Ad
イケメン狼獣人がぽっちゃり少年を娶るはなし。【64-玻璃の話】
今まで、任務で様々な場所に忍んだことはあるが。『パーティー』と称する場所に、正面から参加するのは初めてだ。
これも、軍の任務の一環だ、と言われた為に、訪れたこの国の王城で開かれている立食の宴。中に通され、多くの軍獣人の間を縫うように歩きながら、ここは随分と煌びやかなものなのだな、と、何ともなしにそんなことを思う。この会場にいるものは、ほとんどが獣人だ。この国の軍人は獣人が主だと言うから、それも当然だろう。
料理にも何にも特に興味は惹かれないが、軍の慰安の為のこの宴に、相応の金をかけていることは俺でも分かった。ここまで獣人が人間と対等な地位を築いているとは。矢張りこの国に来て正解だった、と内心で頷く。自分からは戦いを仕掛けない、国防に特化した国。国内の貴族などもほとんど争わない、大陸の中でも一、二を争う平和な国だと、風の噂で聞いてはいたが、所詮は噂。普通は幾ばくかの嘘が混ざっているものだ。それでも、その半分でも真実ならば、と一縷の希望を抱いて大陸の逆端にあるこの国まで来たが。あんな噂がまさかここまで真実だとは、思ってもいなかった。
そんなことを何ともなしに考えながら、無意識に侵入経路を確認していく。…しかし、矢鱈と隙の多い城の構造だ。前にいた国の城のほうが、まだ侵入者を防ぐための絡繰りが多かった。この近隣の国も、この城のような隙の多い造りになっているのだろうか。これなら今までよりも侵入するのは簡単だな。そんな風に、長年の経験が染みついた思考回路は、意識しなくても大将首をあげる為の手段を編み上げていく。
俺は、この国の軍人となったが、国王が俺の主だとは思っていない。国王は俺の雇い主であり、俺の働きと引き換えに給金を寄越すもの。俺が誰かを殺しその分の金を俺に払う、その金の出どころ。ただそれだけだ。今の主な仕事は諜報であって暗殺ではないが、労働と引き換えの給金は変わらないだろう。王に仕える矜持だとかそんなものを説かれても困る。俺にはこの国への思い入れなどないし、矜持など習った覚えもない。それに、…俺にとって、雇い主と主は、絶対的に違うものなのだから。
この国なら、あの方も、何を心配することなく平和に暮らせる。そう想うと、何も感じなかったこころに喜びが滲んだ。軍人として働けば給金もいい。家も宛がってくれる。なにより、…ここでは俺とあの方は『夫婦』だ。勿論、俺にとってあの方はかけがえのない、俺だけの主であり尊き光だが。それと同時に、あの方は俺の、俺だけの妻となってくれた。自然と上がる口角から、犬歯が伸びるのを感じる。あの方に逢うまで、ほとんど感情の無かった俺は、湧き上がる想いを制御する術を知らない。うまく笑うことも出来ない。今だって、口角が上がるだけで、あの方のように眼は細まらず。まるで、口元だけを歪めたおかしな笑顔になってしまうのだが。それでも、…あの方は、俺が笑うと、嬉しそうに笑ってくれるのだ。まるで、雪解けの花のように、透き通った優しい笑顔で。
この国にも、元いた国も、あの方以外の誰にも、興味もない。あの方の命以外、俺も含めて全ての命は平等に価値がないものだ。だから、殺すことにも躊躇らわない。罪悪感も感じない。あの方さえ、この世に、俺の傍にいてくだされば、それでいい。
俺の世界は、あの方だけで全てが満ち足りるのだから。
元々、俺はこの国の者ではない。更に言えば、どこの国の者なのかも、親の顔も何も知らない。生まれて直ぐに、捨てられるように二束三文で売られたんだと、育った場所で誰かに聞かされた。別に、それを聞いたところでどうと言うこともないが。元々が、俺は感情の薄い子どもだったのだろう。何の感慨も湧かずに、多分無表情でふうん、とでも言っただろうか。そんな俺に、どんな反応を予想していたのかは知らないが、相手は鼻白んだ顔をしていた。その表情は、なんとなく覚えている。生まれ持った感情の薄さと起伏の無さ。それを更に薄くし、自然と無くしていったのがここでの生活だった。
