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最悪だよ。
お風呂に黄色いあひるさんを浮かべて遊んでいたのだけど、浮かべているだけでは飽き足らなくなって、シャワーでお湯をかけてジェットあひるごっこを楽しんでいた。いい歳こいて興奮しながらシャワーを振り回していると、突然シャワーヘッドが外れてしまってホースが浴室内を跳ねて蛇のようにのたうちまわる。顔までずぶ濡れになりながらなんとかお湯を止めた。
シャワーヘッドをはめ直そうとしたけどどうにもハマらない。よく見るとスクリューの部分が削れてバカになっているようだ。管理会社に連絡すると、まずは業者を手配して見積もりを取ってからの修理になるから最速でも明後日までは直らないということだ。ガッデム! これじゃあお風呂に入れないじゃない!
——というのが昨日までの流れだ。一日くらいお風呂を我慢するという手もあるけど、常に清潔でありたいぼくとしてはきちんとお風呂に入っておきたい。給湯器が壊れた訳ではないのだからホースからお湯をかけるという手もなくはないのだけど、シャワーヘッドがないとシャワーを壁に留めることができないし、手が滑るとまたホースが跳ね回って阿鼻叫喚になるので避けたい。
この辺りは住宅地なのだから、銭湯の一軒や二軒あるのではないだろうか。スマホで検索するとすぐに最寄りの銭湯が見つかった。ありがたいものだね、文明の利器というものは。さっそくおふろセットをお気に入りのトートバッグに入れて銭湯に向かった。
へえ、こんなところに銭湯があったんだね、普段通っている道なのに気づかなかったよ。商店街を逸れた脇道の古い住宅地にぽつんとあって、入り口前ではお風呂上がりらしきご近所さんが井戸端会議をしている。銭湯なんて久しぶりだからちょっとワクワクしてしまうね。ぼくはさっそく銭湯入り口の引き戸を開けた。
いらっしゃいという女性の高い声がする。へえ、番台さんといえばおばちゃんというイメージがあるけど、この銭湯は若いお姉さんがやっているんだね。
しかしお仕事だとはいえ、ぼくのようなおっさ……おにいさんのシリを見なきゃいけないなんて大変な仕事ですね。もちろんお姉さんはこれまで万のシリを見てきたのだろうから、今さらぼくのシリなんてセクシー大根よりどうでもいいのだろうけど、どちらかというとぼくの方がちょっと気恥ずかしいような気がする。
ともかくお金を払って脱衣所に上がる。大きなアナログの体重計、柱にとりつけられた扇風機、牛乳の入った冷蔵ケース、マッサージチェアーなどが置いてあり、脱衣所内は古き良き時代の空気に包まれている。やっぱり客層はおじさんやおじいさんが主だね。若い人はあまり利用することはないのだろう、ぼくのようなトラブルでも抱えていない限り。
さっそく——少しだけ番台さんの視線を気にしながら——服を脱ぎ、お風呂セットだけ取り出して百円ロッカーを閉めた。ハンドタオルで股間を隠しながら浴場へ向かうと、しわがれた声に呼び止められる。町内会長さんだ。どうもマッサージチェアが終わったところでぼくに気づいたらしい。
町内会長さんは生まれたままの姿でシリを掻きながら世間話を始めた。最近若い人が催し物に参加してくれないという愚痴とか、パソコンの使い方が分からないから町内掲示板の掲示物を作ってくれとか、そういうの。ハイハイと言いながら話を聞いているけどまったく頭に入ってこない。そりゃフルチンのまま五分も十分も話し込まれたら一刻も早く浴場に逃げ込みたくもなるというものだ。それに微妙な距離の知り合いに裸を見られっぱなしというのもどことなく気恥ずかしい。
やだなあと思っていると番台のお姉さんがこちらをチラリと横目で見る。お姉さんは仕事だから単に脱衣所内を見渡しただけだと思うけど、妙齢の女性にだらしない壮年太りの体を見られるのはあまり嬉しくない。お姉さんの視界を汚すという意味でも見せたくないし。町内会長さんの話が奥さんの愚痴になったあたりで、この後用事があるのでとか適当に誤魔化して挨拶もそこそこに浴場に逃げ込んだ。ちなみにアニメの時間が迫っているのは本当だからあながちウソではない。
