AdAd
  
イケメン狼獣人がぽっちゃり少年を娶るはなし。【29】

  旅行から帰ってきてから、数週間経った頃。…フラフィーが、体調を崩した。

  「…それだけでいいのか?」

  「うん、まだおなかすかなくて」

  出勤前の、一緒に取る朝食での一時。本来ならば、嬉しそうに食事を頬張る俺の妻の姿を見ながら朝食をとることが、俺の幸福だったのだが。…今日も、フラフィーの前には、白湯とオートミールが少し置いてあるだけだった。

  このところ、フラフィーの体調はあまり思わしくないようだ。それでも、食欲がないのと、幾分か体温が高いことを除けば、元気だと。この子の自己申告で、まだ医師を呼んではいない。夏が終わっていきなり涼しくなったから、身体が慣れなくて疲れてるのかも、と。そういうフラフィーの顔は。確かに少し元気がなく、…それが、俺には不安でならない。

  この屋敷で働いている皆に、この子の昼の様子を聞いても。『疲れているのか、よく眠るようになった』『けれどそれ以外は、いつもと変わりがないように見える』、という返事だった。…ただ、メイドのうちの何名かは、何か思うところがありそうだったが。それが何かは、曖昧に口を濁された。

  「…なにか、帰りにお前の好きなものでも買って来よう。何がいい?なんでも言ってくれ」

  俺の言葉に、ぱっとフラフィーが顔を輝かせる。けれど、少しだけ逡巡するような顔をしてから、…その首を、横に振った。

  「すっごく嬉しいけど、…もしかしたら、食べられないかもしれないから、今はいいや」

  そう言って、何かを含んだように、眉を下げて笑う。その顔に、胸に押し込めていた不安が膨れた。…一体、どうしたのか。この子の身体に、何が起こっているのか。指先が小さく震えたような気がして。フラフィーには気づかれないよう、その手をきつく握った。

  「それより、早く帰ってきてね?その方が、俺、嬉しいです」

  

  照れたようにはにかみながら。俺の最愛の妻が、そう言って、ぎゅう、と目を細めて笑った。先程とは違う、何の含みもない、愛らしい笑顔。その顔で、続けられた言葉に、俺も笑って頷きながら、柔らかい頬に指を伸ばす。そのまま緩く撫ぜれば、擽ったそうに俺の妻が、笑いながらその円い目をぎゅう、と細めた。

  指から伝わる体温は、僅かに、けれど確かに、いつもよりも高かった。

  **************************

  「こんにちはリジット。会えて良かった、探していたんですよ」

  「ああ、スティケート。何だ、俺に何か用だったのか?」

  その日の、勤務中に。俺の旧友から声を掛けられて、廊下を歩いていた足を止めた。いつも通りに穏やかな顔をしたスティケートが、少し眼を細めてモノクルを押し上げる。

  「ええ、少し渡したいものがありまして。…それより、フラフィーの様子は如何ですか?」

  「…ああ、やはり食欲がなくてな。体温も僅かだが、いつもよりも高いようだ。昼も、眠って過ごすことが多いらしい。あの子は元気だと言うのだが、…何かあったらと思うと、心配でな」

  スティケートの問いかけに、…朝食でのフラフィーの様子が頭に過ぎって、曖昧に頷く。このところの調子もあって、スティケートの家庭教師も休ませていた。フラフィーは大丈夫だと言っていたが、あの子は我慢強く、誰かの為なら多少の無理も辞さない子だ。…家庭教師中に体調が悪くなっても、我慢をして余計に体調を崩してしまうかもしれない。そう思うと、どうしてもあの子を休ませたかった。俺の我儘だということは分かっている。それでも、…万が一にも、あの子を喪う可能性のあるものは、今は排除したかった。

  …あの子を喪うことを、思うだけで震えそうになる指先を、強く握る。強いのなんのと誰に言われようが、…本当の俺など、こんなものだ。あの子を喪うことを考えるだけで、身体が震えて仕方がない。あの子さえ、俺の傍に在てくれるのなら、俺はどれだけでも強くなれるというのに。

  そんな俺に、気づかないように、…或いは気づいていないふりをしてくれているかのように。俺の話に、ふむ、と何かを考えるように。目の前のスティケートが、顎に指を当てる。