俺が売られ、育った場所は、傭兵の養成所、とでも言えばいいのだろうか。身寄りのなかったり、捨てられたり、安く売られた獣人の子をそれこそ大陸中から集めて、暗殺や諜報と言った隠密裏の活動に特化した傭兵へと育てる組織。俺を含めてほとんどが名を持たず、意味のある名は与えられず、自分を示すものは『おい』か『そこのお前』か番号のみ。それが当たり前で、不満もなければ不便だとも思わなかった。
俺は学校と言うものに行ったことはないが、そういったものの一種ではあるのだろうか。教わるものが学術ではなく、効率的な人の殺し方だというだけで。それ以外にも身のこなし方や気配の消し方、身を隠す術。そういった、世の陰で活動するに必要な能力を身に着ける場所。それがあったのがこの大陸の端にある、葦津江の国だった。
その国は、表面上は荒れてもいなければ獣人差別や革命もない、至って平和な国で。けれど、それを一皮むけば、貴族同士の諍いの絶えない国でもあった。大陸の中でも、面積が一際大きな国、と言うのもあるのだろう。他の国と争って領土を広げるよりも、自国内での領土を広げたい貴族が多い。その理由が、領主が領地を治める構造にあった。
葦津江の国では、その広すぎる国土の為か、国王が直接治める領地の他に、その土地土地の貴族が独自に治める領地がある。広すぎて、国王の眼が行き届かないのだ。だから、国王が直接治めるのは城下とその近隣くらいで、それ以外は貴族に任される。
勿論、その領主も国王に決められた税を納付するのだが。けれど、その領地の税を決めるのはその土地の領主で、王に収める税以外の金は、全て領主に入る。領土が広ければ広いほど入る金も多い。例えば領主が国に治める金以上に、領民から税を徴収すれば、幾らでも領主はもうかる。税金を重くするのも自由だ。
だがまあ、やりすぎると領民から反乱を起こされることもある。そんなことは歴史上度々あったらしく、領主は皆、そういう歴史を知っているからこそそこまで酷くはしない。だから、普通の領民として過ごすならそこまで悪くはないらしく、俺は今まで反乱を起こされたという領地を聞かない。
そんな国の構造だからだろう。私腹を肥やしたいなら税を増やすことではなく、領土を広げることが一番安全だ。だから少しでも領土を広げ、私財を増やしたいが為に血で血を洗っているのが、領主を任されている各地の貴族となる。それでも表面上は平和である為、正面切って兵士などを雇うことはできない。そんなことをすれば、国王に謀反を起こすつもりだと王に密告され、処刑されかねないからだ。
そこで必要とされるのが、暗殺を生業とする俺たち傭兵だ。表向きは門番なり護衛なり馬丁なりとして雇われるが、本職は暗殺。ちょっと名のある貴族なら、そういう傭兵を一人や二人は雇っているのが暗黙の了解だった。大貴族ともなれば、庭師だ使用人だと称して何十人と雇うところもある。
俺のいたような傭兵の養成所が、あの葦津江の国以外にもあるのかは知らない。けれど、同時期にそこにいた奴と、敵として相対することは幾度もあった。だが、顔を知っているからと言って、あの育成所で仲間として過ごしたわけじゃない。それは相手も同じだろう。お互いに、顔を見て驚くこともなければ、隙が生まれるわけでもない。
『自分以外は殺すものと思え』。それが、あの世界での基本だった。敵ですらない、『殺すもの』。そこに慈悲も何もない。勝てれば生き延び、負ければ死ぬ。そういう単純な世界に俺たちはいた。その世界しか、知らなかった。
俺がこうして生き残っているのは、暗殺者として俺のほうが優れているから。それだけだ。この世界で、俺も含めて生きようが死のうがどうということもない。全ての命は、等しく価値のないもの。どうでも良いもの。…そのはずだった。
