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おっちょこちょいはひとりで焼肉に行ってはならない

  高尚な文筆家たるぼくは、休日は寝食を惜しんでパソコンに向かって官能小説を書いているのだけど、ここ最近筆が乗るので平日の夜にもたくさん小説を書いていたらどうも手首が痛い。キーボードを叩いていても、違和感で集中力が削がれてしまう。数日経っても一向に良くなる気配がないどころか、蛇口を捻ったりペットボトルのふたを開けるだけでも痛みがあるようになってしまった。このまま放置しておいては執筆活動が出来なくなってしまう。

  今後のことを考えて整形外科に来た。レントゲン技師が何枚かレントゲンを撮ったあとに診察室に入ると、先生が指し示したモニターにはぼくの骨の画像が映し出されている。へえ、今はレントゲンもフィルムじゃなくてデジタルなんだね、子供の頃はペラペラしたフィルムを撮られたものだけど。

  レントゲン写真を見ると不思議な気持ちになるね。今ぼくは生きているのに、なぜか生きていないぼくの体が覗き込まれているような気がする。この無機質なカルシウムのかたまりを、ここにはほとんど映っていない筋肉が伸縮して動かしているわけだね。

  先生は写真を軽く見て骨に異常がないことを確認すると、ぼくの指をぐにぐにと曲げ始めた。なるほど、どこが痛いかによって悪いところを探すわけだね。これは痛いですか、これはどうですかと色んな方向に曲げられる。

  「じゃあちょっと握手しましょう」

  言われるがままに先生の手を握る。

  「じゃあちょっと振りますねー」

  えっ、ぼくがあたふたしている間に先生は遠慮することもなく手を振あああああ! おかしいだろ! 痛いから医者にかかっているのに、これでは余計悪くなってしまうよ!

  ぼくが悶絶していると、先生は何事もなかったように一言、腱鞘炎ですねといって涼しい顔でパソコンのキーボードを叩いた。涙目のぼくは看護師さんにサポーターをはめてもらって待合室に戻った。

  「こちら処方箋と——サポーターは保険適用外なので、本日お会計五千円になります」

  そんなに現金持ってないよ! 別途お金が掛かることは診察室で言ってよ! そう、お医者さんって受付で教えてもらうまではお会計がいくらになるか分からないよね。まあ耳鼻科でいちいち「耳くそ取るのに三百円かかりますけどいいですか?」とは確認しないだろうし、ぼくのサポーターだって必要なものなのだろうけど。仕方ないので最寄りのコンビニでお金を下ろして会計を済ませた。

  すぐ隣にある調剤薬局で処方箋を渡すと、薬ができるまで座って待つことになった。それにしても腱鞘炎ってどれくらいで治るものなのだろうか。スマホで調べてみる。重度だと注射を打つこともあるらしいのだけど、そうでなければ湿布や飲み薬を使いつつサポーターで固定して自然治癒力に任せるものらしい。そしてそれを妨げないように安静にしておくのがいいらしいのだ。でもそんなのを待っていたら小説が一向に進まなくなってしまう。何か少しでもマシになる方法はないのだろうか。

  しばらくスマホで「腱鞘炎 パソコン」などと検索してみる。……ふむ、人間工学に基づいて開発された入力デバイスをおすすめするサイトが多いみたいだね。中央がぐんにょり盛り上がったキーボードや、なんと左右が分かれてしまっているキーボードなんていうものまであるらしい。

  本当にこんな珍妙な形のキーボードで効果があるのかは分からないけど、色々なサイトを見る限りでは絶賛している人が多いみたいだ。普段ならふーんと言って終わりだけど、今のぼくは藁にもすがる思いだ。へんなキーボードを買うことで小説を諦めずに済むのなら導入するのはやぶさかでない。

