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イケメン狼獣人がぽっちゃり少年を娶るはなし。【6】
「では、今日はここまでにしましょう」
そう言って。私の教え子の部屋で、机の上の教本をぱたん、と閉じる。途端に、隣に座る幼い丸顔が、ぱ、っと顔を輝かせた。
「じゃあ先生、お茶にしましょう!先生が買ってきてくれたケーキ、早く食べたいです!」
今日はリジットさんもいるんですよ、みんなでケーキ食べましょうね!と。ぽよんぽよん、と擬音がつきそうなくらい弾んだ調子で、私の教え子が席を立つ。
それに親愛を込めた苦笑を漏らしながら、私も席を立った。
今日は、私の戦友で、親友だとも自負している狼軍人の、『妻』の家庭教師の日だ。
…と言っても当の本人は、勉強の後のティータイムの方が楽しみな節があるけれども。それもまあ仕方がない。
「先生、先に座っててくださいね。俺、リジットさん呼んできます!」
いつも、お茶を戴くサロンに通されてから、私の教え子が慌ただしく出ていく。少し落ち着きがないのは、まだ若いからだろう。そのおおらかに円い背を、眼を細めて見送りながら、いつも座っている椅子の縁に手を掛けた。
部屋の中心に置かれた、円いテーブルと椅子。私が大型の犬獣人である為か、私の体格は周りよりも幾分か大きい。だから、この家で用意してくれる私用の椅子も、他のものよりも大きいものだ。いつもは、私と教え子の2脚が用意されているそのテーブルには、今日は3脚、鎮座している。多分、あの子の夫の分だろう。
どこもかしこも無駄のない…と言うより、なにもなかった、リジットの屋敷。どの部屋にも必要最低限の家具しかなかったこの屋敷は、それでもあの子がやってきてから、少し賑やかになった。
剥き出しだったテーブルにはクロスが掛かり、以前は食堂にしか無かった花がどの部屋にも飾られ、がらんとしていた棚には調度品。それも、装飾的な美術品ではなく、並んでいるのは愛らしい小物。あの子の趣味を映しているようで、微笑ましい。
その中でも、狼を形どった人形が多いのは、あの子の、親友への愛の証なのだろう。木彫りの狼や、陶器の狼。果ては綿で作られたぬいぐるみまで。その狼の全てが、黒一色だ。
そんな、彼の愛妻の、愛のこもったコレクションを眺めながら、我が親友と彼の妻がやってくるのをのんびりと待つ。ぱたぱたと、賑やかな足音が廊下から聴こえて、思わず私の垂れ耳が動いた。
「お待たせしました!」
明るい声と共に、ドアが開く。にこにこと楽しそうな教え子の隣には、私の親友。…その手が、当たり前のように繋がれていることに、密かに笑みが零れてしまう。
「久しぶりだな、スティケート。変わりは無いか?」
「ええ、おかげさまで。貴方もお元気そうで、なによりです」
私を認めて、リジットがその眼を軽く細めた。感情を表さない、…表せないリジットの、彼なりの親愛の表情。
それでも、フラフィーに逢ってからというもの、彼の表情は大分豊かになった。特に、フラフィーと婚姻してからは、更に、如実に。
そんな彼に、私も笑って言葉を返す。週3日、此処に来ていると言っても。あくまでフラフィーの家庭教師の為に訪れている私と、王城で近衛の任務に就いているリジットの時間は重ならない。前に逢って話したのは、ひと月は前のことだろうか。
けれど、いつも、私の教え子から。その夫である彼のことを聞いているから、全く久しぶりな感じはしない。我々のティータイムのお茶請けは、美味しいお菓子と彼の話だ。
私の返答に、そうか、とまた眼を軽く細めながら。彼の妻に促されて、私の右斜め前の席に着く。
それを見届けてから、フラフィーが、 『じゃあお茶の準備してきますね!』と、また元気よく部屋から飛び出していく。…全く、あの子は少し落ち着くといい。それでも、そんな姿も微笑ましくて。填めた片眼鏡で隠しながら、少しだけ目を細めた。