(こういう場所は、ももさまはお好きだろうか)
不意に浮かんだ思考に、どうでも良かった目の前の宴の煌びやかな風景が、微かに色づいて見える。ももさま―桃簾様が、俺のただ一人の主だ。俺に、玻璃と言う名と、生きる意味をくれた方。俺の世界の、全てとなる方。
『はり』
…初めて、あの方と出逢った。五年前の日のこと。俺に、初めてその名を与えてくださった時のことが、頭を過ぎった。
どのような経緯であの家に雇われたのかは覚えていない。伝手で声を掛けられたのか、俺の手腕を買われたのか。あの世界では、最初の仕事こそ養成所が面倒を見てくれるが、それ以降は自分で生きていくしかない。もし自信のない奴は、不当な扱われた方をしようとも、最初の雇い主の元で働くしかなく。能力を誇示出来るものは、自分に見合うだけの扱いを求めて雇い主を渡り歩く。そんな完全な実力主義の世界、それが傭兵と言う生き方だ。
俺があの家に雇われたのは確か数えて3件目で、前の2件は給金の折り合いがつかずに俺から契約を破棄した。そのうちの1件は、雇い主がこちらからが求めた給金の値上げにも契約の破棄にも頷くことなく騒いできたので、面倒で交渉決裂とした上で屠ってきた。その後は知らん。暗殺を生業としている相手と賃金のみで繋がっているのに、その賃金を渋る上に契約破棄もしたくないなど、どんな目に遭っても構わないと言っているようなものだろう。自業自得だ。
そんな前例を、相手は知っていたのだろうか。3件目に雇われたその家は、今まで以上の給金を提示された。働き次第では更に給金を弾む、とも。別に、金さえもらえればどうでも良かったから、頷いた。…あの時までは、確かに俺は、そうだった。
それから暫くは、俺は雇い主以外の誰とも関わらずに過ごした。時折、他の使用人と接することもあったが、皆、俺には好意的だった。俺の表向きの役職は雇い主付きの護衛だか用心棒だかだったから、いつも屋敷にいない俺を、真面目に主人を護衛しているとでも思っていたんだろう。本来の俺の仕事は暗殺と諜報だったが、それは雇い主以外には、家族にも使用人にも伏せられていた。
この屋敷に、雇い主以外の誰がいたのか。最初は、俺は知らなかった。調べようと思えば簡単なのだが、自分の能力を仕事以外に使う気もなかったし、興味もなかった。だから、…雇い主の家族は、十になる息子しかいない、と俺が知ったのは、俺がここに勤め始めて暫く経ったころだ。本妻は先立ったことや、それ以外に妾に産ませた腹違いの息子や娘がいる、と言うことも、使用人の噂で同時期に何となく知った。
それでも、その時はそれ以上でもそれ以下でもなく。あの方に、俺が出逢うことになったのは、それからまた、少し経った頃だった。
『息子が庭を散歩したいと言う。あの子は片足と片目が悪いから、護衛をしてくれ』
雇い主直々に、そんな任務が与えられたのが、…忘れもしない、あの春の日だ。
それまでも、きっとももさまが庭を散歩されたことなど、幾度もあっただろう。けれど何故かその日は、俺に護衛が命じられた。何の文句も言わずにただ淡々と任をこなす俺を、あっちが信用でもしたのだろうか。それは分からないし、興味もない。
ただ、…あの日が始まりだった。ももさまの護衛を、俺が任せられた日。俺の世界が、人生が始まった日。
庭、と言ってもこの屋敷には春夏秋冬と4つの庭がある。一体どの庭かと他の使用人に問いかけて、場所を聞いて。その時にもう庭に向かっていると言われて、屋根を伝ってそこへ急いで。
初めて。…あの方を眼にした瞬間のことは、今でも鮮やかに思い出せる。殺すこと以外に何もなくて、誰の命も、自分の命も平等に価値のない、どうでもよいもので。世界が何色なのか、それすら知ることも、その必要も感じなかった俺が。…世界に色がある、と、初めて気づいたあの、一瞬。
