先に――崩れていない場所があった。
混乱の中で、そこだけが異質だった。
音すら、届いていないかのように。
――いた。
ハンス・カイテルは――逃げていなかった。
混乱する帝国兵の中で、馬上に端座していた。
その周囲に、神聖騎士団の精鋭が配置されている。
最外層には、重装の騎士が円陣を組み、盾と馬体で外敵を遮断していた。
その内側には、剣を抜いた精鋭が半歩の間隔で並び、侵入者を迎え撃つ構えを取っている。
さらに中心――ハンスの周囲には、白銀の法衣を纏った数名が低く祈りを捧げていた。
陣は崩れていない。
いや――この混乱の中で、ここだけが『完成された陣形』を保っていた。
そして騎士たちは、一歩も動かない。
押し寄せる混乱も、逃げ惑う兵も、すべてを障害物として受け流していた。
内側の剣士たちは、呼吸すら揃っている。
侵入者が現れれば、同時に斬るための間合いだ。
そして中央。
ハンスの周囲では、数名の騎士が膝をつき、祈っていた。
戦場の中で、そこだけが異様に静かだった。
血と悲鳴の中に――神殿があるようだった。
ハンスの目が、シンを見つけた。
「……穢れた血よ。やはり生きていたか。しかも魔物どもと共に現れるとは。」
感情のない声だった。
驚きも、恐怖も、ない。
ただの、確認だった。
「神はすでに選別を終えておられる。ここにいる時点で、お前たちは『不要なもの』なのだ。
わずかに、口元が緩む。
微かな熱が混じる。
その目が、ほんの僅かに見開かれた。
「神はお前の存在を赦さぬ。――そして今日、その穢れを清める機会を私に与えてくださった。」
神聖騎士団の精鋭が、シンを取り囲むように動いた。
「シン――」
セリナが、弓を引き絞った。
「俺がやる。」
短く言った。
セリナは弓を下げなかった。
だが、射らなかった。
神聖騎士団の精鋭は――強かった。
だが、シンは止まらなかった。
一人目の剣を弾く。
二人目の肩を断つ。
三人目の顎を砕く。
四人目と五人目を大剣で割り込んで処理する。
頭の奥で、何かが燃えている。
計算ではない。
怒りでもない。
ただ――カイルの喉を貫いた矢が、繰り返し頭の中で鳴っている。
「生きて戻れ。」
あの言葉が、返ってこなかった。
六人目を断ち、七人目を踏み砕き、八人目の剣を折り、九人目を谷の壁に叩きつけた。
気づいた時には、ハンスの前に立っていた。
神聖騎士団の精鋭が、全員倒れていた。
ハンスは、馬上にいた。
だが、その表情は――穏やかだった。
むしろ、晴れやかですらあった。
シンは、大剣を構える。
ハンスは、シンを見下ろした。
その目が、――人間的な温度を持った。
憎悪ではない。
哀れみだ。
「穢れた血よ。お前がどれだけ足掻こうとも、神の裁きからは逃げられぬ。お前が守ろうとする者たちも、いずれ塵に還る。それが――お前への罰だ。」
シンは、答えなかった。
刃を振りかぶった。
ハンスは目を閉じた。
「……神よ。感謝します。この穢れた地で、殉教の栄誉を賜り――」
刃が落ちた。
白銀の法衣に、血がゆっくりと滲んでいく。
――断ち切られた。
祈りは、最後まで届くことはなかった。
ハンスが倒れた後、神聖騎士団の残存部隊は二つに分かれた。
一つは、狂信的に玉砕してくる者。
これらはことごとく討ち取られた。
そしてもう一つは――
「降伏する! 命だけは――」
シンは、その声を聞いた。
頭の奥で、何かが――激しく軋んだ。
前世の記憶が、頭痛のように押し寄せてきた。
捕虜の権利。
降伏者への人道的処置。
戦争法規。
それらが、波のように打ち寄せてくる。
頭が割れるように痛い。
(やめろ。)
シンは、その痛みを、奥歯を噛んで押しつぶした。
(今は――関係ない。)
降伏兵の一人が、震える手で短剣を抜いた。
隣で膝をついていた仲間の喉に、突き立てる。
血を浴びながら、叫んだ。
「神の御名において――穢れを断つ!」
すぐにゴブリン兵がその兵を斬り殺す。
――歪んだ『正義』が、ここにもある。
シンは息を吐いた。
目の前にいるのは、カイルを殺したあのときの連中だ。
グレンツベルクの家族や領民を虐殺した連中だ。
オプスティアで今も虐殺を続けている連中だ。
陥落したメストナスヴァフもことごとく――こいつらの手で。
――捕虜として使うか。
――情報を吐かせるか。
一瞬だけ、考える。
前世の知識で、捕虜への虐待などを禁じたジュネーブ条約が一瞬頭をよぎる。
しかし、そもそも降伏したこいつらを受け入れる余裕などない。
釈放したら、またこいつらは「おぞましい行為」に手を染める。
頭痛が、また押し寄せる。
シンは、それを――もう一度、押しつぶした。
そして結論を出した。
――そうだ、こいつらに生きる資格などない。
――降伏?
