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湯川くんの残念な日常:第一集

  ◆第一話 想い人の靴箱に恋文を入れてはいけない

  今のアパートに引っ越してきてから、ずーっとクローゼットに入れたまま開けていない荷物を見つけた。ガムテープを剥がして中を開けると、高校時代の色々なものが入っている。へえ、これは懐かしいね。当時流行っていたキャラクターのグッズ、友達との写真、文集などが入っている。文集を取り出すと、ページの隙間からパサリと一枚の写真が落ちた。

  写真にはしろくま——高校時代のぼく——と友人の虎が写っている。裏面を見ると「湯川優大(ゆかわまさひろ)様」と下手なりに丁寧な字で書いてある。……思い出した、卒業の時に友人からもらったんだった。彼はぼくのことが好きだったから、記念に持っておいてと焼き増したツーショット写真をくれたのだ。懐かしいものだね、学生時代というものは。

  ぼくは写真を見ながら、過去のことを思い出してみた——

  *

  高校時代。

  「ぼくと、つきあってください!」

  放課後の屋上に呼び出されて突然の告白を受けたぼくは、目を丸くして目の前の虎を見た。こっちを見たいクセに目が見られなくて、脚を震わせ、唇を噛みしめ、拳を固く握りしめている。彼はぼくと友人関係ではあるし仲は良いのだけど、そこから一歩踏み出して、ぼくと恋愛的に深い仲になりたいのだろう。こういう場合、どうするのが正解なのだろうか。

  そもそもどうしてぼくなのだろうか。ぼくが彼だったら絶対にぼくとは付き合わない。だってその、顔がまあ……あまり積極的にお見せするほどのものではないからだ。B専なんだろうか。まあ顔面については好き好きだから、彼の変わった趣味にとやかく言うところではないだろう。

  それにしても、普通の友人だと思っていた人から突然一世一代の愛の告白をされましても、こちらとしては心の準備が出来ていないし青天の霹靂なのだから、その場で簡単に返事をすることは難しい。安易に受け入れるのも良くないし、断るにしても友達なだけにそれなりの覚悟や配慮がいる。

  まあ今回に関してはぼくはお断りするつもりなわけだけど、今後の人間関係の悪化なども計算に入れて穏便に済ませなければならない。だから彼にはふんわりというか、ちょーっといきなり付き合うのはまだ早いかな? 今後のことは敢えて言及しないけど、とりあえず今に関してはね? と伝えてやんわりお断りするほかない。

  ちなみにぼくが彼を受け入れない理由は、ぼくが新しい消しゴムを自慢していたときに、彼がいきなり貸してくれといって、カドを使って消したからだ。新品の消しゴムのカドを持ち主より先に使うのは万死に値する。

  それに突然の告白という、考える時間を与えてくれないフラッシュモブ的な方法を取ったことも、彼のデリカシーのなさを象徴していて悪印象が否めない。場が盛り上がって良いという人もいるだろうけど、ぼくのような平穏を求めるタイプに対してはサプライズは向いていない。むしろ恥をかかされたような気がして逆効果なのだ。

  じゃあ彼はどうするべきだったのだろうか。サプライズを避け、恋文を下駄箱に入れるのはどうだろうか? ……絶対にやめた方がいい。大事な手紙に雑菌が繁殖するし、加えて想い人の足が臭い場合には、まあまあよくない香りの恋文が出来上がってしまう。これは双方にとってあまり良い結果ではないだろう。

  同様の事例として、マンガなんかではよくバレンタインのチョコレートを下駄箱に入れるというシーンが出てくるけど、なんで食品を雑菌が繁殖しやすく密閉された高温多湿空間に入れるのか理解できない。仮にそれが自分の靴だったとしても、そこにねじ込まれたチョコレートを食べろって言われたらイヤでしょう? ぼくだったら全力で拒否する。とにかく大切なもの、ことに食品を下駄箱に入れるのは得策とは言えない。

  では恋文を直接相手に渡す方法はどうだろうか? これは限りなく正解に近い。受け取る側のぼくとしても心の準備をしてから開けることができるし、お返事を自分のペースでゆっくり考えてから返すことができるからだ。

  それに、中に入っているのは必ずしも愛の告白が書かれているとは限らない。ひょっとしたら明日の掃除当番代わって下さいと書かれているだけかも知れない。まあそんなわけはないんだけど、そう思っておいたほうが幾分気分が楽になるはずだ。相手への配慮という点でも、手紙を渡すのはベストな方法だと言えるだろう。

  それでは、ここで昔のぼく、湯川少年が手紙を受け取った、というていで考えてみよう。

  手紙を受け取った湯川少年は、ま、まさか告白じゃないよね? と自分に言い聞かせて一旦心を落ちつかせながら、電車の中で心を静めつつとりあえず家に帰って、ダージリンの紅茶を淹れて、茶菓子にラングドシャなんかを用意しておいて、お気に入りのシャンソンのレコードをかけて、紅茶をひとくち飲んで、そこでやっと深呼吸をして、お気に入りのくまちゃんのレターオープナーで手紙を開けてから便せんを取り出し、好きですと書いてあったらああやっぱりね、と冷静に受け止められるから、優雅な気持ちでお断りする理由を考えることができる。あ、断る場合ね。

  受け入れる場合? 知らないよ。もうコクられてるんだから、返事の手紙を書こうが屋上に呼び出そうが一緒に帰って耳元でささやこうが、恋愛は百パーセント成就ですよ。チクショウ! あ、でもその場合でも下駄箱に返事の手紙をねじこむのだけはやめたほうがいいと思うけど。

  まあ、実際にはそんな優雅で都合の良いことは小説でもなければあり得ないワケで、パンピーのぼくに可能なのはせいぜいこんなところだ。部活後の汗臭いシャツの臭いを気にしながら、一旦コンビニで涼んで汗を止めつつ乾かしつつ、炭酸ジュースとお茶と今日と明日のごはんを千円以内で買って、底のすり減ったスニーカーをペタペタと鳴らしながら家に着くと、防犯上あまりよろしくないシリンダー錠を合鍵で開けて、かびくさい畳の部屋にある古めかしいちゃぶ台の横にあぐらをかくと、おそらくは昨日の夜お父さんが晩酌のスルメを切るのに使ったか、はたまたおばあちゃんがダシをとる昆布を切るのに使ったのか分からないような裁ちばさみで封筒をジョキジョキと開けると、中の手紙をあんなに片側に寄せて注意して開けたのに、案の定というか手紙の中までちょっと切れてしまってアーッ! っとなるけど、まあ大事なのは中身だ。さっき買った炭酸ジュースを一気に飲むと、手を震わせて中身の便せんを抜き取る。すると便せんには思いのほか綺麗な字が躍る。

