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イケメン狼獣人がぽっちゃり少年を娶るはなし。【幕間2-恋も二度目なら②】

  今度こそ。…この想いが、こころに根付いて、花開くように。

  どうか、…この想いを、口に出すことが許されるように。

  「大丈夫か?」

  握った手はそのままに、俺もその傍らに跪いた。そのまま、もう片方の手でそいつの身体に腕を回して、抱き起こすように立ち上がらせる。ふくふくと肉付きの良い身体は、それに見合うだけの存在感を以て、俺の腕にすっぽりと収まった。横幅はふくよかながらも、背が低いせいだろうか。思ったよりも、その身体は小さかった。その身体に柔らかさに、…俺の心臓が、またも弾むように大きく、跳ねる。

  「うん、大丈夫!ありがとう」

  そう言って、そいつが屈託ない様子で俺を見上げた。俺の腕の中から逃げる様子も、避けるしぐさも何もない、無防備なまでに危機感のない身体。怯える色なんて欠片もない円い目が、一瞬でぎゅう、と細められて。それから、また、嬉しそうな笑顔になった。こんな風に、誰かから真っ直ぐに、好意的に笑顔を向けられることなんて、俺にはそう経験がない。それこそ、…一年前のアイツが俺に向けた笑顔が、ここ最近だと最後だろう。その笑顔に、深い意味なんてないと分かっていつつも、…それが何故だか面映ゆくて。そうか、ともごもごと言いながら、ソイツから手も眼も離して立ち上がった。その逸らした視界に、立ち上がったコイツの膝が眼に入って、…思わず眉を顰める。

  コイツの膝には、なかなか派手に血が滲んでいた。いや、滲むを越して、血が膝から脛の先にまで垂れるほどだ。この程度、俺たちなら日常茶飯事以下の、怪我にも入らないものだが。…コイツは軍人じゃないし、その膚は獣毛に覆われてもいない。俺たちとは違う、つるりとした膚に浮かぶ血液の赤色は、矢鱈と目立った。…これは痛いだろう。

  「大丈夫じゃねえだろ。その膝、酷いぞ」

  言いながら、尚もにこにこと笑って俺を見ているソイツに向かって、指をさして膝を見るように促す。それにつられるように、自分の膝を見たその目が、驚いたように見開いた。それから一拍置いて、その目が漸く痛そうに崩れる。

  「うわあ…」

  「うわあじゃねえだろ、今気づいたのか」

  その口から漏れる、痛そうな割に緊張感のない声に、思わず突っ込んでしまいながら。とりあえず傷を覆おうと、軍服のトラウザーのポケットを探る。…多分、ハンカチか何かあったはずだ。俺自身だと絶対に持ち歩かない代物だが、休日だろうと軍人であることを求められる今は、身だしなみも重視されて、こういうものも持って歩くように指導されている。

  ちなみに、休日だろうが服装は軍服、と言うのも、俺たち下級兵に定められている規則だ。だから、この格好で万が一にも問題を起こしでもしたら、直ぐに軍に連絡が言って、処罰される。そもそもこの国の獣人は、ほとんどが軍人らしいからな。獣人を見たら軍人と思え状態で、…そういう意味でも、俺たち獣人は、街で避けられがちな存在なんだろう。特に俺は、肉食獣人ってこともあって―ああ、またこの思考に行きつく。

  目の前のコイツには分からない程度に頭を振りながら、ポケットからハンカチを取り出した。下したばかりの真っ白いやつだ。これなら清潔だし、怪我にもそう障らないだろう。…だが、さすがに消毒薬までは持ち歩いていない。…とりあえず、傷口を覆うだけでもいいか。そんなことを思いつつ、そいつの前に再度しゃがんだ。

  何をしてるのか、とばかりに、その円い目が不思議そうに俺を見遣る。そのまま、好奇心につられてなのか、その目が顔ごと、…俺の近くにまで下がってきて。さっき、腕の中に収めた時よりも。その顔が遥かに近いことに、身体に響くほどに心臓が脈打った。胸どころかこめかみにまで心臓が出来たように、脈打つ心臓がどくん、どくんと耳に煩い。

  早く離れようと、手早くハンカチで覆おうとしても、指がもつれてうまくいかなかった。その上、俺の指先を見ているのか、…そいつが低い背を、更に屈めてくるものだから。俺の額に息がかかるほどに、コイツの顔が近くなって、ますます俺の手が覚束なくなる。こんなもの、普段ならものの数秒で巻けるってのに!

