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イケメン狼獣人がぽっちゃり少年を娶るはなし。【11】

  

  王城に付随している、軍事施設。師団のなかのいくつかがそこに集まり、訓練や任務を受ける場所。

  …そこで、明らかに浮いている人影を見つけて、足を止めた。

  

  昼の休憩も、もうじき終わるだろうという時間だった。

  そこそこ多い人数の集まるこの施設は、人数に比例してそこそこ広い。そのくせ出入り口は北と南の二箇所しかない。出入口も見つけ辛い上に、逆方向に出てしまうと迷うこと間違いなし。方向感覚を養う為だとか聞いたこともあるが、それが本当なのかは知らない。覚えてしまえばなんとかなるが、覚えるまでに何度迷ったことか。…俺みたいな、やっと初年兵を脱せたばかりの二等兵が、漸く迷わなくなったくらいだ。

  

  だから。外部の者がここに入って、迷わない訳はない。外部人の迷子なんて、寧ろ見慣れた光景だ。

  けれど、その日見かけた迷子だろうそいつの姿は、明らかに見慣れないものだった。

  後姿からでも分かる、幼そうに低い背と、丸い体型。そして『人間』。この国の軍人は、ほとんどが獣人だ。人間の軍人など、余程何某かの能力に長けている者しかなれない。そしてそういう者も、前線ではなく軍師や後方援護や財務として、また別の場で職務に着いていることが多い。…つまり、ここで人間を見ることは、皆無と言うわけだ。しかも、あんな丸い者が、軍人になれる訳がない。そもそもまだ子どものようじゃないか。

  誰かの子どもが迷ったのか。そんなことを思いながら、その子どもに向かって歩を進める。

  獣人の子は大概が獣人だ。それは婚姻関係が獣人同士の場合は勿論、人間と獣人でもそう大差はなく、獣人の子が産まれる。強い血の方が子供に色濃く出るのだろう。けれど、たまに人間の血を濃く継ぐ子もいるらしく、そういう場合は見た目も能力も、全くの人間と変わりないそうだ。

  だから、その子も、人間の親に似た、軍獣人の子なのかと。そう思って、その子供に声を掛けた。

  「…何をしている?」

  後ろからそう問いかけると、驚いたように、その円い背が跳ねる。

  別に睨んでるつもりもないが、俺の目つきは悪いらしい。黒豹なんだからしょうがないだろう、とも思うんだが、俺の逆半月の三白眼は、ただ見ているだけでも恐怖を与える…んだそうだ。言いがかりにも甚だしい。

  背も周りよりは高い。少し口を開けば、肉食獣の牙が見える。覗く、どころじゃない、確実に見える。…そもそも肉食獣の獣人は数が少ない。この国の軍にも、俺の他の肉食獣人といったら、狼と虎、あとは熊だっただろうか。ほとんどが犬か猫の獣人のなかで、肉食獣人はどうしても目立つ。王城に勤める、軍人以外の人間は、犬獣人や猫獣人とは親しくしても、…俺のような豹獣人は、見るだけで逃げるくらいだ。多分、本能とでもいう奴なんだろうか。

  だから。そんな子供なんて、俺を見たら泣くか逃げるか、そのどっちかだろうと踏んでいた。けれど。

  振り返って、俺を目に映したその円い目が。…ほっとしたような、色を浮かべた。一瞬、見間違いかと思う。けれど、その目は俺を映したまま、離れずに。

  

  「あの、お弁当を届けに来たら、迷ってしまって」

  ここに勤めていて、だから届けに来たんですが、その帰りに、と。焦っているのだろうか。慌てた口調で言う、その言葉からは主語も抜けて、内容も要領を得ない。けれど、決して怯えてはいない声。それに、…逆に驚いた。

  困ったように下げた、少し太めの眉。団栗のように円い目も、ぐるぐると困ったような色が色濃く浮かんでいて。…それでも、逸らすことなく俺を見上げていた。ふくふくとした頬にも、俺に対する恐れも怯えもない。

