Ad
イケメン狼獣人がぽっちゃり少年を娶るはなし。【8】
リジットさんと婚姻してから。俺には、遠い親戚とか両親の友人とか、俺の知らない俺の友人とかが、…たくさん増えた。
「本当に久しぶりだな!全く、君が近衛兵長様の妻になったとは!何故、僕に知らせてくれなかったんだい?幼い頃からの友人だろう!」
今も。俺の『友人』を名乗る貴族が、目の前でずっと話をしていた。因みに後ろは壁で、彼の片腕は俺の横だ。…逃げられない。
今日は、リジットさんの、昔からのお友達だと言う伯爵さまの晩餐会だ。とても気さくで面倒見の良いと評判のその伯爵さまは、上流貴族からも一目置かれ、下流貴族からも慕われている。俺の両親も、身分の違いも気にせずに、とても親切にして頂いていた。
だからだろうか。伯爵夫妻のお人柄を表すように、今日のパーティーは招待客でいっぱいだ。皆が来やすいように、とのこころ遣いで開かれたこの晩餐会は、割と珍しい立食式。たくさんの方の親睦を深めたいとの趣向に添うように、大きな広間には男爵から侯爵まで、幅広い爵位の貴族や、軍人でいっぱいだった。俺も、『ご夫婦でどうぞ』、と、リジットさんと一緒に招待された。
それでも、俺自身はそんなに誰かと親睦を深めることもないから、最初はリジットさんと一緒に居させてもらったんだけれど。…リジットさんを紹介してほしい、話してみたいってひとはたくさんいる。挨拶に来るひとの中には、俺がいたら話しづらそうな顔をするひともいた。
俺も貴族のはしくれとして、小さい頃からいろんな空気を察知することには慣れてるし、長けてるつもりだ。だから、ぶっちゃけ、…俺がいたら邪魔なんだろうな、って雰囲気は感じてたし。ずっと俺が隣をついて歩くのもおかしいかな、って思って。リジットさんに少しだけ席を外すね、って言って。相手の方にも場を辞するご挨拶だけして。
休憩用に用意されていた別室に来た。…ら、これだ。
「一体、君と近衛兵長様は、何処で知り合ったんだい?君が招かれるパーティーなら、僕も参加しているはずなのだけれど。そんな交流があったのなら、僕も誘ってくれたらよかったのに!」
流れるように、そんなことを話している目の前の彼に、曖昧に笑う。彼とは、確かに幼い頃に、幾度も逢ったことはある。それは事実。ただ、その頃は…寧ろ俺の方が、彼に相手にされてなかった。だから、彼の言う友人関係なんて、築いたことが無いし、…そもそも、名前すら、教えてもらった覚えがない。
俺は男爵の三男だし、彼は確か、子爵の長子だ。自分より格下の貴族の、しかも家督を継がない息子なんて、相手にする意味がないとでも思ったんだろうな。…おまけに、俺はそのとき、侯爵さまの『嫁』になるって知られてたし。その嫁、の意味が、本来の意味じゃなくて。…ただの、何の権限も持たない玩具だってことなんて、貴族なら誰でも分かることだ。
そんな彼が、今になって俺を友人扱いして、親し気に話しかけてくるなんて。その目的は、ひとつしかない。…リジットさんだ。
大方、彼は俺を通して、リジットさんと仲良くなりたいんだろう。そして、俺に、彼を紹介してくれ、と言いたいんだろう。
貴族の世界は、身分や地位や、権力が全てだ。自分より下や、同格の身分なら、自由に話しかけることができるけど。自分より上の地位の方には、話しかけるにも仲介や紹介が要る。彼の爵位では、身分の差を気にして、リジットさんには話しかけられないんだろう。
勿論、リジットさんはそんなこと、欠片も気にしないけど。…その代わりに、周りが気にする。とても、気にする。もし、何の仲介もなく、男爵や子爵という爵位の貴族が、リジットさんに話しかけたら。…間違いなく、その貴族は孤立するだろう。リジットさんは何も気にしていなくても、周りが礼儀知らずだ、と、その貴族を避ける。
けれど、俺はそうじゃない。今は、俺はリジットさんの配偶者だけど、元々は男爵の息子だ。この国では、身分の高いひとと婚姻したとしても、それで自分の出自の地位自体が上がるわけじゃない。俺は、リジットさんの『妻』ではあるけれど、その出自は男爵家。だから、『俺』には、貴族なら誰でも話しかけられる。
だからだろうか。こうやって、パーティーに参加するたび、俺に近づいてきたり。俺宛にお誘いの手紙が着たり。俺だけが、いろんなところに招待されることも増えた。…中には、獣人を模した格好をした男性をたくさん招待しているから、是非お出でください、みたいなお誘いも受けたことがある。なんだそのパーティー。ていうか、俺は獣人が好きなんじゃなくて、リジットさんが好きなだけなんだけど!他のひとは要らないんだけど!
