Ad
文字通り、屋根の上を飛ぶように伝って帰った『我が家』。軍施設からある程度離れた郊外に借りた家は、近隣の家もまばらな場所にある、庭付きの小さな一軒家だ。
本来ならば、この国の軍人は、軍事施設の近くに家を借りるか建てるかするのが一般的なのだそうだ。軍事施設が職場となるのだから、近い方が良いと言う理由なのだろう。有事の際に直ぐに駆けつけられる、と言うのも大きいのかも知れない。
家の種類も、階級が低いものや独り身の者に貸し与えられる官舎から、階級が上の者へ与えられる屋敷まで様々だと聞いた。それ以外にも、軍が持っている家族用の家も用意できると打診されたが、…それは断った。
この国の軍事施設は王城の傍にある。つまりは城下町だ。もも様は、あまり人の多い場所が得意ではない。それよりも、自然が多い場所で穏やかに過ごされることを好んでいた。だから、城下町から離れた郊外の、まだ緑が多いこの場所に居を構えたのだ。職場まで距離があるのでは、と難色を示されたが、俺にとっては距離など何の問題もない。それこそ、馬車だのなんだのを使わなくても、命じられれば誰よりも早くその場に駆けつける自信は有った。雇い主からの命であれば、賃金の分は確実に仕事はこなす。それで成り立っている関係なのだ、そこに忠誠など欠片もなくとも、それくらいはやってみせる。
この家の近くには広い森もあり、その一部は自然公園と銘打って、市民にも解放されているらしい。此処とはまた別の場所には森林公園と言うものもあり、そちらは大きな池の周りを遊歩道で囲った公園となっているそうだ。そのような場所が多いのは好ましい。今度、もも様をお連れしようか。花のうつくしい季節がいい、きっとどちらも気に入られる筈だ。
森も近いような郊外の一軒家、と言うこともあって周りに民家は少なかった。その点も、この家を選んだ一因だ。勿論、もも様に万一でも危険が及ばぬように、家のなかや庭の其処彼処には、多種多様の罠を張り巡らせてある。もも様が庭で寛がれることは勿論、誰かが普通に訪ねてくる分にも決して発動しないその罠は。けれど無理に押し入ろうとしたり、庭で何かおかしな真似をしようとしたり、ドアや窓を破ろうとしたりすれば、たちどころに牙を剝く。これも、もも様をあらゆる危険から護るためだ。…前のように、俺がいつでもあの方のお傍にいられたら、それが一番なのだが。それが出来ぬ身であることだけが、今はもどかしい。
「もも様、只今帰りました」
ドアの前に立ち、静かにノブを捻る。この家は、玄関を入って直ぐが居間だ。そこに、ちょこん、と擬音が付きそうに愛らしく座っている、俺の唯一の主であり、…最愛の妻であるもも様が。扉を開けた俺を見遣って、嬉しそうにその顔をほころばせた。そんなもも様の愛らしい笑顔に、俺の眼も、自然と薄く細まる。
そのまま、もも様が立ち上がろうと椅子を引かれて。その前に、縮地で距離を縮めて、その傍らに跪いた。そんな俺に、もも様がその愛らしく大きな目をふんわりと細める。柔らかな白色の手が、俺の獣毛を優しく滑った。
「おかえりなさい、玻璃。おしごと、おつかれさまでした」
部屋に響く、丸く、柔らかにおっとりとした声。傅いた俺の頭を撫ぜてくれる、あたたかく柔らかな白色の手。…それだけで、俺の尻尾は千切れるほどにぶんぶんと揺れた。
もも様の今日の御召し物は、もも様にお似合いの、薄い桃色をした着物だ。俺が見ても、葦津江の国の着物とは生地も作りも趣の違う、と分かるこの着物は。…もも様がこちらに来てから、ご自分で誂えたものだった。
この国には、着物など売っていないどころか、ろくに知られてもいないらしい。その為、この国で着物を手に入れるのがかなり難しいことは、俺にも分かった。あの国を出る時に、もも様の着物も勿論持ち出したが、着物と言うものは嵩張るし、重ねれば重くなる。流石に全ては持ち出せずに、もも様のお着物をこれからどうするか、と考えていた時。…もも様が仰ったのだ。『ももがつくるからだいじょうぶ』、と。
もも様のご趣味の一つとして、裁縫があるのは勿論存じていたが、…まさか着物をご自分で縫われる程の御手前だとは。流石、俺のもも様だ。誰にともなく優越を感じながら、今日も堪らなく愛らしいそのお姿に眼を細める。
