AdAd
  
イケメン狼獣人がぽっちゃり少年を娶るはなし。【18】

  真っ暗な部屋で。今夜何度目かも分からない寝返りを打ちながら、ため息を吐いた。

  いつもなら。俺の腕の中で、甘やかな寝息を立てているはずの俺の最愛の妻は。…今夜は、ここに居ない。

  『ごめんね、風邪引いたみたい』と。申し訳なさそうに少し太めの眉を下げながら、少し掠れた声で、そう俺を見上げて。

  『リジットさんにうつしちゃったら大変だから、今日は違う部屋で寝るね』

  そんな、気遣うような言葉を口にしながら、少しだけ寂しそうに笑った。…そんなことをする必要なんてない。寧ろ、俺の方が身体は丈夫なんだ、俺に移せばいい。そんな寂しそうな顔をするくらいなら、今夜も俺の隣で寝ればいいだろう。そう言い募っても、…こと俺に関してはどうにも頑固な俺の妻は、頑として首を縦には振らずに。

  結局。この屋敷に三部屋ほどあるゲストルームの一室で眠ることを、あの子は決めてしまい。『おやすみなさい』、と、愛らしい笑顔を残して、そちらの部屋に行ってしまった。

  「…風邪なんて、いくらでも俺に移していいというのに」

  あの子の言葉と笑顔を思い返しては、口からは独り言が衝いて出る。そもそも人間の風邪が移ったくらいで潰れるほど、俺は柔ではないし。…寧ろ、それであの子の風邪が治るのならば、本望だというのに。他に聞く者のいない言葉は、天井に上っては消えていく。

  …この家に一緒にいるのに、寝床を別にすることなんて、今夜が初めてだ。

  全く訪れない睡魔に、睨むように天井を見上げる。…この無駄に広い屋敷を、今まではどうと思うこともなかったが。今は、ただ腹立たしいばかりだ。もし、この屋敷がもっと狭く、小さかったら。ほかの部屋などないような、小さい家だったら。…今夜もあの子は、俺の腕に収まって、愛らしい寝顔を見せてくれていただろうに。

  八つ当たりのように、怒りを屋敷にぶつけながら。見上げた天井を、睨んだまま見つめた。

  …一体、俺はあの子に逢うまで、どうやって夜を過ごしていたのか。それすら、もう思い出せない。夜など、眠れないのが当たり前だったような気もする。悪夢ばかりを見て、飛び起きていたような気もする。…幸せな眠りなんて、俺には訪れないと。そう、思っていた気も。

  睡魔どころか、冷たく冴えていく意識に、頭を強く振った。暖かいはずの布団が、冷めていくような感覚。俺の体温が下がっているのだろうか。顔を覆って、今度は長く息を吐いた。…こんな感覚は、久方ぶりだ。あの子を腕に抱くようになってからは、終ぞ味わうことのなかった、冷えた感覚。

  駄目だ、と、息だけで小さく呟いた。多分、今夜はもう眠れないだろう。…万が一眠れたところで、襲ってくるのは多分悪夢だ。それならば、眠ることを諦めた方がいい。一晩二晩の徹夜など、何度も経験していることだ、どうということもない。そんなことを思いながら、天井を見つめる。指先が、冷えて仕方がない。

  どうせ眠れないのなら。…このまま、あの子の部屋まで忍んで行こうか。せめて、寝顔だけでも見ることが出来たら、少しは安心できるのだろうか。過ぎった思考は魅力的で、それを思うだけで、冷えた身体に血が通う気がした。

  よし、とばかりに、身体を起こそうとしたとき。…静かな屋敷の、その廊下に、足音が微かに響いた。耳が勝手にそばだって、音を拾おうと左右に動く。…誰の足音かなど、考えなくとも分かった。俺の、何より愛しいあの子のものだ。反射で、布団を跳ね飛ばす勢いで身を起こす。

  一体何処に行こうというのか。ベッドから足を下ろして、更に耳を澄ませた。あの子の行き先によっては、直ぐに後を追えるように。厨房だろうか、喉が痛いと言っていたから、水でも飲みに行くのだろうか。…初夏と言えども、夜はまだ肌寒い。体調が悪いというのに、こんな夜に屋敷を歩くなど、身体に障るだろう。俺が共にいれば、水くらい俺が持ってきたというのに!臍を噛みながら、尚もあの子の足音に耳を澄ませた。