わあ、広いね。年季の入った柱や古めかしいデザインのタイルが時代を感じさせる。洗い場のカランこそ古いもので、プッシュしてしばらく経ったら自動でお湯が止まるタイプのものではあるけれど、広々として開放感がある。そして何より大きな浴槽が嬉しい。いつも古い1Kアパート備え付けの狭いバスタブに浸かっているものだから、存分に脚を伸ばせるというのは嬉しいものだ。
まずは体を洗おうと洗い場の風呂椅子に座る。これまで何人もの男のシリを乗せてきた浮気性な椅子だ。ぼくは人が生尻を乗せた椅子に座ることを気にするタイプではないのだけど、やはり見たこともない他人のシリと間接的にでも触れるということには思うところがある。ちなみにぼくは公衆トイレの温水便座は使えるほうだ。雑菌が気になるという人も多いようだけど、ぼくは大手上場企業が清潔だというからにはきっと大丈夫なのだろうと信じている。
シャンプーを手に取ろうとして手が止まる。置いてあるシャンプーはこう……いかにも備え付けのシャンプー然としたデザインだ。きっと業務用のやつを詰め替えているのだろう。以前素泊まり六千円のビジネスホテルに泊まったときに備え付けのシャンプーを使ったら毛がバッシバシのパッサパサになったことがある。少し手に取ってみるとツンと香料の匂いがする。やっぱりこういうところに置いてあるシャンプーはご家庭に置いてある一本千円以上するものよりは品質がよくないんじゃないだろうか。
それに普段使っているのとは違うシャンプーは乾かしたあとに違和感を覚える。ぼくの体から出るべきものじゃない知らない香りが、鼻の奥に集中力低下のデバフを与えるのだ。同じような現象はコインランドリーでも起こる。ただ服ならすぐ脱ぐことができるけど、シャンプーの場合は毛をむしり取る訳にはいかない。
やっぱり体につけるものにはこだわるべきだね。ぼくは持って来たお風呂セットの中から高級オーガニックシャンプー・トリートメント・ボディーソープセットを取り出して体を洗った。
ようやく落ちついてお湯に浸……浸か……………………ちょっと熱いかも知れない。ぼくはいつも優雅にぬるま湯で半身浴をしているから、こんなに熱いお湯には慣れていないのだ。
とりあえず両足をお湯に入れてゆっくり慣らし、少しずつ脚を沈めていく。やがて膝辺りまで浸かった時点で一旦体を止める。……こんなに熱いお湯にその、デリケートでセンシティヴなきんたまを浸けても大丈夫なのだろうか。そもそもきんたまは内臓の一部であるけども、体内にあると温度が高すぎるのでわざわざ外にぶら下がっているのだと聞いた。そんなことを考えながらへっぴり腰で固まっていると、周りのお客さんに笑われてしまった。
「なんやニイちゃん、熱くて入られへんのか? ガハハ」
一番豪快そうなおじさんはぼくの手を掴むと、ニヤリと笑みを浮かべて一気にお湯の中に引き込んだ。あああああ! このやろう! モラハラだしスパハラだよ! ゆっくり入っても熱いのに、一気に引き込まれたらやけどして死んでしまうよ! 鼻の穴から安いボディーソープを流し込んでやろうかい! 涙を流しながら抵抗していると、視界の端に温度計が見えた。四十三度——
二、三分ほどしてようやく体が慣れてきた。スネながらお風呂セットからあひるさんを取り出して浮かべていると、スパハラおじさんの反対側の学生さんたちが駅前の安売り弁当の話をしている。へえ、毎週水曜日は牛肉弁当が五百円なんだね。それからその向かいのパン屋さんが美味しいらしい。さすが一人暮らしの多い学生さんたちはこのあたりの食事情に詳しいようだ。
すると今度は湯船の端のほうに浸かっているメガネを白く曇らせたおじさんが、ご友人らしき人と車の購入相談をしている。ふうん、ネットのレビューと違って実際に乗っている人から知りたい点を深掘りして訊けるのはいいね。
視線を戻すとスパハラおじさん達は町内会の催し物の話をしている。なるほど、風呂は庶民の社交場だとはよく言ったものだね。色んな種類や世代やご近所の最新情報が自然と耳に入ってくる訳だ。これなら時々銭湯に来るのも悪くないかも知れないね、湯船が熱いのとスパハラおじさんがいること以外は魅力的だ。
熱いお湯にも慣れてきたので、おじいさんたちの輪から腰痛の予防法を盗み聞きしていると、いつの間にかもう十分以上経っている。そろそろのぼせそうになったので湯船から出ると、軽く水を浴びて浴場を出た。