彼が閉めたドアを、見遣ってから。テーブルで手を組んで、右斜め前の親友に笑いかける。
「いつも、貴方のことはフラフィーから聞いてますよ」
「俺の?」
「ええ。ここでお茶を戴く時には、必ず貴方の話になりますからね」
貴方がこう言ってくれた、あんな話をしてくれた、こんなものを買ってきてくれた。そんな話を、いつも嬉しそうに、満面の笑顔で私にしてくれますから。そう、微笑んで彼に告げると、琥珀色の眼のなかで、黒色の四白眼がうろりと揺れた。
そんな彼に、棚に陳列してある黒い狼獣人のぬいぐるみを指さして、言葉を続ける。
「あの狼獣人のぬいぐるみも、あの子がつくったものですよね」
「…そんなことまで聞いてるのか」
私の言葉に、驚いたように呟いてから。ちらりと、彼の視線もそのぬいぐるみに向く。ふかふかと柔らかい素材の、黒い毛並みが綺麗な狼獣人のぬいぐるみ。
「製作過程も見せてもらってましたからね。貴方に似ているか、と、私も何度も聞かれました」
『リジットさんはもっと格好良いかな』、と。悩みながらも嬉しそうに、ぬいぐるみに針を通していた、可愛い教え子の姿を思い出す。眼の飾りはこっちだろうか、とか。鼻の頭はこんな形だろうか、とか。いろいろ試しては、ああでもないこうでもない、と思考錯誤していた。
『彫刻や陶芸はさすがにできないから、ぬいぐるみでリジットさんをつくりたいんです』。そんなことを言って、暇を見つけては針を手にしていたらしい。遠目から見ても、愛情が伝わるような、彼を模した狼獣人。
「…そうか」
それだけ言って、リジットが、私からもぬいぐるみからも眼を逸らす。機嫌を損ねたわけでは無いことは、ぴん、と先まで尖らせながら、微妙な角度を保つ耳からも見て取れた。…ただ、照れているのだ、この男は。
寡黙で冷静。そのくせ存外に照れ屋で不器用な。そんな、私の親友に、ひとつ笑んで。…それから、
「…幸せそうで、なによりです」
その言葉を、噛み締めながら、口に出す。私の向こうで、親友が。黙ったまま、それでも目線を私に戻して、眼を細めた。
私が彼と初めて逢ったのは、私が18の時。リジットはまだ、10歳だった。
元々、代々続く王家付きの犬軍人一族だった私とは違って。彼は、たった独りでこの国に渡り、訓練兵として軍に入ってきた。
どうやら、二国も離れた国から来たらしい。確かに此処らの国はあまり大きくもなく陸続きだし、肉食獣人の戦闘能力は素晴らしく高い、と伝え聞いてもいた。だが、それにしたって10歳の子どもが独りで、と驚いたのを、覚えている。
まだ10歳という幼さだったが、身寄りのない他国の民に加え、狼と言う肉食獣人だった彼は、特例として軍に迎えられた。私も含めて、獣人の多くは犬や猫だ。肉食獣の能力を持つ獣人は珍しく、その能力の高さを最初から買われていたんだろう。
真っ黒の毛並みに、昏い瞳。明るい琥珀色をしているのに、その眼は何処か、濁って見えた。この眼は、死地に赴いたことのある軍人なら皆知っている。…絶望だ。
何故、たった独りで、二国も離れた国から来たのか。それを、未だに彼は語らない。家族の有無も、その身の上も。彼に関する過去の話は、何も。
ただ、彼がいたというその国は、…獣人と人間の、差別が激しい国だった。寧ろ、この国のように、獣人と人間が対等で、その能力を認められ、獣人が人間よりも高い地位や権力を与えてもらえる国の方が、全体として少ない。遠くの地方では、あまりの獣人差別により革命が起き、獣人と人間の立場が逆転した国さえある。
その結果、虐げられた獣人は、自分たちを平等に扱ってくれる、この国のような国へと逃げてくるか。…革命を起こした国へ向かい、その戦火を拡げるか。そのどちらかの道を取る者が増えた。
彼も、その一人なのかもしれない。差別に苦しみ、迫害され、この国へと逃げてこようとした、その一人。…その中で独りになったのか、独りになってしまったから、この国へと落ち延びたのか。それは、…彼にしか分からないけれども。