一日のほとんどをあの屋敷で過ごしていたもも様は、庭の散策の他に、裁縫を好んで行われていた。もも様は片目がお悪いが、細かな作業は不思議とお得意だ。料理も裁縫も、ものが見えずに困られているお姿を見たことがない。畳敷きの部屋に座布団、そこに正座を崩したような座り方で。…一心に布と針に向かいあうお姿を、傍らで見つめている時間は、何よりも至福だった。
勿論今も、そのお姿を見つめることが、俺の至福な時間なことは変わらない。もも様は、ご自分のお着物だけでなく、俺の衣服や繕い物まで縫ってくださるのだ。もも様の手で縫われた衣服に袖を通すだけで、身が引き締まる。…軍では、用意された軍服を着なければいけない決まりだが。もも様から賜った服を汚すわけにはいかないから、それはそれで有難かった。
「おなかすいたよね?すぐに、ごはんにしようね」
そう言って、今度こそもも様が立ち上がろうと椅子を更に引いた。それを止めようと伸びる手を、何とか抑える。…もも様は、この国に来てから、俺の世話を一心に見てくれようとしてくださる。それは、寧ろ俺がもも様にするべきことで。最初は大層戸惑い、お止めしようとしたものだが。
『だって、ももは玻璃のおよめさんでしょう?』
少し間延びして響く、おっとりとした幼い声で。…まるで当然のことを口にするように、そう仰ったもも様の言葉。それに、声にもならないような衝撃を受けたことは、未だ記憶に新しい。
…ああ、もも様が。俺の生きる全てである、俺の至宝が。俺を、もも様の夫だと、そうお認めくださっている!それはもも様が、俺を心身ともに受け入れてくださっていることでも、充分に伝わっていたが。…改めて言葉でも告げて頂ける感動は、ひとしおだった。今でも、そのお言葉を思い返しては、悦に浸るほどに。
少しだけ足を引き摺りながら、ゆっくりと歩かれるもも様の後ろ姿を、床に座して見つめる。…あの屋敷では、俺がもも様と出逢った頃にはもう、もも様はご自分の食事はご自分で作られていた。
…それは、過去にもも様が。後妻だとかいうあのくそ女に、毒を盛られたことが原因だ。俺がもも様と出逢う、ほんの三年前の出来事だというその事件で、…もも様は、あらゆるものを失くされた。片目の視力の低下と、片足の可動域の低下も、そのひとつだ。その頃のもも様の料理番は、あの女の手の内の者だったのだろう。それまでも、もも様の食事は手を抜かれていたらしい。それでもお優しいもも様はそれを実の父親にも誰に言うこともなかったと聞くのに。…その上、毒まで盛られるとは。
それから、もも様は他人が作る食事を受け付けなくなってしまわれたのだそうだ。その為、厨房を一部借りて、自分で食事を作るようになったのだと。勿論、その料理番は既にもう無い。俺がそれを知った時に、そいつの運命など決まっていた。けれど、…そいつがどれほど苦しんで消えようが、それでもも様の負われた傷が癒えることなど、なにひとつない。
『ももね、ちいさなころはごはんがおいしくなかったから、もっとちいちゃかったの。でもね、自分でご飯を作るようになってから、おいしくてふとっちゃった』
そんなことを言いながら、照れたように口元を両手で隠して笑われていた、あの笑顔が脳裏を過ぎる。…あんなにおっとりとしてお優しい方の、幼少期に起こったこと。それを起因として、もも様が出来なくなったこと。苦手になってしまわれたこと。失われたもの。それは数多くあって、…それを思うたびに、あの女を何度でも屠ってやりたくなる。あの女には、もも様とは母違いになる娘や息子がいたと言うから、どうせそいつらに後を継がせたいとか、優遇させたいとか、そんなろくでもない理由だったのだろう。そんなものにもも様を巻き込んで、もも様の身体にも心にも、消えない傷を負わせたあの屑女にも。それが仕出かしたことを知りながらも何もせず、ただもも様を憐れむだけだった、あの無能な元雇い主だって、何度屠ろうが飽き足りない。…ああ、でも唯一、俺を雇ったことと。…俺を、もも様に出逢わせてくれたこと。それだけは、褒めてやってもいいだろうか。
既に用意してくださっていたのだろう。丁寧に温め直された夕食が、もも様の手で食卓に並べられていく。それを、床から椅子に座り直した体勢で見遣った。相変わらず、耳が嬉しさを表すように寝ているのが自分で分かる。椅子の隙間から覗く尻尾も、未だ振り子よりも早く揺れていた。
