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イケメン狼獣人がぽっちゃり少年を娶るはなし。【幕間1-先生の婚約】

  『貴方と恋に落ちる為に、きっと僕は、今まで恋をしなかったのです』

  

  「スティケート様は、どこか行きたい場所はありますか?」

  小さいながらも整った、小洒落たカフェで。窓際の席に合い向かいに座った、…私の彼が。まるで絹糸のように細く軽やかな白金の髪を、きらきらと日に輝かせながら、そう問いかけてくる。その美しさに、一瞬見惚れてしまってから。ああ、と答えにもなっていない声を、曖昧に漏らした。

  彼。…彼。これは、ただの三人称代名詞では無い。所謂、恋人を示すものだ。…そのような意味で、この言葉を私が使う日が来るとは、夢にも思っていなかった。いや、今でも少なからず、そう思っている。…まさか、私に『彼』というものが出来るとは!

  そう、浮足立つこころと同時に。…沈んでいく思考が存在することも、自分で知っていた。『身分違い』、などと。…そんな、陳腐な小説のような一語が思い浮かんで、内心で首を横に振る。獣人と人間の差別のないこの国でも、…そのような差別は、未だに根強いことも。娶る側さえ地位が高ければ、娶られる側の身分など、何も関係はないというのに。…その逆は、赦されてはいないこの国の婚姻。

  こうやって、休日にアステールと出かけることも、もう何度目だろうか?片手、いや両の手でも数えきれないほどだということを思い返して、心が躍って。…けれど、その心も、違う記憶に直ぐに萎んだ。

  出かける時には、アステールがこちらまで、馬車で迎えに来てくれる。けれど、…何度目の時だっただろうか。私を迎えに来てくれたアステールに、偶然居合わせた私の父が。…私たちを不思議そうに見遣っていたその眼を思い出して、…心臓が、掴まれたように縮こまる。

  『何故、妻となるものがお前を迎えになど来るのかね?』

  彼を迎えてくれた私の父の、そんな目線が棘のように、今も心に刺さっている。言葉にこそしなかったが、…父親の眼は、如実にそう語っていた。

  当然だろう。私はもうじき35となる、大型の犬獣人、しかも元軍人という経歴を持つ、名門一族の男性で。…彼は、まだ20そこそこで、眩いばかりの美しさを持った、…男爵家の青年だ。年齢を見ても外見を見ても、…家柄を見ても。私が『夫』で彼が『妻』だと、誰だってそう思うだろう。そう、信じて疑わないだろう。

  「スティケート様?」

  不思議そうに声を掛けられて、我に返った。慌てて先程の問いかけに、何か言葉を返そうとして。私を真っ直ぐに見つめてくるアステールの、…その嬉しそうに細めた青色の眼に。一瞬で、声が喉に詰まって、出てこなくなる。獣毛に覆われた皮膚が、一瞬で沸騰するように熱くなる感覚。…自分がこんな風になるとは、思ってもいなかった。これでは、私の親友のことを、もう何も言えまい。

  それでも、なんとか言葉を紡ごうと、口を開いたときに。このタイミングで注文した品物が運ばれてきて、またしても口を噤む。…自分の間の悪さに、眩暈がした。いつもなら、もう直ぐこちらに品物が運ばれてくることくらい、店内に目と気を配って察知できるはずなのに。

  丁寧な手つきで、私と彼の前に、紅茶が置かれた。可愛らしい絵の入った華奢なカップと、揃いのソーサー。ともに置かれたミルクポットやシュガーポットも、お揃いの柄だ。このようなカフェで、ここまで揃ったものを出してもらえるのも珍しい。思わず笑みを浮かべてしまう私に、目の前のアステールも、私を見つめるその眼を細めた。…その眼が、私の親友が、愛してやまない彼の幼い妻を見つめる眼差しを思い出させるように。…見つめている者への愛おしさを、溢れさせているようで。途端に、ただでさえ熱くなっていた膚が、更に熱く、熱を持つ。心臓が、早鐘を打つように高く、速く鳴るのが身体中に響いていた。…ああ、獣人でよかった。もしこの頬に獣毛が無かったら、きっと今、私の顔が真っ赤に染まっていることがまるわかりだったことだろう。