「もう、結婚式は終わったのか?俺も招いて欲しかったのだが、終わったことは仕方がないな。その分、今度君の家に招いてくれるだろう?」
吐きたくなるため息を飲み込んで、只管笑顔を張り付ける。彼の言葉に、肯定も否定も出来ない。…俺としては、断りたいんだけど。でも、俺の立場は、きっと微妙だ。
リジットさんの地位は、並の貴族よりも数段高い。だから、彼の妻の俺も、周りから、とても大事にしてもらえてる。けど、…でも、だからと言って、俺自身の地位が上がったわけじゃない。俺自身の地位は、昔から今も、貴族のなかで最下位。
…だから、俺が、リジットさんのいないところで、目の前の子爵さまを無理矢理退けたら、…周りはどう思うだろうか。『夫の地位を笠にきて、無礼を働く悪妻』?そんな風に思われるのだけは嫌だ。リジットさんの足を引っ張ったり、彼が悪く思われたりするのだけは嫌だ。俺はどう思われてたっていい。けど、俺の所為で彼が悪く言われたりするのだけは絶対駄目だ。
だから、迂闊な対応ができない。みんな、俺を通して、リジットさんを見ているのだから。
「昔から、君は可愛らしかったからな。あの頃、侯爵殿の妻になる予定だと聞いていなければ、僕がお近づきになりたかったよ」
囁かれる言葉は、思ってもいないことだろうと、聞きながら思う。あの頃、ひとを介して紹介された俺を、見下すように見てきた目線。…幼い頃は、友達どころか知り合いにもなり得なかったというのに。彼にとって、貴族にとって、地位がどれだけ重要なものなのか、思い知らされる。
「まるで、花開くようだね。今の君は、幼さを残しながらも、とても美しい」
歯の浮くような美辞麗句は、それでも全く気持ちがこもっていないのが丸分かりだ。そのまま、肩に手を回されて、怖気だつ。…昔、侯爵さまに肩を抱かれていた感触を、鮮明に思い出した。あの頃は、嫌も何も感じてなかった。感じてないと、思ってた。いろんなことを、諦めきってたから。
…でも、今は分かる。大好きなひとに触ってもらえる幸福を、俺が知ったから。触れられるだけで、心臓が高鳴って、身体が蕩けるような感覚を、経験したから。
あの頃。俺は、本当は嫌だったんだ。…本当に、嫌だったんだ。
それを思い出すほどに、彼の手は、俺にとっては侯爵さまと同じだった。…違う、リジットさん以外は、俺にとっては誰だっておんなじだ。触ってもらって、こころが蕩けるようになるのなんて、俺にはリジットさんしかいない。…それ以外は、誰の手だって、嫌だとしか思えないことも。
彼の手が、肩から背までを、大きく撫ぜる。その手が、何かしらの意味を持っているようで、気持ち悪い。さりげなく避けようと身を捩っても、俺を撫ぜまわす手は止まない。さっきから鳥肌が立ちっぱなしだ。
すみませんが、そろそろ。意を決して、そう言おうと口を開く。その前に、…目の前の彼が、言葉を発した。
「…今からでも、間に合うだろうか?君に触れる許可を、僕が得ても?」
耳に届いた言葉に、全身の血が、下がる気がした。心臓が、嫌な感じにどくどく鳴り出す。
地位の高い人物や、その配偶者に対して、…不貞行為を迫る、って。そういう行為が、社交界で密かにまかり通ってることを思い出した。自分が不貞相手になって、いろいろ優遇してもらうって。…愛と性で陥落させれば、もうそのひとは相手の言いなりだって。俺が耳にしたこともあるくらいだ。こんなことは、公然の秘密なんだろう。
目の前のこのひとにとっては、『俺』なんてどうでもいいんだろう。彼が欲しいのは『近衛兵長の妻』であって。『近衛兵長の妻の愛人』という立場であって。俺がデブだとか好みじゃないとかそんなのはどうでもよくて、ただ、…身体で陥落させて、言いなりにさせたいだけなんだろう。
「や、めてください」
喉が強張って、うまく声が出せない。…目の前の、名前も知らないそのひとの手が、俺の指に移った。握られて、繋がれる。…直に感じる生ぬるい体温が、更に気持ち悪い。俯いて、震えそうになる唇を噛む。