…もも様と出逢う前は、食事などまともに摂ったことがなかった。食事に意味などなかったからだ。生きるために必要な栄養など、丸薬や干飯で事足りた。そもそも腹持ちさえ良ければ何でもいいのだ。腹が減って動けない、などと言う醜態さえ曝すことがなければ、味も質もどうでもいい。だから座って美味い飯を食うなど、ただ時間を取るだけのものでしかない。そう思っていた。
けれど、…もも様と出逢い、お傍に控えさせて頂くようになってから。もも様が、その一品一品を丁寧に、とても幸せそうな顔で、召し上がる様を眼にするようになってから。…食事と言うものも、悪くはないと思うようになったのだ。もも様が、あれほど幸せそうに、嬉しそうな表情を浮かべて行うものなのだ。それだけで、食事と言う行為には価値がある。
けれど、あの屋敷では、もも様の食事中にお傍に控えているのは俺だけではなく。俺は、数歩離れた位置からもも様が食事をされる様子を見つめることしか許されなかったが、…今は違う。
目の前に置かれた、温かな湯気を立てて、器の中に注がれているそれは。こちらでよく食べられているという、スコッチブロスと言う名の汁物…と言うよりも、雑炊に近いだろうか。野菜や肉と、麦や豆が一緒に煮込まれたこの料理は、…もも様が、俺の為に。俺だけの為に、覚え、作ってくださる食事のひとつだ。
この国では、当たり前だが前にいたあの国とは、食文化も大分違う。特に、白米ではなくパンとか言う小麦の粉を捏ねて焼いたものが、この国の主食だという言うことには少々驚いた。こんなすかすかの食べ物で、よく腹持ちがするな、と。それでも、もも様が直ぐにこちらの食事にも慣れられた為、俺も慣れた。元々味などはどうでも良い性質だ、もも様が喜ばれているのならば、何の問題もない。そう思っていたのだが、…もも様は、俺がパンと言うものに懐疑的だということを、きっとご存じだったのだろう。あの方は、おっとりとしてお優しいながら、…とても聡くもある方だから。
この国に来て、無事に職と居住地を得られた後。もも様をお連れして、街へ買い物に赴いたことがある。あの屋敷から持ち出した金で、当面は余裕で生活できる手筈だ。この家に家具等は備え付けてあったから、細かな日用品と、もも様の為の着物の為の生地を見に行き、…その帰りに、一軒の本屋に立ち寄った。この国の料理の本が欲しいのだと仰ったもも様に、色々な料理本を二人で吟味して。それは、てっきりもも様が、この国の料理に興味があるのだと思っていた。あの国の料理を作りたくとも、この国で手に入る食材や調味料では、同じものは作れないだろうから、と。それが。
『これなら、玻璃もおなかいっぱいになる?』
…初めて、スコッチブロスを作ってくださったとき。にこにこと笑いながら、もも様が俺にそう仰って。…其処で気づいた。あの料理本は、もも様がご自分の為に見繕われたのではなく、俺の為だったのだと。この国の料理に馴染めていないでは、ともも様が俺を気遣ってくださって、…それで、この料理を作ってくださったのだと。俺の為に。
それに気づいた時のことは、生涯忘れられないだろう。誰よりも大事な俺の主が、…俺を見て、俺だけの為に用意してくださった料理。何も無かった俺に、この方は色々なものを与えてくださる。この方から俺が賜ったものは、最早数えきれないだろう。初めての名前も、同じ名のうつくしいものも。初めての俺だけの料理も、縫ってくださる服も。世界の色彩も、可愛いやうつくしいと言う、様々な感情も。…愛おしいという想い、何よりも貴いという、その存在も。
この方から与えてもらうたびに、改めて想うのだ。俺は、…この方の為に生きているのだと。この方の為だけに生きられる自分は、どれほど幸福なのだろうかと。
「玻璃、おいしい?」
今日も。にこにこと柔らかく笑いながら、もも様が俺にそう問われる。それに、大きく頷きながら、勿論です、と返せば。その柔らかな笑顔を更に嬉しそうに笑ませて、両手で口元を隠すように覆った。その幼子のように稚い仕草に、自分の口角が緩むのを感じる。…ああ、俺の主は、俺の妻は、なんて可愛らしいのだろう!
