犬と狸のワノクニ・リグレット

  一

  踏み込んで、シノの足の裏が檜の床をだん、と鳴らす。相対する息子の背後で、袴から出した青灰色の尻尾がぴっと跳ねた。一瞬だけモリタカがひるんだのがシノには手に取るように分かった。面の影に隠れていても、その奥の視線が揺れた気配があった。面、胴着、竹刀。殺傷能力のない環境でさえ、この息子は呑まれてしまったらしい。

  実戦経験のない少年と、歴戦の歌舞伎者である。無理もない、と思うと同時にぎらついた気持ちになる。

  ——それが命取りよ。

  右足の踏み込みに続けて深く体重を乗せる。脚から腰、肩を通して竹刀を横一文字に奔らせる。重心が先端に寄った太く長い直刀型の竹刀だ。

  脇からモリタカよりも細身の剣士が飛び込む。やや小ぶりの胴張型竹刀が、シノの竹刀を受け止める。木材が噛みあって、弾けるような破裂音が響く。黒い毛並みの尻尾が揺れた。タダトモだ。赤坂ギルド・エージェンツの忍者。

  「——おおっ!」

  タダトモの強みは、軽さだ。手数を優先する戦術を取る者が選ぶ胴張型の竹刀という選択にも、このもう一人の息子の性質が表れている。打撃をいなし、懐に潜り込み叩き込むという戦法。実践においては術や忍具を軸にすることで、タダトモの剣術は輝くだろう。

  しかし、タダトモの強みは、そのまま弱みである。

  軽いのだ。

  打撃の威力を乗せやすい、重く長い竹刀は、タダトモの膂力では止められない。

  「そのようなへっぴり腰で止められると思ったか、忠の字!」

  振り抜く。

  竹刀がタダトモの胴を打つ。ずっしりした手ごたえがあった。しまった、入りすぎたかもしれぬ。

  「がふ……っ!」

  「面んッ!」

  床に転がるタダトモに目を向けず、シノはタダトモの振り下ろした竹刀を受け止める。タダトモの交戦を隙と思ったようだ。間違いではない。あまりにあっけなく、陽動の意味さえタダトモが果たせなかったという点を除けば。

  体格の差で、シノのものよりも少しだけ短い竹刀をタダトモは操るが、これも直刀型だ。打撃の威力は悪くない……悪くない、だけだ。

  手首を返していなす。

  「あっ——?」

  「考の字は素直すぎる」

  胴に竹刀を振り抜く。まったく防御に意識が向いていない胴に、まるで吸い込まれるようにシノの打撃が入る。

  「ぎゃぃん!」

  息子がぼってりした体躯を床に転がす。タダトモと逆方向に流したのは、ぶつからないようにという親切心である。

  二対一の練習試合、一本目はわずか数秒で勝負が決してしまう。

  それぞれ打たれた箇所を庇いながら、二人はシノの前に正座する。三人とも面を外し、反省会である。紐を解き、面具を外すと、シノの豊かな髪が湯気を立てて手ぬぐいから零れ落ちて、つやつやとした。それをうざったそうに掻き上げて、腕組みをし、二人を見下ろす。

  「忠の字!」

  ドスの効いた声である。

  「は、はい、父上!」

  「踏ん張りが甘い! 踏ん張りがきかないなら、うまく流すのだ!」

  「はい……」

  しょんぼりと銀混じりの美しい耳を力なく垂れさせ、タダトモはうなだれる。シノはほんの少しだけ心が痛んだが、次に移る。

  「考の字!」

  「はい!」

  「最初に呑まれたな。忠の字が助けられなければ建を振ることも出来なかったぞ」

  「うぅ……面目次第も御座りませぬ……」

  タダトモとモリタカがそろってうなだれる。二人ともずいぶん似てきていて、ふとした時の表情などは、まるで本当の兄弟のようにそっくりだった。そこまで思って、シノは少し表情を緩みかけて、慌てて引き締めた。

  実戦形式での稽古はその後も続き、日が沈むころ、二人が疲労困憊してようやく終わったのだった。

  「……む、もう日暮れか。ここまでだ」

  「「ありがとうございました!」」

  二人の魂の息子が頭を下げる。歌舞伎町ギルドのつながりで、歌舞輝蝶学園の道場を使わせてもらっているので、残って訓練などはできない。道場を掃除して、学生用の更衣室に向かっていく二人を入り口で見送る。

  「父上、ありがとうございました!」

  「父上、精進いたしまする……」

  二人ともが父上、と呼んで慕ってくれることが面映ゆい。力加減がこちらもまだまだ甘く、不要な強さで打ち過ぎているかもしれないというのに。

  薄暮に二人が歩いていく。遠くから話し声がぼそぼそと聞こえてきた。

  「そういえばモリタカ、最近不審者が出ているそうだ」

  「不審者……でござるか」

  「うむ。どうも歌舞伎町周辺で、怪しい声かけがあるとか」

  「神宿学園では聞いておらぬが、シロウ殿からは一人にならぬように、と」

  「エージェンツで探ってはいるが、情報が取れん。よほどの手練れかもわからんな」

  不審者。

  その噂はシノの手伝うホストクラブでもまことしやかにささやかれていた。

  「不審者などに後れを取るならそれまでよ! そら、とっとと帰った帰った!」

  「は、はいぃっ!」

  すこし心配げな様子に、遠くから叱咤の怒声をかけてしまう。

  シャワーで汗を流して道場の戸締りを終ると、鍵を担当者に返却してホストクラブに移動する。歌舞伎町周辺で行動範囲が収まるので、ぎりぎりとはいえ遅刻の心配はない。

  開店前のどこかひっそりした雰囲気のクラブに入ると、ちょうどミーティングが始まる前だったようで、並んだメンバーがこちらを見る。今日の出勤はスズカとツクヨミ、それとホストとホステスが数人ずつに加えて、つい先日歌舞輝蝶ギルドに加入した記憶喪失の少年——貴き御方だ。学生にしては長身で、優しげな目元の少年である。

  「シノ、あんたずいぶん遅かったじゃ……ああ、稽古か」

  仕事着の絢爛なドレスを纏ったスズカが咎めようとして、途中で思い出して口を尖らす。

  「そりゃ悪かった。ほら、こっちに来なよ」

  「かたじけない」

  メンバーたちの列から彼女がずれて、空けてくれたスペースに入る。傍らの少年が耳打ちする。

  「モリタカとタダトモの稽古だよね。お疲れ様」

  「うむ」

  場が静まったのを確認して、ツクヨミがうなずく。

  「シノさん、稽古の先生お疲れ様。今ちょうどミーティングが始まるところだよ。着替える前でいいから聞いてってくれるかな」

  「承知仕った」

  白い上等なスーツに身を包んだツクヨミが、傍らの書類を確認しながら整理された連絡事項を伝えていく。

  売り上げ目標、配置変更、新人フォローメンバーの調整。それぞれの予約客と、同伴チェック。

  ミーティングは問題なく流れていくが、ツクヨミが少し眉を寄せて、「最後に」、と続けた。

  「歌舞伎町で不審者情報が出ている。未成年もいるけど、大事なことだから包み隠さずいうと——体液収集だ。身体男女関係なく。女性からは膣分泌液、男性からは精液、機械からは循環液、霊体からはエーテル……つまりあらゆる種族の体液が対象だ」

  ——あー、あれか……。

  ——なに、知ってるの?

  ——なんか、爺さん? に呼び止められんだって。それでオナホとかディルドみたいなの渡されて……。

  シノはそっと貴き御方の耳を塞ぐが、御方はにっこり笑って、「大丈夫」と言った。シノの手を外しながら、

  「俺だってホストで働いてるんだから、耐性くらいあるよ。シノは優しいなあ」

  「む、それは失礼を……」

  ざわつきは続く。

  ——あ、あれだよな……街角で呼び止められてオナホでオナニーさせられるやつ……。

  ——なにそれ? 襲われるとかじゃないんだ。

  ——なんか、最初はお願いされるらしい。でもそれに逆らったら無理やり、とか……。

  「あんたたち! まだツクヨミが話してるよ」

  スズカがぴりついた声で怒鳴る。スズカは高校生ではあるが、霊的な格が非常に高い。女子高生とは思えぬカリスマがあるのだ。彼女の一喝で場が静けさを取り戻す。ツクヨミが軽く手を上げて、スズカに感謝を示した。

  「もうみんな知っているようだね。歌舞伎町は夜の町だ。夜の街の論理を外れる者にはこちらできちんと対応をしなくてはならない。僕の方でも対処は進めているけれど、皆は通勤時にはできるだけ一人にならないように。そして、もし出遭ったら、身の安全を最優先に行動するように」

  仕事は問題なく進む。シノとしては、貴き御方が夜の街で働くことにはあまり賛成ではないが、手が足りないのは事実で、ドリンク運びや清掃といった裏方を重点的に担当してもらうことで自分を納得させている。

  「お、そこの男の子は接客するの?」

  と、空いたテーブルをシノと御方の二人で片付けていると、近くの客がこちらを見た。でっぷり太った中年の狼だ。御方を指しているのは明らかで、少年は申し訳なさそうに微笑んで答える。

  「すみません、俺は裏方でして……。接客しちゃいけないって決まっているんです」

  「ええー、いいじゃん。君可愛いし、お話したいなあ」

  御方はなぜか客からの人気が高い。というか、ホストクラブという場の特質として、慣れていなさ、飾り気のなさがある意味で価値になるのだ。このタイプの客をいなそうとして口下手なシノが出ると、あっという間に場が険悪になるため、ツクヨミから禁止令が出ている。

  ——た、貴き御方……!