こういうことが、あるとは知ってる。でも、…まさか、俺がこういうことのターゲットにされるとは思ってなかった。みんな、そんなに地位とか権力とか欲しいのか!…そんなものの為に、好きでもないひとと、そういうことができるのか。たった数年前の自分が、また、頭を過ぎった。家と上流貴族のパイプ役の為に、…好きでもないひとと、婚姻させられることになっていた自分。そういうことの為に、…売られる予定だった、俺。
握られた手が、その彼の唇へと持っていかれる。恭しく口づけをされて、反射で手を引いてしまった。けれど、それよりも強い力が、俺の手を離さない。…こっちを見た彼の、その眼が、一瞬忌々し気に眇められたのを見て、身体が竦んだ。
リジットさん。無意識に、彼の名前が喉奥から零れそうになる。俺の、その将来を、壊してくれたひと。何処からか、俺を見つけてくれたひと。こんな俺を、…お嫁さんにしてくれて。たくさん、優しくしてくれて。
初めて、俺を好きだって言ってくれたひと。…生まれて初めて、俺が、好きだと想ったひと。
リジットさんがいなかったら、俺の人生は、全然違うものになってた。きっと、誰かを好きになることもなくて。恋なんて感情、知らないで終わってた。
こんなに、…こんなに誰かを大事だって。大切だって。…好きだって想うことも、それが幸せなんだっていうことも、全部。全部、彼がいたから、知ることができたのに。俺の全部は、彼が見つけてくれて。だからこそ、全部、彼のものだと言うのに。
「やめてください」
今度は、はっきりと口にできた。もし、これで男爵の息子が子爵に、と咎められたって構うものか。仮にも配偶者の居る人間に、不貞を誘ってくる方が遙かに悪い。
俺の返答に、今度は隠すことなく、目の前の彼が眉を顰める。まるで舌打ちでもしそうな勢い。…余程、俺は簡単に落とせそうに見えるのか。悪いけど、きっと俺くらい、自分の旦那さまのことが好きな奴なんて、他にいないから!どんなに格好良いひとがいたって、俺のリジットさんには敵わないから!世界一だから!
感じる恐怖を怒りに変えて、彼を見据える。きつく奥歯を噛み締めて、震えそうになる手を、ぎゅうと握った。脳裏に、俺の彼の顔を思い浮かべる。それだけで、勇気が湧いた。
未だに掴まれたままの手を、握る彼の力がこもる。まるで握り潰されそうな握力。思わず顔を顰める俺に、目の前の彼の顔が近づいた。
「…お前、ふざけるなよ」
お前なんて、たまたま軍人の嫁になっただけの、ただのデブのくせに。少しはこっちにも、それを分けてやろうとか、思わないのか?声色も口調すら変わった声が、低く俺に囁く。…囁く?違う。これは多分、脅す、だ。
きつく握ってすら、手の震えが止まらない。これは、多分怒りの所為だ。きっとそうだ。何も怖いことなんてないし、ひとりでちゃんと対峙できる。握りすぎた手には、感覚がなくなってきていた。
「お前みたいなの抱いてやろうってんだから、お前も少しは協力しろよ」
ちょっと俺に融通利かせてくれたら、それでいいからさ。な?周りに聞こえないようにだろうか、ぼそぼそと低い声が、尚も俺に言う。この会話が聞かれていたら、いくら出自が男爵と子爵でも、さすがに子爵の方が悪いと思われるからだろう。それが分かるからこそ、大きく息を吸った。絶対嫌だ、ふざけるな!そう、大声で言ってやろうと思って。
…その前に。相手の身体が、俺の前から消えた。一体何が起こったのか、状況を把握する前に。ぽかん、と見開いてしまった俺の目が捉えたのは、見慣れた黒色の軍服と、綺麗な濡れ羽色の毛並の、後ろ姿。まるで、俺を庇うみたいに、俺の前に立ったその姿が、…目に入った瞬間、泣きそうになった。一瞬で、こころが解けるのが分かる。
「…何をしている?」
俺が知っているよりも、幾分も低い声が、地を這った。でも、紛れもない、俺の大好きな声。
どうやら、俺たちの後ろから来て、そのまま目の前にいた彼を引き倒したらしい。彼と、俺の間に入ってくれたリジットさんの、黒色の獣毛に包まれた手が、子爵の爵位を持つ彼へと向いて。
その指が。…俺の目の前にいた彼の、喉笛を的確に締め上げて、持ち上げた。片手で、男性一人を軽々と持ち上げる腕力。どの程度の力で締め上げているのか、それとも恐怖かなにかの所為だろうか。その顔は、既に青を越して白かった。
「先程、何を言っていた?俺の妻に、何をしていた」