  あの子が眠るゲストルームと、この寝室は、同じ階でも部屋は多少離れている。その途中に階段があるから、あの子の足音がそこへ向かえば、目的地は一階の厨房で間違いないだろう。…まさか、こんな夜に外へ行くなど有り得ない。それとも、月でも見たいのだろうか。いや、今日は別段月や星が美しいというわけでもない。いや、でも、しかし。

  いろいろな可能性に頭を巡らせながら、あの子の足音を耳で追った。なるべく、足音を立てまいと気を付けているのだろう。その足取りは、いつものあの子の歩調と比べても大分ゆっくりとしたものだ。それと同時に、ずるずると、何かを引きずるような音。…これは、何だろうか。そんなに重そうではなく、けれどそう軽いというものでもなさそうな音。

  フラフィーの足音が、階段へと差し掛かる。予想では、それを降りるだろうと思っていた足音は、…けれどそこを真っ直ぐに通り過ぎた。外れた予想に、眼を眇めて。…それから、思い当たった別の可能性に、思わず眇めた眼を見開いた。…もしかして、あの子は。

  ゆっくりと、下ろしていた足をベッドに戻して、そのまま布団に潜り込む。天井を見上げながら、更に耳をそばだてた。冷えていた身体に、体温が一気に戻る。ひたひた、ぺたぺたと、裸足のままだろう柔らかい足音が、ゆっくりと近づいてきた。足音まで愛らしく響かせる俺の妻に、無意識に笑みが込み上げてきて、秘かに一人、笑う。心臓が、期待で高鳴った。

  ぺたり、と。あの子の足音が止まったのは、…思った通り、この寝室の前だった。

  少しだけ逡巡するような気配の後に。かちゃり、と、微かな金属音を立てながら、静かにドアノブが回る。そこまで見遣ってから、開いていた眼を半分以下に細めた。傍から見たら、眼を閉じているように見える程度に、うっすらと開く。

  

  きぃ、と、細い音を響かせながら、ドアがゆっくりと開いた。暗がりでも、夜目の利く眼には、はっきりと見える。そこにいたのは、予想通りに、俺の可愛い妻だった。

  

  寒いのだろうか、頭まですっぽりと毛布をかぶった姿。ずるずると引きずっていたのは、その身体に収まりきらなかった毛布らしい。…あまりに愛らしい姿に、込み上げる笑いを喉奥で抑える。

  ひたひたと、その姿がベッドへと。…俺の方へと、歩み寄ってくる。俺が起きていることを気づかれないように、しっかりと瞼を閉じた。その代わりに、全神経を以ってあの子の気配を追う。

  触れずとも分かるほどにあたたかな気配が、俺の間近に近づいた。息遣いすらわかるような距離に、俺の手が、勝手にぴくりと反応する。…この柔らかい身体を、腕に収めたくて仕方がない。

  俺が寝ているかを伺っているのだろうか。息だけで、『リジットさん』、と呼びかけられて。緩みそうになる顔を、必死で堪えた。あの子の顔が、俺の傍まで寄せられているのが分かって。身体の下で尻尾が勝手に微かに揺れた。…きっと、身体で潰されていなかったら、俺の尻尾は大きく揺れていただろう。それを思って、仰向けにしていてよかった、と、内心で安堵の息を吐く。

  そんなことを考えている俺の、直ぐ傍らで。フラフィーが、密やかに動く気配がした。そのまま、布団の上に出していた手を、その柔らかい手が触れる。手の甲の獣毛を、滑るように撫ぜて。そのまま、緩やかな力できゅ、と握られた。手のひらの肉球を、フラフィーの指が、確かめるように撫ぜていく。その感触に、思わず緩みそうになる顔を、必死で抑えた。

  今、この部屋にはランプの灯りすらない。そんな暗がりだからだろう、俺の表情も、あの子にはよく見えていないに違いない。多分、うすぼんやりと見えてはいるだろうが。…そのことにも、秘かに安堵する。今、起きていると気づかれるのは避けたいが、眠りながら笑っているなどと思われてるのも困る、…というよりも嫌だ。…そんなのは、格好悪いではないか。誰にどう思われてもどうでもいい。けれどこの、可愛い俺の妻にだけは、そんなことを欠片でも思われたくない。この子の前でだけは、いつも格好をつけていたい、誰よりも格好良いと思われたい。…そんなことは、この子の『夫』であれば、当然だろう。俺が、…俺こそが、この世界で一番に、この子を愛しているのだから。