春、と名付けられた雇い主の庭園のひとつ。そこで、…一番に眼に入ったのは。遠目からでも分かるほどにふっくらと柔らそうで、けれど小さな着物姿。透明な日の光が降り注ぐ下で、なにかを見つめる陽の光よりも透き通る眼差し。…その目に映るものが、その小さな頭上を覆い、枝を垂らすほどに咲き誇る花なのだ、と気づいた瞬間に。…俺の眼にも、濃い桃色が色として映った。そこからまるで広がるように、俺の視界に色が差し込んで。今まで感じたことのない色の洪水に、眩暈さえした。あの方の、甘やかに白い肌。纏う着物の、儚く薄い撫子色。花の隙間から見える葉の緑。今でこそ、色の名も、ももさまから教えてもらって知っているが。あの頃は、…何の色も知らなかった。
無意識に息をのんで。縫い留められたように、足は一歩も動かない。あの方までの十歩程の、普段なら瞬きのうちに詰められるその距離を、一歩も踏み出せずに、桃色の花の下、透き通る陽を受けながら花を見上げるあの方の姿を、ただ、…ただ、見詰めた。
それは、数秒だったのか。それとも、数分だったのか。時の経過も分からぬほどに、あの方を見詰めていた俺に。…不意に、その柔らかそうに小さな身体が、俺を振り返った。今まで花を見遣っていたあの透き通った眼差しが、俺を映して。…それだけで、俺の身体はびくり、と跳ねて硬直する。驚いたのではない。怯えたのでも、勿論ない。まるで、…雷に打たれたようだった。意味の分からない、感じたことのない衝動。
感情など、元々まともに持ち合わせていなかった上に、傭兵生活で疾うに無くして久しいと思っていた俺に、…その衝動は大きく、衝撃的過ぎた。心臓の鼓動が乱れ、身体は熱く、汗が滲む。声など、一言も発せなかった。
そんな俺を映した丸い目が、ゆっくりと細められた。それは、…まるで冬から春へと移り変わるときの、儚くもあたたかな雪解けの光を想わせる様で。その光景が余りにも眩しくて、思わず眼を細めながら。全身に走ったままの衝動があまりにも大きすぎて、俺はこのまま死ぬのではないか、と思ったほどだ。…この世の最期に見る光景が、こんなに、…こんなに眩く胸打つ光景ならば上出来ではないか、とも。
乱れた心臓は鳴りやまず。何もせずとも息が上がって、呼吸すら覚束ない。そんな俺の前で、…その大きな丸い目を惜しげもなく細めたあの方が、口元までほころばせた。ふっくらと柔らかそうな頬が微かに震えて、いとけなく幼げな丸顔が、更に幼く俺へと笑う。…今にも溶けそうで、けれど優しくあたたかな笑顔。奪われたままの眼は、一つも動かせなかった。目線どころか、瞬きすらも。
『こんにちは』
幼さを表すように、高くおっとりとして優しい声が、俺に向けられた。あまりにも優しいその声色に、…それが声なのか、そんなことすら瞬時に分からなかった。あの方に奪われた眼を見開いたまま、相応しい態度も分からずに。ただ、無言で頷くことしか出来なかった俺は、今思えばどれだけ不敬だっただろう。それでも、ももさまは俺のそんな態度を、気にすることもなく。
『俺は、桃廉。だけど、ももって呼んでね』
だって、そのほうがかわいいでしょう?そう言って、小さく首を傾げながら、口元を両手で隠してはにかむように笑った。…その表情に、まるで全身の血が沸騰したように熱く全身を巡った。なにかの感情が強く芽生え、浮かんで。けれど、その時の俺には分からずに、ただ、あの方を見詰めた、だけだった。
今なら分かる、なにかを、誰かを『可愛い』、と。『愛おしい』と想う、その感情。あの時から、俺が、生まれて初めてこころに想う感情は、全ての方の為に在る。あの頃から、今でも。可愛いも、愛おしいも、…何者からも護る、という想いも。元から薄く、いつの間にか無くしてしまっていた感情を。俺に与えてくださるのは、いつだって、ももさまだ。
『あなたの名前は?』