けれども、その過去の所為なのか。彼は、裏切りを酷く嫌っていた。…嫌って?いや、怯えて、だろうか。それとも憎んで?どのみち、裏切りと言う行為に、多大な負の感情を抱いていることは間違いない。
それ故か、種族性別問わず、誰かに踏み込むことも、踏み込まれることも、好んでいなかった。礼儀正しくもそっけない態度。そこに明確に引かれた透明な線。それを踏み越えられることを、彼は酷く嫌がった。
それでも、狼獣人という能力の高さか、持って生まれた戦いの才能か、…絶望、という世界を知っているからか。我が身を省みないように、いつも先陣を切って戦場を駆ける彼の姿は、訓練兵の時から群を抜いていた。瞬く間に功績を上げ、階級を戴き。若くして、軍のなかでも最も王に近く華々しい近衛師団へと、配属された。
そんな、傍目には順調すぎる彼の出世は、羨望と共に嫉妬も買った。当時は全軍人のなかで、狼獣人は彼一人だったことも関係しているのだろう。寡黙で愛想のない彼の言動も相まって、冷酷で尊大だと噂もされた。師団内でもそれは広がり、彼は浮いた存在となっていった。
いい意味でも悪い意味でも、言葉通りの一匹狼だったリジット。婚姻を促されても、それに興味を持つこともなかった。招かれるたくさんの舞踏会も、その半数は出席さえ断っていたのではないだろうか。それでも義理堅い彼は、親交や恩義のある貴族の招待には応じていたようだけれども。舞踏会に出席した次の日には、酷く憔悴した様で、姿を現した。
それを、『随分とお楽しみになったようで』、と陰で口さがなく言う者もあったが、そういう意味で憔悴したわけでは無いことなんて、見れば分かった。ただ、彼を悪く言いたいだけの風潮。…それを是とも非ともなく、感情の乏しい顔で受け流していた彼の姿は、友人ながら、歯痒かった。
喜びや幸福はおろか、怒りや哀しみすら喪くしてしまっているような、私の友人。
私と彼が親しくなったきっかけは、なんだっただろうか。彼が訓練兵だった時、私が訓練兵の指導兵だったからだろうか。剣の使い方は滅茶苦茶なのに、…何故か、確実に獲物を捕らえるように動く体捌き。まるで、もう、何かを、…誰かを、屠った経験すらあるように。
そんな彼に、剣の扱い方を、一から教えた。軍での立ち振る舞いも、上下関係への対処も。絶望に身を浸していても、彼は聡明で、礼儀正しかった。私の教えることを迅速に吸収し、軍人として振る舞えるようになるのにも、そう時間はかからなかった。
彼のなかの透明な線を、踏み越えないぎりぎりのところ。そこを保って接するうちに、…彼の、私への態度も、軟化してきてくれたように思う。少なくとも、訓練兵と指導兵としてではなく、友人、と言っていいまでには。
私が、足と眼の怪我の為に退役しても、私と彼の親交は続いた。軍の関係ない、いい友人。そうなってからも、私には、その線を越えることは出来なかったし、それを許されもしなかった。…そうする気は、私にもなかった。
けれど、彼が『いい奴』だと言うことは、実感している。いかに表情が乏しくても、愛想が無くても、寡黙でも。リジットという男は、いい軍人であり、『いい奴』だった。裏切りを恐れるほどに憎んでいるからこそ、自分からは決して裏切らない。そっけないなかにも、優しさを秘めて、相手のことを考えられる男。
…だからこそ。彼には、幸せになってほしかった。
きっと、この世には必ずいるだろう、リジットのことを、そのままを愛してくれる誰か。決して彼を裏切らず、彼が内に秘めた優しさに気付いて、彼を包んであげられるような誰か。
誰にも踏み込めなかった、そのなかに。あの透明な線を越えて、彼のこころを、抱きしめてあげられるような、そんな。
そんな、『誰か』に。めぐり逢い、愛し愛されて、…幸せになってほしかった。
彼が巡り合った、その相手が。齢12の少年だと聞いたときには、密かに心底、仰天したものだが。そんなことは、何の問題でもない。
