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この街にも、花火が上がるという話を耳にした。
それを聞いたのは、最初はただの偶然だったが。一度耳にしてからは、積極的に情報を集めた。この話は、きっと俺の何より大事なあの方が、とても喜ばれるだろうと、そう想ったからだ。
花火が上がるのは、一月後。夜も更けた頃から始まる催しだということで、郊外の川沿いで行われるらしい。まあ、時間に関しては花火なのだから、夜更けで当然だろう。開催地の辺りには提灯が飾られ屋台が並び、一部では酒も提供され、言葉通りのお祭り騒ぎになるのだそうだ。誰に話しかけずとも、この程度なら、耳を澄ませば容易に知れた。
それでも、これは俺のもも様にお知らせする情報だ。万に一つでも間違っていてはならない。手に入れた情報を一つ一つ精査しながら、こんな大陸の端の国にも花火が伝わっているとは、と内心で呟いた。
元々、花火と言うものは葦津江やその一帯の国で盛んなものだと伝え聞いている。それを目当てに、遠くからもわざわざあの国に訪れる旅行者が絶えないとも。現に、葦津江の国にいた頃には、時季を問わず花火が上がっていた。あの国では、花火は富の象徴と言う節があったから、余計だろう。花火を上げるにも金が掛かる。専属の花火師を抱えて、春夏秋冬問わず豪華な花火を上げる。それこそが、領主のステータスとなっていたのだろう。決して民衆の為ではないところが、あの国の領主らしい。自身の財力を見せつけ、観光の一環にも繋がるのだから、あの国の領主にとって花火は本当に好ましいものだったに違いない。
だから、葦津江の国民にとっては、花火などある意味見慣れている代物で。俺としても、花火自体はどうでもいいし、そんなもの在っても無くても全く構わないものだった。そもそも俺にとって、この世界で何よりも大事なのは、大切なものは、…ただ一つしかないからだ。
『きれいねえ』
あの屋敷の、四季の名をそれぞれ冠した四つの庭。その、どの季節の庭にも設えられていた長椅子に腰かけて。空を仰ぎながら目を細めておられた、あの方の姿を想い出す。
甘やかで、ふくふくと柔らかそうな白色の頬を、ほころばせて。優しげに細められた、穏やかに円い、黒目がちの目。綺麗に背筋を伸ばしてすらも、あの方の身体の輪郭はその穏やかさを表すようにおっとりと丸く。触れた膚は吸い付くように指に馴染んで、あたたかい。…指先に、あの方の蕩けそうに柔い肉の感触が蘇って、それを追うように、きつく手を握りしめた。
花や木々を愛する俺の唯一の主は、花火も大層好いておられた。いつだって、素直な目線で真っ直ぐに物事を見遣る、あの方の貴い目には。地面に咲く花も、夜空に開く火花も、どちらも変わらずに美しいものとして御映りになっていたのだろう。
そんな風に、もも様が花火が上がることを、とても楽しみにしておられたから。俺も花火と言う存在を眼に入れ、気に掛けるようになった。そうでなかったら、今でも花火が何なのかすら、覚えてもいなかっただろう。
あの国にいた頃から、花火を始めとした、もも様がお好きなものへの情報収集は俺の役目で。それだけではない、もも様に関する全ての事柄は、全て俺が担っていた。他の輩になど、譲ってやる気は昔も今も、欠片もない。あの方から、お褒めの言葉を賜るのは。あの稚く優しい、愛らしい笑顔を向けられるのは、俺だけで良い。寧ろ、俺以外にあの笑顔を向けられた奴など屠ってやった。あの方以外の生命など、消すことに何の躊躇いもない。今更だ。
俺の見ている風景には、いつだってもも様しか存在していない。それは、俺の世界にはもも様しか必要ないことの表れでもあるのだろうが。実際にも、あの方のお傍には俺しかいなかった。存在させなかった。今は勿論のこと、あの屋敷でも、何処であろうと。
俺の、一応の雇い主だったもも様の父親は、邪魔者を確実に仕留めて来る俺を邪険には出来ない。俺の言を聞かねば、俺の手で使用人の数が減っていくことも理解していただろうし、万が一にも俺の機嫌を損ねれば、逆に始末されかねないとも分かっていたのだろう。それもあって、もも様付きの従者を俺だけにすることは、簡単だった。そもそも護衛など、俺さえいれば事足りるのだ。その辺の有象無象が十人いようと、俺の足元にも及ばない。