  「それなら、私も後ほど、少し様子を伺いにお邪魔しても良いでしょうか?」

  「ああ、あの子も喜ぶだろう。是非顔を見せてやってくれ」

  授業ではなく、お見舞いならあの子も大丈夫だろう。彼の言葉に、俺の顔も無意識にほころんだ。では是非、とスティケートも眼を細めてから、鞄を掴んで俺に向き直る。

  「…因みにリジット。貴方は、獣人の子を授かる人間についての研究書を、読んでいらっしゃいますか?」

  唐突な言葉に、多少面食らった。スティケートの言う本は、彼がこの軍を通して購入してくれた研究書のことだろう。人間が、獣人の子を妊娠できるようになる為の事柄や、その時に造り替わる身体、妊娠した時の症状や妊娠期間。そう言ったものが事細かに掲載されたものだ。

  俺も、勿論この本は読み終えている。特に、あの子が俺の子を妊娠できる身体にする為の事柄や、その身体が造り替わるという事項は、暗記するほど読み込んだ。…しかし、あの子の身体が造り替わってからは、そう言えばあまり目にしていない。

  「…ああ、勿論。それが?」

  そんなことを思いながらの俺の返答に、何か意味深そうに、スティケートが眼を細めた。…それから、何故か彼も、同じ本を鞄から取り出す。…もしかして、渡したいものとはそれだろうか?俺も持っているのは、スティケートが一番よく知っているだろうに。というか、さっきの読んだのかの確認は、何だったのか。

  その疑問が、顔に出てでもいたのだろうか。俺の顔を見ながら、もう一度意味深そうな顔で、スティケートが俺に笑う。

  「もし、お時間があるようでしたら。この、付箋をした個所をもう一度、読み込んでおくことをお勧めしますよ」

  それだけ言うと、スティケートが軽くお辞儀をして、踵を返した。もう、軍人は退役したからだろうか、敬礼の代わりに行うようになったお辞儀は、それでも身のこなしが優雅なスティケートにはよく似合っていた。俺が同じことをしたら、多分似合わなさ過ぎて周りが引くだろう。

  そんなことを思いながら、俺も廊下の歩みをまた進める。歩きながら、…渡された本を、何気なくぱらぱらと捲った。どうやら、本のなかでも後半の頁に、付箋がいくつもつけられているらしい。…そういえば、後半部分には何が書いてあったか。俺の読み込んでいた頁は主に前半だったから、後半の内容は失念していた。…それを見越して、スティケートは俺にこれを渡してきたのだろうか。そうだとしたら、流石俺の指導兵だった旧友だ。

  一体、この付箋の頁には何が書かれているのか。そんな思いで、何気なく眺めていた本の、…その見出しが目に入って、指が止まった。

  『妊娠した時の症状』。太文字でそう書かれた言葉。…思わず、歩く足が止まる。文字の意味を理解する前に、心臓が全身に響くほどに、大きく打った。

  廊下の端に寄りながら、その頁の文字を、眼で追った。『身体の火照り』『食欲減退』『疲れやすくなる』。それ以外にもいくつも書いてあった症状から、俺の眼が拾ったのはその単語だった。ここ最近の、あの子の様子とそれが重なる。…心臓が、更に大きく震えるように、高鳴った。

  もしかして。浮かぶ可能性に、指先が震えた。ぱぁん、と乾いた音が廊下に広がって。それが、俺が本を閉じた音だとそこで気づく。どうやら、力の加減が出来ずに力いっぱい本を閉じてしまったらしい。心臓の鼓動がうるさいくらいで、廊下を歩き始めても、自分の足音も聞こえない。多分、誰かに声を掛けられても、気づかなかったことだろう。…そんな事態が起こっていないことを、祈るしかない。

  …そのあとは、浮足立つようだった。いつも通りに訓練をこなし、部下を指導出来ていたのか、記憶にない。早く時間が過ぎることだけを願っていた。…この思考は、仮にも王城軍で位階を戴く者としては失格だと、自認している。そのような者がいたら、私事で浮つくな、と注意するところだ。

  けれど。…あの子の笑顔が浮かんで、仕方なかった。あの子の、幸福の詰まったように笑う、俺の焦がれてやまない笑顔。俺の子が欲しい、と何度も言ってくれた愛らしい声まで、耳を掠めて。浮かぶ可能性に、身体が弾けそうだった。あの子のなかに、…俺の子が在る可能性。まさか、と思う。予想よりも、まだ大分早い。身体が造り替わったことだって、大分早かったというのに。

  …これは、それだけ俺が、あの子を孕ませたくて仕方なかったと言うことだろうか。あの子が、それだけ、俺の子をその身に宿したいと、想ってくれた証なのだろうか。

  そう想うだけで、剣を握る指が震えた。息も止まるような歓喜が、想像だけで身体に沸き起こる。そうなのだろうか。本当に、…あの子は。

  そんな風に、浮足立つ心のまま。今日の終わりを告げる鐘とともに、軍事施設を後にした。今日は、こんなに早く帰る筈ではなかったから、迎えの馬車はまだ来ていない。辻馬車を呼ぶのももどかしく、そのまま屋敷まで走った。…少し前にも、こうやって屋敷までの道を走ったな、と頭の隅で思い出す。あの日は酷い雷雨で、…あの子が怖がって、俺を待ちながら、独りで蹲っているのではないかと、気が気じゃなかった。今日は、俺の方が、一刻も早くあの子に逢いたい。早く、あの子の笑う顔をこの眼で見たい。あの子のあたたかい身体を、腕に抱きたい。