  「ジャージのおしり 破けてますよ」

  そりゃまあ、恥ずかしそうに渡されるワケだよね。きゃっ とか やだー とか はずかしー とか言ってたもん。あの恥ずかしーは手紙をくれた子自身じゃなくて、かわいそうな湯川少年のことを言っていたワケだね。まあ、ジャージは後で買いに行くとして、別に気にすることはない。告白して振られたわけじゃなくて、告白されたと思っていたら勘違いで、元から始まってすらいなかっただけだから。……とはいえ、何かに負けた気がするよね。でも現実なんてそんなもんだよ。

  大体ねえ、昔のぼくにモテる容姿や性格や頭脳や技術など、なんらかの秀でた部分があったはずがない。そりゃまあ世の中には虎の彼みたいにB専という人もいるし、たまたまぼくの顔面がタイプだというちょっとかわいそうな人がいるかも知れない。でも結局のところ、カッコよかったり可愛かったりするアイドルのようなタイプが一番モテるのだ。

  でもさ、若い頃は恋に恋するというよね。恋愛とかまだよく分からないんだけど、とにかく周りのみんながあのアイドルカッコいいから見てみなよって言う。実際とてもカッコいい。じゃあ自分はあの人が好きなのかな? それじゃあ追っかけよう、といった流れが一般的だ。

  でもそれはまだ自分が本当に好きなタイプが分かっていなかっただけで、本当に心の底から好きなタイプは違にいるということに、年を重ねるごとに気づいていく。それで大人になってから突然同僚の肉まんデブにドキドキし出して、やだぼくどうしてあの人を見るとドキドキするんだろう、と思った時点でぼくの好みはもう一生肉まんデブ確定です。

  ままならないものだね、人生というものは。

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  ◆第三話 二日酔いの朝に三杯酢のところてんを食べてはいけない

  さわやかな朝を迎えたぼくは、カーテンの隙間から差し込む日差しの中でうーんと伸びをして、七時半と表示されたレトロなアナログ時計を見ながら、あらパンケーキとハムエッグでも焼こうかしらと優雅な朝を迎える——

  ——わけはない。現実は厳しいものだね。気がついたらベッドから半ケツの体がずり落ちていて、起きようとすると二日酔いの頭がガンガンする。食欲はないけどこのままでは死んでしまうので冷蔵庫を覗いた。……賞味期限が二週間切れたところてんしかない。ガッデム! なんでところてんなんて買ったんだよ。しかもこれは三杯酢だけどぼくは黒蜜派だよ!

  この心身状態でコンビニに行くのははばかられるし、服を着るのも面倒くさい。仕方ないので食品宅配サービスを利用することにした。スマホアプリからオーダーすると、お店から食品を届けてくれるやつだ。配送料とサービス料とかいうのを取られるのでそこそこのお値段になってしまうのだけど、こういうひどい朝をしのぐために背に腹は代えられない。もっとも、こういうひどい朝が頻繁にあることがまず改善すべきポイントだと思うけど。

  スマホでアプリを立ち上げて、適当に安そうなものを選択する。となると大抵ハンバーガーになるのだけど、二日酔いの腹にハンバーガーはちょっと重い。こういうときは甘くて食べやすいスイーツのほうがお腹に優しいかも知れない。確かクレープとかスイートポテトとか色々あったはずだ。

  問題は少しお金がかかることだ。宅配サービスのコストに加え、スイーツの専門店などはおいしい分値段も張る。スイートポテトが一個四百円とかするわけだ。一個じゃ満足できるわけはないから、三個くらい注文するとなると諸々込みで千五百円を超える。

  そもそも、そういう高級なスイーツは優雅にお茶でも淹れながら食べるものなのであって、二日酔いの朝に何でもいいからカロリーを摂取するという目的で食べるものではない気がする。少なくとも今回の目的を考えると、安くてカロリーがたくさん取れるものが望ましい。安いスイーツって何があるだろう、タピオカも八百円とかするし。ひたすらスイーツカテゴリーのページをスクロールしながらよさそうなものを探す。

  そこで割引の文字が目に入った。「一個頼むともう一個無料!」食品宅配サービスはこういう割引がよくある。「送料無料」「千円以上頼むと百円オフ」とかだ。お金がないぼくとしては、こういうものを積極的に狙っていきたいものだ。

  但し、ステーキ屋のページに「もう一個無料!」と書いてあるからといって、ステーキがふたつ食べられるなんてことはない。詳細画面を見ると、ふたつ無料なのはナムルだけだった、というトラップもあるから気をつけないといけない。

  ともあれ、今の時間なら朝食と昼食の二食分の食料を確保しておきたいから、ひとつ分のお値段で同じものをふたつ手に入れるというのは賢い選択だ。再びスイーツカテゴリに目を通すと「もう一個無料!」の表示が目に入る。『しろくま屋』へえ、涼しげでぼくにぴったりの名前だね。掲載されている写真にはおいしそうなスイーツが踊る。これはロールケーキかな? サムネイルをタップしてみる。『小倉ロールケーキ』うん、あんことクリームって結構合うからね。でも今はクリームというクドいものを食べたい気分ではないのだ。それよりもうひとつ無料になる商品はどこにあるのだろう。

  「ところてん もうひとつ無料!」

  ジーザス! ところてんはもういいよ! それに冷蔵庫にあるヤツはもう食べられないとはいえ、すでにひとつ買ってあるものをもうひとつ買うのはどこか悔しい。……でもよくよく考えてみたら、黒蜜ところてんはおなかへの優しさと糖分の摂取という点ではなかなかいいチョイスだとも言える。ちょっと複雑な気持ちになりながら、ところてんをオーダーした。もちろん、ちゃんと黒蜜を選択してだ。ぼくはぼくのおっちょこちょい具合をよく知っているから、ここで間違えて三杯酢を注文してしまうという失敗は犯さないのだ。

  待つこと十五分、ぼくのところてんはバイクの音とともに到着した。ところてんふたつを運ばされたライダーの気持ちたるやと思わなくもないけど、配送料はきちんと払っているのだから大目に見て欲しい。玄関先でところてんがふたつ入ったちいさな袋を受け取った。

