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コインが落ちるその前に

  柔道着をまとった大柄な熊が道場の上で虎と戦っている。給湯室でドリンクを作っていた俺は背中越しに戦いの音を聞いていると、ほどなくして誰かがドタンと激しく畳に叩きつけられる音と、「一本!」の声が響いた。やがて熊がドスドスと俺のところに駆けてきた。

  「ふふん、見た? ぼくの一本背負い」

  「あ、ううん。ドリンク作ってたから見てなかった」

  「ええええ、ひどい」

  雄悟はすでに大学からいくつも推薦がきているほどデタラメに強い。いつだってすごい技を決めて戻ってくるのだ。この柔道部で雄悟に勝てるヤツなんていない。だから俺は安心してのんびりドリンクをつくっていたのだ。マネージャー活動に忙しくて練習を見ている余裕がなくても、雄悟は決まってにこやかに戻ってくるのである。丁度休憩時間になったので俺は雄悟にドリンクとタオルを渡すと、他の部員にも配りにいった。

  熊の雄悟に限らず、他の部員も虎やらしろくまやら猪やら、やけに大柄な部員が多い。一応体重別で階級が分けられているけど、うちで一番軽い部員でも大型犬クラスだ。豆柴の俺は相手の襟にすら手が届かない。それで諦めてマネージャーになったわけだ。マネージャーになった理由は雄悟が幼馴染だというだけのことだ。他にやりたいこともなかったし。

  「賢ちゃん、今日もウチ寄ってくでしょ?」

  「ああ」

  俺は小さい頃から鍵っ子だったし今も親が帰ってくるのは夜遅くなってからだから、よく雄悟の家で夕食をご馳走になって、雄悟の部屋でバカなことをして遊んで、そのまま寝る。物心ついた頃からの友人だから、二人でベッドでゴロゴロしていたら、そのまま雄悟に抱えられ、俺が雄悟の胸に抱きついて寝ていることもあるけど、別に昔からのことであって変な意味はない。ただ、すごく安らぐ時間ではあるけど。

  晩ごはんをいただくと、雄悟と一緒に風呂に入って、雄悟の部屋でパンツとTシャツ姿になって、ベッドで他愛もない話をして、抱き合って寝る。ちなみに雄悟の巨体で寄りかかられると文字通り本当に潰れてしまうので、仰向けの雄悟の上に乗ってべたっとうつ伏せに寝る。俺たちは世界で一番落ちつく人と抱きしめ合って眠りについた——

  俺の仕事はドリンク作り、タオル配り、洗濯、道具の準備など多岐にわたる。たまになんでこんなことをしてるんだろうと思うこともあるけど、俺がいるから部活が回っているのだと考えると、そう悪いポジションでもないとも思う。それなりに楽しんではいるのだ。そして仕事に慣れてきた今、何か他に出来ることはないのかなあなどと考えている。よそのマネージャーや先輩だと、そうだな、テーピングとか、ストレッチとか……。

  洗濯物を干し終わると、学校を出て本屋のスポーツコーナーに寄った。マネージャーの仕事について書いた本もあるな……ふむふむ。簡単なマッサージを覚えてみるのはどうだろうか。俺は適当に本を物色して雄悟の家に向かった。

  夕食をいただいてふたりで風呂に入ったあと、雄悟の部屋でパンツとTシャツ姿になる。

  「賢ちゃん、何読んでるの?」

  「うん? マネージャーも余裕が出来てきたからさ、他に出来ることないかなって」

  俺が買ってきた本を渡すと、雄悟はぱらぱらめくって嬉しそうに読んでいる。

  「へえ、マッサージかぁ」

  「というわけで雄悟くん、実験台になりなさい」

  「はーい」

  雄悟はベッドにうつ伏せで横たわると、Tシャツを脱いでパンツ一丁になった。白いボクサーパンツが茶色い毛に映える。普通は裸ではなくて施術部にタオルなどをかけるものだけど、体毛がふかふかだったり毛皮が厚かったりする種族はかけなくてもいいそうだ。