  獣人の俺は、身体能力などは少なくとも人間の倍以上はある。王城から屋敷までの距離なんて、全力で走っても息も切れない。自分の身体が風を切る音が、耳を揺らした。

  見慣れた、俺の住居となる屋敷の前で。門番の彼が、姿勢を正して俺に頭を下げるのを、手で制するように応えながら中に入る。入り口付近で、俺の迎えの為だったのだろうか、馬車の手入れをしていた馬丁が、驚いたように声を上げるのを聴きながら、扉を開けた。重々しい音が響くのは、この屋敷の最初の持ち主の趣味だろうか。その音が聴こえたのだろう、メイドの彼女たちが出迎えてくれた。

  おかえりなさいませ、と迎えてくれる彼女たちも手で制して、鞄を掴んだまま二階へと上がった。…あの子は、眠っているのだろうか。そう思いながら、足を寝室へと向ける。

  ゆっくりと、音を立てないように開いた、ドアの。その先に見えるベッドに、円い人影を認めて、口元が緩んだ。足音も響かせないように、その姿へと近寄る。…そこで、横向きに少し背を丸めて横たわっているのは、俺の最愛の妻だった。まるで、腹部を護るように丸くなって、その腕も柔らかな下腹部へと回っている。その体勢に、…俺のなかで、期待がまた一つ膨らんだ。

  起こさないように、その傍らへと腰かけた。足元に鞄を置いて、はめていた手袋も外して鞄の上に放る。そのまま、優しい線を描く頬に、指を滑らせた。…いつも以上にあたたかく火照った膚。あの付箋のついた頁の文字が、頭を掠める。

  …本当に。この子のなかに、俺の子が在るのだろうか。この子が、俺の子を、その身に宿してくれたというのだろうか。

  それを想うだけで、心臓が痛いくらいに跳ね踊る。…もう、思い出すことも遠くなってしまった記憶が、輪郭を以て頭に浮かんだ。まだ幼い俺の手を両側から握る、…俺の両親の姿。逆光で顔の見えないその顔が、…俺と、フラフィーの顔へと、映り重なる。

  …それを、追うように。妻の頬から指を離して、護るように腹に置かれている柔らかな手を、俺の両手で包んで、握った。眼の奥がぼんやりと熱くなって、愛らしい寝顔が薄く滲む。…閉じられた瞼が仄かに震えて、それからゆっくりと開いた。その様を、見守るように見つめる。いつも以上に無防備に、幼く見える顔が、ぱちぱちと瞬きを繰り返してから、ゆっくりと辺りを見回した。…その目が俺を映して、寝起きの目が大きく開く。

  「ぅーん…あれ?あれっ、リジットさん!」

  驚いたような声は、明るく弾んでいた。弾かれたように起き上がるとする、…その柔らかな身体を手で制する。そのまま、俺の手を添えて、ゆっくりと起き上がらせた。大きな円い目がぎゅう、と細めて、嬉しそうに笑った。今日一日、ずっと想っていた妻の顔。俺の、…いつまでも焦がれてやまない、幸福の詰まったような笑顔

  「おかえりなさい!今日、本当に早く帰ってきてくれたんだね!」

  言いながら、柔らかな腕が伸びてきて。いつも以上にあたたかい身体が、俺の胸に飛び込んでくる。まるで猫のように、愛らしく俺に擦り寄る最愛の妻を、俺も優しく抱き返しながら。…自分の指先を軽く握って、口を開く。けれど。

  「あのね」

  …俺の口が、妻の名を紡ぐよりも早く。フラフィーが、俺の胸のなかで、呟くように小さな声を上げた。開きかけた口で、ああ、と頷く。幼さの残る指先が、俺の軍服を軽く掴んだ。

  「今日ね、早く帰ってきて欲しかったの、理由があるんだ」

  囁くような声は、けれど何よりも俺の耳に大きく響く。心臓の鼓動が、全身に波紋のように広がって波打った。きっと、俺の心臓の音は、俺の胸に顔を寄せるこの子にも聴こえているだろう。…けれど、弾けるほどに膨らむ期待で、この鼓動を押さえる術が、俺にはない。

  小さく、フラフィーが息を吸うのが、腕を回す身体から伝わって。

  