  さっそくフィルムの端をビリッと破り、流しに水分を捨てた。面倒だからお皿に移すのはやめようね。そして付属の黒い液体をかける。いただきまブー! これ三杯酢だよ! 何かまたつまらない失敗をやらかしてしまったのだろうか。スマホで注文履歴をチェックしてみたけど、確かにぼくは黒蜜をオーダーしている。つまりお店側のミスだ。ところてんのたれなんて大事なところを間違えないでよ! ……でもすでに少し食べてしまったし、それにぼくはこういう時、わざわざ交換してもらう面倒くささよりも黙って食べるのを選ぶほうだ。ああ酸っぱい。

  というか、考えてみたら三杯酢のところてんにはほとんどカロリーがない。黒蜜でカロリーを摂取するという当初の目的は果たされていないのだ。それどころか酒でダメージを負ったのどに酸が流れて、さらなるダメージを与えられているような気がする。これ、最高のチョイスが最悪のチョイスになったんじゃないの? しかもこのところてんはもうひとつおまけに付いてきている。たれの袋をぐにぐにすると、やはりさらっとした液体が入っている。チクショウ! 三杯酢のところてんがふたつだよ! いいよ、宅配はお金かかるからコンビニ行ってくるよ!

  きっと二週間後にまた賞味期限切れになるであろう、食べる気が起きない三杯酢のところてんを冷蔵庫につっこんで、脱ぎっぱなしのズボンと上着を着て、サンダルでコンビニに急いだ。ああ、空腹と酸で胸部不快感がひどい。はやく何かおなかに入れないと。

  一応何か食べやすいものがないだろうかと弁当コーナーを物色したものの、やっぱり今のコンディションでガッツリしたものを食べるのは無理だ。隣の棚にあるみかんゼリーとかそういうものならカロリーも摂れるだろう。ゼリーなんて普段はデブのもとだけど、こういうときには優秀だ。かごにみかんゼリー、ぶどうゼリーなどを入れていく。するとヤツが目に入り、思わず手が止まる。

  ……ところてんの野郎だ。いや、もうぼくはところてんとは無関係だ。帰ってみかんゼリーを食べれば幸せになれるのだから、今さらところてんに手を出す必要はない。……でもほら、二回も苦汁を飲まされてたヤツを完膚までに叩きのめして、散々な過去を清算したいと思うのはぼくだけだろうか。幸いコンビニのところてんは百三十円だ。これくらいでリベンジできて晴れやかな気持ちになれるのであれば、購入することもやぶさかではない。そうと決まれば今度こそ『黒蜜ところてん』と書かれたものをかごに入れ、店員さんにこれって黒蜜ですよねと三回くらい訊いてから店を出た。面倒臭そうな顔をされた気がするけど気のせいだろう。

  今度こそ、とぺりぺりとふたを開けて水分を抜く。黒蜜をかけてちゅるっと……

  こ れ だ よ

  ぼくが求めていたのはこれだ。もはやなぜこんなにところてんに執着しているのか分からないけど、とにかく目的は達成された。腹に優しく、不足していた糖分をこの身に感じ、味も悪くない。ぼくはこれから好きな食べ物を訊かれたら黒蜜のところてんだと言うことにしよう。

  それにしても、ひさしぶりに食べたらなかなかの味だった。こんなにおいしいならもうひとつ買っておけばよかった。今度コンビニに行ったら買ってこよう。

  今はとりあえずカロリーがとれればいいかな。他のゼリーを食べてみようね。みかんゼリーにしよう。うん、まあまあおいしいかな。……なんかまあまあだけど。ふたを確認する。

  『ヘルシーなのにおいしい! ダイエットゼリー ゼロキロカロリー』

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  ◆第四話 お得なキャンペーンを見つけたらためらってはいけない

  辛いばかりの仕事を切り抜けて、今日からようやくのゴールデンウィークだよ。しかもカレンダー通り+有給を使って十一連休だ。とはいっても、なんとなく世間の浮ついた空気に当てられて超大型連休にしてみただけで、特にやることがあるわけでもない。よくよく考えてみたら友達はほとんどいないし、行きたいところもないし、食べたいものはハンバーガーだし、そもそも家にいるのが一番好きだし、本当にどうして有給なんて使ってしまったんだろうという後悔は否めない。

  何かやりたいことが思いつくまでは、いつもどおり部屋でゴロゴロしていることにした。無駄な時間を過ごしているような焦りもあるけど、明日も明後日もまだまだ休みが続くと思うと心穏やかでいられる。

  *

  ——結局こうなるだろうなあとは半ば予想していたのだけれど、結局この二日間やっていることはいつもどおり、家にこもってパンツを濡らしながら官能小説を書いているだけだ。それはそれで充実しているのだけど、困っているのは食料および生活物資の確保だ。連休前に買っておいた食料はもう食べ尽くしてしまったし、トイレットペーパーだってそろそろ切れそうだ。でも外に出ようにも、服着るのも靴を履くのも面倒臭い。

  仕事に行っている平日であれば、帰路の途中でついでにコンビニやドラッグストアに寄ることができる。でもそれはあくまでついでだから出来るのであって、この怠惰な状態から外出するとなると話は別だ。それにカーテンを閉めて画面に向かいっきりになっているこの二日間、もう外の空気と太陽の光を浴びるのすらイヤになってしまっている。結局食品宅配サービスや通販に頼りっきりになって体重が二キロ増えた。まあゴールデンウィーク二日目なのに二キロも増えているということは、太った理由はゴールデンウィークではなく日頃の不摂生だという気もするけど。

  問題は先送りにすることにして、今日は何を食べようかな。さっそくスマホを取り出して、食品宅配サービスアプリの画面をスクロールする。「一個頼むともう一個無料!」の印を探す。……あった。今日はからマヨ丼が六百五十円だ。いいね、から揚げの量も多いしサイズもちょうどいい感じだ。よくごはんでかさ増ししているお店もあるけど、写真を見る限りこのお店は良心的だ。

  それにしても、大体こういうのってひとつじゃちょっと物足りない量なんだよね。だからぼくのような少し大柄な種族の場合、結局ふたつ頼まないと満足できないのだ。そうすると一食で丼をふたつ頼むことになってしまうから、お値段はふたつ分の千三百円になってしまう。商売人というものはよく考えているんだね。でもだよ? 今回はひとつ分のお値段で実質大盛りからマヨ丼が食べられるのだ。これは素晴らしいね。こんなに贅沢にから揚げが乗ったからマヨ丼なんて、普通に定食屋さんで食べても千円はするよ。配送料とサービス料はかかるけど、それでも随分お買い得だ。さっそくぼくはからマヨ丼を注文し、到着するまでの間、パソコンに向かって小説の構想を練った。