細めて笑ったままの不思議な色をした目が、俺を映した。遠目にもそう、感じた。そのくらい、ももさまの目は、俺を真っ直ぐに見ていてくれて。…その真っ直ぐな視線に、何故かたじろぐように眼を逸らしたのは俺のほうだった。
『…無いです。お好きなように、お呼びください』
与えられた番号は、ある。けれど、…この方に、数字を返すことは躊躇われた。名前がないことに、それまで何を思うこともなかったが。…この時、初めて名を持たぬ自分を恥じた。そんな生き方しかしてこなかった、…出来なかった俺を。
そんな俺に、けれどももさまは、不思議な色の目のままで。なにかを考えるようにその目を遠くへ向けて。それから、ゆっくりと、俺へ目線を戻して、…その目をまた、惜しげもなく細めた。
『はり』
柔らかく、少し幼げな話し方。『はり』、が何を指すのか分からなくて、ただ黙ってその笑顔を見詰めた。…いや、きっと俺は、生まれて初めて、見惚れていたんだ。この方の、透き通るように儚い笑顔に。この庭へ来た時から、ずっと。この方に、見惚れていたんだ。
何も返さない、否返せない俺に。けれど何も気にすることのない様子で、あの方が少し右足を引き摺りながら、俺の元へとゆっくり歩み寄る。…その歩き方に、縫い留められたように動かなかった俺の足が、瞬時に動いた。数歩の距離を一飛びで、あの方の元に辿り着く。そのまま、手を出しかけて、…その手は宙で止まった。触れられない、と無意識に悟る。それほどに、この方は白く透き通って、…綺麗だったから。
けれど。抜けるように白く柔らかで、あたたかな肉厚の手のひらが、…何の躊躇いもなく俺に伸ばされた。その手は余りにも柔らかく白く、綺麗で。その時初めて、俺は自分の生き様を、…穢れていると感じた。今は一滴も血に汚れていない筈の手のひらの肉球が、その獣毛が。それでも、粘着く血液に塗れて、汚らしくその黒ずんだ赤を滴らせている。…そんな感触に襲われて、その手を反射的に引きかけて。
けれど、あの方は、…ももさまは、そんな俺の手を両手で大事そうに包んでくれた。労わるように、慈しむように俺の手の獣毛を、肉球をその小さな手で丁寧に撫ぜて。俺の手に、…透き通って輝く、透明な石を、宝物のように乗せてくれた。
『その石ね、はり、って言うの』
俺の手を、小さな両手で優しく包んだまま。一音、一言を愛おしむように口にする、ゆっくりとした口調。それは心地好く、俺の耳を打っていく。泣き出しそうに潤んでいる丸い目が、俺を見上げてゆっくりと細められた。その目に薄っすらと張る水膜に、ひかりが反射して一層輝くのが見て取れる。…この方の目が、過去に起こった出来事の所為でいつも潤んでいると言うことを、この時の俺は知らなくて。その目に緩く浮かんで揺れる波紋に、ただ、ただ見惚れた。
『俺の宝物なの。あなたに、あげる』
…その心地好い声に陶然として。言われた言葉に、我に返って眼を見張った。このような美しいものを、俺が、…俺如きが賜れる筈もない。これは、この方のように儚く、愛らしく、…美しい方こそが持つべきだ。頭に浮かんだそんな思考が、今まで自分が感じたこともないものだと思い当たる隙もないほどに、密かに動揺して。
けれど、俺の態度に、…ももさまは、惜しげもなく細めた丸い目のまま、ゆったりと首を振って。俺を真っ直ぐに見つめて、雪解けの花のように笑った。触れたら、溶けて消えてしまいそうに儚く。けれど冷たい雪をも溶かすような優しいあたたかさを併せ持った、愛らしく可憐な笑顔。
『透明できれいで、あなたにそっくりでしょ?この子は、俺をずっと護ってくれたの。きっと、あなたのことも護ってくれる』
透き通るように優しい声が、俺の耳に響く。その言葉に、けれど心臓がぎくり、と軋んだ。…ももさまは、俺の本当の仕事を分かっているのだろうか。俺が、襲われた時の為の護衛や用心棒などではなく、相手を強襲し、戦うことを。…人を殺すことを生業としていると、知っているのではないだろうか?過ぎり、竦んだその思考に引っ張られるように、引きかけた俺の手。けれどそれは、ももさまのあたたかい手に繋ぎとめられる。