  ちらりとバックヤードのツクヨミに目を向けると、彼は慣れた様子でウインクをした。きわめて柔和な様子で、しかし素早くそのテーブルにツクヨミが座る。気だるげな微笑、憂鬱な睫毛、雄のフェロモン漂う胸板。酔い始めた男の目が、御方からツクヨミに移る。

  「申し訳ございませんお客様。彼はまだ若いものでして……。しかし、やはりお目が高くいらっしゃる。彼が原石と見抜かれましたね。今はまだ仕事を覚えている最中。ぜひ、この店で磨き上げ上げてから、お客様にお酒を注がせたいのです」

  とかなんとか。

  ぺらぺらぺら。

  憂いを含んだ視線、濡れた影を帯びた声。さりげなく手を握り、有無を言わせずに御方から対象を自分にずらしている。食えない男だ、とシノは思う。この男も御方の教育上あまりよろしくないのでは……。いや決して温室で育てたいわけではないが。

  御方が一礼して、下がってくる。

  「行こ、シノさん。そろそろ洗い物が溜まるから」

  「む……。其許もずいぶん慣れてこられたようです」

  「あは。シノさんが拾ってくれたからでしょ。でもまだ、ああいう人をうまく収められないなあ。ツクヨミさんにお礼を言わなくちゃね」

  奥に下がり、二人は喋りながら皿を洗い、おしぼりを整理し、酒を出した。

  夜の蝶羽ばたく絢爛たる夜の街とは言え、裏方のシノや御方にとっては、激務の肉体労働であることに変わりはない。絶え間なくドリンクを運び、合間を縫って清掃をしているうちに時間がどんどん過ぎてしまう。

  十時。高校生メンバーの労働時間が終ると、制服に着替えたスズカと黒服の鬼が連れ立って帰る。

  「一人で十分だってのに、ツクヨミも厳重だ。すまないね、あんたも仕事中だろう」

  「オ、俺ノ仕事ハ姉御ノ護衛モアリマス」

  「ふん、頼もしいじゃないのさ」

  玄関でスズカたちがシノと御方に振り返る。

  「じゃ、また明日だね」

  「マタ戻リマス」

  スズカたちは歌舞輝蝶の寮に戻る。二人を見送って、シノも御方を寮に送る。こちらは神宿学園の寮だ。歌舞輝蝶への転入も考えたが、ツクヨミが在籍していること、また、御方の受け入れを担当した男に好感が持てたため、神宿にしたのだ。

  神の宿る学び舎。悪くないではないか。

  「送ってくれてありがとう」

  「いいや……貴き御方をお守りするのは当然のこと故」

  「貴き御方……ね。公園で助けてくれたときも言ってたけど、あんまり実感ないんだよなあ」

  神宿学園への夜道を歩きながら、御方が口を尖らせて言う。多くの魂が編みこまれた器。シノが彼の向こうに感じているのもその一片に過ぎない。でもそれはきっかけでしかないのだ。かつて愛した姫の面影があるこの少年を、姫とは別のところで守りたいと思っている。

  御方の不安定な心身は想像することしかできないが、それでも言葉を選びながらそう伝えると、彼はにっこりと笑った。

  シノは話題を変えて、神宿学園の話を聞いた。まるで学校の様子を子供に聞く父親のように。愛した者に指一本触れたことがなくとも、三人も子供がいるみたいに。御方は、ホラー好きの委員長の親友や、池袋でファイトマネーを荒稼ぎする悪友、各地のグルメスポットを回る朋友、警察官志望で神主の転校生の話をした。

  「其許には友だちが増えたな」

  「うん、みんなよくしてくれるよ」

  「そうか」

  やがて神宿学園が見えてくる。

  御方は周りをきょろきょろと見回す。

  「不審者、出なかったね」

  「うむ。ツクヨミも対応している。じきに捕まるだろう。しかし、どうした? 其許は気になるか」

  「……人の体液を欲しがるって何かあったのかなあ。集めてるのだってあまりこだわりなさそうだし」

  「そこまでは某も分からぬ。ただ体液には力が込められるからな。何かの目的があるやもしれん」

  「う~ん、何か困ってるのかなあ」

  シノは頭を抱えそうになった。この少年はすぐ困ってる誰かの手を取りに行くのだ。この善性! シノからすれば目がつぶれてしまいそうなくらいに眩しい魂のあり方だ。そしてその輝きがシノを引き付けてやまない。

  御方を校門まで送り届けると、煙草の匂いを纏った白髪交じりの人間が現れた。白いシャツを着た男、物部教諭だ。御方の後見人を引き受けてくれた学園の教師である。

  「こんばんは。シノさん、夜分に送り届けていただいてありがとうございます」

  「いえ、これも仕事にございますれば」

  「よかったらお茶でも……ああ、すみません、お仕事中に呼び止めてはいけませんね」

  御方が、じゃあねシノさん、と一礼して寮に帰っていく。それを見送ってシノは頭を下げると、物部教諭が、

  「シノさんも気を付けてお帰り下さい。あの子は記憶がないために、初めて出会ったシノさんを中心に生きている節があります。もしご迷惑でなければですが……」

  「ええ、存じております。あの子が一人で生きられるまでは面倒を見るのが某の仕事にございましょう」

  顔を上げると、教師の真摯な瞳があった。よく御方に似た垂れ目気味な優しげな瞳はすぐに伏せられた。そこには言い知れぬ影があるように見えた。

  ホストクラブに戻ると、珍しくギョウブに呼び出される。彼はバックヤードの喫煙所、椅子に腰を下ろし、うまそうにキセルを吹かしていた。怒っているような雰囲気はないが、この男に関して、見た感じでの雰囲気は意味をなさない。

  古狸である。

  警戒しながら声をかける。

  「どうした。こっちに出てくるなど、珍しいが」

  「ツクヨミの坊ちゃんに頼まれたんでさあ」

  キセルを吸って、吐く。白い煙がぷかぷかと宙を漂って消えていく。

  「定期健診に行ってくれないと泣きつかれましてなあ」

  「う……」

  「雇い主に迷惑をかけちゃあいけやせん、旦那」

  「か、飼い犬にはそのような……」

  飼い犬には健康診断など不要。いつ死んだっていいのだ、捨ておけ。と本気で思っていたのだが、ギョウブの前だと下手な言い訳にしか聞こえず、シノは口ごもる。加えて、学園の教師とあんな話をしたもんだから、強気に出ることも出来ない。

  からからとギョウブは笑う。

  「なんでえ、注射が怖い犬っころでもあるまいし。そら、これ」

  ギョウブが懐から紙を取り出す。受け取ると、定期健診の案内だ。朝食は食べないように、脱ぎやすい服を着てくるように、などの注意事項と、診療所の簡単な地図が載っている。

  「この日はツクヨミが日を空けておりやす。ちと強引ですいやせんが」

  「い、いや、某こそ、申し訳ない……」

  「お医者が怖いって言っても、決して逆らっちゃいけやせんぜ」

  なし崩し的に健康診断が決まってしまった。

  シノは仕事をするために、ポケットに案内を入れてホールに出る。

  喫煙所で、ギョウブはキセルに口を付け、煙を吐いた。

  「すまねえ——今だけちょっと騙されておくんなせえ」

  幕間

  おれが目覚めたのはいつの頃だろう。

  まず目覚めた、というのは、どこからそう語るのだろう。おれが最初に覚えていることは、温かくて柔らかなものだ。それはきっと血と肉だった。

  生温かい血。

  柔らかな肉。

  そして叫び。

  己の爪と牙を振るうだけで、おれは多くの快楽を得た。爪を振るえば、張りのある皮膚に食い込んで、びいいいっと薄絹を裂くように皮膚が爪に沿って切れる。その下のとろとろとした柔らかな肉もまた指先がむずがるような感覚がする。牙で噛みつけば、ぷちっと皮膚を破って肉に入り込む充足感がある。そこから噴き出す赤い血の温かさや、ぬるぬるとした感触もたまらない。血の匂いや味も好きだ。

  「あああああっ……!」

  人間の身体にはいろんな部位があった。腹や脚のような、太くて脂肪のついたところは気持ちがいい。腹を破れば、臓物が噴き出して、あたりを美しく彩った。空いた穴に顔を突っ込んで、ぬるぬるとした腸をすすると、生命を感じることが出来た。心臓の鼓動や、胃の内容物の苦み、骨のごりごりした硬さ、それらはおれを楽しませた。牙に内臓をひっかけてずるずると引き出す。ああこんなに身があるではないか。

  「いやっ、いやっ、いやあああぁぁっ!」

  人間には骨もある。これは食べられないが、感触として素晴らしいものがある。腕を掴んで握りつぶしてみると、ごきんと低くて軽い音がして、人間が絶叫する。逃げようとする脚を掴んで、握りつぶす。脚の二本を折るだけで、人間はまるで芋虫のように地面で蠢いた。でも一番素晴らしいのは首の骨だ。

  「いっ、い、っ、や、だ、あ、……」

  首を掴む。

  力を込める。

  肉の反発がおれを喜ばせる。

  塊状になった手がおれの腕を叩く。

  おれは痛くも痒くもない。嘘だ、痒い。

  昔はすぐに怒って潰してしまったが、実はこういうときはゆっくりと力を込めた方がいい。

  「んっ、ぅぐ、ぐげ……」

  窒息と苦痛でつぶれたような声が漏れる。

  おれはこの響きが好きだ。

  まるで人間が獣になったような唸りが好きだ。

  人間の目がおれを見る。真っ赤な大きなものが映っている。そこから水が流れている。おれはそれに口を付けてみた。塩辛い。でも血より甘みが強い。

  「あっ」

  甘味に感動して、手の力加減を誤った。首の肉の中で、ごり、と音がした。首の骨は細かい骨がいくつも連結しているが、そのうちの一つがずれるだけで人間は不思議な音を立てて、びくんと震えると、動かなくなる。

  おれはそのまま、首を拳の中で握りつぶすと、頭を取り外して瞳に唇を付けた。ここが甘かったのだ。

  吸う。

  ぢゅるるる、と音を立てて、瞼からくにゅくにゅしたしたものが外れて口に飛び込んでくる。玉のような形をして、筋のようなものが付いている。眼球だ。それを啜って、口の中で血や肉のかけらと一緒にぐちゃぐちゃに咀嚼すると、馥郁たる匂いと豊饒な甘さが飛び出す。おれは目をつぶってうっとりする。

  手に持った頭に、感動のあまり頬ずりする。まだ柔らかい頬の肉がぐにぐにと変形した。

  おれは勃起している。

  「……」

  手に持った頭をしげしげと眺め、さっきまで眼がはまっていた穴に勃起をあてがった。赤い肉と赤い血と赤い穴。亀頭の先で先走りがぷっくりと膨らんでいる。

  生唾を飲み込んで尻の穴を締めて勃起を固めると、そのまま眼窩に雄を突き立てる。

  普段女や男を犯したときは、いつも叫ぶのだが、殺した人間は静かだった。

  雄はゆっくりと肉に沈み、柔らかな屍に包まれる。まだ熱が残っていて温かい。おれは下腹に頭が付いて雄が全て埋め込まれる。柔らかな肉だけでなく、弾力のある膜や、こりこりとした骨の感触があった。なるほど、静寂というものはこのような気持ちになるのか。