  あんまりにも真っ直ぐに、…俺を見つめてくるもんだから。俺の方が、次の言葉を失ってしまった。ただ黙って目の前の彼を見遣っている俺に、どう思ったのか。

  「…あの、良かったら、出口を教えてもらえませんか?」

  迷惑をかけて、ごめんなさい。そう続けながら、また、その円い身体がぺこり、と俺に頭を下げてくる。それに、漸く我に返った。…その、自分の反応で、俺が、その子を見つめていたことに気付く。 …違う、俺はこんな子どもに見惚れてなどいない!

  「…別にいいが。ちゃんとついて来いよ」

  自分の動揺を隠そうとすると、更に不愛想な態度になる。けれど、目の前の、幼く見えるその子どもは。

  …俺の言葉に、ぱ、っと顔を輝かせた。柔らかそうな頬が、一瞬で解けるように緩む。俺を真っ直ぐに見ていた目が、…ぎゅう、と嬉しそうに細められていく。たった一瞬のはずのその動きが、やけにゆっくりと、俺の眼には映った。口角を上げた口元から、丸い形の歯と、赤い舌が覗く様まで見えるほどに、ゆっくりと。歯まで丸いのかと、少しだけ可笑しくなる。どこまでも丸くて、柔らかそうな、目の前の子ども。

  「ありがとうございます!」

  その顔のまま、その子が弾むような声で、俺に言う。…俺に笑ってるんだと、その時気付いた。

  途端。どくん、と自分でも驚くほどに、心臓が大きく跳ねた。心臓に合わせて、身体すら跳ねるほどに。小さく声すら上げかけて、慌てて飲み込む。この子どもは、俺の様子をおかしく思わなかっただろうか。動揺を押し隠しながら、その子を見遣ると。…なにも気付かなかったように、にこにこと笑いながら、俺を見ている。また、心臓が跳ねて。そのまま波紋のように、全身に熱が広がる。

  「…行くぞ」

  感じる熱を振り切るように、勢いよく踵を返す。後ろから、素直に俺についてくる子どもの気配を感じて、知らず口角が上がった。

  …大の大人の男ですら怯える俺を、全く怖がらない子ども。屈託なく笑いかけてくる子ども。素直に、俺に着いてくるその、子ども。どれだけ危機感がないのかと思う。ここが、王城内の軍の施設だからだろうか。自分に害なす誰かなんて、いないと信じているんだろうか。…お前なんて。

  お前なんて、俺が少しでも本気を出したら、どうすることでも出来るって言うのに。

  そんなことが、脳裏を過ぎった時。それを遮るように、…びたん、と、鈍い衝突音が聴こえた。我に返って、後ろを振り返る。…俺の数歩後で、俺の後をついてきていたはずのその子どもが転がっていた。

  「…何をやってるんだ」

  「ご、ごめんなさい」

  数歩戻って、その子の傍で屈みこむ。痛そうに顔を顰めながら、彼が身を起こした。その手を取って、ぐい、と引いてやる。…握ったその手があまりにも柔らかくて、一瞬動揺したことは黙っておく。…そうか、人間には肉球なんてないものな。だから、こんなに柔らかいんだな。きっと、そうだ。…そうだ。

  まるで言い聞かせるように、そんなことを思いながら。ちゃんと立ち上がれたことを確認して、手を離した。…筈だった。けれど、俺の手は、彼の手を握ったままだ。俺とは違う、肉球のないふくふくとした手のひら。

  「ありがとうございます」

  多分、手を貸したことへだろう。丸い顔が俺を見上げて。同じように円い目が、また、ぎゅう、と細められた。無防備なその笑顔に、俺の胸のなかで、なにかがことことを動いては揺れていく。

  「お前、丸いから転がりやすいんだろ。気をつけろよ」

  