その証拠に、俺を敵に回したあの家は。何の抵抗も出来ずに呆気なく滅びたのだが。まあそれもどうでもいい。
だから。もも様のお傍には、いつだって俺しかおらず。…俺の世界にも、もも様しか要らなかった。あの頃から、それはずっとそうで。これからも、それだけは変わらない。俺の命が尽きる時まで、ずっと。
『ねえ、玻璃、きれいね』
静かな庭に広がった、あの時のもも様のお声が、鮮明に耳に蘇る。少しだけ高く響く、柔らかく幼い声色。おっとりとして、ゆるりと穏やかな話し方。決して口数は多くなく、けれど言葉の一音をとても大事そうに、丁寧に口にするその優しい声が、…俺はとても好きだった。
あの時の季節は夏だった。だからだろうか、あの方の身に纏う薄い着物は白色で。その薄い布越しからも伝わるような、触れたくなる程にふくよかで、もっちりとした肉付きの肢体に。…無意識に、喉を鳴らしてしまった音は、あの日のあの方に聞こえてしまっていただろうか。あの頃から、何よりも貴いあの方に、…劣情を抱いていなかった、と言えば嘘になる。それをあの方にだけは知られないように、必死だったことを思い出して、小さく笑った。
そんなもも様の愛らしくもふくよかな肢体に、合わせるように。まるで花のように結われた桃色の帯は、いつだって可愛らしかった。名前が表すように、もも様は桃色や、それに類似した色がとても似合う方だ。俺にはものの美醜など分からず、興味もない。けれど、もも様に似合うもの、それだけは分かる。そもそもあの方に似合わないもの、必要ないものなど、覚えておく価値もないのだ。だから、俺の知識にあるものは、今も昔も、全てあの方に関わるものだけだった。
花火も、そのなかのひとつ。あの方が、きれい、と口にして笑うから、花火の種類も様々覚えた。菊に牡丹、冠に千輪、八方咲きと柳。もも様は特に、菊や冠がお好きなようで。光の尾を引きながら夜空に広がり、ぱらぱらと爆ぜながらゆっくりと消えていくその様を見つめては、その大きく丸い、愛らしい目を輝かせる。俺にとっては、花火などよりも。…あの方があの大きな目を細めて笑う、花のほころぶような笑顔の方が余程可愛らしく、眼を離せないのだが。
あの夜も、幾つかの花火が上がり、もも様は甘やかな白色の頬を薄く紅潮させて、それに魅入っていた。もも様の傍らに立ち、花火などそっちのけでそんなもも様を見つめていた俺に。…不意に、もも様の目が俺を見上げた。虹彩と瞳孔の境が分からないほどに吸い込まれそうな黒色をした、黒目がちの大きな目。いつも潤んでいるように、薄く水膜の張っているその目は頼りなく。それでいて、俺の全てを包み込むかのように、穏やかで優しかった。
…もも様のその目で見つめられると、俺はいつもこころが浮足立って、落ち着かなくなる。何か求められているのか、俺を望まれているのか、何でも申し付けて欲しい、貴方の為ならば俺はんでも差し出すのに。この方に出逢うまで、揺れたことの一つもない尻尾が、今は浮足立つ心を表すように揺れているのが自分で分かった。
『玻璃』
幼いように高く、それでいて柔らかな声が。…大切なものをなぞるような響きで、俺の名を呼んだ。それだけで、俺の尻尾が千切れんばかりに勢いを増して揺れる。直ぐ様その場に傅いて、俺のただ一人の主を仰いだ。
この方が名付けてくれた俺の名は、…あの国では、この方しか呼ぶことがなかった。俺が、呼ばれたくなかったのだ。この方以外に、『玻璃』と。この名は、もも様が俺に与えてくれた、…生まれて初めて俺が貰った、俺の宝だったのだから。
だから、本当はこの国でも、もも様以外の何者にも玻璃と呼ばれたくはない。けれど、…『玻璃』以外の名を名乗ることも、断固としてしたくは無かった。俺の名は玻璃であり、もも様の為の『玻璃』であり、それ以外の名など在り得ない。相反する感情に折り合いをつけて、…選んだのは、『玻璃』と名乗るほうだった。俺を俺たらしめる、もも様が与えてくれた俺の宝。
それでも、…この方が俺を呼んでくれる、それ以外に俺の名が意味を持つことなどない。もも様以外の誰が俺の名を呼んでも、それはただの文字の羅列だった。『は』と『り』が続いた、ただそれだけのもの。俺のこころを浮足立たせるのは。少しでも、こころに波紋を呼ぶのは。…この方以外、何者も在り得なかった。