  ぐるぐると、そんな思考を巡らせながらも、眠った振りをしている、俺の。その頭に、柔らかい感触が、そうっと降りてくる。ふくふくとしてあたたかい、あの子の手のひら。もう片方の手で、俺の手を繋いだまま。その手が、ふかふかと俺の頭を優しく撫ぜて。…それから、息遣いが更に近くなる。そのまま、耳に、手とは違う感触が、ゆっくりと触れた。柔らかくて、あたたかい弾力。

  …フラフィーに口づけられた、俺の耳が。喜ぶように、大きく揺れる。今にも、この子へと伸びそうになる腕を、更に抑えた。眠る振りをする、その呼吸すら微かに乱れる。

  「…おやすみなさい」

  ひっそりと、優しい声色が部屋に零れる。けれど、フラフィーの手は、俺の手を繋いだままだ。気配まで、名残惜しそうに、…俺の、可愛い最愛の妻は、俺の傍から動かない。

  …もう、眠った振りも限界だった。ゆっくりと眼を開けて、フラフィーへと目線を合わせる。…寂しそうに伏せられた目で、フラフィーが俺を見ていた。その目が、驚いたように丸くなっていく様に、密かに息を吐く。…この子に、寂しそうな顔など、似合わない。俺が在る限り、そんな顔はさせまいと。…そう、誓っているのだから。

  「おいで」

  言いながら、毛布ごと、柔らかい身体を俺の腕へと引き寄せる。驚いたように、あわあわと身動ぐ身体を、封じるように腕の中で抱き込んだ。

  「だ、だって移っちゃうよっ」

  「言っただろう、俺の身体はそんなに柔ではないと。人間の身体よりも余程丈夫で、免疫も高い。お前の風邪など、移る前に蹴散らすさ」

  困ったように、俺を見上げる円い目に。薄く笑って、その額に薄く掛かる前髪を掻き上げた。そのまま、額にキスを落とすと、腕のなかの身体が、擽ったそうに小さく震える。唇を離した額に、今度は俺の額を当てれば、…俺の眼に映る妻の顔は、今度は嬉しそうに愛らしい笑顔だった。

  「…移っちゃっても、知らないよ?」

  「それでお前が早くよくなるのなら、寧ろ移して欲しいくらいだ」

  そうしたら、お前が看病してくれるのだろう?そう、笑いながら問いかければ。俺の背に、あたたかい腕が回る。それと同時に、『もちろんだよ』、と。甘やかな声で、フラフィーがそう応えてくれながら。俺を見つめて、その円い目をぎゅう、と細めた。その顔に、俺も笑い返しながら、誘われるように首筋に鼻先を埋める。ひゃっと耳元で声が上がって、腕のなかの身体が飛び跳ねた。

  「だっ、だめだよ!?今日はほんと、移しちゃうからっ」

  わたわたと、俺の胸を、柔らかい手が押してくる。焦るように裏返った声と、ぐるぐると困ったように回る円い目に、喉奥で密かに笑った。

  「大丈夫だ、お前の身体の方が大事だからな。俺に移すのは構わないが、お前に無理などさせられない。流石に今日は自重しよう」

  自然と細められる眼で、愛らしい俺の妻を映しながら、その身体を緩く抱き締めて言う。俺の言葉に、フラフィーが、ほっとしたような、…何処か残念にも見えるような顔で、目を細めて。俺の胸を押していた手が、そのまま俺の胸を、掴むように握られた。ひたり、と、その柔らかい身体が、俺へと擦り寄るように、寄せられて。

  「…うん、俺も我慢する。…から、治ったら、いっぱいしてね?俺、早く風邪、治すから。…そしたら、いっぱいごほうびちょうだい?」

  

  俺の胸元のあたりから、大きな円い目が、俺を見上げてはにかむように笑う。…一気に本能が理性を凌駕しかけて。この愛らしい妻を組み敷きたくなる衝動に駆られながら、必死にそれを抑え込んだ。…この子は、俺の理性を試しているのだろうか!