  目を閉じたまま腰をゆすると、絡みつく肉にまぎれて、亀頭が骨に擦れる感触があった。がくがくと身体が震えるほどの快感。

  「ううぅ……っ!」

  すぐにおれは射精した。頭の中で雄が何度も脈動して精液を吐き出した。射精が終って、おれは静かに頭から雄を抜いた。萎んだ性器から、赤や白やわけのわからない色の粘液が糸を引いている。甘い匂いがした。

  おれはさっきまで犯していた穴にもう一度口を付けると、じゅるじゅると音を立てて、中の汁を吸った。脳と肉と骨と自分の精液がぐちゃぐちゃに混ざったものを、むしゃぶりつくように啜った。

  「甘露……」

  全部吸い尽くしたら、頭ごと一息に食べてしまった。

  おれはその日から人間を殺しては、喰うか犯すかした。犯して殺して食ったこともあった。

  思い返すと、おれは魔だということがよく分かる。

  分かったというか、気付いたというか。

  なったというか。

  とにかくおれは鬼として名をはせた。

  犯し殺し食らう赤い鬼。

  獄卒じゃない。異質なもので恐るべきもので排斥するものとしての鬼だ。

  つまり魔だ。

  だからそれを祓うものもまた訪れるというのが必定で、おれの下にも英雄がやってきた。

  「……」

  二つの角と、青い炎を纏った武者だ。

  おれと同じ鬼だ、と思った。

  しかし違うとすぐに分かった。

  「お前……、おれを殺しに来たな」

  「人の言葉が分かるのか」

  で、魔が英雄に負けるってのも必定で。

  そういえばそんな話をどこで聞いたんだっけ。

  なにか凛とした声からそんな寝物語を聞いた、気がする。

  おれの身体に刀を突き立てた鬼武者は、ひどく悲しそうな顔をした。

  「こんなに強い怨みがあるとはな……」

  怨み。

  その鬼武者の言葉で、おれが怨みでできていることを知った。

  おれは怨んでいるのだった。

  しかし、何を怨んでいるのだったっけ。

  鬼になる前は何を怨んでいたのだっけ。

  ああ——怒りが、収まらぬ。

  二

  ギョウブから渡された案内の地図に沿ってゴールデン街の真ん中の十字路を進むと、春先の陽気にしては粘ついた寒気を感じてシノは身体を震わせた。着ているものはギョウブから渡された甚兵衛と六尺褌に下駄である。

  「お? シノ、手前いつもの格好で行くつもりでございやすか。案内には脱ぎやすいものをと——どれ、あっしが見繕って差し上げやしょう」

  と渡されたのが、白い新品の六尺と、紺色の甚兵衛だったのである。下駄まで渡されてしまい、仕方なくそれを身に纏っている。麻の甚兵衛は、しゃきしゃきとして心地よかったが、六尺は常用している越中とははき心地が妙に硬く、落ち着かない。

  生まれつきの毛皮もあって、春先の陽気に甚兵衛は快適だが、診療所への曲がり角を曲がった途端に少し冷気がする。暖かいとはいえ、まだまだ春。甚兵衛だけでは寒かったかもしれぬ。

  ゴールデン街のところどころひび割れたアスファルトを、下駄でからんころんと鳴らしながら、シノは進む。目測がどれだけ正しいのか、ギョウブの用意した衣類は、どれも彼の身体にぴったりと合っていた。

  十字路を曲がってすぐに、古びた診療所がある。ところどころ亀裂の入った外壁に、くすんだガラス窓、古臭い看板。お世辞にもきれいな建物とは言いがたい。アウトローズの構成員の健康診断を請け負うような診療所なのだ、ここの医師も臑に傷持つのやも。だからシノも安心して門戸を開いた。

  ぎい、と木製の重い扉を軋ませて中に入ると、受付に狸の看護師がいた。

  ——狸、か……。

  狸は苦手だ。特に年嵩の狸が。

  ばたん、と診療所の扉が閉まる。医療機関特有の、清潔な重さがシノの肩にじっとりと乗る。

  「シノ様でいらっしゃいますね。健康診断、お待ちしておりました」

  案内書を渡し、看護師に導かれて奥に進む。古い建築で、洋館風の建物の中は非常に天井が高く、装飾的な造形をしている。木製とはいえ、まるで診療所が一つの歴史的建造物のようだ。

  時代がかった建築に反して、空調はかなりしっかりしているようで、暖房が効いていている。汗ばんでしまいそうだ。甚兵衛で正解だったな、とシノはギョウブに感謝して廊下を進んでいく。

  当然というべきか、患者はシノだけのようで、待つことなく一つだけの診察室に入る。

  「こんにちはシノさん。さあそこに座って」

  医者もやはり狸だ。しかもギョウブに似ている。シノは心の中でため息を吐いた。

  腹の突きでた豊満な固太りに、後天的な表情操作でぎらりとした鋭さを和らげた瞳や、ひょうひょうとしてどこか本音じゃなさそうな声色。あの古狸の血縁者と言われれば、信じる者は少なからずいるだろう。

  シノは老医者の指示に従う。

  示された椅子に座る。

  老医者がカルテを抱えたまま笑う。脂肪が顔についているからか、どこかねっとりとした気配があった。

  「はい宜しく。それじゃとりあえず、名前を教えてくれるかな」

  「犬塚シノと申す」

  シノは老医者の指示に従う。

  老医者はカルテに何事かを書きつける。

  「今日はどうしたか教えてくれるかな」

  「健康診断で参った」

  シノは老医者の指示に従う。

  老医者はカルテに何事かを書きつける。

  「分かりました。じゃあ口を開けて」

  「んが……」

  シノは老医者の指示に従う。

  老医者はカルテに何事かを書きつける。

  そして、机の器具立てから金属製の細いヘラを取り出し、シノの舌に乗せた。ひやりとしたヘラが、舌の盛り上がりを押さえる。老医者は額のライトを付けて、喉の粘膜を奥まで照らす。

  「うん。喉は問題なし」

  問診は続く。

  「好きなタイプは?」

  「は?」

  とシノは怪訝な顔をした。不快さをにじませている。

  「いや……それに問診は関係なかろう」

  老医者は、いいえ、と否定する。

  「異種族が多いですから。どういう性生活かで見るべき場所が変わるのです。さあ、好きなタイプを教えて下さい。」

  シノは老医者の指示に従う。

  老医者はカルテに何事かを書きつける。

  「……特にこれといった好みは。強いて言えば……意志の強い者が」

  「なるほど。ではセックス——まぐわいの経験は?」

  「な、何を聞いて……」

  「シノさん、聞いていることに答えてください」

  おかしい。

  このような無礼なことを聞かれても、シノは怒鳴ろうという意志がそがれていることに気付く。答えないこちらがちょっと物分かりが悪いというか、むしろ失礼のような気さえしてくる。

  恥ずかしいことを聞くなと怒ることがどうしてもできない。

  「ま、まぐわいの経験は……ござらん」

  シノは老医者の指示に従う。

  老医者はカルテに何事かを書きつける。

  顔が赤くなるのが分かる。顔が赤らんでいることは毛皮で隠れて見えないが、しかし恥ずかしがっていることは誰が見ても明らかだ。耳はぺたんと平たく寝て、尻尾は椅子の下にくるりと丸まってしまっている。

  何が悲しくて、問診とはいえ、初対面の相手に自身の性生活を話さねばならぬのか。

  問診は続く。

  「下着の色は何色ですか?」

  「し……白だ」

  「種類は? トランクス? ボクサー?」

  「ふ、褌だ」

  「どのような?」

  「……六尺を」

  「白の六尺。なるほど」

  恥がシノの神経を熱する。六尺褌の下で、混乱した彼の肉棒がひくっと蠢動する。

  「自慰は週に何度行う?」

  「な……っ!」

  口ごもるが、老医者は有無を言わさずに続ける。

  「シノさん。お答えください」

  消え入りそうな声で、シノは答える。

  「……二、三日に一回だ」

  「ほう、意外に元気なのですね」

  「…………」

  「題材は何を? 動画でしょうか」

  ああ、言いたくない。

  これだけは言いたくない。

  しかし、答えないことの罪悪感が恥を越える。老医者の強制力がすさまじい。腿の横でこぶしを握り、恥に顔を歪ませてシノは口を開く。

  「お、思い出……。好いた相手の思い出だ」

  「ほう? 詳しく聞けますか」

  シノは老医者の指示に従う。

  老医者はカルテに何事かを書きつける。

  秘密をこじ開けられる怒りと恥と後悔とで、今にも決壊しそうな顔のシノが答える。

  「某は……好いた女を娶った。しかし指一本触れることを許されなかった。だが、……某を見つめる瞳や、匂いを思い出して……一人で……」

  「ふうむ、熱烈だ」

  質問を変えよう、と老医者は言う。

  敬語が、外れている。

  「性感帯は?」

  「……く……」

  なぜだ。

  このような老医者ぶん殴ってしまえばいいのに、身体が動かない。

  褌の中で男根がいきり立っている。

  興奮と恥が火花を散らしてシノの規制を焼き切る。

  答えなくては。

  シノは口を開く。

  「む、胸……乳首だ。それと……首と……耳を」

  古狸がにやにやとした笑みで言う。

  「自慰では触るのか?」

  うなずく。

  顔から火が出そうだ。しかし自分ではもう止められない。

  「胸を……クソッ、胸を、触りながら……」

  老医者はカルテに何事かを書きつける。

  その後も老医者はいくつかの性に関する質問をし、逐一カルテに書き付けた。犯される側と犯す側のどちらをしたいか聞かれ、男同士の獣人と人間が交わる(先ほどは「女」と答えたにもかかわらず、なぜシノが今、御方と呼んで懸想する相手が男だと知っているのだろう?)いくつかの図像を見せられ、やってみたい体位とその理由を答えさせられた。

  それにしても暑い。老医師の体臭だろうか、妙に甘く、眠りを誘う匂いがする。見透かしたように、カルテを閉じた老医者が、首にかけていた聴診器を構える。

  「どれ、そろそろ心臓と肺の音を聞こうか。シノさん、甚兵衛を失礼する」

  言いながら、狸はシノの甚兵衛を解き、脱がせてしまう。汗ばんだ狗のむわっとした匂いが、診察室に広がると、医者は舌でちろりと唇を舐めた。診察室のねっとりとした照明を受けている筋肉の丸みを帯びた胸に、聴診器を当てる。

  「っ……」

  ふるり、とシノの尻尾が揺れた。

  ふむふむ、などとわざとらしく呟きながら、老医者は胸の音を聞き、聴診器を少しずつ乳首に近づける。シノの嫌悪と期待が煽られる。乳白色の毛皮を横断するように聴診器の、皮膚に当たる部分——チェストピースの縁がシノの乳輪を捕らえた。