  良く分からない感情を隠そうと、口に出した言葉は軽口になった。…まずい、怒るだろうか。そんなことが一瞬、不安のように過ぎったけれど。何故、それを不安に思うのかに気付く前に、目の前の彼が、おかしそうにころころと笑う。

  「うん、…はい、気を付けます」

  一瞬、敬語が消えて。それから、一拍置いて言い直された言葉。多分、敬語がない方が素なんだろう。そりゃそうか、まだ子どもなんだし。寧ろ、幼く見えるのに、しっかり敬語が使えてる方だ。

  しっかりして見えるこの子どもの、素の部分が見れたような気がして、俺の口角も自然に上がる。それから、…握ったままだった手を繋ぎ直して、また歩き出した。

  「あ、えっと、もう大丈夫ですよ?」

  「いい。また転がられても面倒だ」

  

  後ろから聞こえる、戸惑ったような声に。振り向かないまま、投げるように答えた。そのくせ、解かれないように、ふくりとした指を握る手には、力が入る。…自分の行動が分からない。でも、いやな気分ではなかった、寧ろ、浮足立つような、高揚感。そして、その後ろに見える不安。…一体、この感情は何なんだろうか。

  少しだけ、困ったような戸惑ったような気配がして。それから。

  「ありがとうございます」

  ふんわりと、した声が後ろから響いた。おかしくない程度に後ろを向いて、ちらりと後ろに歩く彼を盗み見る。早歩きをしているように、足を懸命に進めている丸い身体と、それでも俺に笑っているふくふくとした顔が眼に入った。…慌てて前を向いて、それから気付く。

  …俺の歩調が速かったから、合わせようとして急いで、転んだのか。

  それに思い至って、分からないように舌打ちした。…俺の所為じゃないか。先程の、痛そうに顰められた顔を思い出して、俺の顔まで勝手に顰められる。せめて今からでも、と、さりげなく歩調を緩めれば。…それでも、気付いたように、小さく笑う声がした。

  「歩くの遅くてごめんなさい。俺に合わせてくれて、ありがとうございます」

  

  4回目、とこころの内で小さく呟く。無意識に数えていた、俺への礼の回数。…こんなに短い間に、こんなにたくさん礼を言われたのなんて、初めてだ。きっと、この子どもが些細なことで礼を言いすぎなんだろう。それでも。

  「…別に。気にするな」

  そう、投げるように口にした声は。自分でも、照れていると分かるような色をしていた。

  ******************************

  翌日。昼の休憩中に、なんとなく歩みを進めた先は、昨日の子どもと出会った場所だった。

  何をやっているのかと自分でも思ったが、…それでも、辺りを伺うのを止められない。

  昨日、あれからほどなくして出口にたどり着いて。ありがとうございました、とまた頭を下げた子どもが、俺に言った言葉。

  『俺はフラフィーと言います。本当に助かりました。良かったら、あとでお礼をさせてください』

  …フラフィー。その名前を口の中で反芻する。…お礼をしたい、といったその言葉も。

  だから、もしかしたら、と思ったんだ。あの子どもが、お礼だと言って、俺の前に現れる姿を。…期待なんかじゃない、ただ、あの子どもはそうするんじゃないかと思ったから。こんな俺に、あんなに何度も礼を言ってきた、あの子なら。

  そのあとに、俺の名前も聞かれた。だから答えた、『この軍の、精鋭師団のハンデットだ』と。…もし俺を探すなら、それだけで分かるだろう。俺の配属された師団には、豹獣人は俺しかいないから、例え名を忘れたとしても、師団名と黒豹の獣人だと言えば充分だ。寧ろ、師団名も名前も言わなくても、黒豹獣人だけでも俺へとたどり着くだろう。

  まるで何かを、…誰かを探すように。辺りを見回している俺は、周りから怪訝に思われるのは充分だったに違いない。

  「誰かお探しですか?」

  「あ、っ、いや!お疲れ様です、スティケート先生」

  後ろから声を掛けられて。その聞き知った声に、慌てて振り返って、その相手に敬礼をして姿勢を正す。スティケート先生は、俺がこの軍に訓練兵として入った頃からの、座学の先生だ。昔は軍人として活躍なさっていたとも聞いている。…是非、その姿を拝見したかったものだ。