  そんな俺の努力を知らないように、ふくよかに柔らかい身体が、更に押し付けられて。…それから、その顔を俺の首元に顔を埋める。鼻先を擽るこの子の匂いに、脳内が一瞬、くらりと回って。意味を持って、その膚を這いそうになる俺の手を、叱咤するようにぎゅう、と拳を握って肉球に爪を食い込ませた。…ひとつ息を吐いてから、その身体を優しく抱き込んで、髪をゆっくりと掻き上げる。俺の指にだろうか、フラフィーが腕の中で、擽ったそうに目を細めた。それから。

  「…ほんとは、ひとりで寝るの、寂しかった」

  「…そうか」

  囁くような声に、その頭を撫ぜながら頷いた。この言葉に、…俺もだ、と。白状しようかどうか、少し逡巡して。その間に、柔らかい声が、先を続ける。

  「だから、俺がひとりで寝るっていったのに、全然眠れなくて」

  「ああ」

  首元に寄せられた顔が、更に擦るように押し付けられる。子どものような仕草が愛らしくて、秘かに顔を緩ませながら、再度頷いた。腕の中の体温は、先程よりも更にあたたかく心地好い。この、獣毛を越して膚に馴染む体温は、この子の眠りが近いことを示していた。それにつられるように、俺の身体もあたたかくなる。…つい先ほどまで、この部屋に独りでいたときには。あんなに鮮明に俺を襲っていた、あの指先まで冷えるような感覚すら、嘘か夢かと思えるほどに。

  「…だから、リジットさんが眠ってるの見たら、俺も寝られるかなって」

  とろり、と、フラフィーの口調にも微睡みが入る。柔らかい頬が、更に、俺に擦り付けられて。…それから、どうしよう、と、呟くような小さい声が、密やかに漏れた。

  「どうしよう…俺、リジットさんがいないと生きてけない…」

  聴こえた、言葉を理解する前に。心臓が、どくりと、飛ぶように大きく跳ねた。反射のように、腕の中の愛しい妻を、きつく抱き締めてしまう。…心臓の鼓動が煩くて、返したい言葉がその音に掻き消される。

  俺が口を開く前に、俺の腕の中から、小さな寝息が聞こえてきて。その健やかな呼吸音に、身体に入っていた力を抜いた。小さく、笑ったはずの目頭から、水滴が漏れて獣毛に沈む。

  「…言い逃げとは、ずるいな」

  そのまま、俺の妻の髪に、顔を埋める。少し熱く湿った体温は、やはり幼い子どものようだった。鼻を掠める、甘いミルクのようなこの子の匂いは、子どものような幼さだろうか。それとも、『母』になる準備だろうか。…どちらも、この子らしいと思った。

  「俺もだよ、フラフィー」

  一足先に、健やかな眠りに落ちてしまったこの子には、きっと聞こえていないに違いない。けれど、俺がそう囁くと、腕の中のあたたかい身体が小さく身動ぎをして。まるで返事をするかのように、幼い寝顔が小さく揺れる。そんなフラフィーに、小さく笑って。

  「お前がいないと、俺も生きてはいけない。…生きる、意味がなくなるんだ」

  …囁く声は、祈るようだと、片隅で思う。抱き込んだ腕に、更に力がこもるのが、自分で分かった。

  「…だから、ずっと傍にいてくれ」

  もう、何度希ったか分からない言葉を。また、願うように、口にする。眠っているフラフィーから、返ってくる声はない。それでも。

  …無防備な様で、俺の腕の中で眠る、この子の。…その表情が、眠っていてさえも、とても幸福そうに、俺には映って。

  腕に抱く体温と。その幸福そうな寝顔に、つられるように。俺にも、押し寄せてきた睡魔に、身を任せながら。腕に抱いたフラフィーごと布団に潜り込んで、眼を閉じた。

  今夜は、もう眠れないだろうと思っていたというのに。眠っても、見るのは悪夢だろうと諦めていたのに。

  

  この子を腕に抱くだけで。その寝顔を見つめるだけで。これほど幸せな眠りが訪れることに、…誰にともなく、感謝した。

  (フラフィーの風邪は、程なく治って。翌日には、また無事に、愛しい妻を腕に抱いて眠れる日々に戻れた。…そのことも、併せて感謝しておこう)

  

AdAd