  「う……」

  思わず声を漏らしてしまうと、老医者は唇を引き上げるように笑いながら、くにくにと乳輪を刺激する。

  「どうしたんだ、え?」

  「い、いや……」

  「そうか。何かあればいつでも……」

  言いながら医者は、ぴんと張り詰めた乳頭を弾いた。シノは背を弓なりにしならせる。

  「くうっ!」

  「ふうむ、やはり粘膜が敏感になっているようだ」

  ずいぶん適当なことを、とかすかに思いながら、シノの口は勝手に語り始める。

  「き、気持ちいい……」

  老医者が笑みを深め、聴診を切り上げて、診察室の奥を示した。そこには体重計と身長計が鎮座していた。どれも古く、秤と目盛りを読むタイプだ。

  「次に身長と体重の測定に移る。誤差が出ないように、甚兵衛の下を脱ぎなさい」

  上気した体を冷ます間もなく、シノは立ち上がって甚兵衛の下を脱ぎ、看護師に渡す。白い新品の褌だけのシノは、周囲がかっちりと衣服をまとっているにもかかわらず、自分だけが肌化と言う状況、興奮の追い打ちをかけられて、毛皮をざわざわと逆立てた。

  なけなしの理性が勃起した褌の山を隠すように腰を引かせるが、身長計に乗ると、「シノさん、背筋を伸ばしてください」と命じられる。逆らうことなどできない。もう逆らうという意志は失われてしまった。シノは褌を隠していた手を外し、背筋を正す。気を付けの姿勢で、勃起の盛り上がりを晒す。老医師はその逞しい山をじろりと検分するように眺めている。その絡みつく視線に反応して、シノの勃起はまた硬さを増して、じわりと布にしみを作る。シノの頭頂部に目盛りが当てられ、身長がカルテに記録される。

  次に体重計に移る。看護師に示されて乗ろうとすると、

  「ああ、褌も脱いだらどうだ」

  「……」

  「この通り古い設備でな、誤差をなくしたいのよ」

  なんだそれは、と思うが、その反抗心もすぐに火が消えてしまう。シノは六尺をほどき、看護師に渡す。太く短い勃起が露わになる。医者の無遠慮な瞳を迎えるように、男根がまたひくつく。シノの男根は、長さこそ標準に至るかどうかというものだが、太さはかなりのものだ。大ぶりなふぐりを土台にして上を向く怒張は、シノの体格のように、太くずっしりとしていた。露出した亀頭は汚れ一つなく、膨張した海綿体によって肉色に張り詰めている。体重計に乗ると、がしゃんと音がして目盛りが数字を指す。それを医師が書き記す。

  「次に触診をする。仰向けに寝なさい」

  壁際に配置された、簡易なベッドを示され、シノは仰向けになる。

  勃起はもう隠されず、血流の鼓動に沿って、く、く、と天を突きながら規則的な波に揺れている。老医者は横たわるシノに覆いかぶさるようにベッドに乗り、首筋を撫でる。ボリュームのある首の毛皮に、医者の丸々として手が潜り込み、地肌をさりさりと撫で上げた。

  「ひっ」

  と、シノが喘ぎを噛み殺す。

  「体液の流れによどみがないかを確かめます」

  言いながら、老医者はシノの身体をまさぐった。頭、頬を撫で、首筋をぐりぐりとやり、胸を優しく揉まれる。

  「腕を上げなさい」

  万歳の格好になる。濃い匂いが漂う、黒く豊かな脇の草むらをしげしげと眺められ、柔かく撫でられシノは羞恥のあまり歯噛みする。老医者が体重をかけすぎないように身体を寄せて、腹を毛並みに沿って撫でおろされる。

  「わふん……」

  童のような甘えた鳴き声がシノの口から漏れた。

  ——な、なぜ某はこんなに従順になっている……?

  シノは自問する。確かギョウブには「決して逆らっちゃいけやせんぜ」と言い含められているが、もうその域は越えてしまっている。こんなことは診断の範疇ではない。しかし、シノの理性はとろけてふやけてグズグズになってしまっていた。東京に転光してから、否、ワノクニにいたときでさえ、育ての親を失ってからはこんなに優しく撫でられたことなどない。

  老医者の枯葉のような匂いに、柔らかな太鼓腹が押し付けられ、育ての親の記憶に連結していく。理性が削られていくのが分かる。気のゆるみが、わずかな甘さが、ふとした優しさが牙を剥く中で生きてきたシノにとって、この安心できる指使いが、甘い匂いが、柔らかな脂肪の丸みが、彼の誇りをを支える柱と呼ぶべきものを崩していく。

  「あ……!」

  き、気持ちいい……!

  柔らかな太鼓腹に埋もれているペニスが脈動する。

  「おや?」

  「す、すまぬ……先走りが……」

  シノの謝罪の声は、媚びの響きが混ざっていた。もっと撫でてほしい、そういう願いが溶けだすような響きだった。黒犬の肛門が老医者の下でひくん、と切なく収縮する。老医者は腹に付着したシノの先走りを指ですくって舐めとると、にたりと笑って、彼の黒く思い髪を掻き上げた。童子のように不安げに揺らめくシノの赤い瞳と老医者の暗い穴のような瞳が切り結ばれる。

  「ふ、いい体液だ」

  老医者は身体を離すと、シノをあやすように笑いかける。そして脚を持ち上げて、割り開くように肛門をあらわにされる。老医者の股間と、シノの肛門はほんの数センチほどの隙間しかない。その姿勢はまるで、

  ——まるで、まぐわいの姿勢ではないか……!

  そう思った途端に、またシノの肉棒はひくっと跳ねて、先走りを流した。肛門が切なく収縮する。

  「ふむ、こっちも様子を見てみるか」

  「な……っ」

  いつの間にか看護師が用意していたのか、老医者は傍らの道具台からローションを取り出して手早く指を濡らし始めた。黒い肉球に透明な粘液がたらされて、揉み込むように拳が握られ、ぐちゅぐちゅと締まった音を立てて手の平の毛皮にローションが行き渡る。

  そしてシノの権外の了承も聞かずに、狸の丸々とした指がシノの肛門に触れた。

  「あ……」

  と、甘い声が漏れる。狸の指は、固い入り口をほぐすように、肉色の皺の一つ一つに丹念に粘液を揉み込む。恥と安心、嫌悪がないまぜになって、シノは混乱と快感の火花を涙の向こうに見る。

  やがてシノの門が少しずつ緩み始め、狸の指が滑り込んだ。

  「ああ……っ!」

  すさまじい異物感と、肛門の引きつりがシノの感覚を犯す。ほとんど痛みに近い異物感の中で、狸の指先に、前立腺が一片の快感を捕らえた。狸は一瞬でシノの前立腺を捕らえたのだ。ほとんど開拓されていない硬い門に余計な負担をかけないよう、指の先ではなく腹、点ではなく面で、懇切丁寧に正確無比にシノの雌を刺激する。

  「な……っ、っ!? あっ! ああっ! あんっ!」

  「なんだ、すぐ感じるじゃないか。経験がないってのは前の話だけか?」

  こちらが素なのだろう。粗雑な口調をもう隠さずに、にやにやと狸が言う。

  硬く勃起しているシノの雄から、とろりと先走りがこぼれ、狸は「おっと、もったいねえ」と呟いて、また指ですくって舐めとった。

  指で犯されながら、排尿に近い感覚が下腹部に流れていく。

  「んっ、待ってくれ……! も、漏れ……」

  「おっと」

  「ぐおおぉっ!?」

  ずるるっと狸が指を抜く。肛門の異物感の痕がもの寂しく、ひくひくと肛門が収縮を繰り返した。

  「イきたいんだろう? こっちを使いな」

  医者が、シノに筒状のものを差し出す。身体を起こせずに、横たわったまま受け取る。真新しい竹筒のようだが、筒の一端は閉じられ、もう片方には柔らかいシリコン状の蓋が付いている。そして意味ありげな割れ目が開いていた。

  「これは……」

  「使い方が分からんのか」

  ひょい、と狸は竹筒を取り上げ、先走りで濡れたシノの雄に割れ目をあてがった。

  ——吾妻形か。

  シノが道具の意味を察すると、表情で分かったのか、狸が再びシノの手に筒を握らせた。

  「そら、自分でやりな」

  筒を勃起にあてがう。とろけた脳で、シノは一瞬だけ躊躇い。仰向けになったシノの脚を割り開くように老医者があぐらをかいている今の体勢では、自分を慰めている姿が余すところなく見られてしまうだろう。

  シノは唇を舐める。

  背徳と情けなさと嫌悪と興奮がどうしようもなく誇りを溶かしていた。

  雄を筒に入れると、すでに人肌に温めた粘液が仕込まれていたようで、にゅるりとした感触がカリや裏筋にまとわりつく。内部はとろとろで、弾力もあるぷるぷるの質感。一度往復させるだけで、温かいローションが亀頭の先端から裏筋、カリに至るまで優しく撫で、ぶるぶるの素材が射精に追い込む。全体的に甘く優しい刺激を与える設計の中で、断続的に仕込まれたきつくすぼまった細い部分が、シノに射精の階段を登らせる。

  問診で辱められ、性感帯を撫でられ、前立腺を犯され、狸の視線に晒されながら、シノは竹筒を振りたくる。彼の視線は柔らかくて暖かい、育ての親を思わせる太鼓腹に釘付けになっている。

  ——ああ、あれにもう一度包まれたならどれだけ気持ちいいだろう。

  ——許されるなら童に戻って、あの腹に包まれたい……。

  「う……っ、うああっ!」

  狭い輪をペニスで犯し、最奥の柔らかな部分に雄を突き立てる。そうしながら、シノは老狸に視線で犯されている。快感に歪む表情、往復する手、根本に垂れる粘液……本来なら一人で行うべき自慰を、育ての親にも、苦手ながら親愛を向けていた友人にも似た老狸に見られながら。

  「ああ……っ! すまぬ、医者どの……!」

  「おう、中で出してしまえ」

  「うっ……! ううう……っ!」

  竹筒の中で、シノの肉棒が体液を吐き出した。柔らかな未知の素材の中で、何度も肉棒が脈動し、精液を吐き出した。もう記憶も魂も使命も誇りも全部精液にして流したんじゃないかと思うくらいのすさまじい射精だった。