  俺は雄悟の腰によじのぼって上に座った。そして本を参考にして、まずは肩あたりのポイントを順番に押していった。……おかしいな。やけに固いというか手応えがないぞ。

  「賢ちゃん」

  「ん?」

  「なんか、圧が軽すぎるみたい……」

  ハァ……そりゃあ俺は軽すぎるもんなあ。それに雄悟は毛皮も厚いし、体重差もある。雄悟は二百キロに迫る勢いだ。一方の俺はまあ……雄悟の二割ちょっとといったところだろうか。試しに雄悟の腰を押してみたけど、腰はわずかにしか凹まず、逆に俺の体が浮いてしまう始末だ。

  「ぼくが代わろうか?」

  「殺す気か」

  雄悟は残念そうな顔をする。だってそうだろう、俺に雄悟がのしかかった時点で口からモツが出る。仕方ない、指圧マッサージは諦めよう。

  ……だがまだだ。俺はもう一冊の本を取り出した。表紙には『運動する人のためのリンパマッサージ入門』と書いてある。雄悟はリンパマッサージが普通のそれとどう違うのか訊いてきたが、実は俺もよく知らない。ただ力があまり要らないらしいので、これができれば雄悟をサポートできるかも知れない。

  「それで、どういう効果なの?」

  「んと、老廃物を出したり、血行をよくしたり、疲労回復したり……」

  「それいいじゃない。ちょっとやってみてよぉ」

  今度は雄悟を仰向けにすると、体の横に座って腕に指を添え、本に書かれていたように、皮膚をずらす感じで滑らせていく。リンパは皮膚の真下にあるから、さっきの指圧みたいにグイグイ押す必要はない。雄悟は特に毛皮がゴワゴワするからまったく力がいらないわけではないけど、これくらいなら俺でもできる。

  「へえ、気持ちいいけど、これって効いてるのかな?」

  「わかりやすくほぐれたりするわけじゃないもんな。明日調子が良かったら効いてるってことなんじゃないか?」

  もちろん効いていてほしいが、そもそも気の置けない人に触られるのは気持ちいいものだ。ストレスだけでも和らいでくれればいいのだけど。両腕をマッサージしおわると、俺はふたたび雄悟の腹に座る。

  「ねえ賢ちゃん」

  「なんだ?」

  「これって騎乗位だよね。ぼく以外に見られたら誤解されるよ」

  「バカ!」

  俺は全然効かない豆柴パンチを一発腹にお見舞いすると、気持ち前に移動した。尻の間に雄悟のむにっとしたものが当たるが今さら気にする仲でもない。

  「次はどこをマッサージするの?」

  「んーと、胸。疲労物質がたまりがちな肩や首にも効果があるんだって」

  「おっぱいだねえ」

  「ああそうだなー、バストアップ効果もあるらしいぞー」

  雄悟の天然ボケを適当に受け流すと、俺は雄悟の胸を揉——なんか人聞きが悪いな。左右の胸板のまわりを回転させるように指を走らせた。雄悟はくすぐったそうにクスクス笑う。パンツ一丁で騎乗位で胸をいじっているというこの状況はなんかアレだけど、とにかく胸をマッサージした。

  スー……

  しばらくすると寝息が聞こえる。雄悟を見ると安心した顔で寝ている。俺に体を預けてリラックスしてくれるというのは嬉しいものだ。起こさないようにマッサージを切り上げると、俺はいつものように仰向けの雄悟の上に腹ばいになって眠りについた。

  「うーん、雄悟今日は特に技のキレがいいなあ」

  「ああ、昨日リンパマッサージの実験台になってもらったんですよ」

  「へえ、効くもんなんだなあ。練習が終わったら希望者にもやってくれないか?」

  雄悟は昨日の疲れがとれてるよとか、動きがなんだか軽いんだとか言っているので少しは役に立てたのだろう。マネージャー冥利に尽きるというものだ。

  練習が終わると、希望者数名をマットに寝かせてマッサージする。雄悟にはあとでやるからここではやらないし、一緒に帰るから待ってくれている。いつもにこにこ顔の雄悟がなんかつまらなそうな顔をしているのが少し気になるが、しばらく本を見ながらマッサージを続けた。

  雄悟の家につくと、今日はやけに賢ちゃん賢ちゃんとくっついてくるような気がする。元々昔から雄悟は甘えんぼうではあるけど、さすがにもうそんな年でもないのだけど。風呂に入っても一通り洗い終えると、湯船で俺を抱えて嬉しそうにしていた。