  彼の眼に、カップの取っ手を摘まむ手さえ、ぎくしゃくとぎこちなくなってしまって。こんな自分に、自分で驚愕してしまう。…ああ、なんということだ。この私が、まるで十代の少女のようではないか。もう、齢34だというのに!彼よりも、10以上も年上だというのに、この体たらく。もっとしっかりしなさい!とそう自分を内心で叱咤しても、心臓の鼓動は全く収まらない。

  「…君は、今までいいひとはいなかったのですか?」

  動揺を押し隠すように。口に出した言葉が自分の耳に届いて、自分で驚愕した。わ、私は何を聞いているのか!心の内ですら吃りながら、慌てて目の前の彼を見遣る。私を見つめているアステールの青い眼が、きょとん、という擬音が聴こえるほどに円くなって。…それから、可笑しそうに細められた。

  「いません。誰も。」

  柔らかく、けれどきっぱりと断言するような口調。語気が強いわけでも、荒いわけでもない。けれど、その言葉に込められた、…思いの強さ、だろうか?それに一瞬圧倒されて、モノクルの奥で、小さく目を見張った。そんな私に、穏やかに笑いながら、アステールが両手でカップを包む。私よりは小さい、けれど思っていたよりも長い指と、大きな手のひら。それが、…私に触れる瞬間を思い出して、獣毛の奥で頬がさらに熱を持った。

  「もともと、僕はそのような恋愛ごとに、興味がない性質で。…いえ、興味がないんだと、自分で思っていました。僕は、幼いころから両親に、うちよりも名家と繋がりを持てるような結婚を望まれていましたし、そういった家との縁談も、少なからずありましたから。…そうやって、両親が選んだ方と、結婚するものだと」

  穏やかな声が、そう言葉を紡いでいく。鮮やかに美しい空色の眼が、懐かしむように、…自嘲するように、少しだけくすんで。形の良い眉を少しだけ歪めて、苦笑するように笑う。その表情が、少しだけ哀し気に、私には映って。…その頭を撫ぜたくなる衝動に駆られて、私もカップを両手で包んで自重する。今は、彼の言葉を遮るような行為は、慎みたかった。

  「フラフィーは、そういう意味では僕と似ていました。彼が5歳の頃には、僕は彼と友達になっていて、…フラフィーが、7つの時に侯爵様の『嫁』になると決まった時も、彼から話を聞いています。あの時、フラフィーは、…それがどういう意味かを知っていました。そう、教えられていたんでしょう。僕も、それがどういう意味なのか、分かっていました」

  いつもよりも色褪せた青い眼が、段々と伏せられていく。彼の口にする光景が、それを見たことのない私の頭のなかさえ浮かぶように、臨場感を以て響く。

  「彼は、泣いてはいませんでした。けれど決して、笑いもしませんでした。まるで諦めきったように、何でもなさそうな顔で、『そうなんだって』、と」

  彼の言葉が、…痛みを伴って耳に届いた。いつも幸せそうに笑っている、私の教え子。あの子の、…そんな表情なんて、想像も出来ない。たったの7つで、…あの子が。

  いつしか、私もカップへと目を向けていた。まだ半分ほど残っている紅茶が、ほんの少しの波紋を広げながら波打っている。…私の手が、微かに、けれど確かに震えているのだと、その時に気づいた。

  

  「今からは、想像もつかないでしょう?あの頃、僕も、フラフィーも同じだったんです。同じように、家の為に婚姻するんだろうと知っていて、将来を諦めていました。フラフィーが、侯爵様に、…『嫁』という名の身売りですよね。一種の。そうなると、するならば、…僕も、そうなるのだろうと。それは、決まっていた未来でした。変えられないと、そう、…思っていました」

  昔を思い出しているかのような、感情の見えづらい淡々とした口調が、そこで変わる。紅茶の波紋から目を上げて、彼を見遣った。…褪せるようにくすんでいた彼の眼が、いつものように、輝かんばかりの眩さを持った綺麗な空色に戻っていた。そのことに、…安堵して、密かに息を吐く。良かった。…よかった。やっぱり彼は、こんな風にきらきらと、美しく輝いた眼をしているほうが、似合っている。