ふざけるな。
こいつらは、命乞いをした者たちを殺した。
その結果が、これだ。
ここで見逃せば、また同じことを繰り返す。
ならば――ここで止める。
ただ、それだけだ。
「――全員処刑だ。殺せ。一人残らず。今後、教父派関係者と神聖騎士団は、すべて殺す。」
それは、一方的な制圧だった。
ゴブリンとビースト、ドワーフの軍が一斉に襲い掛かる。
降伏した神聖騎士団員が、次々と倒れていく。
シンは、その中にいた。
大剣を振るい続けた。
止まれない。
止まったら――考えてしまう。
頭痛が、絶え間なく続いている。
前世の価値観が、全力で拒絶している。
だが、体は動き続けた。
最後の一人が倒れた。
シンは、大剣を地面に突き立てた。
――静寂。
谷の底に、死体が積み重なっていた。
帝国軍の死体。
神聖騎士団の死体。
血の匂いが、空気に染み込んでいた。
シンは、動かなかった。
大剣に体重を預けたまま、谷の底を見ていた。
頭痛が、まだ続いている。
(降伏した者を殺した。それは――)
(必要だった。あいつらが生きていれば、また同じことをする。感情ではなく、判断だ。)
(本当に、そうか。)
(そうだ。)
(では、なぜ――体が動かない。)
足元に、神聖騎士団員の死体が一つ、倒れていた。
若い。
二十歳前後。
膝をついて両手を上げた姿勢のまま、倒れている。
その顔が――ハンスと同じ表情をしていた。
穏やかだった。
殉教の覚悟があった男だ。
(……この男は、何も疑っていなかった。)
前世の価値観が、また押し寄せた。
洗脳。
思想統制。
組織的な暴力への服従。
これは――加害者であると同時に、被害者でもある構造だ。
(やめろ。今は――考えるな。)
だが。
足が、動かなかった。
谷の底に積み重なった死体の数が、頭の中で自然に並んでいく。
百、二百、三百、その一つ一つに、顔があった。
(……ゴル。ラン。テッシュ。)
あの三人の名前が、なぜか今、浮かんだ。
では、この谷の底にいる三百の男たちの名前は――
「シン。」
セリナが、いつの間にか、隣に立っていた。
「……おれは、……正しかったか。」
シンの声が、掠れた。
「わからない。」
セリナは、即答した。
「でも――あなたは今日、カイルさんの、そして家族の弔いをした。それだけは、確かだわ。」
シンは、その言葉を受け取った。
何かが――崩れた。
シンは、大剣から手を離した。
その体が――わずかに、揺れた。
セリナが、シンの腕を掴んだ。
倒れるのを、支えるように。
「……立てる?大丈夫?」
「ああ、立っている。」
「立っているだけじゃない。」
シンは、セリナを見た。
その顔が、近かった。
「……お前は、なぜ――」
「傍にいるって、言ったでしょう。」
アキンが、近づいてきた。
「……シン。降伏した連中を――」
「そうだ。」
「……そうか。」
「お前はどう思う。」
「わからない。俺は――正面から戦いたい。そして人間どもは敵だ。――だけど……。」
「ならば――そういう役割がある。俺がやる。お前はやらなくていい。」
「……それが、お前の戦い方か。」
「そうだ。」
「俺には、――」
「だから、俺がいる。」
アキンは、その言葉を受け取った。
シンを否定しない。
否定できない。
逆に――自分が甘いのではないかと悩み始める。
アスラが、シンの前に来た。
「今日の戦い――ずっと頭が痛そうだったな。」
「……気づいていたか。」
「アタシは本能で生きてるからさ、逆にそういうのわかるんだよね。」
「問題ない。」
「問題ないって顔じゃないけどね。うまく言えないんだけどさ、――匂うつーかさ。」
アスラは頭を掻きながら、続けた。
「――お前、二人いるだろ。頭ン中に。」
シンは、答えなかった。
「まあ、どっちもお前なんだろうけど。……アタシにはわからないけどね、そういう複雑なことは。ただ――お前が壊れたら、困る。それだけ。」
そして微笑みながら続ける。
「だからあんまし悩まなくていいんじゃね?ていうかさ、敵をぶっ殺したあとに悩む軍人なんざ、初めて見たぜ。」
アスラは、背を向けた。
「……ありがとう。」
「お礼はいらないって言ったじゃん。」
夜営地で、シンは一人、焚き火の前に座っていた。
「……シン。」
セリナが来た。
手に、木椀を二つ持っている。
「食べていないでしょう。」
「……後で食べる。」
「今食べて。」
シンは、木椀を受け取った。
セリナは、隣に座った。
しばらく、二人は黙っていた。
「……セリナ。俺は――おかしいか。」
「おかしい、というのは?」
「降伏した者を殺して――その後、名前を知りたいと思った。」
「それが、おかしいと思うの?」
「普通の軍人は、そんなことを思わない。」
「あなたは、普通の軍人じゃない。」
「……そうか。」
「名前を知りたいと思うことは――その人が人間だったと、あなたが理解しているということ。それは、消えてほしくない感覚よ。」
シンは、その言葉を、長い間受け取っていた。
「……消えてほしくない、か。」
「ええ。」
「だが――それがあると、戦えなくなる。」
「全部は消えない。でも、全部が残っても、あなたは戦える。今日、証明したでしょう。」
シンは、セリナを見た。その目が――揺るぎなかった。
「……お前は、なぜそんなに確信している。」
「あなたを見ていたから。」
夜が深まった。
セリナは、焚火に当たりながらシンの隣でいつの間にか眠っていた。
その体が、シンの肩に静かに寄りかかっている。
シンは、動かなかった。
起こさないように。
金色の髪が、焚き火の光を受けて揺れている。
胸の奥で、二つの声がまだ、低く燃えていた。
だが今夜は――どちらの声も、小さかった。
明日、ジェレズニーフラドへ向かう。
籠城戦が待っている。
ハンスは倒した。
だが、戦いは終わっていない。
(……次だ。)
シンは、目を閉じた。
隣に、セリナがいた。
それだけで――なぜか今夜は、満たされていた。
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