もも様と向かいあって夕食を取る。今では日課となっているこの習慣すら、俺には勿体ないほどの幸福で。それをスコッチブロスと共に噛み締めながら、食べる手を進める。食べ物の味などどうでもいい、と思っていたが、…もも様が作ってくださる食事は、世界中の何よりも美味い。と言うよりも、この方の食事以外に、そもそも味など感じない。俺の舌が美味いと想うのは、世界中でただ一つ、この方が俺のために作ってくださる料理だけだ。
思わず無言になる程、料理を味わいながら食を進めて。…そうだ、とばかりに口を開いた。もも様が喜ぶだろう、と情報を仕入れ、精査した話題。
「もも様、今度この街に、花火が上がるそうです」
音を立てぬように、器にスプーンを置きながら、もも様にそう申し上げる。俺の言葉に、もも様の目が驚いたように円くなった。その目に、嬉しそうな輝きが宿るのが俺に眼にも映って、思わず口角が上がる。
「このくにで?ほんとうに?」
「ええ。来月の中頃、この街の川沿いで開催されると」
弾むようなもも様のお声に、言葉を続ける。潤んで光る黒色の目を、きらきらと輝かせながら、もも様がまた、両手で口元を覆った。これはきっと、もも様の癖なのだろう。嬉しそうに笑われるとき、もも様はいつもこうやって口元を隠す。その愛らしい様に、俺も眼を細めて主を見遣った。
「すごいねえ。見たいなあ」
嬉しそうな表情のままで、もも様がそう言葉を紡いだ。けれど、その後で。
「…でも、ももはあんまりじょうずに動けないから」
呟くように、そう仰ったもも様が、少しだけその大きな目を伏せる。その眼差しは何処となく寂しそうで、…俺は、居てもたってもいられなくなった。耳がぴん、と峙つのを感じながら、もも様へと身を乗り出す。
…そもそも、もも様は人混みがお好きではない。と言うよりも、他人と物理的に触れ合うこと自体が、あまり得意ではないのだ。だから人混みで、見知らぬ他人とすれ違う、それすらも苦手とされている。自然がお好きなのも、それもあってのことなのかもしれない。そしてそれは、…矢張り、毒を盛られたときからだと言う。もも様に、未だ様々な負荷を与えている、その忌まわしい出来事。
花火などと言う大きな催しとなれば、人出も相当だろう。…その場に、人混みに、もも様はきっと堪えられない。以前、街へ買い物に赴いた時にも、…もも様は少しだけ怯えるような表情で、顔を翳らせながら。俯かれて、俺の手を、あの小さく柔らかな手で縋るように握りしめて。街を歩く間中、俺から決して離れようとしなかった。
…あの時の、もも様の痛々しくいたいけなご様子は、思い浮べる頭に血が上るのを感じる。もも様に一番お似合いになる表情は、笑顔だというのに。初めて逢った時に俺に笑いかけてくださった、あの世界が色づくように優しい笑顔。それを、…あのくそ女が。もう一度八つ裂きにしてもし足りない。密かに奥歯を噛み締めながら、もも様の手を取った。
「それならば、屋根の上に上りましょう。俺がお連れします」
あのでかいばかりの屋敷と違って、この家は二階建てと言っても小さい。あの屋敷の屋根の上までもも様をお連れすることは出来なかったが、…この家ならば容易だ。もも様を大事のないように抱き上げても、この家の二階程度へ飛ぶことなど、俺にとっては造作もない。この家の周りにも、花火を覆い隠す程に大きな木や高い建物など存在しないから、屋根の上に登れば綺麗に花火が見られるだろう。
俺の言葉に、もも様がまた、その大きな目を丸くされた。それから、…嬉しそうに、その大きな目が惜しげもなく細められる。俺の能力、…いや、『俺』を信頼してくださっているもも様は、こんな時、俺の心配や遠慮などされない。俺ならば、それが造作もないと、大丈夫だと。理解して、信じてくださっているからだ。その信頼が、俺には何よりも嬉しかった。
「ありがとう、玻璃。本当はね、ももは、花火がすごく見たかったの」
蕩けるように甘やかな笑顔で、もも様がそう俺に告げる。もも様の手を握る俺の手を、その柔らかな手が繋ぎ返してくださって。その稚い力に、俺の心に、ひとつの想いが何よりも強く湧き上がるのを感じた。
俺が、この方を護るのだと。もう何度も想い、願って、それでも尚尽きることのない永遠の誓い。その想いのままに、握ったもも様の手の甲に。…俺の持てる最大の敬意と愛情をこめて、口づけた。
ああ、早く花火が上がるといい。この方を腕に抱いて、嬉しそうにそのお顔に浮かべる、蜂蜜よりも尚甘い笑顔。そのお姿を、間近で見つめる光景を想い描いて。その日を内心で、指折り数えた。
Ad