  ……うーん、小説って考えているだけでも時間が経つもので、詰まったところで書いたり消したりしながら、もう無為に二時間を浪費してしまった……んだけど、それだけの時間を費やしても、まだ登場人物のふたりは出会ってすらない。濡れ場はまだまだ先だ。焦れったくって、なんだかやきもきしてしょうがない。まあ、作者のぼくが悪いんだけど。

  ふう、きっとこうしていても進まないね。一度頭をリセットしたいところだし、からマヨ丼を食べる用意をしよう。そう言えば注文したからマヨ丼は今どこにあるのかな。どうも遅すぎるような気がする。スマホの食品宅配サービスアプリをもう一度開いて状況を確認すると、画面にメッセージが表示されている。

  『ご注文は以上でよろしいですか?』

  ガッデム! どうやら最終確認ボタンを押すのを忘れていて、注文がコンプリートできていなかったよ! 仕方ないのでもう一度からマヨ丼を注文しよう……とページをリロードすると、店のキャンペーン内容は『もうひとつ無料!』から『キャベツ増量!』に変わっている。いらないよそんなキャンペーンは! 丼ひとつ無料からキャベツ増量って、どれだけランクが下がってるんだよ! ああ、ぼくの大盛りからマヨ丼を返して欲しい。まあ、ボタンを押し忘れたぼくが悪いんだけど。

  さすがに同じ値段でふたつ買えるところがひとつになってしまうと、なんだか損した気がしてしまって買う気が失せた。からマヨ丼はまたひとつ無料のときに食べようね。仕方がないので今日も、お肌に悪い油ギトギトのハンバーガーとポテトとコーラを頼んだ。不健康な生活と体重が増量したことにもっと危機感を持つべきなのかもしれない。

  今度こそ無事にファストフードの袋を受け取り、パソコンに向かってハンバーガーをかじりながら、今まで書いたところを読み返しつつ構想を練る。行儀が悪いという向きもあるだろうけど、神聖な創作活動と一人暮らしの億劫さの前では、行儀や理性などというものはホワイトアウトしてしまうのだ。個人差があります。ポテトをすべて腹に詰め込むと、コーラを飲み干して液晶ディスプレイをにらんだ。

  *

  今日もパソコンに向かって官能小説を書く。この一作だけで結構な日数が経っているし、そろそろ終わらせてしまいたいところだ。

  ぼくは高尚な文筆家であるからして、書けるものなら寝ながら書いていたいほどのポテンシャルの持ち主だ。執筆への意欲は非常に高く、食事なんて出来ることならブドウ糖点滴で済ませてしたいたいほどだ。……にも関わらず、数日かけて官能小説は二ページしか書けていない。スティックとホールがコンニチハするどころか、主人公とヒロインがコンニチハすらしていない。今は主人公が目を覚ましてから歯を磨くところまでで止まっている。歯磨きを終えるまで二ページかかる小説ってなんだよ! 読者は濡れ場を楽しみに股間を熱くしているのに、こんなのみんな読まないよ! ていうか二ページ全部いらないよ!

  一旦全部削除して主人公がヒロインと待ち合わせするシーンから再出発し、楽しいデートが始まるところまで書き進んだ。……チクショウ! デートなんかしやがって! うらやましいよ! まあ、ぼくが書いたんだけど。大体ね、みんな「小説はどこにでも行けて何にでもなれて自由ですね」なんて言うけどさ、書いてるぼくからしてみれば、書けば書くほど主人公たちだけ幸せになって、ぼくを置いていってしまうのだ。当のぼくはと言えば、デートどころか一杯のからマヨ丼も手に入れることが出来ない無力なおっさ……お兄さんに過ぎない。

  何はともあれ、数時間の奮闘の末にストーリーは終盤にまで進み、いよいよ主人公がホワイトバレットを発射する場面になった。けどそもそもぼくにはあまりそういったデリケートな経験はないから、官能小説において肝心なところ、つまり情事をリアルに想像するのが得意ではない。いつもはAVやそういう画像を参考にしている。ウブが過ぎて、からマヨ丼についていたマヨネーズのふくろをギュッと押してみたとき、中身がピュッと飛び出るさまがなんかそれっぽいなあなどと想像している体たらくぶりだ。

  まあこれを書くためにエロビデオを三作見たし大丈夫だろう……と高をくくっていたものの、ぼくが覚えているのはビデオが開始してすぐのイチャコラしているシーンまでで、ちゅぱちゅぱし始めたあたりで心のヤンキーが早くヤッちまえよと荒ぶり出して、攻めが腰を振り始めたところでぼくも腰を振っていて、ナイスなフィーリングを感じたあと、気がついたら非常に情けない姿でベッドの上に寝転けていた。要するに、ビデオはまったく参考になっていないわけだ。仕方ないのでエッチなサイトで股間をふくらませながら何とか一本書き上げた。傍らのティッシュが減っているのは気にしてはいけない。

  小説投稿SNSのサイトを開くと、いつも通り受信ボックスがお怒りのメッセージで埋まっている。うーん、なんでこんなに来るのかなあ。創作に貴賤はないから、こういうところで上手さとか性癖とかそういったことで文句を言うのはルール違反なのに。ひょっとして、ゴツデブ親父の絡みに『美乳』とタグ付けしたのがまずかったかなあ。メッセージをすべて削除し、小説を投稿し、SNSで投稿した旨を宣伝した。これでゴールデンウィークに小説を一本上げようという目標が達成された。

  最初はぼくのゴールデンウィークは虚しいなあなどと思っていたけど、考えてみたらゴールデンウィークを無為に過ごしてしまう人なんてたくさんいる。その点、ぼくは目標を定めてそれをクリア、しかも創作という建設的な行いをして成果を残すことが出来た。これはとても素晴らしいことなのではないだろうか。

  ……あれ? 小説サイトにメッセージが来た。なになに、童貞くさい小説お疲れ? まあひどいメッセージだけどまったくその通りだから言い訳できない。あ、ちゃんと通報はしておきましたよ。なんというか、あまり品のよろしくないメッセージではあるからね。

  筆のノリも良くなってきたことだし、この調子ならゴールデンウィーク中にもう一本くらい書けるかも知れない。ええと、この小説を書くのにどれくらい日数がかかったのだろう。ちょっと時間が押してしまったけど、まあ四、五日くらいかな? 有給を使って長い休みにしておいて本当に良かったよ。お休みの残りはあと何日かな? 執筆計画を練るためにカレンダーを確認する。……近眼になったかな? ええと、ゴールデンウィークは四月二十九日から始まったよね。どれどれ? ……え? 終わり? 明日から仕事? Work? 労働?