  「けれど、そこにリジット様が現れたんです。嬉しかった!フラフィーからの手紙は、そこから生き生きとしていました。それまでだって、彼からの手紙は明るく、楽しかった。けれど、…やっぱりどこかに諦めがあったから。それは、お互い様だったと思います。でも、リジット様に逢って、リジット様と婚約したと、そう伝えてくれるフラフィーの手紙は、文面からも、書かれる文字の一つにまで、幸せが溢れていました」

  言葉通りに嬉しそうなアステールの言葉に、私の口角も自然と上がる。きっと、あの子の書く手紙は、あたたかな幸せに満ちていたことだろう。その手紙を思い浮かべて、更に笑みを深くした。そんな私に、…アステールが、また真っ直ぐな眼で、私を見つめる。何故だか、心臓が一つ、大きく脈打った。

  「それを読んで、本当に羨ましくて。…けれど、何故か期待が持てたんです。何ででしょうね?あの時、フラフィーの手紙に、…何故だか、僕の未来まで、明るくなった気がしました。僕にも、こんな未来が待っているんじゃないか、って」

  そう言って、アステールがその眼を細めた。眼のなかの青が溢れるのではないかと思うほどに、きらきらと輝く鮮やかな空色。…その美しさに、一瞬呼吸すら忘れて、見惚れてしまう。

  「スティケート様のことも、書いてあったんですよ?『とても優しくて、優雅で、素敵』な方だって。それを読んで、胸が高鳴ったのを、…今でも、よく覚えています。今まで、どんなご縁談を戴いて、どんなに美しい方とお会いしても、…なにも感じたことなどなかったのに。フラフィーの、そんな一文で、…僕の胸は躍りました」

  その、輝くように眩い空色の眼が、…灯したように熱を持った。段々と深くなっていく大きな青色に、…私だけが、映っている。何故だか、それがはっきりと分かった。

  アステールの手が、ゆっくりとカップから離れる。…それにつられるように、私も、カップから手を離した。まるで、この後の彼の手の動きを、理解しているかのように。

  「フラフィーには、…彼の婚姻式で一目惚れしたんだ、と伝えたのですが、だから本当は少し違うんです。僕は、…彼からの手紙で貴方の名前を見た、あの瞬間に。あの時からもう、貴方に恋をするのだと、心の奥で想っていたんです」

  心臓の音が、全身に響いている。高鳴る音が煩いくらいなのに、…彼の声だけは、何よりも大きく耳に届いて、甘く溶ける。きっと今、私の耳はいつもは垂れている耳先まで、ぴんと立っているに違いない。

  どくん、どくんと鳴る音は、…高らかな喜びのようで。まるで、忍び寄る不安のようでもあった。続けられる言葉を聞きたくて、聴きたくて、…聞きたくない。

  「だから、あの時、婚姻式で貴方をお見かけした時。たったの一瞬で、僕の眼は奪われました。名前など聞かなくても、直ぐに分かった。あの方が、…スティケート様だと。貴方が、どなたかに向けられた微笑み、それだけで、…僕のこころは浮足立つようでした。ああ、この方だと、僕の奥底から、声が聴こえたようでした。この方こそ、…僕の運命のひとなのだと」

  彼の手が、私の手に重ねられた。いつもは、私の手よりも僅かに高いくらいの彼の手が、…今は、燃えるように熱くて。けれどそれは一瞬で、また、同じ体温へと溶けていく。それが、…私の手も同じ程に熱くなったからだと、一拍置いて気づく。

  「今なら、よくわかるんです。僕は、貴方に逢うために、貴方に恋に落ちる為に、誰にも恋をしなかったのだと」

  アステールの青い眼が、熱く、甘く私を捕える。この先に続く言葉にどうしようもなく期待をして、…同時に聴きたくない、と思う。何故なら。…何故なら、私は。

  「愛しています、スティケート様。…どうか、僕と婚姻を結んでください」

  真っ直ぐに私を捕える青色の眼に、嘘などなかった。重ねられた手のひらも、獣毛の奥の私の膚も、燃えるように熱い。ここで、…ここで頷けたなら。素直に、彼の言葉に私の想いを返せたならば、どれほどよかっただろう?例えば、私が彼と同じ男爵家ならば、ここで素直に頷いて、何の問題もなかったと言うのに!