要は、私の大事な親友が、幸福であることが大事なのだから。歳がどうだろうが、性別がどうだろうが、そんなことは関係がない。
だからこそ。今、目の前で。幸せそうな顔で笑う、彼を見て。…こころから、良かったと思うのだ。
「…一体どうした?」
「何がですか?」
私としては、微笑んで彼を見遣っていたつもりだ。しかし、リジットの方は、怪訝そうな顔で、私を見返している。…そんなに変な顔をしていただろうか。
「いや、何だか子供を見守るような顔で、こっちを見ているが」
彼の言葉に、自分でも眼を円くした。…そうか。そんな顔で、私は彼を見ていたのか。子ども。…子ども、か。
それは、あながち、間違っても無いのかもしれない。たどり着いた思考に、苦笑する。…まあ、なんというか。
「貴方は、私の子どものようなものですからね」
「は?」
そう口にすると、彼が驚いたように声をあげる。あまり聞かない頓狂な声に、口の端を上げながら、言葉を続けた。
「そしてフラフィーは孫です」
「…なんだそれは」
そんなに歳も変わらないだろう、と、リジットが笑う。…そんな風に笑う顔すら、以前は見られなかったものだ。穏やかに笑う、もの柔らかな顔。
そんな彼に、私も笑い返していると。ぱたぱたと賑やかな足音が、また、廊下から響く。…全く、あの子は。可愛らしい、と思いつつも、表情を引き締めた。私は、あの子の先生であるのだから。
「お待たせしました!」
両手にお盆を持ったまま、器用にドアを開けて。明るい声とともに入ってくるふくよかな身体に、掛けていた片眼鏡をあげる。
「フラフィー」
「はい!」
私が彼を呼ぶ声色が、『教師』のものだと気付いたのか。お盆を持つ手もそのままに、彼がその場に直立する。
「廊下は走ってはいけませんよ。それがマナーです」
「あ、はい!すみません…」
私の注意に、フラフィーが素直に頭を下げる。それを、リジットが眼を細めて見つめていた。可愛くて仕方がない、とでも聞こえてきそうに雄弁な目線。
…あの頃の。訓練兵として共にいた頃の彼に、見せてあげたい。教えてあげたい。
『貴方も、こんな顔が出来るんですよ』、と。
『貴方にも、こんな風に。愛おしく大事に想える相手が、出来るんですよ』、と。…あの、絶望に塗れていた、小さい親友に。
「これから注意すればいい話ですからね。さ、頭を上げて、お茶にしましょう」
「はい!」
素直な彼の妻に、わざと引き締めていた口元を緩めて、その手を促す。頭を上げて、その顔をほろこばせたフラフィーが、慣れた手つきでお盆の上から食器を並べる。紅茶が入っているのだろうティーポットの横で、砂時計の砂が、少しずつ下に溜まっていくのが見えた。
「先生とリジットさんは、どのケーキがいいですか?」
私が持ってきたケーキが、3枚の皿の上に、一つずつ載っている。トライフルと蜂蜜のパイと、チョコレートファッジケーキ。どれも、私の贔屓にしている洋菓子店の人気商品だ。
目をきらきらと輝かせながら、フラフィーが、私とリジットを交互に見遣る。目配せのように、リジットと目線を交錯させながら、二人して微笑んだ。
「私はどれも食べたことがありますからね。貴方が好きなものを選んでいいですよ」
「俺は、こういうものがあまり得意ではないからな。俺の分は、お前にやろう」
彼の問いに、順繰りに答える。えっ、と驚いた顔をして、穏やかな線を描く眉が、困ったように少し、下がった。
「…いいの?」
どちらにともなく、遠慮がちに言われた言葉。僅かに上目になったその円い目に、2人でまた、笑んで頷く。嬉しそうに、その顔がほころんだ。
「ありがとうございます!どれにしよう!」
弾むように明るい声で、その目が3つのケーキへと忙しなく移る。…そんな彼を見つめるリジットの顔は、限りなく優しい。
こんな顔を、彼の部下たちが見たら仰天するに違いない。『兵長もこんな顔をするんですね!』とざわめく彼の部隊を思い描いて、また笑みが零れた。
フラフィーと出逢ってから、リジットと、軍内の関係も、大分変わった。