  ぼくがこれほど絶望したのはからマヨ丼を食べられなかった日以来だ。うんまあ、ぼくはそれほどしょっちゅう絶望しているということなんだけど。え? ということはぼくは小説を一本書くのにゴールデンウィークの十一日間全部を費やしてしまったということ? ゴールデンウィークという年に一度しかない貴重な期間が、からマヨ丼を食べられなかったり、エロビデオを見て腰を振ったり、ファストフードでにきびを作ったり、小説が進まなかったりしていたら終わってしまったというのが虚しい。

  *

  こうしてぼくのゴールデンウィークは終わりを迎えた。ずいぶん情けない生活をしていたような気がするけど、残念な結果というべきなのだろうか? それとも創作が出来たから良かったのだろうか? うん、充実していたような気はするよ、色々と反省すべきところも多いけど。

  心残りがあるとすればやはりからマヨ丼だ。次は絶対ひとつ無料のときに手に入れたいところだ。からマヨ丼をショッピングカートに入れ、注文をし、最後に注文確定の表示が出るまでは慎重なオペレーションが要求される。ちなみにひとつ無料などのキャンペーンは店の売れ行きや時間帯によって変更されるので、場合によってはキャンペーンがなかったり、前みたいに別のキャンペーンに変わっている場合もある。だからひとつ無料キャンペーンの表示を見つけたらためらってはいけない。

  *

  今日は土曜日で仕事はお休みだ。相変わらずぼくはパンイチでパソコンに向かって、股間を濡らしながら官能小説を書いている。そろそろお腹が空いた頃だ。そう言えばあのからマヨ丼はどうなったんだろう。せっかくだから今日こそからマヨ丼を食べるのもいいかも知れない。ひとつ無料キャンペーンはやっているだろうか。さっそくスマホでアプリを開く。

  以前のどんぶり専門店のページを開く。『キャンペーン中!』の表示が点滅する。ドキドキしながらページを送ると、見覚えのあるからマヨ丼の写真が目に飛び込んできた。今日のキャンペーンは——

  『つぼ漬け無料』

  ハンバーガーを頼んだ。

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  ◆第五話 太ったら前のパンツは捨てなければならない

  やっぱりだよ。

  GWの間に四キロ太った。いや、アレだよ? しろくまの四キロだから、動物園でいえば飼育員さんがあらーまさひろちゃん最近ちょっと大きくなったわねーいっぱい食べたのかな? と言うくらいの増量感だからね?

  まあそれは関係ないんだけど、絶対関係ないんだけど、最近パンツの尻ゴムのあたりにあるタグがやけにチクチク刺さるようになった。洗濯したときにタグが曲がったりして急にチクチクするようになったのかな? 自分に言い訳をしていたけど、これはパンツの中身がムチムチパンパンになったから、タグがしりに押しつけられていただけだ。ひとことで言えば尻がでかくなったというわけだ。とりあえずはさみで切ったら直ったけど、肥満が解消されたわけではないから根本的解決になっていない。かといって運動するの嫌いだし、汗かくのイヤだし、食べないとダルくなるからやりたくない。

  しかしよくよく考えてみたら、体重増加はここ最近の不摂生だけが原因ではない。学生の頃からすればまあ……それなりに増えている。四キロなんて余裕こいてる場合じゃなかった。それに加えてこの間、健康診断で客観的にデブ判定されてしまった。可及的速やかにダイエットしなければならない。

  ちなみに健康診断がどういう結果だったのかというと、ほぼ健康体だったのに脂質とコレステロールと腹囲だけが絶望的な数値だったという感じだ。体重もしろくま基準でBMIがまあ……そうだね、発表するほどのことではないし、適当に受け流しておきたいんだけど、標準値を軽く超えて軽度の肥満と判定された。ガッデム! ぼくは今まで気持ちぽっちゃりかな? 愛されボディかな? と思っていたのに、現実は生活習慣病コースまっしぐらだよ!

  急いで健康的な生活を取り戻したいところだ。ぼくは自炊するくらいなら死を選ぶくらい面倒臭いのが大嫌いだけど、辛うじて調理器具は持っている。なぜなら、あらあらひょっとして、もしかして別にそこまで期待してるワケじゃないんだけど、ものの弾みということもあるし、ちょっとイイ人が出来ることもあるかもしれないんじゃないかな? だからいざというときのために調理器具がいるよね? という淡い下心はあったからだ。ひょっとしたら明日にも、たまたま出勤時にパンをくわえて走っていたイケしろくまとぶつかって、なんやかんやあって告白される、という事故が起こるかもしれない。……うん、ないな。明日日曜日だし。

  ところが、ぼくの調理道具は全く使われていないどころか、そろそろガラスが腐敗するんじゃないかと思うくらいずっと放置してある。ああ、箸は使っています。コンビニの兄ちゃんがたまに入れ忘れるからね。ただその箸すらも洗うのが面倒くさいから、百本で三百円のお徳用おはしセットを三セットほどストックしてある。怠惰ここに極まれりというダメ生活をしているワケだ。

  ともかく、このままファストフードや食品宅配サービスを使っていたら、体型とコレステロールはとんでもないことになってしまう。ただでさえ見た目がまあ……そうだね、あまり良いとは言えないぼくだから、せめて肥満だけはなんとかしたいところだ。それにこれ以上太るとカッコいいパンツが履けなくなってしまう。大きいサイズの下着はカッコいいのが少ないからね。

  ぼくはいつもしろくまXXLサイズのパンツをはいているのだけど、この間出勤前にXLのパンツ——太る前に履いていたもの——を気づかずにはいて出てしまった。家を出て駅まで歩く途中、なんだかどんどん股間が圧迫されて、タマがぐりぐりと押し込まれて痛みを感じるようになってしまった。駅のトイレで股間を確認すると、そこで初めてXLのパンツを履いていることに気づいた。我慢しようかと思ったけど、八時間以上もの間きんたまが痛いなんて耐えられない。結局家まで引き返してパンツを履き替えた。パンツがきつくて家に帰るなんてこと人生である!? とにかくまた家を出ないといけないけど、このままでは遅刻確定だ。仕方ないからスマホのタクシー配車サービスでタクシーを呼んで会社に向かった。こういう金遣いをしているからお金がなくなるんだろうなあ、ぼくの場合。ぼくはスマホを捨てた方が幸せになれるんじゃないだろうか。