  今まで、軍獣人の名門と言われるスティケート家に生まれたことに。誇りこそあれ、疎む思いなど抱いたことなどなかった。けれど、アステールに出逢って私は、…初めてその出自が苦しくなった。

  何故なら、我がスティケート家では、跡を継ぐ者が伴侶を迎えるならば、…それは『嫁』になるのだから。

  もし、今までに女性が長子として生まれたことがあるならば、その制度は多少は見直されていただろう。けれど、…幸か不幸か、スティケート家は、そもそも女児が生まれること自体が稀だった。家系図を見ても、この国の獣人として誕生し、軍人として仕えた歴史は長いのに、その間に生まれた女児は数人だ。しかも、大体が末子で、…やはり嫁に行った、と記録には残っている。

  だからだろうか。この家を継いだ長子は、全てが『男性』で。当然のように相手を嫁にもらって、この家を今まで、繋いできていた。勿論我が一族は獣人だから、男性を嫁にもらった者も幾人もいる。男性として生まれた者が、嫁に行ったと記録も、ある。けれど、…自分が『妻』となり、尚且つ相手を家に迎えた、という記録は無かった。ひとつも。

  …自分が『嫁』に、『妻』になりたいのならば、それは相手の元へと嫁ぐ以外に方法はない。当主となる者が『妻』として、スティケート家に相手を迎えるなど、今までに誰もいなかった。『嫁』を迎えるか、跡を継ぐのを断り『嫁』に行くか。スティケート家の長子に与えられた選択肢は、この 2つ。

  だから、私が伴侶を迎えるなら、…それは『娶る』と言うことなるのだ。相手が男性だろうが女性だろうが、それは『嫁入り』だと。要は、私が夫で、相手が妻だと。

  …けれど、私は。私は、もしアステールが私を選んでくれると言う、のならば。

  私は、『妻』になりたかった。

  自分でも、随分と無理を言うものだと思う。私はアステールよりも14も年上で、体格も、彼よりも一回り以上大きい。例えば、私が彼を抱き上げることは容易でも、その逆は無理だろう。外見も強面、とまではいかないとしても、…私を見て『可愛い』と思う者はいないだろう。逆に、アステールは絹のような白金の髪に大きく形の良い空色の眼と、まるで絵本に出てくる王子のように美しかった。これだけでも、私が『夫』で彼が『妻』が自然だと、誰しもが思うだろうに。その上、私は名門の軍人一族で、…彼は、男爵家の子息だ。この国では、娶る側の地位さえ高ければ、娶られる側の地位は、基本的には問題とされない。それこそ、貴族ではなく市井の人だろうとも、年端のいかない子どもだろうとも、原則としては何の問題もない。これはあくまで原則となるから、娶る側の身内が、身分を理由に反対すれば、それはその限りではないけれど。

  けれど逆に、…娶る側よりも娶られる側の地位が高い場合は、その婚姻は不可能になるのだ。だから、たとえ貴族の者が市井の者を愛したとしても、その貴族が『嫁』に行くことは赦されない。長子なら、猶更だ。貴族の者が市井の人を娶ることは、何の問題もないというのに。

  

  だから、私はどうあっても、彼の元へ『嫁』には行けない。もし、私が彼と一緒になれるとする、ならば。…それは、この家を、国を捨てるか、彼を『娶る』か、どちらかだ。勿論、娶るとなれば、私は妻にはなれない。跡継ぎとして、私が夫となり、…彼を身籠らせ、そうやって子を成すのだろう。

  それでもいい、と思って、…心臓が軋むように痛む。その繰り返しだ。私の親友と、その妻となる可愛い教え子の姿が脳裏に浮かぶ。とても幸せそうに笑う、2人の姿。時には、私がいることすら忘れてしまうほどに、お互いの姿しか目に入っていないような、そんな。

  勿論、私が夫で彼が妻だとしても、そうなれるに違いない。あの2人に、私たちの親友夫婦に負けないほどの、幸せな、互いを想いあう夫婦に。だったらいいじゃないか、と思っては、また切り裂かれるように心臓が痛むのだ。私が、…私こそが、出来るならば、彼の子を身籠りたいのだと。