  「リジットさん、俺ね、…リジットさんの子ども、授かれたみたいなんだ」

  柔らかな声が、囁くように、部屋に響いた。

  

  「ここにね、リジットさんの子どもがね、在るんだよ?まだすごく小さいけど、とくんとくんってしてるの。…すごくあったかい」

  優しい口調は、今まで通りに幼く愛らしい、俺の最愛の妻のもので。…けれど、もう、愛情溢れる、母のようでもあった。柔らかい指が、俺の手を口調と同じに優しく掴んで。…その手を、ふくふくとした下腹部に当てる。柔らかい肉に、指が沈んだ。その俺の手に、フラフィーの手がゆっくりと重なる。

  「リジットさん、分かる?…ここにね、在るんだ。リジットさんと俺の子。…すごく、嬉しい」

  優しい声が、耳に響いては溶けていく。ふんわりと、音までまるく、柔らかく響く声。誰よりも、何よりも愛おしい俺の妻の声を、何度も、何度も反芻した。フラフィーが、俺を見上げて、目を丸くする。

  「り、リジットさん!?」

  何を、そんなに驚いているのか。そう問いかけたくても、声が出ない。喉奥に、なにかが閊えて塞がったように。…声を上げると、溢れてしまいそうな、それ。

  フラフィーの、円くなった目が。…俺を見つめて、また、優しく細められる。それから、俺の手に重ねられていた手が、俺の顔に、柔らかく触れた。

  「泣かないで」

  …あたたかな声色で。そう言われて、やっと気づいた。フラフィーの下腹部に当てている指はそのままに、もう片方の手をゆっくりと顔に当てた。獣毛を濡らす水滴が、指先の肉球を湿らせる。…ああ、と、喉奥から漸く、声が漏れた。掠れて、唸るような音。…それが溢れて、まるで嗚咽のようになる。必死で抑えても、腹の底から溢れて、口端から漏れ出る、それ。…それが歓喜だと、口から漏れて、漸く分かる。

  眼から零れ出る、それを。拭うよりも、今は、腕の中の妻を抱きしめたかった。

  ぎゅう、と力の限りで抱き締めてから。今のこの子の身体に、反射的に力を緩める。…俺の身体に抱き込まれながら、明るい声でフラフィーが笑った。

  「ぎゅう、ってしてくれていいのにー。リジットさんと俺の子なんだもの、きっとすごく丈夫だよ!」

  言いながら、あたたかい腕が、俺の背に回る。…そんな俺の、最愛の妻に、小さく眼を細めた。未だに眼から零れる水滴が、俺の鼻先から緩く滴る。

  「…そうだな。お前と俺の子なんだ、きっと元気で、丈夫な子だろうな」

  

  漸く、口から出せた言葉は、微かに掠れる。お前と、俺の子。…そう口にすると、更に喜びが溢れてくるようだ。この子のなかに、紛れもない、俺の子が在る。…俺と、誰よりも愛してやまない、最愛の妻の子が。

  「うん!きっとね、リジットさんにそっくりの、格好良くて、強くて優しい子だよ!性別はどっちかな、男の子かな、女の子かな」

  リジットさんは、どっちがいい?優しく弾むような、フラフィーの声を聴きながら。腕の中の、柔らかくあたたかな身体を、壊れ物を抱くように。俺に出来得る限りの、優しい手つきと力加減で、ゆっくり、ゆっくり抱き込んだ。

  「…フラフィー、ありがとう」

  最愛の妻を、腕に抱きながら。そう、自然と零れた言葉に。フラフィーの、俺の背に回る腕に、力が込められたのが感覚で分かった。その柔らかな手が、軍服の上から俺の獣毛に沈む感触。あたたかい頬が、俺の胸に凭れるように擦り寄って。『俺も』、と、小さな声が、胸に溶ける。

  「…リジットさんの子を、俺に授けてくれて、ありがとう」

  

  そのまま。優しい声で言われた言葉に。…俺の妻は、何処まで優しく、愛らしいのかと。また、顔の獣毛に沈んで滴る水滴を、眼から零しながら。

  その余韻さえ味わうように。そのあたたかな身体を、自分の身体に抱き込んだ。

  そのあとの、夕食で。フラフィーと話して、まずは屋敷の皆に、フラフィーの妊娠のことを話した。…途端、喜びに泣く者や叫ぶ者で、屋敷が軽くパニックになったのも、いい記念だと思っておく。

  スティケートにも、あとで礼と、この報告をしなければな。そんなことを思いながら、鏡に映った自分を覗けば。…自分でも、今まで見たことのないほど、優しく嬉しそうな顔を、していた。

AdAd