  そんなことを考えているとタクシーが到着した。乗り込むと車は軽快に走り出す。それにしても、揺られているだけでいいというのはとても楽だ。いつもだったら駅まで歩き、階段を上り下りしたり、満員電車でおじさんに挟まれたりしなくてはいけないのに、ぽけらーと座っているだけでいいのだから。みんなが大変な思いをして歩道を歩いているところ、ただ座っているだけでいいというのはなんとも言えない優越感がある。毎日は無理だけど時々タクシー通勤というのも悪くないかも知れない。

  しばらく揺られていると、いつもより随分早い時間に職場に着いた。支払いはタクシー配車アプリに登録済みのクレジットカードを使う設定になっている。だから運転手さんは料金がいくらかだけ教えてくれるようになっている。料金は……え? 聞き間違いかな。思ったより高い金額を言われたけど、勘違いかな? しかしメーターを見ると——千円と表示されている。驚いている間に、クレジットカード決済完了のお知らせがスマホの画面に表示された。

  ガッデム! 午前中分くらいの給料が吹き飛んでしまったよ! 優越感どころかみじめな気分だけどどうしたらいいんだろう。帰りもタクシーなんて悪くないよねーなんて調子に乗っていた数分前までの自分をぶん殴ってやりたい。

  結局、その日のお昼……とおそらく給料日までの数日間、コンビニの三百九十八円ののり弁当生活がはじまった。今は健康よりお金だ。

  *

  これからはパンツのサイズを間違えないようにしなければならないのだけど、二度あることは三度ある、だ。小さいサイズのパンツが手の届くところにあったら、また誤って選んでしまう可能性があるのだ。パンツのサイズなんてパッと見ただけでは分からないからね。だから太ったら小さいパンツは全て捨てなければいけない。そんなことを言うと、もったいないだとか、痩せたらまた履けるかも知れないとかいう向きもあるだろう。でも

  や せ ま せ ん

  習慣的にエクササイズしてるとかならまだしもだよ? ただ日常生活を送っているだけで太ったものが容易にワンサイズ小さくなるはずがない。太ったぼくがまた痩せられるなどとは考えられないだろう。自分で言っていて説得力があるのが悲しいけど。

  じゃあ本当に痩せたら捨てたパンツはどうするか? ダイエット成功記念にまた買えばいいじゃない。確かにお財布は傷むけど、痩せられたんだからまあいっか、ってなるでしょう。いやー、痩せちゃったからずり落ちるようになっちゃって、困っちゃうなー? とか言っちゃって。

  まあ、小さいパンツを履けるようになったわけだし、これからはタクシー代払う必要がなくなってよかったね。ちょっと腹立つけど。

  [newpage]

  ◆第六話 晴れの日にタクシーを使ってはならない

  いよいよ梅雨の季節に差し掛かったものだから、低気圧と憂鬱な外の景色のダブルパンチで気が滅入って仕方がない。目覚めたはいいものの、億劫でベッドからピクリとも動くことが出来ず、三十分くらいベッドの上で欠勤する口実を考えていたのだけど、今月はこれ以上欠勤するわけにはいかない。

  なぜなら最近出費が激しく手お金がないからだ。ゴールデンウィークに太って入らなくなった小さいパンツを全部捨てて、新しくかっこいい太めしろくま用パンツを大量に購入したのが主な原因だ。ままならないものだね、人生というものは。でもそのかわり今日はおニューのパンツだし、なかなかデザインもかっこよくて気分が引き締まる。毎日の生活というものはこういう細かいことの積み重ねによってQOLを上げていくものなのだ。

  なんとか出かける用意を済ませて部屋のドアを開けると、外は土砂降りの大雨だ。それもバケツをひっくり返したとかいうレベルをとうに過ぎていて、ため池でもひっくり返したような降りようだ。でもここでタクシーを使っては、節約という趣旨に照らせば本末転倒だ。警報がでているワケでもないし、今日は遅刻寸前でもなんでもないのだから、ちょっと頑張って歩けば問題ない。お気に入りの花柄の折りたたみ傘で行けば、少しは気分も和らぐというものだ。

  横殴りの雨に晒され、革靴がまるで水を注がれてしまった長靴のようにがっぽがっぽと嫌な音を立て、なんともいえない気色悪い感触を醸し出しはじめた時点で後悔した。家を出るときに決断すべきだった。タクシーとはこういうときにこそ使うべき物だったのだ。普段サラリーマンでごったがえしている通勤路は、ほとんど誰も歩いていない。暴風雨に勝るとも劣らない激しい雨が斜めから吹き付ける中、ぼくは孤独に職場へ向かった。もう帰りたい。

  始業三分前、なんとか職場に着いた。スラックスはドボドボに濡れ、シャツはくま毛に張り付き、靴は歩くとぶちゅぶちゅと音を立て、しかもおきにいりのパンツはぐっしょり濡れている。チクショウ! 最悪だよ! とはいえ、自然に当たってもどうにもならない。自席につくと速攻靴を脱いだ。

  するとオフィス内は湿度が高いからか除湿をしているのだろう、体中の濡れたところから激しく熱が奪われていく。寒いよ! ぼくがしろくまで低温に耐えられるのはふわふわの毛皮があってこそであって、除湿で直接熱を奪われたら凍えてしまうよ!