  長く激しい射精が収まると、ちゅぽん、と音を立てて狸が竹筒を引き抜く。すぼまりが溜まりの役割をしているのか、ほとんど精液は漏れていない。

  「うむ。よくイけたな。偉かったぞ」

  「う……」

  竹筒を看護師に渡し、狸がシノの頭をわしわし撫でる。少しがさがさした肉球、ぱさついた毛並み、丸々とした柔らかな指。育ての父のような狸の手がこそばゆくて、シノは照れたような笑みを返した。

  「少し休憩したら、また気持ちよくなろうなあ」

  甘ったるい猫なで声が倦怠に満ちたシノの身体に絡みつく。

  少し休もう。

  そしてまた古狸と肌を重ねて精液を渡すのだ。

  シノは目を閉じようとした。

  その時、部屋の隅のかごに折りたたんでいた甚兵衛が目に入った。

  「八」の漢数字が円で囲まれた紋がある。

  八百八の眷属を従える古狸。

  シノは笑みを捨てる。

  看護師が精液の入った筒を持って離れていく。

  精液の入った筒。

  ——「ただ体液には力が込められるからな。何かの目的があるやもしれん」

  某は、甘えてなどいられないのだ。

  立ち上がる。

  某の育ての父はワノクニに一人だけ。

  そしてこの東京で、某は父なのだ。

  怒りで欲情を塗り替えろ。

  朦朧とした意識を賦活する。

  「その筒をどうするつもりか!」

  「なっ……」

  古狸を蹴り倒し、その勢いのまま看護師の背に拳を突き入れる。看護師が瞬間の判断か、竹筒をぱっと投げて、吹き飛ぶ。

  シノの精液を受け取ったのは、床に倒れたはずの老医者だ。立ち上がり、白衣をほこりにまみれさせ、笑みではなく、忌々しげにこちらを睨んでいる。

  「意識掌握の術式を解くか。よほどの使い手と見える」

  言って、彼は、竹筒に口を付けた。シノが止める間もなく、中のローションごと、先ほど出したばかりの体液を飲み込む。

  どんな術だろうと、発動する前に殴り倒してしまえばいい。

  そう判断したシノは、踏み込んで拳を振るう。神器の「牙」では遅い。

  しかし、間に合わない。狸はまるで煙のように姿を薄れさせてしまう。拳が背後の壁を殴る。机に残ったカルテが目に入る。医者はしきりにこのカルテに何かを書き込んでいた——おそらく何らかの術式が組み込まれているのだろう。カルテを破り捨てる。

  それが何かのトリガーだったのか、診察室の奥から、多くの看護師が大挙する。それらはすでに生者ではない。看護師の制服でさえない。影の——塊。

  ただの、魔。

  「……ちっ!」

  シノは傍らの籠に畳んで入れていた甚兵衛を着る間もなく、診察室を飛び出す。

  そこには。

  大量の魔看護師たちが列を成していた。

  「やってやろうではないか! 役割は虐殺者、権能は到達!」

  偽りの名でもって、この役割と権能でもって、世界に割り込め。

  書き換えろ。

  来たれ、「牙」——!

  「おおおおっ!」

  現れる大刀、呪われし「牙」を横一文字に払い、数人まとめて吹きとばす。看護師たちは手練れではないのだろう、大刀を振るえば無力化できる。怪異としてのランクも看護師単体ではかなり低いのだろう。

  包囲を抜け、廊下を走る。とにかく体制を立て直すのだ。

  囲まれそうになれば「牙」を振るい、そして廊下を走る。すぐに脱出できるはずであった。

  しかし、目論見とは反対に廊下はいつまでも終わりを見せない。もう案内されたはずの廊下の数倍は走っている。にもかかわらず、背後には診察室のドアが離れない。無限回廊だ。

  診察室、目の前の暗闇、両方から看護師はあふれてくる。ここに至ってシノは気付く。看護師たちは弱いわけではないのだ。個体それぞれの能力を落とすことで、大量に生成されるのだ。

  「クソッ!」

  数が多すぎる。

  戦とは一言でいうならば戦力の差で決まる。シノは兵法の基本から、限りなく単純な答えを導き出す。どれだけの手練れであろうと、一人の剣豪では、軍隊に勝つことはできない。

  多数決の原理。

  この「牙」一本ではもう太刀打ちできない。

  幕間

  さあ、あの甚兵衛に施した賦活のおまじないが動きやしたか——。

  今でこそ歌舞伎町で隠居面をしているあっしですが、過去というものからはどうにも逃げられねえもんで、後悔、悔恨、因業があっしにもまとわりついております。転光したって、あっしがあっしである事実からは逃げられねえ。それははぐれ転光生の多いアウトローズのものなら、皆いんなご存知でしょう。

  過去。

  この現在を捕らえる網に、あっしらは囚われております。

  かつて、この東京のずっと南——ワノクニの江戸から下った先、ある地域であっしは守り神として、それはもう篤く信仰されておりやした。もちろんそうでなきゃあ、八百八の眷属なんかついて来やせんが。

  人間たちはその日食べるもののいくばくかを、あっしたちに渡してくれました。

  だからあっしは人間たちに返すことにしたんです。

  悪事疫病物の怪、そりゃああっしは当時はピカ一の守護神でございやしたから、人間たちを守ってやりたくて、頑張ったんでごぜえやす。

  仁義ってのはいつだって、反しちゃあならねえ。

  さてさて、ここからが本題、守護神、隠神刑部の終わりの話にございやす。

  ある時、大飢饉が起きたんでございやす。

  土地を守りし隠神刑部の力をもってしてもどうにもならぬほどの。

  さあいよいよ食い物が賄いきれねえってんで、その代の城主は幕府から金子を借り受けました。

  それで持ちこたえられると思いきや、人は欲の生き物、業の者。家老その金子を自らのものとするべく奸計を巡らせたのでございやす。

  「金子と権力……ふむう、あの古狸が目の上のたんこぶか」

  そう言ったかどうかは存じ上げやせんが、そういう戦略があったことは確かでございやす。

  あっしには信仰をして下すった仁義がありやす。そうそう人間の悪事には加担しやしません。家老にとってはそれが邪魔だったのでございやしょう。

  だから。

  だから家老は。

  森を燃やし。

  獣を討ち。

  怪しい術を使う狸を——殺すことにしたのでごぜえやす。

  ときの剣豪も加わって、あっしらを排除しようとしたのでごぜえやす。

  あっしは覚悟が足りなかった。つまり、死ぬだけの覚悟が。投げ出すだけの覚悟が。助けたい守りたいばかりで、しかしあっしは彼らを投げ出すことも出来なかった。

  眷属も、森も、山も、他の獣たちも。もちろん他の人間たちも。あっしはもう八方塞がりだった。

  「わ、わかった、よござんす。従いやしょう——」

  そしてあっしは剣豪と盟約を結びました。

  獣たち、狸たちをこれ以上殺さないでくれ。

  言うことを聞きますから——。

  お願いします。お願いします。こいつらを助けるなら——あっしは何でも致しやす。

  あっしは、剣豪が危なくなれば助けに行きました。

  あっしは、夜も昼も怪異を従えて暴れ回りました。

  あっしは、よくねえものになりやした。

  よくねえものは討たれるが必定。

  ああ、あの霊刀と仏杖を振るう剣士に折伏されたとき、どれだけあっしが安心したか、アウトローズの皆々様は知ることはないでしょう。

  「よかった——これでようやく、あっしはこの地獄から抜けられた」

  討たれたあっしは久万山に封じられやした。

  ここまでが、伝承にございます。

  しかし、話はここで終わりやせん。

  死ぬ覚悟も投げ出す勇気も持たなかったあっしが転じるまでがまだ残っておりやすんで、古狸の一人語り、もう少しお付き合いを願いやす。

  さてさて、見事悪しき狸が討たれ——しかし人々はそれで、あっしを悪には仕立て上げなかった。

  飢饉に手も足も出ず、街を騒がし、なお人々はあっしたちを祀ったのでございやす。

  ねえ。

  こんなの、ちょっとひどすぎやございやせんか。

  あっしは何も決められなかった、ただ悪に頭を垂れただけでございやす。

  お願いします殺さないで、代わりに殺しますから。だから殺さないで——ってなもんで、みっともないったらありゃしねえ。そんな狸の首は落としちまった方がいいってもんよ。

  それでも祀られちゃあ、ねえ。

  やっぱりあっしは、仁義を——仁の義に背いちゃあならねえって思ったのです。

  もし次があるならば、もしまた誰かに慕われたなら、こんなあっしを慕ってくれたなら、あっしは、今度こそ何でもしよう。守り切ろう。そうでなければ、あいつらに申し訳がたたねえ——。

  そう思ったんでございやす。

  その時、虹色の光があっしを包みました。

  これがあっしの悔恨語りにございやす。

  転向し、転光するまでの、昔話でした。いやあ、年をとると思い出ばかりが増えちまっていけねえや。

  旦那も、いつか神宿の坊ちゃんと喋っていたとき、あっしの話をしていらっしゃいましたね。

  いえいえ、陰口だのと申すつもりはありやせん。父親のように見られることが多いからあっしらは自然に仲良くなっておりやしたが、あっしの聞き違いでなければ——「わが友」と仰っていませんでしたっけね。

  ツクヨミの捜査網にとある鬼がかかりやした。

  でもなかなか尻尾を掴ませねえ古狸。ツクヨミの坊ちゃんもなかなか手を出せねえ、歌舞伎町の女王はちいっと教育に悪すぎる。よほど強い怪異なのか、歌舞伎町全域の情報を聞いている様子さえある始末。

  ちいっと搦め手で申し訳ねえですが、旦那には手伝っていただきやした。

  なあに、あっしが絶対に助けに行きやすぜ。

  さあ、お控えなすって。

  古狸変化。

  手前が自慢、ヤオハチダヌキにごぜえやす——。

  三

  大量の魔看護師に追われる形で、シノは壁際に追い込まれる。「牙」を振りかぶる空間がないほどだ。空間を必要としない柄の打撃や刺突で対応してきたものの、もう限界である。彼等は思考力も与えられていないようで、「牙」の切っ先を平気な顔で掴み、距離を詰めてくる。

  「ちいっ!」

  大刀をねじり、肉をこそげ落とすようにして取り返す。引き切る動作で数人を無力化する。その隙間を活路にできるか、と思ったが、すぐにその穴は後ろの魔看護師が流れ込んでくる。状況は変わらない。