  感覚として、数分は費やしただろうか。もしかしたら、本当はそれほど時間は経っていないのかもしれない。それでも、俺にはこの時間が、矢鱈と長く感じた。早く離れたかったのか、…それとも、本当はもっと、コイツを近くに感じていたかったのか。それすらも、自分じゃ分からない。

  長いのか短いのか分からない時間を掛けて、最後に、膝の前でぎゅ、とハンカチの裾を結ぶ。そこまで終わって、喉奥で大きく息を吐いた。緊張か解放か、…それとも名残惜しいのか。自分でも分からないことだらけな感情を抱えたまま、『終わったぞ』、とソイツに告げる。肉球に汗がにじんでいるのが分かって、さりげなくトラウザーで手のひらを拭う。巻いてすぐだと言うのに、白かったハンカチには、既に赤く血が滲んでいた。

  「すごい!全然痛くない!お兄さん、ありがとう!」

  たったのこれだけだというのに、頭の上から歓声が上がって、…思わず小さく笑ってしまう。口調もさることながら、俺を『お兄さん』と言う呼び方が、…なんだか幼く、くすぐったかった。俺を見れば、大概の人間が『軍人』と呼ぶ。そりゃそうだ、俺だけじゃない、獣人を見れば、市井の人間は大概が俺たちを『軍人』として見るだろうし、そう呼ぶだろう。現にそうだしな。俺たちをして一番呼びやすいし、間違いがないのが、多分『軍人』だ。それを当たり前だと思っていたし、それに不満を覚えたこともなかったが。…こうやって、違う呼ばれ方をすると、思いの外、胸にくすぐったくて、面映ゆい。

  俺にそんな想いを抱かせている当のソイツは、痛くない、ということを確認しているのか、ハンカチを巻いたほうの足をばたばたと揺らしては、嬉しそうに俺を見上げて屈託なく笑う。…一体コイツは幾つなのか。見るからに子どもだとは思う。が、自分の年齢を見る目というのが当てにならないことを、一年前に思い知ったからな。あの、…近衛兵長の『奥さま』が、俺とそう年が変わらないなんて、思わなかった。十代前半くらいだとスティケート先生には告げたが、俺の予想では12、3歳だと思っていたのに!それが一年前で16歳とは、俺と2つしか違わないじゃないか!それを考えれば、コイツも俺が思うよりも、もっと上にみるべきだろう。

  そんなことを考えながら。それでもなんでもなさそうに、そいつの前で立ち上がる。…まるで俺の姿を追うように、その円い目がまた、俺を見上げた。…さっきも思ったが、改めて見ると、その背は俺よりも随分と低い。俺を見上げている、という今の体勢もあるんだろうか、その顔は、俺の首元よりも低かった。下手したら胸元だ。多分、コイツの旋毛なんて俺からは丸見えになるだろう。俺が獣人の中でもでかい方だとは知ってるが、コイツも人間の中でも割と小さい方なんじゃあねえだろうか。

  

  こんな奴、俺なら簡単に抱き込んで攫えるな。そんなことが不意に頭を掠めて、慌ててそれを打ち消した。…なんだって俺は直ぐそういう方向に考えが行くのか!前もそうじゃなかったか!?なんだ、俺が肉食獣人だからか?コイツを本能で獲物だとでも思ってるというのだろうか。それとも。…それとも?続きそうになる言葉は、それでも今は形にならずに。その代わりに、…俺の心臓を更に高鳴らせながら、俺の中へと溶けていく。言葉になりそうでならないそのもどかしさを、…それでも、どこか心地好く想いながら。またも、その柔らかな手を取りそうになる自分の手を隠すように、ポケットへと仕舞う。

  「…早く家に帰ってちゃんとした手当しろよ」

  「うん、でも買い物して帰んないとだし。行きたいとこはすぐそこだし、お兄さんが手当てしてくれたから、全然大丈夫だよ!」

  意識をすると、ただでさえぶっきらぼうだと思う俺の口調は、更に素っ気なくなってしまう。それも、…一年前のあの経験で、知っていた。今も、投げるような口調になってしまった俺に。そんなことすら何も気にしていないように、明るい声でソイツが言う。けれど、この会話は、…今にも終わってしまいそうで。次にこいつが口を開いたときには、『じゃあ』という言葉が出て来てもおかしくない。当たり前だ、俺たちはここで会ったばかりで。コイツが転んだところに俺が出くわしただけの関係で。…いや、『関係』なんて言葉すらおこがましいほどの、ただの通りすがり。だって、…現に俺は、コイツの名前すら知らないじゃないか。…聞けないじゃないか。…また、一年前のあの日が、脳内を過った。