  寒さに震えていてはまともに仕事ができない。パソコンをつけ、小刻みに震えながらソリティアを始めた。ちっとも楽しくない。それよりおなかが冷えてきたから、とりあえずうんこに行きたいのだけど、ようやく少し乾いた靴下をまたグチョグチョの靴の中に入れたくない。

  すると係長からコピーを取ってくれという空気を読まない指示が飛ぶ。コピーくらい自分で取ればいいのになあと思っていたら、表情で感情がバレたらしい。今年のボーナスも絶望的だね。まあ、出たことはないんだけど。はいはい今行きますよ。グチョ。はあ。

  結局社外のコンビニに行って濡れるのもイヤだから、お昼休みは引き出しに入れてあったガムで済ませた。味気ないものだね。カロリーがないから体温が上がらず、一日中寒さに震えながら過ごした。

  *

  今日も大雨だ。低気圧と大雨でだるさはマックスだ。けれどぼくは学んだ。今日こそタクシーを使うのにおあつらえ向きの天気だ。お金がかかってしまうというのに、どこかワクワクした気分だ。配車アプリでタクシーをアパートの前まで呼ぶと、まるでセレブのように優雅な気分でタクシーに乗るのだった。

  タクシーに乗って三十秒後。

  「通り雨でしたね。いやあ、晴れてよかった」

  運転手さんは晴れ晴れした顔でいるけど、ぼくはゲンナリしている。雨が止んだのならタクシー代を使う意味がないし、無駄にお金を使ったようなものだ。かといって、いまさら降りますとは言いにくい。しまったな、よくよく考えてみたら豪雨なんて一気に落ちてすぐに晴れるに決まっている。念のため五分程待ってからタクシーを呼ぶべきだなあ、こういうときは。何か目的が変わっているような気もするけど。

  *

  まったくよく荒れるものだね、梅雨の天気というものは。今日も雨は数メートル先が見えないくらい降っている。昨日の失敗を糧にして、さっきから窓の外を眺めている。五分ほど時間が過ぎたけど、豪雨は止む気配がない。これだけ降り続いたのなら、タクシーを使うのもやむを得ないだろう。さっそく配車アプリでタクシーを呼んだ。

  今日は乗車中も豪雨は止みそうにない。運転手さんはワイパーを最速にして面倒くさそうにしているけど、ぼくは今日こそタクシーに乗った甲斐があったとずっと満足な面持ちで笑みを浮かべていた。運転席のほうから舌打ちが聞こえてきた気もするけど気にしない。

  ようやくタクシーを有効活用出来たことだし、今日はなんだか頑張れる気がするぞ。スキップしながら職場の入り口へ向かう。……様子がおかしい。ぼくは休日だけをメモしているお気に入りの手帳を取り出して確認する。

  『創立記念日』

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  ◆第七話 肉じゃがに大吟醸を入れてはいけない

  ぼくがいつまでも独身なのは、結婚出来ないのではなくてしないだけなのであると言い張りたいところなのだが、こういうところ世の中は面倒くさく出来ているもんだね、会社のお局様が「これからは男も料理が出来ないと恋人ができないわよ」などと面倒なことを言い出した。確かに年下の上司はみんな結婚しているかパートナーがいるし。ちなみに万年平社員のぼくには部下というものはいない。

  万一恋人ができたときのために料理を覚えようと調理道具を一式持っているのだけど、結局二回ほど目玉焼きを作っただけで、本格的な練習なんかしていないので料理はできない。これじゃ億が一恋人候補が出来たとしても胃袋を掴めない。ただでさえ褒めるところがあまりないのに、家事のひとつも出来なければ婿のもらい手がないことだろう。

  ぼくはあまり器用ではないから、練習したとて本当においしいものが出来るか不安だ。とはいえ、聞いたところによると料理は代表的な調理方法さえ分かっていればあとは応用でできるという。さしすせそとか、焼く煮る蒸す揚げるとか。つまりブタの生姜焼きや野菜炒めのような簡単なメニューであっても、何度も挑戦していれば能力はどんどん上がっていくわけだね。人生というクソゲーにおいては、やった分だけ報われるというのはなかなか良ゲーじゃないか。というわけで、ぼくは食材を買いにスーパーに向かった。

  レシピ本を見て適当に食べたいものを選び、家にない——まあ全部なんだけど——調味料を買ったらなかなかの金額になった。やっぱり何をするにしても初期投資はいるものだね。贅沢を言えばここでフッ素加工何ちゃらの一万円くらいするフライパンとか、食材が付かないフライ返しとかいったものも買っておきたいところだけど、今日のぼくはひと味違って、料理相談に乗ってくれたお局様からのアドバイスをきちんと守っている。調子に乗って高い物を揃えると三日坊主になったときに全部無駄になるから、最初は適当にしておき、日常的に料理をする習慣がついたら買いなさいということだ。確かにぼくは何でも高級な物を使えば——例えばブタの生姜焼きにエクストラバージンオリーブオイルを使ったら超上手くなるのかと思い込んでいた。そういうものでもないらしい。

  それから初心者あるあるらしいのだけど、最初は絶対レシピ通りに作りなさいということだ。料理をしたことがない人が台所に立つと、やたらとレシピにアレンジを加えたり、まだ量の感覚が分かっていないのに目分量で投入し、ダークマターを生成してしまうのだそうだ。挙げ句、やっぱり俺には料理とか向いてないわ、俺の思い通りにならないなんて料理とかクソだわ、とか言ってやめてしまう。

  要は免許取り立ての高校生が、縦列駐車も出来ないのにやたらとドリフトしたがるのと同じような気持ちなのかも知れない。……うん、ぼくもブタの生姜焼き・湯川スペシャルとか妄想していたから気持ちは分かる。

  今回作りますのは肉じゃがでございます。だって、胃袋を掴みたいなら煮物とか言うじゃない。初心者はまず焼き物にしときなさいとネットに書いてあったけど、食材を切って入れて煮るだけだからきっとぼくにもできるはずだよね。

  じゃがいもやニンジンなど、材料を全部切って水を入れて火にかけるってハハハ簡単じゃないの。サクサクと切って鍋に投入する。しばらくしたら肉とか砂糖を入れるんだね、ふむふむ。シンプルな料理だしやっぱり見かけ倒しだね。

  次にみりん、酒、しょう油………みりん? いや、みりんは買ってあるんだけど、こいつが一体なんなのか分からない。ふたを開けてちょっと舐めてみると、……なんだこの……なんか、アレな感じの味は。いいかい、砂糖は甘い、塩はしょっぱい、酢はすっぱい、しょう油はしょっぱい、味噌はしょっぱいと料理の基本のさしすせそははっきり味が分かれている。だというのに、なんだいこのみりんというやつは。これを投入することで、料理の味がどのように変化するのかまったく想像がつかない。

  まずはみりんの入っている料理と入っていない料理を食べくらべて、ああこれがみりんの味なんだね、と得心してから使うべきだと思うのだけど。初心者の内は気にしなくても良いというご意見があるかも知れないけど、ナニモノか分からないものをただただ盲目的に投入するというのはなんだかモヤモヤする。