  以前パソコンを買ったときに来た家電アストロボーイを訪れた。この間パソコンコーナーを案内してくれた店員さんはいるだろうか、ええと虎山さんだったかな。

  「あ、こんにちは。今日はどうされましたか?」

  腱鞘炎のことを話すと、彼はなるほどといってキーボードコーナーに案内してくれた。

  「これなんか人気ですよ、打つときの衝撃が弱くて負担がからなくて」

  ふうん、見た目は普通のキーボードだね。勧められるままに試し打ちをする。……へえ、指先が少し楽なような気がするね。これなら少しは負担が減る気がする。これにしようかな、おいくらだろう。

  「こちら35,000円になります」

  高いよ! ていうか前にパソコン購入相談したんだから、ぼくにお金がないの知ってるじゃない!

  「ですよね……じゃあこっちはどうでしょう」

  今度はこう、なんというか……ふくらんだ焼き餅みたいに中央が盛り上がったデザインになっている。打面が大きくカーブしているから、ビー玉を乗せたら明後日の方向へすっ飛んでいくことだろう。

  「まあこれも一万円は超えちゃうんですが……」

  これもずいぶん高いものではあるけど、腱鞘炎が治ってからもずっと手首への負荷を軽減してくれるのだから、壊れてしまうまでずっと恩恵があるわけだ。本当に効果があるものなら喜んで買うところだ。

  「評価はこんな感じですし、費用対効果を考えると一番よさそうかなあと」

  彼は近くのパソコンで価格比較サイトのレビューを見せてくれた。購入者の声欄には、手首が楽になった・肩こりがなくなったとおおむね好評なコメントが連なっていた。

  しばらく悩んだ末、ぼくはぐにょぐにょしたデザインのキーボードを買うことにした。

  これで良くなってくれるといいのだけど。買い物を終えてカフェで一息つきながら、腱鞘炎について改めて調べた。……なるほど、自然治癒力に頼るということは、つまり食事と睡眠の質を高める必要があるということだね。そう言われるとぼくの食の質は最悪かも知れない。

  ぼくは大量に冷凍食品を買い込んでは部屋にこもって官能小説を執筆しているわけだけど、冷凍食品というものはたんぱく質があまり入っていないものが多い。たまに冷凍から揚げや冷凍お好み焼きの豚肉を食べてたんぱく質を摂った気になっていたけど、よくよく考えてみたらあんなもので足りるわけがない。

  これ以上パスタやグラタンなど炭水化物に偏った食事をしていては腱鞘炎が治らなくなってしまう。とりあえず今夜は外食でがっつり食べて、足りていなかった栄養分をたくさん補充しておきたい。たんぱく質と言えばやっぱり肉だね。最近あまり食べていないし、ちょっと奮発しておいしいものを食べよう。

  とりあえず街をぶらつく。カレー屋さんだね。カツカレーなんかもあるからなかなか悪くないチョイスだ。隣のラーメン屋も悪くない。ラーメン単品だと炭水化物のかたまりだけど、トッピングで温泉卵と厚切りチャーシューを追加すれば、そこそこの値段でたんぱく質を摂ることができる。

  他に何かないだろうか。焼肉……へえ、しばらく通らない間に新しい店が出来たんだね。ひとり焼肉専門店と書いてある。ガラス窓から店内を覗いてみると、区役所の相談窓口くらいの幅のブースにお客さんがついて肉を食べている。

  なるほど、美味しそうだね。でもお高いんでしょう? 店の壁に貼ってあるおすすめメニューを見る。もっともお安いセットは一五〇〇円と書いてあるからかなり安い。でもこういうのってさ、一番安いメニューだと満足できないから、あれもこれも……と追加していると結局三千円くらいにはなってしまうんじゃないだろうか。

  メニューを読み進める。ええっ、期間限定でお肉が四五〇グラムでスープやドリンクもついたセットがあるじゃない。お値段は……一八〇〇円だって。いいじゃない!