ぐ、と、リジットさんの指が、またひとつその喉に沈む。俺からは、リジットさんの顔は、後ろ姿しか見えない。けれど、その背が醸す雰囲気は、俺の見たことのないものだった。まるで、黒いものが渦巻いているような。息をすることすら、憚られるような威圧感。…彼が怒っているのだと、その雰囲気だけでも伝わった。
「りじ」
声を出すのと同時に、視界が滲んだ。途中で、声が詰まって、音にもならない。熱いもので、頬が濡れる。泣いてる、と自分で気づくと、もう駄目だった。唇が震えて、声は詰まったまま、喉奥で嗚咽に変わる。ぼやける視界の向こうで、リジットさんが俺を向いて、…それから、眼を見開いた。
「…貴様、っ」
低く。唸るような声が聴こえて。リジットさんの纏う空気が、一層研ぎ澄まされた気がした。触れるのも痛いくらいの緊張感と、押し潰されそうな威圧感。決して俺には向いていないそれは、全て喉を掴まれている彼へと向かっている。ひとつも声を荒げていないのに、俺の彼が激昂していると分かる。まるで氷のような怒りが、場を支配していた。首を締めあげられている彼が、がちがちと歯を鳴らす音が、俺にまで聴こえていた。その口の端が白く泡立っているのが見える。
それでも、俺の彼の手は、力を緩めることはないらしい。低く唸るような音が、地鳴りのように辺りに響く。めぎ、と、掴まれている首筋から、おかしな音が微かに聴こえた。
「り、りじっ、とさ、」
ぼたぼたと勝手に零れてくる涙を雑に拭ってから、なんとか彼へと声を出した。そのまま、よろけるように、彼の背へと思い切り抱き着く。俺は大丈夫だよ、ってそう言いたかったのに。込み上げるのは声じゃなくて、音にもならない。軍服の上からでも分かるくらい、リジットさんの獣毛は、ふかりとしてとてもあたたかかった。それだけで、拭ったはずの涙が、またぼたぼたと溢れてくる。
一拍置いて。どさり、と、鈍い音がした。それに、なんとか顔を上げて、彼の背の向こうを見遣る。…床に寝転がるあの子爵…さま、が、大きく咳き込んでえずいていた。…ああ、良かった、生きていた。
「次は無い」
刺すように冷たい声が、床に落ちた。しぃん、と、静まり返ってる別室。
そのまま、俺の方を向いてくれたリジットさんは、もう、いつもの彼だった。多分涙でぐちゃぐちゃだろう俺に、リジットさんが優しく眼を細めて笑んでくれて。俺の頬に彼の手が当てられて、そのまま慈しむようにその指が滑る。ざらりとした感触が、濡れた頬にくすぐったい。思わず笑うと、目に溜まっていた涙が、筋になって落ちた。
そんな俺に、リジットさんが少しだけ、…痛ましそうに眼を眇めて。その指が、丹念に俺の頬を、優しい手つきで拭ってくれる。それが心地好くて、俺も目を細めてその手に浸る。
それから、足先が浮遊した。高くなった視界と、目の前の彼の首筋に、抱き上げられたことを知る。うわあ、と、反射で飛びのきそうになったけれど。
「…済まなかった」
怖い思いをさせたな、って。リジットさんの方が辛そうな声で、彼が俺にそう、囁く。それに、また、止まったはずの涙が、目に溜まってしまって。俺は、彼の首筋に顔を埋めながら、ただただ、首を横に振った。
「きてくれて、ありがとう」
ぎゅう、と彼にしがみつくように腕を回して。掠れてしまう声で、それでもそれだけ口にすると。
リジットさんが、優しい手つきで。俺の頭を、優しく撫ぜてくれるものだから。…俺は、彼にしがみつきながら、密かにますます泣いてしまった。
その日は。事態を察してくれた伯爵さま夫妻が、帰ることを勧めてくれて。馬車のなかでも、帰ってからも。リジットさんにずっとくっつかせてもらって、たくさん甘えさせてもらって。それで、俺の方の恐怖だとか、そういう気持ちはすぐに消えてなくなったのだけれども。
それから、リジットさんは、…なんというか。俺に対して、今まで以上に、過保護になってしまって。
例え晩餐会に誘われても、どんなパーティーに招待されても。リジットさんがその間、俺から離れることは無く。俺がずっと傍にいることを、咎めるように見るひともいなくなった。
あの子爵さま、も。あれから見かけることは無く。どうなったのか、話すひともいなかった。
Ad