血行が良くなっているからか、来たときよりも体が軽いような気がする。とはいえ一気に体を動かしたようなものだから少しの疲れもある。なるほど、子供の頃はどうして脱衣所にマッサージチェアや休憩エリアがあるのか謎だったけど、この年になってからその理由が分かったような気がする。
そう言えばコーヒー牛乳が置いてあったはずだ。ずいぶん汗をかいたはずだし、なによりこういうところのちょっとチープだけど懐かしい味、というのは時々飲みたくなるものだ。ええとロッカーからお財布をとってこないと。そうだ、百円ロッカーだから開けたときに戻ってくる百円で牛乳を買えばいいんだね。ロッカーに鍵を差し込む。回す。カチッと乾いた音がする。…………
ちくしょう! そんなことだろうと思ったよ! これ百円戻ってこないタイプのロッカーじゃない! などとロッカーの前で憤慨していると、浴場からスパハラおじさんが出てきた。前くらい隠して欲しい。
「がはは、ニイちゃん済まんかったな。ワシが牛乳おごったるわ」
まだ濡れている手でぼくの肩をビチャンビチャンと叩くと、おじさんは冷蔵ケースからフルーツ牛乳を二本取り出して横にある箱にお金を入れた。嬉しいんだけどぼくが欲しかったのはコーヒー牛乳だったということは言わないでおこう。腰に手を当ててスパハラおじさんと二人でゴキュゴキュと牛乳を飲む。水分が体に染み渡るようだ。
ちょうど二台あるマッサージ機が空いたところでスパハラおじさんに誘われるまま座る。見るからに古い機種で、スイッチを入れると無遠慮なゴムローラーがぼくの体の形状などお構いなしに強引に背中をなぞる。痛い。これで本当に筋肉がほぐれるのだろうかと隣を見ると、スパハラおじさんは目を閉じたまま、なにかいやらしい感じの声を上げながら背中を揉まれていた。
「ニイちゃん、また来ィや。牛乳おごったるさかいな」
確かに今日も散々な目に遭ったけど、なかなか楽しい経験もできた。こんなに広いお風呂をワンコインで楽しめるのだから、たまには来るのもいいかも知れない。それに体が温まるから熱いお風呂というのもいいかも知れないね。おじさんはほなお先にと言って越中褌とスウェットを着て帰って行った。ぼくも帰ろうかな。
しまった。お気に入りのあひるさんを回収するのを忘れてしまった。帰り道の途中で引き返し、急いで銭湯に戻る。建物の前まで来ると、なにやらおばちゃんの大声が中から聞こえる。嫌な予感がする。ぼくは恐る恐る引き戸を開けた。
「はいパンツー。このパンツ誰か知らない? 違うんだったら捨てるよー、パンツ。このパンツ誰のー? パンツもう捨ててしまうよー? 結構大きいパンツだけど」
どうやらパンツの忘れ物みたいだね。そんなにパンツ連呼しなくてもいいのに。それにしてもあんなふうに自分のパンツを晒し上げられるのはなかなか恥ずかしいし名乗り出にくいのではないだろうか。
そんなことよりぼくはあひるさんを回収しなければならない。パンツを振り回すおばちゃんを尻目に番台さんにあひるさんのことを話すと、お姉さんは回収してくれていたあひるさんを返してくれた。するとお姉さんはぼくをジロジロ見て、大きな声でおばちゃんに話しかけた。
「お母さん、それこの人のパンツ! 私さっき見たもん!」
……確かに見覚えがある。風呂に入る前まで履いていたピンクのパンツだ。ぼくの顔が火照っているのはお風呂に浸かったからだけではないだろう。というかお姉さん、やっぱりぼくのシリをバッチリ見てたんだね。ジーザス! 色んな意味でいたたまれないよ! せっかくスパハラおじさんとは打ち解けたのに、今度から来られないよ! ぼくはむしり取るようにおばちゃんからパンツを奪い取ると、逃げるように銭湯から飛び出した。
いやあ昨日は酷い目に遭ったね。でも今日こそは修理会社の人が来てシャワーヘッドを直してくれる手筈になっているからもう銭湯に行かなくてもいい。もちろん銭湯は魅力的だけど、今度はパンツのほとぼりが冷めた頃に行こうね。
おやつを食べているとインターフォンが鳴る。修理業者の人だろうか。扉を開けると——修理業者の作業服を着たスパハラおじさんが立っていた。おじさんは少し驚いたあと、ニヤリと笑みを浮かべた。
「ニイちゃん、えらい派手なパンツ忘れてったらしいな。近所のじいさんが言うとったで、ヒヒヒ」
社交場の風通しが良すぎるのも考えものだね。
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