私も退役したとはいえ、座学や訓練兵の指導なら出来る為、今は教官として、多少なりとも軍に携わっている。近衛師団との直接の関りはないが、リジットの噂は、いくつも耳にしていた。それは、以前とは違い、どれも好意的なものだった。
彼自身の雰囲気が、柔らかくなったことが一番の要因だろうか。寡黙で愛想が無いのは相変わらずでも、…他人を拒絶する、あの雰囲気は鳴りを潜めた。時折、眼を細めて笑うようにもなり、最初は随分驚かれていたことを、私も知っている。
彼が妻を娶ったこと、それ自体も大きいらしい。『お前にも、ちゃんとそういう感情があったんだな!』と言う反響を同期から受けた、と、これは本人から聞いた。
その婚姻のいきさつが、どこから漏れたのか。『老侯爵の慰み者になるところだった少年を、兵士長が救い出した』、と英雄綺譚に憧れる若い軍人からは、憧憬の眼で見られるらしい。これには思わず、笑ってしまった。確かに間違っては無い。無いのだが、…そうか。そう言う見方もあるのか。そう思うと、彼は英雄なのか。きっと、少なくとも、…彼の妻にとっては、そうなのだろう。
あの子と逢ったことで。少しずつ、親友の時間が動いている。それが、なにより喜ばしい。
もう、彼は軍内で、一方的に悪く言われるばかりではない。未だ、根強い嫉妬はあるのだろう。彼をよく思わない兵士も、いるに違いない。…それでも。
彼の味方も、確かにいるのだ。それは、師団での彼の部隊の部下たちや、同期の者や、若い兵士たち。たまに軍で見かける親友の、その周りには、誰かが居た。
…それも、あの子が彼を愛してくれているからだろう、と。棚に飾ってある、狼のオブジェに眼を向ける。黒狼で溢れた棚の、その中でも一番大きな黒い狼獣人のぬいぐるみ。あの子が彼を模してつくったもの。
ちょこん、と座ったその黒狼の、その顔は凛々しくも優しい。…きっと、あの子には、彼がこう見えているのだろう。そう思うと、また、笑みが零れる。
「じゃあ、蜂蜜のパイと、チョコレートのケーキをもらってもいいですか?」
部屋に響く弾んだ声に、眼を戻した。にっこりと笑って、教え子に頷く。
「ええ、どうぞ。貴方が気に入るといいのですが」
「絶対気に入ります!だってすごく美味しそう!」
私の言葉に、帰ってくる満面の笑顔。それを堪能しながら、トライフルの皿に手を伸ばして、前に置いた。フラフィーがカップを並べようとするのを、黒色の獣毛に包まれた手が手伝う。
「俺が並べるから、お前は紅茶を注ぐといい」
「あ、ありがとうリジットさん」
そんな、なんでもない会話にすら、私の顔が緩んだ。ちゃんと、2人で家庭を築いているのだと、しみじみと思い入る。…本当に、私の心境は、2人の父親か祖父なのかもしれない。まだ齢34なのだが。
蒸らし終わったばかりの紅茶は、ちょうどよく良い香りがする。フラフィーが注いでくれた紅茶の香りを堪能しながら、彼が席に着くのを待った。
「いただきます」
両手を前で合わせて、そう口にするフラフィーに私たちも続く。紅茶のカップにある持ち手は、本来は指を入れるものではなく摘まむものだ。私も、華奢なつくりの持ち手を摘まんで、カップに口を当てる。…私の指が持ち手に入らないからではない。断じて、ない。
最初に、紅茶を一口味わってから、ケーキに手を付けた。それはフラフィーも同じようで、ふっくらとした手でカップを口に運んでから、フォークを手にする。柔らかな線を描く頬を嬉しそうにほころばせて、蜂蜜のパイのほうに、フォークを入れた。
一口、それを口に含んで。…その顔が、蕩けるように破顔した。見ているこちらまで、顔が緩むように、幸せそうな笑顔。彼を見遣る親友の琥珀色の四白眼が、ますます優しそうに細められる。
「美味しいです!」
にっこりと笑って、そう言ってから。今度は隣に座るリジットの方を向いて、幸せそうに笑う。
「リジットさん、このケーキすごく美味しいよ!」