  俺からは名前も聞けなければ、名乗れもしなかったあの日。ただ、きっと俺に逢いに来てくれるだろう、と、…そんな漠然とした期待だけで、待つことしかしなかった。もし、アイツが近衛兵長の『奥さま』じゃなかったしても、…俺は、何もしなかっただろう。出来なかっただろう。ただ、アイツが俺に逢いに来てくれる日を待って、待って、…待つだけだったに違いない。アイツが何処の誰かなのかを調べることも、探すこともせずに、ただ待って、待って、…きっと終わりは、今と変わりはしなかった。アイツに、もう決まった誰かが居ようと、居まいと、…ただ待つだけだっただろう俺には、きっと。

  きっと、…俺は。その手を振り払われるのが、怖いんだ。だから、手を差し出しても、その手を取ってもらえるまでが待てない。人間だろうが獣人だろうが、俺より力が強い奴なんて、そうはいない。…だから、こっちから掴んじまえば、俺から逃れることなんて出来ないだろう。それが分かってるから、…強引にでも、その手を掴む。

  名前をこっちから言わないのも、聞けないのも、…きっと、それと同じなんだろう。拒否されるのが、怖い。こっちから名乗って、相手から返ってこない。相手に名前を聞いても、教えてもらえない。幼い頃から、たびたびあった出来事。それに起因するのは、いつだって『俺が肉食獣人だから』。ただそれだけだった。

  怯えられている。恐れられている。俺を取り巻く世界で、俺に対する評価は全て、『恐怖』という一語だけで。同じ豹獣人だった親父は既に亡く、…俺の仲間は誰もいなかった。今でも、同じ豹獣人に逢ったことはない。肉食獣人だって、軍内には数えるほど。少なくとも、俺の同期には誰もいない。

  だから、…俺は、誰かと対等に会話することすら、分からないんだ。俺とまともに会話してくれる誰かは、この軍に入るまでは、母親だけで。軍に入ってからも、…俺と普通に話してくれるのは、上官だけだった。俺からは、必ず敬語を使うべき相手。同期からは、…逆に敬語で接せられて、微妙に距離を置かれている。お互いになんでもない口調で話す相手なんて、ここに来ても、俺にはできなかった。

  こんなだから。…俺は、この瞬間も、俺から話を続けることが出来ない。俺から、…この後を求めるようなことを言って、嫌がられたら。怯えられたら。そう思うと、…言うべきことが、何も出てこない。どうせ怖がるのなら、俺が手を掴んだ時に、怯えて欲しかった。俺が、…そうして欲しいと思ってるときに、怖がって欲しかった。一度でも期待した後に、怯えられるのは、…自分で思う以上に堪えるから。さっきは、あんなに弾けるような笑顔で俺を見て笑ったその顔が、怯えるように歪む様なんて、見たい訳がない。こんなの、…俺が勝手に期待して、勝手に失望するだけだ。それを分かっていてすらも。

  コイツから、『じゃあ』、と言われるのが嫌で。それでも、…俺からこの後を口にすることも出来ずに。寧ろ、そっちから言われる前に、…俺から離れようか、と。そんな思考すら脳裏をよぎって、口を開きかける。そんな、俺に。

  …柔らかな手が、俺へと伸びた。まるで躊躇うことなく、その手が俺の腕へと掛かって、置かれる。軍服の上からでも分かるほどに、柔らかくて、あったかい感触。その手で、ぎゅ、と強く、けれど優しい力で腕を引かれて、…コイツが、俺の腕を取ったんだということを、漸く頭で認識した。

  「ね、お兄さんはまだこの辺りにいる?俺、これから買い物して帰るから、よかったらあとでうちに来てよ!手当てしてくれたお礼もしたいしさ!」

  俺の顔を覗き込むように、円い目が低い位置から俺を映した。茶色、よりも更に濃いその目の中に、…同じような色をした俺が微かに、けれど確かに映っている。俺がソイツを見返したことが、…嬉しかったんだろうか。そのぷくぷくとした顔が、弾けるように、一気に破顔した。まるで嬉しさを隠さないように、感情が駄々漏れの表情。見ているこっちのこころまで、弾ませるような笑顔で笑いながら、…その手が、俺の腕に置いた手に、更に力を込めた。それが、…まるで引き留めるようだ。頭の隅で、そんなことを想う。それが、俺の期待だということも、分かっていた。

  「俺の家、この先で揚げ物屋やってるんだ。まだ開店してからそんなに経ってないけど、結構人気なんだよ。クロケットとか特に美味しいかさら、食べに来てよ!ごちそうするからさ」