  「はーあ、今日は脚が疲れちゃったなあ」

  「そうか、じゃあ脚のマッサージもやってみるか」

  確かにスポーツには下半身のふんばりが重要だ。これに効果が期待できるなら、結構なサポートができるんじゃないだろうか。俺は今日もパンイチの雄悟を仰向けにして、リンパを押し流すようにふくらはぎを足側からもも側へと押していった。

  「ね、脚のマッサージにはどんな効果があるの?」

  「ええと……代謝の向上だって。血行もよくなるらしいぞ」

  俺がももを、その、まあ雄悟のきんたまの方に向かって押していくと、雄悟がケタケタ笑い出した。内ももが弱いらしい。すると赤いボクサーの中央が盛り上がる。

  「なんで勃起してんだ」

  「内もも弱いんだよぉ。不可抗力、不可抗力」

  思わぬところでどうでもいい幼馴染の性感帯情報を手に入れてしまったが、俺は気にせずマッサージを続けた。本を読むと……うん、これはやめとこう。

  「次はふとももから鼠径部って書いてるな。そこにリンパ節があるらしいんだけど……さすがにそこは自分でやってくれ」

  「脚の付け根のVになってるところだよね。いいじゃない、今さら気にすることないでしょ」

  別に気にするわけではないんだけど、幼馴染とはいえ、勃起した股間の周りをまさぐるのはいかがなものだろうか。風呂でちんちんなんて腐る程見ているし、寝ているときや抱きかかえられているときはむにっと股間が当たることもあるけど、積極的に触りにいくとなるとまた話が違う。思い悩んでいる俺をよそに、雄悟は仰向けでパンツにテントを張ったまま、はやくはやくと催促してくる。うーん、なんか気にするのバカバカしくなってきたな。やってやるか。

  本によると、脚から鼠径部の脚の付け根あたりへと老廃物を押し流していくらしい。流れとしては、ふとももを登っていって、俺の手の甲が雄悟のきんたまをかすめるあたりを通って鼠径部の真ん中あたりに到達する流れだ。

  ふたたび太ももに手を当てると雄悟はケタケタ笑って暴れる。くまの脚が豆柴なんぞにヒットしたら容易に壁まで飛ばされてしまうのでやめていただきたい。

  「あっ」

  手の甲がきんたまをかすめると、雄悟の体がびくんと跳ねて、やけになまめかしい声を漏らした。エッチな感じの声だ。一オクターブ高くて色っぽいこの声は、ずっと一緒にいる俺でさえ聞いたことがない。まあ聞いたことがあったらそれはそれでどうかと思うけど。

  「えへ……たま弱いの」

  「知らんわ」

  ふたたび幼馴染の性感帯情報が更新されてしまったが、それはどうでもいい。問題は、だ。

  「あッ……ん……やぁ……はぁん」

  「もう! やっぱり自分でやれよ!」

  さすがに幼馴染が俺の手によって感じ続けるというのもどうかと思う。もしおばさんが入ってきたら確実に誤解される。俺は雄悟の体から降りようとすると、胴体をつかまれて腹の上に乗せられた。雄悟の肥大化したブツが俺のしり間に当たる。雄悟は気にも留めていないようだ。

  「けーんちゃん」

  どうも今日は雄悟が甘えてくる。すると雄悟は起き上がり、今度は俺をベッドに仰向けで寝かせた。

  「今度はぼくがやってあげるよ。マネージャーも疲れるでしょう?」

  「ばっ……潰れるだろ!」

  「大丈夫だいじょうぶ、指先で軽くやるから」

  雄悟は俺の返事も聞かずに指の腹で俺の体をなぞりはじめた。最初に俺がやったように腕を流れるようになぞる。おお、これは結構気持ちいいぞ。それに施術する側としても効果を実感するために一度はやってもらっておくべきだった。俺は雄悟に身を任せると、安心して目がとろんとしてきた。