  口を堅く結び、何も言えないまま、永久とも思えるような数秒が経った。ふ、とアステールの手が、私の頬に触れる。彼のしなやかな指が、私の短毛を拭うようにゆっくりと沈んだ。

  「泣かないでください、スティケート様」

  優しい、慈しむような声で。私は自分が泣いているのだということに、漸く気付く。そのまま彼の手を避けるように顔を伏せれば、カップのなかにぽつん、と水滴が落ちた。今度こそ、波紋となって薄茶の液体が歪むようにさざめく。そこに映る、私の顔も歪んでいた。

  「…すみませんアステール…私は…」

  

  それを見つめながら、絞り出すように言葉を紡ぐ。そんな私を、…どう受け取ったのか。彼のしなやかに長い指が、私の頬をそうっと撫ぜた。

  

  「いいんです、スティケート様。僕は、貴方に逢えただけで幸せでし」

  「違うんです!」

  私の言葉を、求婚への断りと受け取ったのだろう。優しい声色で言われる言葉を、…大声で遮る。聞きたくなかった。どれほど自分勝手など、自分で分かっている。けれど、…聞きたくなかった。

  「違うんですアステール、私は、…私は…」

  自分でも、何がいいのか分からない。…違う、本当は分かっていた。ただ、口に出せなかっただけだ。いつでも穏やかに、優雅に、…冷静に。そう自制していた自分が、崩れていく。恋というものに身を窶せるほど若くないと、知っているのに。…知っていたのに。

  「私は、貴方の『妻』になりたい…!」

  ずっと。彼に出逢って、…彼に惹かれてから。ずっと想っていて、けれど口に出せなかった言葉が、溢れるように零れていく。私の頬を撫ぜていた彼の指が、一瞬止まった。カップに映る私の顔は、揺れる表面に浮かぶ波紋で崩れるように歪んでいる。

  「けれどそれは出来ないんです、私はあの家の長子だから、跡を継ぐものだから。貴方を家に迎えるには貴方を娶るしかないんです、この国の制度では私は貴方の元へ嫁入り出来ない。長子ならば猶更です。だから、…だから…」

  「スティケート様」

  ぐちゃぐちゃになった思考と言葉。ただ感情のままに声を上げる私を、今度はアステールの声が遮った。こんな、まるで駄々をこねる子供のような私にすら、いつものように優しく穏やかな声で。

  「スティケート様、聞いてください。それなら」

  私を宥めるように、そう言いながら。今度は肩に手を置かれて、ゆっくりと顔を上げさせられる。涙で歪んだ視界に映ったのは、…今までで一番といってよいほどにきらきらと眩く輝く。彼の笑顔だった。

  「それなら、私が貴方の元へ、婿入りをさせて頂けばよいのではないでしょうか?」

  そのまま、弾むように軽やかな声で、続けられた言葉。その言葉に、…私の思考が、一瞬停止する。それは、…それは私にとって、全く予想もしていなかった言葉であったから。

  

  「…むこいり?」

  「そうです。私は後継ぎではありませんし、他のご令嬢とのご縁談も、私が婿入りすることが条件でした。私のほうは、何の問題もありません」

  きらきらと、眼も笑顔も輝かせて、…私の彼がなんでもないことのように、言う。

  婿入り、と言う制度は勿論知っていた。貴族などは、男女問わず長子が家を継ぐ場合も多いから、それは当然の制度であろうことも。第一子が男性の場合は、相手の性別がどうあれ『嫁入り』。女性の場合でも、相手が女性ならば嫁入りで、相手が男性ならそれは『婿取り』、ということになるだろうと言う、ことも。勿論知っていた。知っていた、けれど。…それが、我が一族に当てはまるとは、当てはめることさえ考えていなかった。だって、最初からそれは無いと、あり得ないと。…それが。それを。

  あまりにも簡単で、あまりにも困難な、アステールの発想。ぽかん、と目の前の彼を見つめてしまう私に、…アステールが、両手で私の手を、握る。先程と同じに、燃えるように熱い手。それを感じて、私の身体も、同じように熱く、熱が灯った。…ああ、ああ矢張り私は。どうしても、何が在ろうとも、…この彼が、好きだ。好きで、好きでどうしようもない程に。