  だがちょっと落ちつこう。ぼくは今日整形外科で五千円を使い、薬をもらい、一万円以上するキーボードを買った上、カフェでアイスレモンティーをすすっていたわけだ。ちゃっかりベーグルも食べてしまった。焼肉なんて食べたら本日の出費が二万円を超えてしまうよ!

  ——しかしよく考えたらこれは必要経費と言えなくもない。医療費は不可抗力だったし、キーボードも必要経費である上にこれからずっと使える。もし今日キーボードを買っていなかったら、今後もずっと合わないキーボードで手首を酷使しっぱなしになるから、この先もっとひどい腱鞘炎を引き起こしてより高額な治療費がかかったかも知れない。

  また、焼肉は一見すれば欲望に負けたように感じられる。しかし治癒力を高めて快適な執筆生活に戻るためには、現時点でもっとも効率的なたんぱく質の補給手段とも言えなくもない。加えて精神衛生上も非常に好ましい。これらが二千円以下で叶うのならば、焼肉を摂取することは最善手だといっても過言ではないだろう。

  そういうわけでぼくは全てに納得して焼肉屋に入店した。

  肉をトングでつまみながら考える。色々自分に言い訳してはみたものの、ぼくの財布から二万円が消えたという事実に変わりはない。キーボードはいい買い物だったとは思うけど、栄養をちゃんと摂っていればそもそも腱鞘炎にならなかったのではないかという疑問もある。

  大体たんぱく質を補うためなら焼肉に行っていいってどういう理屈だよ! しかもご飯もちゃっかり大盛り無料にしているし、コーラも頼んでいる。糖と脂肪の量を考えると健康に悪影響があるとしか思えない。これで本当に治るのだろうか。ぼくはせめてもの抵抗というか、肉の脂身をできるだけ落として焼肉を堪能した。おいしかった。体重や腹囲のことは今は考えないでいたい。

  なにはともあれ焼肉はおいしかったので幸せな気分で駅に向かう。確かに無駄遣いではあるけれど、たまの息抜きに電気屋に行って、帰りにお茶やご飯をしたっていいじゃない。

  すると向かいから来る高校生がなにやら笑いを誤魔化すような咳払いをする。カップルがやだーなんて言っている。ぼくの顔に焼肉のたれでも付いているのだろうか。五分ほど歩いたところにある駅のトイレで鏡を見ることにした。

  ジーザス! 焼肉屋の紙エプロンをとるのを忘れていたよ! つまりぼくは焼肉屋から駅につくまで、いい大人がしているとちょっとむず痒くなる前掛けをしたまま歩いていたわけだ。ここ最近で一番恥ずかしい。よくよく思い出してみると、レジのお姉さんの声が震えていたような気がする。気づいてたのなら教えてよ!

  紙エプロンを全力でトイレのゴミ箱にぶちこんだ後、何度も思い出し恥ずかしがりをしながらなんとか家に帰り着いた。

  ええ、キーボードは非常に快適でしたとも。これまでのキーボードでは痛みをかばいながら打鍵していたものが、これなら痛くないポジションで打つことだができる。これであれば快適に小説を書くことができるし、腱鞘炎もそう遠くないうちに治ってくれるのではないかと思う。やはり長時間パソコンに向かう文筆家たるもの、キーボードにはこだわらなければならない。

  とはいえ、いくらいいものを使っていても栄養が足りていなければ腱鞘炎になってしまうのだ。部屋に缶詰になりたいからといって冷凍食品に頼りすぎるのはよくない。たまには外食して栄養豊富な食事を摂るのもひとつの方法だろう。

  だが、ひとり焼肉でたんぱく質を摂ろうという場合には注意が必要だ。少なくとも、おっちょこちょいがひとりで焼肉に行ってはならない。帰り際にエプロンをしたままになっていても、ふたりで行けばもう一方が気づいてくれる。しかしひとりだったら誰も指摘してくれる人がいないからだ。

  しばらく後。パンツがきつくなってきた気がする。体重計に乗る。……。

  難しいものだね、栄養バランスというものは。

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