  畏まる俺に、苦笑するように笑ってから、手で、楽にするようにと促される。言われたとおりに敬礼を解いて、少し姿勢を楽にする俺を見遣ってから、先生が言葉を続けた。

  「して、君はここで何を?探し物なら手伝いますが」

  「…あ、いえ、特には」

  探し物。探し人。その問いかけに、言葉が知らず濁る。

  歯切れの悪い俺に、それでも先生は、何も言わずにいてくれた。有難い、と思う。そのあたたかい沈黙に、背を押されるように、口を開いた。

  「…あの、実は昨日、子どもを保護しまして」

  「子ども?」

  「はい、まだ幼い子どもです。丸くて、背の低い、か」

  可愛い。と、そう口にしかけた自分に気付いて、慌てて口を閉ざす。…何を!何を言いかけた、何を思ったんだ俺は!そんな訳があるか、あんな成人もしていない、多く見積もっても15、6くらいだろう子どもに!

  内心の狼狽を必死で押さえながら、言い直す言葉を探す。スティケート先生が、モノクルの奥の眼を、不思議そうに細めた。

  「…か?」

  「あ、いえ。言い間違えました。ふくよかで背の低い、子どもです。年の頃は、まだ10代前半ほどだと思います。…フラフィーだと、そう名乗っておりました。こちらに家族が勤めており、昼食を届けに来て迷ってしまったとのことです。見た目は人間だったのですが、こちらに勤務する家族がいるとのことなので、人間寄りの獣人の子なのかもしれません」

  「…そうですか」

  俺の言葉に、先生が何事か含んだような顔で、頷いた。心当たりでもあるのだろうか。…もしそうなら、教えて欲しい。浮かんでしまった思いをねじ伏せながら、言葉を続ける。

  「出口を教えて欲しい、とのことでしたので、出口まで私が送りました。…その子が、また迷っていないか、その、…心配になったもので」

  何故、その子を探しているのか。その理由は、正直自分でも分からない。だから、曖昧になってしまった語尾で、それでも最後まで口にした。『心配』。それも、間違ってはいない。あれだけ危機感無く無防備な子どもだ、どこで何があってもおかしくない。だから。…続きそうになった言葉は、聞こえてきた声で消された。

  「ああ、此処にいたのか」

  俺には聞き慣れない、硬質の声。それでも、確かに覚えのあるその声に、慌てて再度姿勢を正して、声の方を見遣る。

  黒色の軍服に身を包んだ、それよりも漆黒の狼獣人。師団こそ違うが、俺だって知っている。近衛師団の、兵士長。

  「ハンデットとはお前だろう、…ああ、お前も一緒だったのかスティケート」

  「ええ、先程声を掛けましてね。珍しい、君がハンデットに話が?」

  「ああ」

  姿勢を正したまま、お2人の会話に耳を傾ける。この黒狼の獣人は知っている。というか、有名だ。若くしてこの王城軍の花形、近衛師団の兵士長になった方。それだけでも噂に上がることなのに、それ以外にも老侯爵から不遇の少年を救って妻とした、だとか。その妻を何よりも愛している、超のつく愛妻家だとか。真偽のほどは分からない噂は幾つもあって、俺でも耳にしたことがある。俺の周りでも、この方を英雄視して憧れている奴がちらほらといるくらいだ。…で、その近衛兵長が、何故、俺を?