  ——ここが年貢の納め時か。

  そう思ったとき、

  ばりん。

  と何かが聞こえた。

  ばりん。

  ばりんばりんばらばらばら——。

  ガラスの割れるような音だ。

  まだ何かくるのか、と大刀を構えると、空間に割れ目が走った。

  「さあ、お控えなすって!」

  そして、緑の着物を羽織った太り肉の老爺が、中空から飛びこむように乱入し、魔看護師をなぎ倒す。

  「古狸変化——手前が自慢、ヤオハチダヌキにごぜえやす!」

  現れたギョウブが槌を振るい、眷属を召喚する。わあわあわあ、と声変わり前の明るい鳴き声が弾ける。甲高くにぎやかな戦闘状態の子狸たちが波のように現れ、戦線を押し返していく。

  「ふふん、こう見えても子狸たちはあっし直属、一級の怪異よ。数のために個々の性能を落としたまがい物には決して負けやせんぜ」

  神器から召喚された子狸たちは、津波のように廊下の両端に前線を押し返し、形勢を逆転させる。魔看護師の包囲が解消され、シノは床に膝をついて、わずかの間だけ休息を取ることが出来る。

  「ふ……」

  息を吐き、注意深く吸う。疲労を消化し、活力を得るための兵の呼吸法。その丸まった背に、ギョウブが着物をかけ、手の平を乗せる。

  「か……かたじけない」

  「旦那、あっしと呼吸を合わせて下せえ」

  「む? ああ……分かった」

  未だ片鱗を残すギョウブの守護神としての力の一端、「生命の創造者」の癒しの呼吸だ。息吹は古くより生命の呪法として扱われている。彼の呪法が、呼吸に合わせてシノの活力を急速に高める。

  「わが友、どうしてここに?」

  「あの甚兵衛には「生命の創造者」の呪法を練り込んでおりました。おめえさんに何かあれば、癒しの術を発して、あっしにも知らせが届きやす。ツクヨミの坊ちゃんと歌舞伎町の女王も診療所へ来ておりやす。あのお嬢さんの夜はべらぼうな強さでいらっしゃる、あの医者の空間隔離の呪法もじきに破れましょう」

  あっしは甚兵衛のつながりがありますからね、先行要員にございやす。

  そう言って、ギョウブはからりと笑った。

  「そうか……かたじけない。手間をかけた」

  「いいや、謝らなきゃならんのは手前にございやす。すまなんだ、なかなか奴さんが尻尾を出さないもんだから、旦那を囮にしちまった」

  「やはりあの医者が噂の、か。……わが友、某を囮にすることなど、犬畜生にとってはどうでもいいことよ」

  「……」

  「来てくれた、それだけでもういいのだ」

  シノは振り返り、立ち上がる。

  身体はもうずいぶん楽になっていた。

  表情の硬い年上の友人の肩を、強く叩く。

  「ぐぇっ」

  「ほれ、わが友! 気合を入れろ、黒幕のお出ましだ」

  友人が振り向く。

  魔看護師の軍勢は眷属に抑えられ、残った二人の前には、恐らくは先ほど精液を摂取した老医者と思われる影が、診療所からふらふらと現れてきた。

  その影は先ほどのものとは全く異なっている。白衣が同じであることを除き、老医者はこれまでの面影を捨て、鬼としての色合いを隠していない。白衣は精液や愛液がべったりと染み付き、無生殖種から奪ったのだろう血液や、機械の循環液の赤や茶や青が、悪夢のように彼の身体を彩っている。

  すさまじい発情の匂いである。人間、獣人、霊体、機械に至るまであらゆる性と生命の力を纏っているのだから当然ではあるが、淫魔のスキルには収まらない、これはほとんど精神汚染や洗脳に近い発情の気配を纏っている。同時に、知覚した瞬間に発狂しそうなほどの強い怨みも。発情と怨み、生と死の気配が混淆しきっている。

  体躯も、老医者としての体裁を保っていたときもそれなりの巨漢だったが、今では巨人族の仲間かと思うほど膨れ上がっている。背丈だけならシノの三倍はある。しかも筋肉が膨張しているために、背丈以上の威圧感があった。

  なんて。

  なんておぞましい。

  ——囮が某でよかった。

  もし、貴き御方がこの場にいたらと思うと、シノはぞっとせずにはいられない。

  あんなに無邪気で、清らかな御方が、こんなものを見なくてよかった。

  某ならば耐えられる。

  「なあ若狸——仁義を欠いちゃいけねえよ」

  若狸、とギョウブは老医者を呼んだ。

  「本当は、生存のために精液が欲しいなら、あっしは大目に見てやろうと思っていたんです。実際、生存には性の気配が必須な御様子。しかし、そこまで無節操に集めるものではないでございやしょう」

  ギョウブは槌を下ろしている。だからシノも戦闘を始めない。おそらく、ギョウブは穏便に収める道がないか探っているのだ、とシノは直感している。この隠居狸は零れ落ちてしまった者を引き上げること、その屋根になることを自らに課している節がある。

  「ここで潮時にしちゃあくれねえか? こちらから定期的に必要な分の体液を供給することもできる。吸血鬼のお嬢さんだっているんだぜ」

  老医者は言う。

  「爺さん。何だかおれと同じ匂いがするから答えるが——おれは、復讐しかないのよ」

  「復讐? しかしだねお前さん、ワノクニの生まれと見えるが、なぜ転光を——」

  「いいや」

  ぎらぎらと濡れて混濁した瞳が、ギョウブを映す。身の丈はギョウブをやすやすと越え、頭が天井に届きそうなほど。腕や脚は丸太に見紛うほどの巨体だ。この体格差をして、ギョウブは引く様子を見せない。

  「おれはずっとここにいた。ここでずっと、復讐を待っていた。復讐を、復讐……ああ、でも、おれは、何を……だれを……。怨みを、怒りを……ああ怨んでいるんだおれは。怨んでいるんだ。怨んで怨んで怨んで怨み続けて怨みを怨んで怨怨怨怨怨——でも」

  でも、なぜ。

  怨んでいるのだったっけ。

  男は頭を抱える。

  ——く、狂っている。

  これだけの強い怨みだ。本人だって正気ではいられない。狂気の自家中毒。自分の狂気に自分が感染し、そしてその狂気にまた感染する。循環する狂気。体内で濃縮され続ける毒。

  蟲毒。

  孤独。

  「古狸——お前は殺されたことがあるか」

  「ええ、ごぜえやす。折伏という形で封印となりやしたが」

  「お前は、自分を殺した相手を怨んでいないのか」

  ギョウブは首を振る。

  「あっしは、それだけのことをしたんでね」

  次に、老医者の目がシノを向いた。黒く深くよどんだ、まるで宇宙のように何もない瞳にぎらぎらとした怨みが油のように浮いている。

  「シノ——おれにはお前が分かる。精液を飲んだから」

  「……」

  「愛に死んだ獣。犬塚信乃戍孝——いや……」

  老医者が、シノのもう一つの、発端の名を呼んだ。

  「[[rb:お前 > おれ]]は、まだあの姫を愛しているのか。憎しみも後悔もなく?」

  シノは「牙」に手をかけたまま答える。

  「無論」

  「しかし、こうも思っている——「某が愛さなければ、姫は死ななかった」と」

  シノが答える前に、老医者は続ける。

  「なあ、[[rb:お前 > おれ]]の愛は、本当にそこまで身を窶すほどだったのか」

  シノが口を開いた。

  しかしその瞬間に、光が飛んできた。

  「っ!」

  メスだ。

  反射的に「牙」を振るい、叩き落す。漏らしは無し。念のためギョウブに視線をやる。彼は頷き、低く、地を這うような声で言う。

  「おい若狸——、話途中にそれは礼儀がなっていないんじゃねえか」

  「狸……」

  老医者は頭を抱えてぐらぐらとふらつきながら反駁する。明らかな隙のようにみえるが、ぴんと張った糸のように、こちらの一挙手一投足によっては躊躇いなくメスが飛んでくるだろう。

  「……狸、狸、狸、狸……あたまが、いたい……。かなしい……」

  シノは小さく言う。

  「ギョウブ、もう、こいつは」

  「よござんす。あっしも期待はしておらなんだ」

  頷くと、老医者の瞳がこちらを射抜いた。

  「ああ——また殺される。いつでもそうだ、おれはきちんと知っているんだ……。いつだっておれはそうなんだ」

  メスが再度放たれる。一本一本が正確無比に、眼球、頸動脈、心臓、各急所に向かってくる。しかし正確性なら、シノの技量に追いつく使い手はそういない。「牙」を払い、メスを落とす。

  ギョウブは眷属の維持もあるから後衛に回し、前にシノが出る。

  「おおっ——!」

  どれだけ強かろうが、こちらが先に首を落とせば勝ちだ。

  野犬であった頃から染み付いた、絶対の生存戦略。飛び上がり、壁を蹴って、三角飛びの要領で首に向かう。「牙」は一直線に首を落とす——!

  「虐殺の「牙」、その権能は必ず狙った相手の首を打ち、冷酷に頭を落とす」

  「な——?」

  必中の「牙」が鬼の首に触れ、そこで何かが拒むように刃が停止する。押し込むも引き切るもできず、中空で停止する。まるで不可視の鎧をまとっているように、刃が通らない。

  老医者が——老医者であったものが鬱陶しそうに首を振る。

  「なあおい、おれは言ったはずだぜ、お前の精液はおれはばっちり飲んじまったと! どれだけ鋭い刃でも——おれには届かない!」

  その勢いに乗り、刀の停止点を軸に、後ろに飛ぶ。

  「は、はは、ははは。もう負けない、もう殺されない、もう殺させない。そうだ。そうだ。そうだ。何人も犯した殺した食った。あの頃のおれじゃない」

  ——だめだ。

  もうだめだこの男は。

  もう、話にならない。話ができない。

  「旦那、あっしも出ましょう。挟み撃ちです」

  ギョウブが出る。すれ違いざまに耳打ちされる。「牙」が通らない以上、それしかないだろう。そして、それを老医者も分かっているはずだ。

  左にシノ、右をギョウブ。シノの「牙」が機能しないと言っても、陽動くらいはできるはずだ。片腕だけでもこちらに向けば儲けものだろう。

  かたや伝説の発端、かたやかつての守護神、決して波の相手には傾かない。シノの「牙」は閃光のごとく、ギョウブの槌は巨大な岩石のごとく、鬼に向かう。

  「ああ……足りねえなあ」

  「がふっ」

  二人が、腕一本で吹き飛ばされる。

  「青二才が、やるじゃねえか」

  ギョウブが言う。

  放たれるメスを縫って距離を取り、再度二人で相対する。

  「旦那、こりゃ必敗かもしれません。なんとか隙を作ってやりやすから、お逃げ下さい。もうすぐお嬢の術式破壊が終るはずです。子狸の戦線にまぎれてお待ち下せえ」

  戦いの強さとは何か。

  その内の一つの物差しは、彼我の戦力差の推定精度である。その点においてギョウブほど磨かれたものはない。そしてギョウブは先ほどの一合で、戦力差を明らかにしてしまった。