  「私も、スティケート様の『夫』になりたいです。貴方の人生の支えになりたい。貴方とともに、これからの人生を歩んでいきたい。…貴方を愛し、護らせて欲しいのです」

  

  手と同じに。熱く甘く、そして真っ直ぐな彼の言葉。その言葉が、…私の全身に、沁み込んでいくようだった。もう、先程のような不安は感じなかった。そうか、私が、この国を、家を捨てずとも、…彼の『妻』になれる方法があるのか。彼の夫ではなく、『妻』に。…彼の子を授かれる方に、なれるのか。…なっても、いいのか。それが、赦されるのか。…先程とは違う涙で、視界が滲んだ。そんな私の目元を、また、彼の手が優しく拭ってくれる。それに、自然と目を細めながら、…彼を見つめて、口を開いた。

  「…スティケート家では、そのようなこと、前例がありませんよ?」

  「では、僕たちが第一号ですね!光栄です」

  軽口とも、念押しともつかない、自分の言葉。それに返ってきたのは、これ以上ない前向きな声で。それに、ますます笑ってしまう。…こんなに彼が前向き思考だったとは、今まで知らなかった。

  「家の者を納得させるのは、骨が折れるでしょうね」

  「大丈夫です、僕が貴方をどれだけ愛しているかを分かって頂けたら、きっとご理解くださいます」

  二つ目の言葉にも、彼が怯む様子はなかった。逆に自信に満ちた声で、そんなことを言うものだから。…私のなかに残ったちっぽけな不安など、その自身の眩さに、呆気なく消されてしまう。そうか。いいのか。…私は、私が、彼と。彼の『妻』となって、けれど当主として、あの家で幸せになっても。

  「貴方が幸せならば、それが僕の幸せです。僕が、貴方を必ず幸せにします。だから、2人で幸せになりましょう。」

  ね?と。まるで、私の思考を読んだように。声まで眩く、彼が言った。そんな彼に、…最後まで残っていた微かな痼りも、流されるように消えていった。その代わりに、…私の口から、自然と言葉が零れる。

  「…ソフィー」

  「え?」

  呟くような声も、アステールは聞いてくれていたらしい。それは誰かと、不思議そうな眼で問いかけられて、またモノクルの奥で目を細めた。

  「私の幼名です。ソフィー・スティケート。スティケート家では、長子の幼名は、男女問わず女性名だと決まっているのですよ」

  今まで、誰にも言ったことのない名前だった。この名で呼ばれていたのは、私が5歳になるまで。そのあとは、呼ばれたことはおろか、…覚えている者も少ないだろう。もしかしたら、両親すら忘れているかもしれない。…けれど。

  「私は、…この名前が好きでした。いつか、…私に愛する人が出来たなら、この名を呼んで欲しかった」

  もう、私には似合わない名前だと知っている。このような、可愛らしい名前など、今の私には不釣り合いだと。それでも。

  「アステール。私を、そう呼んでくださいますか?」

  彼の答えなど、分かっていた。…信じていた。それでも、そう問いかける私に。その鮮やかに美しい空色の眼を、瞬かせて。

  「勿論です!喜んで、僕のソフィー」

  輝かんばかりの笑顔で、そう言って笑うと。アステールが、私の手を、更に強く繋いで。

  休日、昼下がりのカフェの窓際で、人の目も、マナーですらも、この時ばかりは気にせずに。私は、彼とキスを交わした。

  周りのどよめきすらも、今の私には、心躍るように嬉しくて。…この先、何が在ろうとも。彼となら、…ともに歩いていけると。

  必ず、2人で幸せになれると。2人で、幸せになるのだと。…そう、固く、深く、こころに決めた。

  …さあ、明日から忙しくなる。まずは、頭の固い父親を、どうやって説得しようか。当主が『妻』など、初めてのことだから、きっと、恐ろしく反発されるだろう。それを考えながらも、…私の口角は上がっていた。

  きっと、私の隣に、この彼が在てくれるのなら。私は、どんな壁にも打ち勝てるだろう。

  軍獣人の名門一族スティケート家の。その次期当主が初めて『妻』となり、その夫を婿として迎える日も。…きっと、もうすぐだ。

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