  「賢ちゃん、おやすみ」

  意識の遠くに声が聞こえると、俺は大きな体につつまれて眠りに落ちた。

  今日も希望者にマッサージをしている。ここしばらく、他の部員への施術中は雄悟がひどくつまらなそうな顔をしている。あれは別に一緒に帰るのを待たせているからとかそういう顔ではない。「あそんで」「構って」という顔だ。小さい頃はあんな顔をして甘えてきたからよくわかる。でもここのところは明らかに様子が変だ。

  「どうかしたのか?」

  「……ううん」

  雄悟は力なく首を振ると、「行こ」といって俺の手——は短すぎて届かないので、まあなんとなく一緒に帰った。

  「けーんちゃん」

  俺たちは雄悟の部屋で鞄を投げ出すと、雄悟は小さい俺を抱えて無理矢理ベッドに投げた。そして雄悟は俺をギュウと抱きしめる。——きっともう時間がないからだろうな。今のうちに自分を引っ張ってくれる賢ちゃんに甘えておきたいのだろう。

  「……賢ちゃんはどの大学にいくの?」

  「絹呉山大学かな。雄悟が推薦もらってる絹呉山教育大学は、普通に受けたらとても入れないよ」

  「……」

  雄悟は俺がつぶれそうなくらい強く抱きしめる。

  「……大丈夫だよ。ふたりとも家から通える距離だし、今までみたいに毎日会うことはできないけど、俺はいなくなったりしないよ」

  「うん……」

  雄悟はさらに強く俺を抱きしめた。モツが出そうになったけど、雰囲気が雰囲気なので我慢することにした。たすけて。

  *

  今日は絹呉山大学 vs 絹呉山教育大学の各柔道部の練習試合だ。久々に雄悟に会うことになる。

  あんなことを言っておきながら、大学が違うから帰るタイミングも違うし、それぞれ部活があるから家が近いのに雄悟に会うことはほとんどなくなった。すごく悪いことをしている自覚はあるけど、現実はこんなものなのかも知れない。進学すると疎遠になる、みたいな。もちろん俺たちは幼馴染だからそんなに簡単に縁が切れはしないと信じているけれど、このまま時間が経てばいつかは疎遠になってしまうだろうことは分かっている。だから今日は単に雄悟と会えるというだけではなく、今俺たちの関係はどういう位置づけなのかを知るという意味でも重要な機会だった。

  俺は相変わらず中学で培ったアレコレを活かしてマネージャーになった。ポイポイと投げつけられるタオルをかかえながら絹呉山教育大学のほうをチラリと見る。一瞬雄悟と目が合った気がするけど、すぐに目線は途切れてしまった。

  雄悟の試合が始まった。相手はうちの虎でかなりの実力者だ。かなりの接戦になっている。——とそのとき、雄悟はかつて見たことのない速さで相手の腕を掴むと、巨体の虎を畳に叩きつけた。背負い投げだ。雄悟は礼をすると部員のほうへ走っていった。

  高校の時の雄悟はもちろん強かったけど、恵まれた体格やリーチの長さといった点がさらにそれを後押ししていた。けど今の雄悟はそれとは関係なく強い。マネージャーの俺でもはっきり分かるくらい、技術もスピードも洗練されていた。俺はポカンとしていると監督に怒られた。

  約束を違えてからもう半年が経つのだ。雄悟が成長しているのは当然だ。

  練習試合が終わって俺は雄悟にかけよるべきだと思ったけど、かける言葉が見つからなかった。ゴメンナサイと言えばいいのだろうか。久しぶりと普通に声をかければいいのだろうか。

  「賢ちゃん」

  心臓が口から飛び出そうになる。後ろからはやさしい、一点も俺を責めるような気持ちは含まれていない幼馴染の声がした。

  「今日、楽しみにしてたんだ」

  「ああ、俺も……」

  嘘じゃない。けどどうしたらいいのか分からなかったという気持ちも半分あった。

  「ぼくのことチラチラ気にしてたでしょ?」

  「そりゃまあ、久しぶりだし」

  嘘だ。あんなことを言っておきながら疎遠になっていた俺を、雄悟が責めていないか気にしていたのだ。すると雄悟は苦笑する。

  「素直じゃないなあ」

  雄悟はいつもしていたように俺を抱え上げ、久しぶりに見つめ合った。

  「たった半年くらいで『いなくなった』なんて思ってないよ。ぼくら幼馴染でしょう」

  覚えていたのか。

  「さあ、久しぶりにぼくの部屋で話そうよ」

  俺たちはいつもどおりおばちゃんのごはんをいただくと、二人で風呂に入った。雄悟はこころなしか、その……全体的にというか、まあとくに股間がたくましくなった気がする。俺に甘えていた頃の雄悟はもういないのだなあ。それはそれで寂しいような気がする。