  勝ち目はない。

  「わが友よ、必敗と言ったか」

  そこには、もう引き返さない者特有の響きがあった。鬼の言葉と同じ、何かを決めた者の響きがあった。

  「な……ならねえ、あっしが守るって決めてんだ。なあ、お前が死んじゃお終えなんです」

  「はは、酔狂よな」

  「な……?」

  「クハハハハ! 犬畜生が——大人しく「待て」などできるわけがなかろうが!」

  シノは牙を振りかざす。

  幕間

  古狸が苦手だった。

  某が転光して、アウトローズに流れ着いてから、世話好きな隠居狸に何くれとなく世話を焼かれた。当世の暮らし、ギルドのシステム、神器の使い方。多くのことを学んだ。そして、だからあの公園で困っていた御方を助けることが出来た。

  そういう意味で、ギョウブは某にとってかけがえのない友であり、東京の先輩であり、眷属の子狸を率いる父仲間だった。しかし、同時に、何者かを守るために命を投げ出す老狸の姿は育ての父母を思い起こさせた。

  某は狸に育てられたのである。

  母狸の名を「玉面」という。

  正体は玉梓。

  姫の父が殺した傾国の女である。

  狸に生まれ変わった敗国の姫、玉梓の怨恨を子守歌にし、呪詛の乳を吸い、某は育った。

  「児孫まで、畜生道に導きて、この世からなる煩悩の、犬となさん」

  曰く、子孫を畜生道に落とし、この世の煩悩の犬とする。

  これが玉梓の言葉であり、某はそうやって育てられた。

  某の心は怨恨でできている。

  某の体は憎悪でできている。

  だから某は敵将の首と引き換えに姫を望んだのである。

  姫以外何もいらない、ではない。姫を犯すことが某の役目であった。犬の子を孕ませるために某は育った。

  役割は虐殺者。姫と子をなし、その血筋を畜生のものとすること。某は姫から連なる未来を虐殺するための獣であった。

  娶った姫は某が触れることを禁じ、日夜、経を唱えておられた。その経を聞きながら、某は侍っておった。凛とされた声、お伏せになった憂鬱な瞳、細く白い指、某と暮らすために土で汚れた着物……姫のあらゆるものが某をうっとりさせた。

  某は、本当に、こんなに美しいものが自らとあることに泣きそうな気持ちになった。

  身体を離して某らは廃寺で眠った。そのような粗末な場は耐えられないだろうに、姫は気丈に振る舞っておられた。

  「お前は触らないんだな」

  ある時、眠る前に姫がぽつりと囁かれた。

  「確かに私は、私に触れることを禁じた。でも、私が寝ているときもお前は本当に触りもしない。ずいぶんよくできた犬だな」

  某が捧げる愛は、怨恨と憎悪で編んだ、呪いの造花。

  御方の経を聞くうちに虐殺のもと生まれた某は、思いを遂げることが自身の恋を裏切ることになることに気付いてしまった。姫に触れたい。触れれば呪ってしまう。某は抱えた恋を飲み下し、刻まれた呪いを抑えながら暮らしていた。

  それでも、某は幸福であったように思う。

  触れることを許されなくても、戯れの約定に娶られた姫が某に愛を返さなくとも。

  目を閉じれば、今でも某は御方の細く赤い唇から漏れる経を思い出すことができる。

  それでよかった。

  しかし。

  しかし姫は。

  姫は花の中で黄泉路へ別れた。

  某を狙う銃弾が外れたのだ。

  姫には決められた相手がいることは必定。某は男から女を奪った罪に、ようやく追いつかれたのであろう。

  愛さなければ、姫は生きておられただろうに。

  如是畜生発菩提心。

  是の如く畜生、菩提心を発す。

  この菩提心が何になろうか。

  愛した者も某が殺し、子供たちを獣に落としたのだ。

  ただ辺りをめちゃくちゃにして死んだだけの、愚かな犬畜生に過ぎないではないか。

  「しかしねえ旦那、あなたはそう仰いやすが、ままならねえばかりの人生で……おっと、ここじゃあ犬生と申しましょうかね? まあとにかく、自分の恋に死んだってのは、なかなか立派でございやしょう」

  古狸が言う。この男も、役割としがらみと想いでがんじがらめになった男だった。飄々として過去を語らない老練の隠居風でありながら、目の奥には悔恨がじりじりと熾火のように、小さく、しかししつこく燃え続けているのが某には見て取れた。某もまた、悔恨を抱えている。

  父親仲間の古狸だけではない、この東京で巡り合えた御方も、某が想いを寄せれば失う気がしている。それが恐ろしくてたまらない。父母のように、姫のように、心を通わせたものは失われてしまう。

  あの老医者の言葉はある程度正しくはある。

  某は確かに「某が愛さなければ、姫は死ななかった」と思っている。

  しかし、某はもう子供ではない。

  大人しく守られて、強いられた役割に翻弄される子犬ではないのだ。

  某は守ろう。

  守るために虐殺しよう。

  負け戦こそ我が舞台。

  さあ歌舞いて見せようではないか。

  四

  「必敗なる戦にこそ、某が浮かぶ瀬もあろう——!」

  離れては降り注ぐメスの雨を「牙」で弾き、近づけば振るわれる拳をいなす。切り結ぶ角度が一寸でも違えば、吹き飛ばされかねない死合の綱引き。甚大な腕力の差を、天性の技術で流し続ける。

  ギョウブは諦めたのか、むしろ晴れやかな顔で、ポルターガイストで投げつけられた調度品に槌を振るう。

  「で、旦那はなにか策があんのかい?」

  「策!?  首を叩っ切るのみよ!」

  彼はシノの顔を見た。

  シノは笑っている。

  死地に至るほど、シノの笑いは壮絶に凄みを増す。古狸はわざとらしくため息をついて見せる。

  「ま、黄泉路も二人で行くなら悪かねえ」

  「……ギョウブ、何とかして隙を作れるか」

  「よござんす。やってやりやしょう」

  前衛にシノ、後衛にギョウブというのが通常だが、引き続き逆の布陣を張る。シノが「牙」でメスを落とし、ポルターガイストで飛ばされる調度品を防ぐ。その振るわれた「牙」の背にギョウブがとん、と足を乗せる。何の術を使ったものか、巨体から想像できないほど軽い。彼を「牙」で跳ね飛ばす。

  直線状の動きで動きを読まれぬように、「牙」であるいは槌で、二人は動線を三次元的に絡ませる。

  攪乱。

  ギョウブがすれ違う隙に、肩や頭を小突くように打撃を加える。

  「っち!」

  追い打ちの家具を、シノの「牙」が落とす。残心を流すシノに降り注ぐメスを、「牙」を足場にして飛んだギョウブが落とす。

  「ちょこまかと……」

  この組み合いとも呼べぬヒットアンドアウェイのやり取りは、裏返しに言えばシノとギョウブではこの戦法しか取れないことを示している。前衛としてはアウトローズの中でも随一であるシノが無効化された以上、ギョウブを軸に組み立てるしかない。有利に運んでいるわけではなく、防戦に集中することで何とか拮抗させているだけだ。ギョウブの細かな打撃で、魔医者の苛立ちを煽り、隙に繋げていく。

  だが、ギョウブの細かな打撃は、それだけでこの拮抗を容易く魔医者に傾かせる。

  重厚なタペストリーのように汲み上げた攪乱の動線は、極限まで圧縮されて反射に近い思考によるものだ。だから、ある程度の時間が立てば、そこにはパターンが生まれる。

  シノがメスを落とす。

  残心。

  「牙」を足場にしてギョウブが、弾丸の如く飛翔する。

  足場から、直線じゃなく、やや斜め、魔医者の肩口にめがけて。

  「しまっ——」

  魔医者の手が、槌の柄を握った。そして、円を描く。

  飛び回っていた狸の勢いを合わせて、魔医者はギョウブを床に叩きつけた。

  「……は、はは、ははは、おれは、おれ、おれおれおれ……」

  玩具に癇癪をぶつける子供のように、魔医者は何度もギョウブを振り回し、何度もギョウブを叩きつける。

  やがて魔医者が槌を掲げると、だらりと老狸が垂れ下がる。嘲笑を浮かべた魔医者が、彼の顔を覗き込む。

  ギョウブは——隠神ギョウブは、血まみれの顔で、にやりと笑った。家族は絶対に見ることがない、相手を見下しきった、冷たい嘲笑。

  「[[rb:何 > な]]あんだ、この程度かい若狸。それでどうなるって言うんだい、ええ?」

  「この……っ!」

  魔医者の視線が、ギョウブに釘付けになる。魔としてある種の完成を得た際の全能感、シノを無力化したという驕りと、ギョウブへの憤怒。

  シノは飛び上がる。

  「そうだな、ギョウブ。笑おう。ここが我らの死の舞台であるからな!」

  初手と同じ三角飛びの要領で飛び上がる。

  でも先ほどとは違う。

  この隙を突くのだ。

  通らない「牙」を振るう。

  「[[rb:役割 > ロール]]は虐殺者、[[rb:権能 > ルール]]は——到達!」

  某は[[rb:虐殺 > ころ]]す者。

  某は[[rb:到達 > いた]]る者。

  殺せぬ者などない。

  届かぬ刃などない。

  この呪われた役割を、某は引き受ける。最初こそ、確かに押し付けられたものであるかもしれない。しかし、頭を垂れて拝領などもうしない。前を見据えて、笑いながら、某自身の意志でもって引き受けてやろうとも。

  誇り高く世界に宣言しよう。

  某が何を愛し、どう生きるのか、某が決めるのだ。

  切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。通らない。切りつける。

  ——切り落とす。

  魔医者が叫んだ。

  「ぎ、ぎ——ぎゃあああああっ!! ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、こいつ——精の力が切れるまで、渾身で切り続けやがった!」

  飛び上がったシノは、「牙」が通らないことで、切りつけ、その反動で飛び上がり、再度切りつける。それを切れるまで続けたのである。空中で激しく黒い影が回転し、執拗に斬撃を加える。

  執拗さにかけてはシノの右に出るものはいない。あの姫を手に入れるために必敗の戦場を駆ける執念。

  いかに東京広しといえど、無限というものはそうそうない。ましてや精液である。無限であるはずがない。

  「クク——クハハハハ! 油断したな青二才! 其許が抱えられるほど、無限というものは安くはないぞ……!」

  ずるう、と皮膚も肉も骨も断たれ、呪いで編まれた血液を噴き出しながら、魔医者の腕が落ちる。天井近くの高さからギョウブが、引っかかりを失ったシノが重力の虜となる。笑みを浮かべながら、老狸が槌を振るう。

  「古狸変化——ヤオハチダヌキ! すまねえな子狸たち、もう少し頑張ってくれ、下の者は神通力で守れ! きかん坊の犬っころめ、存分にやっておくんなせえ!」

  槌から、わあわあわあと甲高い声の狸たちが現れる。その圧倒的な量。子狸たちの山に持ち上げられるようにして、シノが魔医者の首にたどり着く。

  「こ——ころされる、ころされる、また、またころされる……」

  偽装展開。

  これこそ、虐殺の忌み名なり。

  シノは紅の光を纏う「牙」を振るう。

  漂頭散寂——クビカリノヤイバ、首を落とすための獣の呪い。

  首の皮膚に食い込み、ぬるりとした肉と油に刃が埋もれ、筋線維と血管をぷちぷちとしが感触がして、硬い骨に当たる。ばちっ、と火花が視界に散る。

  ——違う、これは術ではない——!