  そんな疑問を浮かべながらも、直立の姿勢は崩さない。そんな俺の前に、リジット近衛兵長が歩み寄る。楽にしてくれ、とまたも眼と手で促されて、少しだけ姿勢を崩した。それを見遣ってから、目の前の上官が、穏やかな顔で口を開く。とても厳格で冷徹だとも言われているが、この穏やかな表情を見ていると、そんな風にはあまり見えない。…やはり、任務中とそれ以外の切り替えをしっかりとなさっているのだろうか。そんなことを思いながら、近衛兵長の言葉に耳を傾けた。

  「昨日は、私の妻が世話になったらしいな。有難う。俺からも礼を言わせてほしい」

  「…は?」

  言われた言葉は、意味は分かっても理解ができない。…『妻』?誰のことだ?俺は、近衛兵長の奥さまなんて知らないんだが。超のつく愛妻家、と言うことだけは聞きかじっているが、お逢いしたことはおろか、見たことも無い。それが、世話をした?

  思いきり、間の抜けた顔をしているんだろう。全く心当たりがない俺に、近衛兵長も、不思議そうな顔をした。スティケート先生が、なんとも言えないような、複雑な顔で、俺を見ている。…こころのなかが、ざわめいた。黒い不安が、ひたりひたりと近づいているような、良く分からないざわめき。

  「昨日、ここで迷ってしまったのを、ハンデットと名乗る黒豹の獣軍人に助けてもらったと、妻から聞いたのだが。…お前のことではないのか?」

  不思議そうな顔のままで、近衛兵長が続けられた言葉に。…心臓が、撃ち抜かれた気がした。黒い不安が、理由も分からないままに俺のなかを浸していく。

  『昨日』。『ここで迷っていた』のを『助けた』。そんなのは、一人しかいない。俺を真っ直ぐに見上げてきた円い目が、脳裏を過ぎった。その目が、ゆっくりと細められていく様も。

  …あの子どもが。あの子が、まさか。

  「…あの子は、家族に昼食を届けに来たのだと、言って、」

  「…ああ、だから私に届けに来てくれたのだが」

  独り言のように、絞り出した声は、我ながら掠れていた。俺の返答にもなっていない言葉に、近衛兵長から穏やかさが消えた。その眼に剣呑さを宿して、俺を見る。当たり前だ、俺のような二等兵が、師団は違えど兵長に反論したのだから。

  …違う。きっとこの方は、俺の返答に、何かを感じたのだろう。俺ですらまだ分かっていない、この胸を浸す黒いざわめきを。

  何かを言いたげな近衛兵長を遮って。スティケート先生が、俺に向き直る。その、痛ましそうな、心苦しそうな顔で、…ああ、と観念した。続くだろう言葉に、覚悟をする。…覚悟、なんて、何故そんなものをしなければならないのかにも、思い至らなかった。

  

  「…ハンデット。先ほどは言いそびれましたが、君が助けたと言ったフラフィーと言う子は、リジット近衛兵長の奥さまですよ」

  覚悟をした、というのに。耳に響く言葉に、…心臓が押し潰されそうになった。昨日、ほんの一刻逢っただけの、あの子どもの顔が。何故だか鮮明に、脳裏に浮かんだ。俺を真っ直ぐに見る円い目。ぎゅう、とその目を惜しげもなく細めて笑う顔。有難う、と何度も告げてきた明るい声。はぐれないように繋いだ手の柔らかささえ、鮮明に。

  …俺に怯える素振りをひとつも見せなかったのは、この狼獣人の番いだったからなんだろうか。それとも、…俺にも怯えることなく、笑ってくれるような人間だから、…この方も、あの子を選んだのだろうか。何となく、後者のような気がした。

  何も言えない俺に、未だ剣呑さを隠さない眼で、近衛兵長が俺を見遣る。それでも、声も表情も冷静に、持っていた箱を俺へと差し出した。

  「これは、妻から君へと。焼き菓子だ、あの子がつくったものだが、味は保証する。本当に感謝していると、伝えてほしいと。…確かに、伝えたぞ」

  「…有難う、御座います」

  お礼をさせてください、と。声まで丸い音で、俺に言ってきた言葉が耳を掠めた。『お礼』。てっきり、あの子どもが来るのかと思っていた。俺に、逢いに来てくれるものだと思っていた。…そうか、あの子の夫、に頼んだのか。託したのか。