  俺たちは体を洗うと、湯船に雄悟がつかり、俺はいつものようにひざの上に抱えられた。しりになにか当たってるような気がする。

  「けーんちゃん。うふふ、ぼくのこと気にしてくれてたんだね」

  「そりゃまあ、あんなこと言ったからにはな」

  「……うん」

  雄悟はぎゅっと俺を抱きしめて、蚊の鳴くような声でつぶやいた。

  「賢ちゃん、けんちゃん……」

  ああ、そうなんだろうなってずっと思ってたよ。風呂で俺を抱きしめて嬉しそうにしていたこと。高校で雄悟以外の部員にリンパマッサージをしていたときのつまらなそうな顔。なのにその後雄悟の家に行くときには満面の笑顔に戻っていたこと。なにより、ずっと一緒にいたこと。俺は最初それが甘えたな雄悟の幼馴染への愛情表現の形なのかと思っていた。でも久々にこうして会って、肌を触れあわせて、らしくない小声で抱きしめられたらいくら鈍感でも気づくというものだろう。

  風呂から上がると、久しぶりにTシャツパンイチでベッドに転がる。雄悟は仰向けになって俺を腹の上にお招きすると、俺はうつ伏せに寝転んだ。

  雄悟はきっと俺が気づいていることも分かっているんだろうな。そして幼馴染がゆえに返事にこまっていることも分かっているだろうし、今すぐに返事を求めようとも思っていないんだろう。——そして、俺は雄悟のことをあくまで幼馴染だと思っている、ということも。それでも今は、今だけはきっと一緒にいたいのだ。

  「……ねえ、賢ちゃん。将来何になるか、もう決めた?」

  「まだ考えてないな。雄悟はどうするんだ?」

  「ぼくはね、教職課程をとって体育の先生になろうと思うよ」

  「いいじゃん、向いてるよ、きっと」

  突然の将来の夢の話に驚いたけど、それまでに——大学在学中に返事を聞きに来るよという意味だと俺は受け取った。臆病者で、今は好きだといえない雄悟が精一杯伝えようとしたこと。幼馴染の俺ならきっと気づいてくれるだろうという期待。

  *

  二年生までは部活。三年生からは就職活動、ゼミ、卒業論文。雄悟は教育学部だからまだ教育実習が残っているけど、真面目にやっていればよほどポンコツでないかぎり教員免許はとれると思う。だから実質返事の期限は教育実習が終わる頃までだ。

  でも俺はずっと残酷なこと——いや当然のことなのだろうか——を考えていた。雄悟は幼馴染だ。兄弟よりずっと仲が良い関係だ。家族みたいなものだ。そんな相手を恋愛対象として見られるだろうか? 期限を待つまでもなく、俺の中で答えは決まっているのではないだろうか。

  そもそもどうして雄悟は俺の何を好きになったんだろうか。見た目? 性格? 関係性? はたまたそんなもんなくてただ惚れただけ?

  俺が頑ななだけなんだろうか——

  *

  四年生の夏。雄悟はまだ教育実習が残っているけど、論文や就活ものこっているし、実習がはじまる前の三月末に花見でも行こうかと雄悟から声がかかった。これはつまり、ハッキリとした雄悟からの告白と、そして俺の返事が求められるということである。

  俺たちは桜並木なんかそっちのけで、土手でふたり並んで座っていた。となりにいるのに、いつも折り重なって寝ているのに、相手との距離感がうまく掴めず、どうしたものかと模索していた。————でも一方で、隣り合うお互いの間には絶対の信頼があった。

  もやもやしながら、しかしあたたかい気分に包まれながら心地よい時間を三十分ほど過ごしただろうか。雄悟が口を開いたと同時に俺は立ち上がっていた。少し土手を進むと、きらきらと輝く水面が見えた。背後には雄悟の心配そうな気配を感じる。