俺が、もも様の下に傅いたことで。その黒曜石のような黒色の愛らしい目が、見上げる目線から俺を追うように、少し下がった。先程よりも、更に目線が近くなって、…濡れたように潤むその目に、俺が映っているのが分かる。ああ、俺の至宝の主の目に、俺が映っている。耳が勝手に折り畳まれて、ぺたりと倒れた。俺の身体が、このあたたかく柔らかな手を欲しているのだと、そこで悟る。
あの方の柔らかな手が、耳を倒した俺の頭を、慈しむように緩やかに撫ぜて。それから、小さな手で俺を立ち上がらせようと促してきた、幼げな仕草。戸惑うように、傅く体勢からもも様の前に立った、俺に。
『ここ。玻璃もすわるの』
そう言って、俺の服の裾を引いてきた、柔らかく小さな手は、…今だって覚えている。もも様の隣に俺が座るなど、あの頃の俺には不敬でしかなく。そんなことをしていいものか、と狼狽える俺を真っ直ぐに見遣りながら、尚も稚い力で服の裾を引くその甘やかに白色の手。それに、…躊躇いながらも根負けしたのは、俺の方だった。そもそも、俺如きがあの方に勝てるわけもない。俺の存在意義は、あの方の為。俺と言う存在は、あの方の願いを全て叶える為だけに在るのだから。
失礼します、と口にしてから、もも様の隣に腰掛ける。拳一つ分開けた隙間は、俺にひたりと寄り添ってこられたもも様によって、掻き消えた。…あの時腕に感じた、もも様の。柔らかくあたたかな感触と、心地好い重みは、今でも鮮やかに想い出せる。
あの幼く柔い、もっちりとしたふくよかな身体が。愛らしく細めるあの大きな目、おっとりとして柔らかな声、俺を撫ぜてくれる優しく小さな手も。俺の全てである、至宝の主が。今では俺の、…俺だけのものなのだと。俺の最愛の妻として、お傍にいてくれるのだと。あの頃の自分に言っても、きっと信じないだろう。
ああ、一刻も早くあの方の待つ家に帰って、このことをお伝えしたい。この国でも花火が見られるとあれば、きっとお喜びになるだろう。もも様が、嬉しそうにあのふくふくとした頬をほころばせて笑われる顔を想い描いて、帰路に着く足が早まった。
もも様は、この街に花火が上がることをご存じだろうか。屋根の上を飛ぶように伝い帰りながら、そんなことを脳裏に馳せて。…いや、ご存じのはずがないか、と思い直す。あの方は、この国に来てからはまだ、お一人で家の敷地外に出られたことがないからだ。と言うよりは、もも様がお一人で外出されないようにと、俺がお願い申し上げている。この国で、誰が信用できて、誰を留意すればいいのか。まだ情報が足らず、詳しく把握できていない。こんな状態で、あの方を家にお独りにしてしまうことすら不安だというのに。それこそ何処かにお一人で外出など、何が在ろうがさせるわけにはいかない。
…以前のように、俺がずっとあの方のお傍にいられれば。そう思いながら、臍を噛む。あの国も、もも様の父親であるあの男も、もも様の継母だとかいうあのくそ女も、心底ろくでもなかったが。唯一良かったことと言えば、俺があの方のお傍に、ずっと控えていられたことだ。
今は、あの方の為にも賃金を稼がねばならない。勿論、あの国で稼いだ金は全て持ってきて、この国の貨幣へと換金してある。けれど、いつ、何があるか分からないのだ。金は有れば有るほどいい。幸いこの国は、獣人は軍人として職を得ることが出来、金払いもいい。だからこそ、移住先としてこの国を選んだわけだが、…それでも、あの方のお傍にいつも控えていられないことは、不安だった。この世界で唯一の、俺の光。俺の全て。…もしあの方になにかあれば、ここの国王の馘なぞ、直ちに掻っ切ってやろう。この国は君主制だ、中心となり、後を継ぐ王族を全て手に掛けるだけで、たちどころに滅ぶだろう。あの方のいないこの世界なぞ意味はない。未練もない。俺自身が生きるも死ぬにも、興味がないのだ。
郊外に、ぽつりと見える小さく、あたたかな明かり。屋根を伝いながらその光景を眼に映して、小さく笑った。ああ、もう直ぐだ。もう直ぐ、俺ともも様、二人だけの家に着く。
あの方が笑って、『おかえりなさい』と俺を出迎えてくれる様を脳裏に描きながら。一際大きく屋根を蹴って、俺たちの家へと大きく飛んだ。
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