  精液の縁による、追憶の流入だ。

  魔医者の走馬灯が、「牙」を通して流れ込んでくる。

  思い出した、とシノは思った。

  おれは、恋をしていた。

  泣きたくなるような歓喜と喪失が津波のように、シノの自我を束の間洗い流した。

  「お、おれは、おれは、ただ会いたかった……思い出した。おれは恋をしていたのだった。——あいつを……でも、ああ……」

  おれは生前狸だった。

  江戸で暮らしていたおれは、妖術は仕えた者の、低級の怪異として、それなりに楽しく暮らしていた。

  しかし、ある時、そこに迷い込んだ。

  堀に囲まれ、木枠の向こうで白く肌を塗り、赤い口紅を差した女たちがいっぱいいた。そこで、おれはその人に出会った。

  その人は凛とした声で、ゆるゆると歩く女で、こんなに美しい人がいるんだと、世界がひっくり返るような気持ちになった。その人に出会う前と、出会った後じゃ、木の実の味も全然違っていた。女は迷い込んだおれをこっそり街の外に返してくれた。その時のふわっとした白粉の香り!

  おれはその人に恋をした。白粉はまるで一片の曇りもなくて、紅は流れるようで、汚いおれを優しく撫でて下さり、干し肉や飯を食わせてくれた。迷ったふりをして、おれは何度もそこに訪れて、その人に撫でてもらった。

  街でも、少しずつおれのことを知って、居心地がよくなった。よりおれは入り浸るようになった。

  人の言葉を喋らぬおれに、人々は悩みや噂を話した。別にどうということのない、罪のない一人語りのようなものだったから、おれは、飯をもらいながら撫でられながら、色んな人の話を聞いた。

  やがて、おれはその人の身請けの話を聞いた。身請けの意味はよく分からなかったが、あの人が遠くに行ってしまうということらしかった。

  嫌だ。

  おれを置いて行かないでほしい。もっと撫でてほしい。おれのことを膝に置いて、あの凛とする声で昔話を聞かせてほしい。魔を退治する英雄の話を聞きながらすごすあの時間が、おれの中では何よりもかけがえのないものだった。

  人間は「カネ」というきらきらしたものを渡すことで、女と一緒になることが出来るらしい。

  「カネ」は見たことがあった。おれは木の葉を妖術で金の見た目にした。人間たちはきらきらしたものが好きなのだろう。これであの人が一緒にいてくれる。

  おれは人に化けて、木の葉の金子で身請けをした。しかし、おれはそれに安心して、街の中で、金子の術と人変化を解いた。

  そのあとのことはよく覚えていない。

  いろんな人がやってきて、女は連れ戻された。女は、

  「いいえ——わっちはこんな男、知りません。こんな獣、殺してくりゃれ」

  として元の身請けの話に戻った。おれは切りつけられて、ほうほうのていで逃げ出したものの、すぐに力尽きた。

  暗くなる視界と、寒くなる身体を引きずって、おれはここにたどり着いた。

  ああ——会いたい、会いたい、会いたい。狸が人に恋をするなんてしてはいけないことだったんだ。この愚かな恋を抱いておれは一人で涙が枯れるまで泣いた。

  そして悔恨の果てに涙が枯れたとき、おれの心に炎が灯っていた。

  それを「怨み」というのだ。

  思い出した。

  愛さなければおれは妖怪として楽しく生を終えられたのに。

  走馬灯の波を越えて、シノの自我が再度浮かび上がる。

  「名も知らぬ狸よ——」

  と彼は呟く。

  「其許は、愛さなければ幸せだったか」

  幻想の向こうで、小さな狸が首を振った。

  「いいや。そんなことはない」

  小さな狸が、老医者の外見に変わっている。

  彼は驚いたように目を見開いた。

  「おれは今、『そんなことはない』と言ったか。……そうか」

  なるほどなあ、とのんびりした顔で老医者が穏やかに笑った。

  光の粒にとろけ始める。幻想が急速に収束に向かう。

  落下の重力がシノの身体を掴む。

  そうだ、首を切ったのだった。

  見ると、巨人とも見まごう老医者の姿はなく、シノだけが空中で「牙」を振り抜いている。

  「ぐお……っ!?」

  「子狸! 神通力!」

  ギョウブが鋭く命じる。残っていた数匹の子狸とギョウブの構築した神通力で、シノは緩やかに着地する。

  素足のまま、シノは診療所の床に降り立ち、軽く頭を下げる。

  「かたじけない」

  「旦那、こっち」

  「む」

  子狸を一匹ずつかいぐって、肩や頭に乗せながら、ギョウブが示した先には、狸のむくろが転がっていた。

  「ねえ、シノさんがすごく頑張ったことは分かるよ。でも私だって女の子だからさ、あんまり裸の男の人を背負って飛びたくないんだけど。そりゃこの時間ならシノさんくらいなら軽いもんだけどさあ」

  シノの甚兵衛は乱闘のさなかにどこかに消えてしまい、結局、ギョウブが持ってきた羽織り一枚だけを羽織っていた。

  どれだけの時間診療所にいたのか、空はとうに真夜中である。全盛期の歌舞伎町の女王の身体能力は、大の男を軽々背負い、ビルとビルを縫うように跳躍するほど。どこぞのアメコミヒーローもかくや、である。

  あのむくろはツクヨミがワノクニの方式で葬った。すると、これまでの空間が嘘のように閉じられて、跡形もなく消えてしまった。十字路なんて初めからなく、そこには飲み屋があるきりだった。ツクヨミは店の仕事があるからとあわただしくクラブに戻り、シノたちは帰宅することになった。アプリ外の戦闘だったため、治療や疲労が残っていたのだ。ギョウブの術で一応の応急処置は出来たものの、二人は万全とはいいがたいし、シノはシノで着物がないので、まさか歌舞伎町を歩かせるわけにはいかなかった。普通に通報されてしまう。

  「か、かたじけない……」

  少女に背負わせているというので、シノは顔を真っ赤にしながら、身体を縮めている。股間が当たらぬように不自然な姿勢を取るものだから、ずいぶんバランスに苦慮している。

  「いいよ。だって死の匂いがぷんぷんするもの。でももっとちゃんと負ぶわれてくれませんか。落としちゃうかも」

  「し、しかし……!」

  「私、歌舞伎町の女王なんだけど。今更おじさんのおちんちん当たったくらいで引かないよ」

  「お、おじさん……」

  「はは、お嬢にかかれば、子持ちの男は皆おじさんでいらっしゃいますか」

  「……ギョウブさんはおじいちゃんでしょ」

  「…………」

  ゴールドブロンドをはためかせて跳躍する女王の背で、シノはうなだれる。追走するギョウブも混ぜっ返して返り討ちにあってしまった。

  夜を飛びながら女王が、言いにくそうに、「でもごめんなさい」と呟いた。

  「シノさんばかりに面倒ごと押し付けちゃった。本当はこういうアプリ外の問題こそ私がしなくちゃいけないのに」

  「いや、気遣いは無用。野良犬はこれしかできぬ故」

  「そんなことないよ」

  「?」

  「ほら」

  飛びながら、エリイが指をさす。そこは歌舞伎町の一角の雑居ビル。アウトローズが所有するセーフハウスの一つだ。その屋上には、息子たちが待っている。御方とモリタカは学校が終わってすぐここで待っていたのだろう、学生服姿だ。

  「お前たち……」

  降り立つ。

  女王に礼を言って駆け寄ると、三人に飛びつかれる。

  「うおっ……」

  「シノ!」

  「父上! 心配したであり申す~!!」

  「ち、父上……! ああ、お帰りになってよかった……!」

  二人はほとんど泣きそうで、一人は大泣きだ。三人分のタックルを食らって、シノはコンクリートの地面に倒れ込む。全員が乗っかってくるものだから、シノは「ぐえっ」と肺から息を漏らした。

  数秒ほど、シノはぽかんとしてから、そっと彼らの頭を順番に撫でた。御方の髪は柔らかく、モリタカの灰色の毛皮はみっちりと詰まっていて、タダトモの白髪はやや乾いてかさついている。

  それを見届けたエリイとギョウブが軽く手を上げる。

  「じゃ、私戻るわ。ギョウブさんはちゃんと病院行ってね」

  「うむ。ではシノ、坊ちゃんたち、あっしはこれで」

  二人はそれぞれ夜の中に飛び降り、階段を下り、去る。

  ——みっともないところを見せてしまったな。

  気まずく思いながら、シノはタダトモの目尻を拭った。

  「ほれ、帰ってきた者を迎えるのに、泣くやつがあるか」

  「す、すみません……」

  「御方、考の字、忠の字、心配をかけたな」

  両腕を広げて、息子たちを抱きしめると、彼らの生々しい体温と重みが乗ってきた。

  ——しまった、某は全裸であった。

  構うものか。どうせ自分の息子しかいないのだ。

  「其許らは、まだまだ某がいないとならんようだな」

  尊大な虚勢を張る。しかし、シノの尻尾は彼らの下でばさりと振られ、声音は喜色に満ちていた。

  もう自分は野良犬ではないようだった。