  「あの……」

  雄悟はすがるような声を絞り出して俺を呼んだ。その後に続く言葉はなかったけど、今さらそんなもの必要もなかった。

  俺と雄悟は幼馴染で、親友で、兄弟のような関係だ。そのどれもが正しいが、一方で完全に俺たちの関係にしっくりくる言葉でもないと思う。俺たちの関係を的確に表す言葉はないような気がした。

  「……ぼくは…………賢ちゃんのこと、好きだよ」

  「……どうして好きになってくれたんだ?」

  「……いっぱい一緒にいたもの」

  雄悟が俺に向ける愛情というのはつまり——どれだけたくさんの情を注ぎ注がれてきたかの結果なのだろう。友情から始まった好意は、信頼を経て愛情へと成長したのだろう。きっと、俺とどういった関係かなんていう垣根はなかったのだ。水をやればやっただけ育つ大木のように。

  それじゃあ俺はどうだろう。親友や幼馴染が恋愛関係に発展するなんて考えたこともなかった。そこには当然壁があるものだと思っていた。雄悟のようにシンプルには考えていなかった。例えば家族と——俺とオカンの間にいくら愛情があっても付き合うことなんてないわけだ。頭が固すぎるのかもと思う一方、そういう意味ではやっぱり超えられない壁っていうのは確かに存在する。

  つまり雄悟と俺では超えられる壁の高さが違うんだ。雄悟は俺とどんな関係であっても易々と壁を乗り越えて俺のところに来てくれる。俺は————

  友情と、愛情、か————

  俺は頑なすぎるのだろうか。常識に縛られすぎているんだろうか。考えたこともなかったから困惑してるんだろうか。考えてみたら、幼馴染同士の結婚なんて珍しくもない。俺が雄悟といっしょになることがダメな理由なんてどこにもないのだ。ただ俺が固定観念と雄悟を天秤にかけて、釣り合ったそのどちらを取るかなんてバカな悩みを延々と続けているだけなのだろう。ただ————

  「まったく、困ったな」

  「え?」

  「お前と付き合うかどうかは正直すごく悩んでる」

  「……うん」

  「でも……なあ」

  「?」

  「あー……」

  「……」

  「その……」

  「うん」

  「あー! 決めらんねえ! コインでも投げて決めるか!?」

  「ええ? ぼくのこと、運で決めちゃうの?」

  「いや、案外そうでもないさ————」

  雄悟の制止を振り切って、俺はコインをはじき空へ投げた————

  日が暮れる頃、二人は繁華街の喫茶店で休憩していた。

  「むふふ、賢ちゃん。初エッチはどうだった?」

  「え、ああ、その、まあ、よかったっつーか」

  「むふー。付き合うのはあんなに渋ってたクセに、あんなにエッチになるとは思わなかったよ。雄悟、もっと、吸って、なんて言っちゃってもーかわいくて」

  「バカ!」

  「ところで……」

  雄悟は少し寂しそうな顔をした。

  「土手では付き合えたのが嬉しくて聞かなかったけど……本当にコインでぼくのこと決めるつもりだったの? 運頼りってひどくない?」

  ああ————

  「……あれはな。どちらを選ぶか決めかねているときでも、いざコインを投げてみると無意識に持っていた本当の気持ちに気づいて強く願うんだ。自分の本心をあぶり出す方法なんだよ」

  「じゃあちゃんとぼくを選んでくれてたんだね」

  「ああ。投げた瞬間、どっちが出ても付き合おうと決めた」

  雄悟はひと目もはばからず俺を引き寄せ、はちみつ紅茶を口移ししてきた。バカだなあと思うけど、いざ恋人の目で見るようになってみると、ケーキをほおばるくまの仕草がとても愛らしく見える。くだらない常識に固執せずに、雄悟といることを選んでよかったと思う。

  「ねえ賢ちゃん、これからは上に乗ると誤解じゃなくて本当に騎乗位だよ」

  「バカ!」

  「だって、今まで通り何もせず寝られるわけないよねえ?」

  「……声出すなよ、おばさんだっているんだから」

  記念硬貨でも何でもない十円玉は、綺麗に磨いてケースに入れて、雄悟の枕元に飾ってある。

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