  何時でもいいよ、俺店で待ってるから!にこにこしたまま、俺の腕を引っ張るように引いて、ソイツが言葉を続ける。語尾まで弾むような口調は、…コイツが本当に嬉しいんだと、それを物語っている気がした。社交辞令じゃない、お愛想じゃない、こころからの言葉。

  

  …そんなコイツに。ポケットに仕舞ったままだった手を取り出して、…その手をまた、俺から繋いだ。指先が震えたような気がして。…それを誤魔化すように、握ったその柔らかい手を、強く握る。怯えるかとは、…思わなかった。そんな俺の想いに応えるかのように、やっぱり、ソイツは繋ぐ俺の手を、嫌がることも、怯えることもしなかった。ただ、嬉しそうに笑って、俺を見ていた。

  そんなコイツに、…言葉を紡ぐ勇気をもらった気がして。手を、握り込むように強く繋ぎながら、静かに、大きく息を吸った。…俺から、俺のほうから踏み出す、一歩を。

  

  「…それなら、俺が負ぶって買い物とやらに連れて行ってやる。その足で、お前が歩くよりも早いだろ。だから早く済ませて、家に帰るぞ。そんな怪我でも、放っとくと大変なことになるんだからな」

  選択肢を出したようで、断定したような言葉。…やっぱり、俺は断られることがどうしても怖いらしい。言いながら、…断られるかもしれない不安に、今にも逸れそうになる目線に力を込めて、目の前のコイツを見つめた。

  …そんな俺に。目の前のコイツが面白いくらいに目をまん丸くして、…それから、何故だかその頬が、上気していく。そこまで色が白いわけじゃないというのに、…眼に見えるほどに、分かるほどに、その頬が赤くなって。それから、唐突に、勢い良く首が横に振られた。それは、…俺が心底怖いと思っていた、否定のはずなのに。今は、真っ赤になって首を振るソイツが、それすらも何故だか眩しく眼に映った。

  

  「い、いいよ!やだよ!」

  「文句言うな!嫌がるならこのまま抱えて、買いものは無しで強制送還するぞ!それが嫌なら黙って負ぶわれろ!」

  「だっ、だってそんなの恥ずかしいじゃん!だって俺重いよ!?この体型見たら分かるじゃん!俺がお礼するはずなのに迷惑かけるし、そんなの悪いし、絶対やだよ!俺歩けるよ!」

  「お前の体重なんて、俺には重くねえよ!俺とお前が、どんだけ腕力に差があると思ってんだ!獣人舐めんな!」

  道端で、そんなことを怒鳴りあっている俺らに、…少ないながらも道行く奴らの視線が突き刺さる。いったいこいつらは何をやってるんだ、と言わんばかりの目線に、続けたい言葉を喉奥で飲み込んで。…それから、気づく。

  …こんな風に、誰かと言いあったことなんて、今までなかったことに。今まで、怖がられてばかりで、恐れられてばかりで。…まともな会話すら、したことのなかった俺が。こんな風に。

  それを想って、口元が緩んだ。それを隠すように覆いながら、わざとらしくため息を吐く。今まで、俺を真っ直ぐに見ていたコイツの目が、…初めて、狼狽えたように俺を見つめていた。けれど、決して俺を怖がっているわけではないことが、真っ赤に染っているそのぷくぷくした頬からも分かって。…覆って隠した手の下で、俺の口がますます口角を上げていく。

  「…で、どうする?俺に負ぶわれるか?それとも抱えられたいか?どっちがいいんだ」

  尚も、断言するように、選択肢を突き付けた。けれど、…俺のこころは、さっきまでとは違って、随分と軽やかに弾んでいる。まるで、…コイツがどう答えるかを、楽しむように。誰かの返答が、…楽しみだなんて。そんなことも、今まで、なかった。

  俺の言葉に、円い目が、困ったようにうう、と歪む。それから、幼子のように口を尖らせて、首を傾げて、うーん、うーんと二、三度唸って。…その顔が、笑うようにほどけた。赤い顔のまま、照れたように、それでもはじけるように眩しく、破顔して。

  「じゃあ、おんぶがいいな!」

  諦めたのか、吹っ切ったのか。一層のこと清々しい口調で、ソイツが言う。その笑顔に、…俺も、笑った。こんな風に、母さん以外の誰かの前で、隠すことなく笑うのも。…随分と、久々だ。