『だからもう、だいじょうぶだよ、玻璃』
不思議な色をした丸い目が、真っ直ぐに俺を見ていた。全てを見透かすように、透き通った大きな丸い目。玻璃、と言う言葉が、…俺を呼んでいるのだと、何故だか分かった。ももさまが俺に与えてくれた、透明な石。それと同じ名前。…宝物だと、そう言っていた。透明で綺麗で、…俺にそっくりだと。
あの時。湧き上がったあの感情に、俺は未だに名を着けられない。ただ、…ただ、この方だけは護らなければ、と思ったのだ。この世界でただ一人、死んではならない人。どの命も平等に価値のないこの世界で、この方だけが。決して喪くしてはならない、護りぬくべきただ一人のひと。
…俺の膝は、自然と跪いていた。これが、この国での主と仰ぐ方への態度だと、俺は知らずに。けれど、身体が、感情が無意識にこの方へと傅いていた。膝を折ると、俺の目線とももさまの顔は先程よりも近くなり、高さもまた逆転する。ももさまの柔かく小さな肉厚な両手に俺の手を包まれたまま、間近の距離で、…今度は俺が、ももさまを見上げた。犬獣人だと言うのに、今まで一度も揺れるどころか動くことすらなかった尻尾が、勢いよく揺れているのが自分で分かった。歓喜するときに揺れると言う尻尾。…俺は今、嬉しいのだろうか。一度も感じたことのない感情が、胸に湧いては広がっていく。それは初めての感覚で、けれど決して、嫌ではなかった。口元が上がっていく。口端から犬歯が覗いて、…けれどももさまは、そんな俺を怖がることもなく。俺を見遣って、また、愛らしく可憐に笑ってくれた
『玻璃、俺のそばにいてね』
俺の手を包んだままで。ももさまの顔が、俺の、…額辺りにふわり、と触れた。柔らかなぬくもりが、獣毛に埋まっていく感触。生まれてから初めて味わうその感触は、…俺が享受するにはきっと、過ぎたものだった。甘く、優しく、純粋なまでにきれいなもの。これが、ももさまが額に口づけてくれたのだと。それは、この国で、親愛を表す行為だと。この頃の俺は、矢張り知らず。
けれど、その額への口づけは、…こころを蕩かすほどに、甘かった。
あの時から、俺は、俺のすべてはあの方のものとなったのだ。雇い主とは違う、俺だけの主。俺の、ただひとつの尊き光。あの方の為なら、俺は何をも厭わない。この国があの方を傷つけるのなら、国王の首でも搔っ切ってみせよう。そこに裏切りも何もない。俺が忠誠を誓うのは、全てを捧げるのは、ただひとりあの方だけなのだから。
ああ、く帰りたい。あの方に、俺の名を呼んで、この身を撫ぜてもらいたい。そう思うと、ただでさえ任務で赴いただけのこの煌びやかな会場が、意味も色もなくしていく。あの雪のように白く甘やかな膚に触れる許可を得たい。あの方が、…俺の妻に、番に。俺だけの雌となってくださる姿が見たい。ももさまのまだ幼い肢体に、出来たばかりの未熟な子宮に、俺の子種を注ぎ込みたい。
思えば想うほど。この空間が色褪せ、想い描く俺の主の姿が色鮮やかになっていく。…別に、参加しろとは言われたが、最後までいろとは命じられていない。それならば、もうここから立ち去っても構わないだろう。脳内でそう結論付け、俺の足が自然と動く。まるで姿が消えるようだ、と称される俺たちの動きは、どれだけ場が狭かろうが関係がない。とん、と足を弾ませ、軽く跳べば。次の瞬間には、俺の姿はその場から搔き消えた。
この場から、何よりも大事な俺の主が待っていてくれる俺たちの家には、闇に紛れて屋根を駆ければ数分で着くだろう。愛らしい、不思議な色の優しく丸い目をゆっくり細めて。『おかえり、玻璃』と、跪く俺の頭を撫ぜて口づけてくれる、あの方の姿を脳裏に描きながら。
一刻も早く、あの方の元へ帰ろうと。一層速く、闇を跳ね駆けた。
Ad