  

  ほとんど動いていない思考で、それでも頭を下げて、それを受け取った。ずしり、と、菓子にしては確かな重みが、放棄しそうになる俺を引き留める。

  「俺からも、改めて礼を言わせて欲しい。あの子を送ってくれて、有難う」

  そう言って、近衛兵長が、…手袋を外して片手を差し出す。格下であるはずの俺に対して、礼を尽くした『感謝の握手』。これを、上官から求められるなんて、本来なら光栄の極みだ。けれど。

  息を飲んで、差し出されたその手を見詰めた。断る、なんて、軍人として思考に在るわけもない。…本当は断りたかったとしても。

  それでも、箱を手に持った俺は、両手を差し出せない。けれど、片手を塞いだままで上官からの握手に応じる、なんで出来るはずがない。

  そんな俺を察してか、スティケート先生が、持ちますよ、と焼き菓子の箱を持ってくれる。あの子どもの、…フラフィーが俺にと作ってくれた菓子。

  有難う御座います、と頭を下げてから、…近衛兵長に向き直った。その手を取るべく、差し出した手は震えていた。

  眼を見ながら握手をしなければ、失礼にあたる。逃げそうになる眼で、必死で琥珀色の四白眼を見遣った。睨むでも怒るでもない、けれど強い力の眼が、俺を見据えていた。…俺のこころの疚しさを映し出すように。

  「…感情は、制御できないものだと知っている。たった一瞬で、恋に落ちることがあることも」

  静かな声が、辺りに響く。決して大きくはない、寧ろ俺にだけ聞こえる程度の小声。それなのに、いやに大きく、俺の耳を打つ。

  恋、などと。そんな情熱的な言葉が、彼の口から出るのだと言うことに、見当違いに驚いた。まるで経験でもしたことのあるように、実感のこもった言葉。

  「だから、お前が、どんな想いを誰に抱いたとしても、否定はしない。俺にも、誰にもその想いを否定することなんてできないだろう。…ただ、」

  ぐ、と、握られる手に力がこもる。上官の纏う雰囲気に、仄昏いものが混ざった気がした。触れるだけで身の切れらそうな、冴え冴えと冷えた威圧感。まだ数少ない戦場で、それでも覚え感じたような、言い換えるなら、それは、きっと。

  「あの子は誰にも渡さない。何があろうとも。お前が『そう』だと言うなら、全力で相手になろう」

  握られた手よりも、それ以外のなにかが潰されるようだった。俺のなかで、あの子どもに抱きかけていた感情が、形を成す前に砕けていく。咲くどころか芽吹く前に、その芽を摘まれた花のように。

  …俺には、この方を相手にはできない。理性よりも、本能で思い知らされる。

  俺だって肉食獣だと言うのに、完全に負けていた。戦う気すら、起こらなかった。敵わない、と小さく呟く。階級ではない。力でもない。言うならば、それは。きっと、…あの子への、想いの深さに。

  手を離されて。さっきまの威圧感も雰囲気も剣呑さも収めた近衛兵長が、最初の穏やかな顔で『ではな』、と口にした。それを、敬礼も一礼も出来ずに、ただ茫然と見遣る俺の前で。黒色の軍服を翻して、彼が来た方へと歩き去っていく。

  

  ぽんぽん、と。肩を叩かれて、のろのろと先生の方を向いた。痛ましそうな、それでいて慈しむような眼で、先生が俺を見遣る。

  何か言われるかと思ったけれど。先生は、何も仰らなかった。ただ、俺の傍で、慰めるように俺の肩に手を置いてくれていた。

  先生のその手に、甘えながら。休憩の終了を告げる鐘が鳴るまで、その場に立ち尽くしていた。

  遠くで、鐘の鳴る音を聴きながら。

  俺は。仄かすぎる、俺の初恋が。恋として成す前に、終わってしまったことを悟った。

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