嬉しそうな声の報告に、そうか、と頷きながら。リジットの指が、彼の妻の頬から口元を優しく撫ぜた。きょとん、と目を円くしたフラフィーが、ありがとう、と照れたようにはにかむ。なにかついていたかと思ったのだろう。…私には、その口元には何もついてなかったように見えたのだが。それは黙っておくことにする。
にこにこと笑いながら。柔らかそうな指が、また一口、ケーキを刻む。それをフォークに刺してから。
「リジットさん、一口どうぞ」
屈託のない手つきで、フラフィーが、リジットの前にケーキを差し出す。一瞬、驚いたように見開かれた眼が、すぐに細められた。
「ありがとう」
眼と同じに、優しい声が、彼の妻に向けられて。その黒色の手が、フラフィーの柔らかい手に伸びる。そのまま、フォークを受け取って、…と思いきや。
リジットの手が、フラフィーの手に重ねられた。そのまま包み込むように握ると、…口を、開く。フラフィーの円い目も、優し気に細められて。彼の指に包まれたその手を、ゆっくりと動かした。
彼の妻の手で、彼の口元にケーキが運ばれる様を、ぽかんとして見遣る。フラフィーが持ったままのフォークが、当たり前のように、彼の口に消えて。抜き取られたときには、その先に、ケーキはなかった。
「美味しい?」
「ああ、美味いな」
ふくふくと柔らかい顔を、優しくほころばせて。フラフィーが、リジットに問いかける。それに彼の方も、その眼を愛おし気に細めながら、優しい声でそう、返した。
フォークから離れた彼の指、その指先の肉球が、丁寧な手つきで、彼の妻の頬の線をなぞる。そのまま、その頬に、彼の顔が寄せられて。…長い舌が、フラフィーの柔らかな頬を、なぞるように舐める。くすぐったそうに、けれど幸せそうに、彼の妻がはにかんだ。
…これは。私は忘れられているのだろうか。ここにいてもいいのだろうか。
目の前で繰り広げられる、幸せそうな新婚夫婦の光景に。微笑ましくも、いたたまれなくなる。…さて、ここはどうするべきか。
そんな私の思考に気付くこともなく。自分の妻の頬を堪能していた、我が親友が。
「だが、お前の方が美味い」
そんなことを、私にまでわかるほどに甘い声で、囁くと。照れたように笑うふくよかな顔の、その唇に、顔を、寄せる。
…さすがにそこまで見るのは、マナー違反だろう、と。とりあえず、目線を横にずらそうとして。漸く、こちらに向けた彼の眼と、視線が交差した。唇が重なる直前で、リジットの身体が固まる。途端。
がたがたんっ。大きな音を立てて、椅子ごと、親友の身体がこちらを向いた。その眼は、驚愕に見開かれている。…本当に私の存在を忘れていたのだろうか、この男は。隣では、耳まで赤くして、フラフィーも私を見ていた。
「なっ、おっ、お前っ!」
「ええ。ずっと居ましたが。それがなにか?」
動揺したように、言葉をどもらせるリジットに、一周まわって可笑しくなった。…こんな風に、感情が駄々漏れている彼の姿も、珍しい。というか、初めて見る姿ではないだろうか。黒色の毛並さえ、赤く染まるのが見えるようだ。
「せっ先生っ、あの、すみません、そのっ」
耳どころか、顔中真っ赤になったフラフィーが、私に謝ってくる。…まさか彼まで、私のことを忘れていたのだろうか。それは少しショックだ。そんなことを思いながらも、顔には笑みが浮かんでしまう。
私の親友が、彼の妻と。愛し愛されて、蕩けるくらいに幸せなのだと言うことが、嫌と言う程分かったから。
だから、私はすました顔で。紅茶のカップの持ち手を摘まむと。
「私のことはお気になさらず。どうぞ、仲睦まじくしていてください」
そう言って。にっこりを笑いかけながら、冷め始めた紅茶に口を付けた。
本来なら、渋くなりかけているはずの紅茶は。それでも、やけに甘く感じた。
「…君たちがいると、砂糖が要らなくていいですねえ」
「…どういう意味だ、それは」
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