  そんなコイツに、笑ったままでおう、と頷いて。そいつの前に背を向けて、片膝をついてしゃがみこんだ。さすがに一瞬は躊躇うかと思ったその身体は、…予想外に、何の躊躇いもなく、俺の肩にその柔らかな手が置かれる。そのまま、無防備なまでの仕草で、ソイツの身体が、俺へと寄せられた。…さっき、転んだこいつを抱き起こした時に、腕に一瞬だけ抱え込んだ、その時よりも近く、強く俺へと寄せられるふくふくとして柔らかな身体。それに、…心臓を大きく跳ねさせながらも、俺のこころは満たされたように穏やかだった。背中に、コイツのあたたかさと柔らかさを感じるだけで、…気持ちが優しく、円くなっていく。なんだ、この円いコイツには、人のこころまで円くさせる何かがあるのか。そんなことを軽口のように想いながら、口端を緩めるように大きく上げる。俺の横で、つま先まで柔らかそうな足が、子どものようにぶらぶらと揺れてる様にさえ、胸が高鳴った。…一体、俺はどうしちまったのか。そう思いながらも、…そんな自分が、いやじゃない。

  「ねえ、重くない?大丈夫?」

  後ろから、明るい声が身体を通して響く。そんなコイツに、『このくらい、重いのうちに入らねえよ』、と返しながら。…自分からは随分と長いこと、聞いたことのない言葉を、ゆっくりと、口にした。

  「なあ。…お前。名前はなんていうんだ?」

  今まで。…こう問いかけても、返ってくることは少なかった。だから、…俺から聞くのは、止めてしまった。けれど。…けれど、コイツなら。そう思うこころに、不安はなかった。

  俺の言葉に、不思議そうな気配が醸し出されて。それから、慌てたように、背中のコイツが、口を開く。

  

  「あれ?っていうか、まだ名前言ってなかったっけ?ごめん!」

  てっきり言った気になってた!と、わたわたした声が続いて。そんな声にすら、笑いが漏れる。寄せられている身体が更に密着して、…俺の顔の横に、コイツの顔が覗くように触れた。頬の獣毛に、コイツのぷくぷくした頬が掠める。…柔毛の下で、体温が一気に上昇した気がした。

  「俺、シイス!お兄さんは?」

  屈託のない声が真横で響いて、耳に溶けた。シイス。珍しい名前の響きに、どこか違う国から来たのかと、なんとなく思う。まあ、俺も人のことは言えないが。そんなことを考えながら、…俺も、自分の名を口にした。

  そういえば、誰かから名を聞かれるのも、…一年ぶりだな、なんて。そう、アイツのことを、…近衛兵長の『奥さま』を思い出しても。もう、俺の心臓は、痛むように軋んだりしなかった。

  「ハンデットだ」

  「へー!ハンデットさんか、かっこいい!」

  俺の名を反芻して、感嘆のように声が上がる。それを、心地好く聞きながら、俺も、獣毛を掠めていたコイツの頬へと。…寄せるように、顔を傾けた。

  「…ハンデットでいい」

  呟くように、そう言うと。コイツが、…シイスが間近の距離で、驚いたように俺を向いた。柔らかな頬が俺の獣毛に沈んで、全身に響くほどに、また、心臓が大きく脈打つ。

  「え、でもハンデットさん、俺より年上でしょ?呼捨てでいいの?」

  「別に。…そういうの、苦手なんだ」

  驚いた声で、不思議そうに問いかけられて。…またも呟くように、曖昧に答える。そういうのが苦手、…かどうかも分からない。俺には、…そんな風に、近しい意味で呼び捨てしてくる誰かなんて、居なかったから。俺を呼び捨てで呼ぶのは、母さんと、軍の上官だけだ。同期の奴らすら、俺と相対するときには俺を敬称で呼ぶ。…陰ではどうだか知らないが。

  だから、…だからこそ、だろうか?コイツには、敬称で呼ばれたくなかった。もっと、…もっと近い呼ばれ方を、されたかった。近くなりたいのは、…俺とコイツの距離、そのものかもしれないが。

  そんな俺の思考に、当たり前だがシイスが気づくことはなく。そっかあ、と明るい声で頷いてから、俺に負ぶわれている、…間近の距離で。シイスが俺を見つめて、また、弾けるように眩く、笑った。

  「じゃあハンデットって呼ぶね!よろしくね、ハンデット!」

  屈託ない口調で、躊躇うことなく呼ばれた、名前。それに、…ああ、と。ただ頷くだけの答えしか返せない俺にも、気にしないように。シイスが、楽しそうにこれから行きたい店の、説明を始める。

  気づけば、肩に置かれていたはずの、コイツの、…シイスの手が。いつの間にか、俺の首元へと、抱き着くように回されていて。

  そのあたたかさを感じながら。…このまま、コイツが行きたい店にも、コイツの家にも着かなけりゃいいのに、なんて。そんな随分とロマンティックなことを考えちまって、内心で、密かに照れた。

  

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