  ネットで調べてみると、みりんは生臭さを抑え、味が浸透するのを助け、料理に甘みを加え、ツヤを出し、良い香りを生じさせるとかふんわりしたことが書いてある。へえ、万能調味料だね。……だから何なの、これ! 甘いとか辛いとかはっきりしろよ! ……まったく腑には落ちないんだけど、レシピ通りに作れというお局の言葉が頭をよぎる。仕方ない、今回はみりんの正体の追及は置いておいて素直に投入しよう。

  次は酒だね。……なんで酒なんだよ! 今度もネットで調べてみる。臭みを消す、やわらかくする、料理にうまみとコクを加える。風味付け。またまたふんわりだよ! これも納得いかないけど、またまたお局の言葉を思い出し、素直に料理酒を投入する。本当は大吟醸を入れたらおいしいんじゃないだろうか。焼酎じゃダメなのかな。

  どこかモヤモヤした気持ちで材料を投入していくと、あとは材料の固さをみたり煮込むだけだ——けど、煮込み時間がかなり長いね。煮汁がかなり少なくなるまで煮込まないといけないようだ。料理歴が数年の料理に慣れた奥様方なら、火にかけた鍋をほったらかしにしてカウチポテトしている間に出来上がるんだろうけど、料理初心者のぼくは鍋の前から離れられないわけだ。だって焦げたり火事になったり爆発したりしたらイヤだもん。こうしてぼくは数十分、鍋の前でぼーっと立ち尽くしていた。

  とりあえず上から見ている限りでは、肉じゃがはそれっぽい見た目になってきてイイ感じに見える。竹串を刺すと芋はホクホク、ニンジンも柔らかい。ちょっと味見をしたところ、少しだけ濃いかなとは思うけど初めて作ったにしては上出来だ。ありがとうお局、ダークマターを生成せずに済んだよ。不器用なぼくのことだから肉じゃがも消し炭になってしまわないだろうかと危惧していたけど、ふふふ今回は首尾良く肉じゃがを完成させることが出来た。

  時計を見ると……二時間経っている。鍋には二〜三人前の肉じゃがが入っている。うーん、こんな時間と手間をかけるなら、正直二、三品くらい出来ていてほしいものだ。初心者だから手間取ったとはいえ、料理ってこんなに大変な物だったのだろうか。どうもベネフィットが苦労に見合わないような気がする。

  いや確かにね、達成感とかぼくが作った料理だとかいう嬉しさというのはあるけど、家に帰ったら官能小説の執筆に没頭したい高尚な文筆家のぼくとしては、二時間というのは大きすぎる。

  それに三人前ということは、これから独り身のぼくの食事は三食連続肉じゃがというわけだ。いくらおいしく出来たとはいってもさすがにこの量はしんどい。まあ当初の目的は素敵な恋人の胃袋を掴むために料理を覚えようという趣旨だったのだから、とりあえず肉じゃがは作れるということが分かったので収穫ではあったとは思うけど。料理は一回に数食分くらい出来るのだから独り身で食べるのはちょっと切ない。早く素敵な恋人を見つけたいものだ。もっとも、一生このままかも知れないけど。

  *

  次の日。煮物は時間がかかるので、もっと料理に慣れるまでは保留にしておきたい。今日は気軽に出来るブタの生姜焼きを作る。うん、ごはんと生姜焼きと煮物というのは一人暮らしではなかなか味わえない献立だ。ぼくはシェフになった気分でフライパンを振るい、豪華な夕食を完成させた。

  *

  翌日。ぼくは股間を濡らしながら官能小説を執筆し、食品宅配サービスでハンバーガーを頼んだ。だって一人暮らしで料理しても、余ってしまって何食も同じものを食べるハメになるし、料理は誰かのために作るのが一番だと分かったんだもん。それにお金と時間と手間がかかるし、正直めんどくさい。とりあえず「肉じゃがつくったことはあります」トロフィーは獲得したので、また必要になったら作ればいいんじゃないだろうか。

  休憩時間に自席でだらけていると、お局がやってきた。すると、あろうことか二日くらいで料理投げ出したんじゃないの? という失礼だけど的確な指摘が入った。なんで知ってるんだろうか。お局はやっぱりねとため息をついた。

  「アンタ三日坊主も続かないのよねえ」

  おっしゃるとおりで。

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  ◆第八話 要らなくなった新聞紙を積み上げてはならない

  家の近くに新しくピザ屋さんが出来たので、さっそくお邪魔してみた。へえ、窯で焼くんだね。口に含むと、生地の香ばしい香りと、調和した具材の味がからまってとてもおいしい。おいしいおいしいと三枚食べて、四枚目を食べようとしたところでお金がなくなった。仕方ないのでレジに行くと、ぼくの食べっぷりにピザ屋さんの顔がヒクついていた。ピザ一枚っておやつじゃない?

  今の時代、よほど勤勉な人、もしくは揚げ物をする人くらいしか新聞を取らないという。実際ぼくもネットニュースで物足りている。

  ある日スマホで新種のキノコが発見されたニュース記事を見ていると、インターフォンが鳴った。誰だろう、ぼくの部屋に用事があるのは食品宅配サービスと宅配業者くらいのものだ。宗教勧誘だろうか。とりあえずインターフォンに出ると、新聞を取りませんかという営業だった。取るつもりはないのでお断りをしたところ、今三ヶ月取ったら写真展のチケットをくれるというじゃないか。しかもスタジオ撮影による本格的なポートレートが普段八千円のところ、なんと無料になるというじゃないか。芸術に造詣のあるぼくは当然喜んで取りますと答えた。

  しかし、よくよく考えてみたら前述のとおりぼくは新聞を読まない。取ったとしても生ゴミを包むくらいしか使うあてがないのだ。それでは紙がもったいない。しかも、さらによく考えてみたら、新聞は月三千円だから最短で解約しても九千円かかる。ポートレイトの八千円を引いたら千円赤字だ。ガッデム! 要らない紙を差し引き千円で買ってしまったよ!

  *

  新聞のことは今さらどうにもならないので、お安く千円でポートレイトを撮ってもらえると前向きに考えることにした。撮影の日まで、コラーゲンを飲んで毎日腕立て伏せをする。明日は美容院に行くつもりだ。これだけやれば、残念なぼくでも少しはまともに写るというものだろう。

  *

  ポートレイトの撮影はこのスタジオで行うようだ。約束の時間を待っている間にとりあえず館内の写真を見よう。……よくわからないな。ええ、わかっていますとも。ぼくは芸術に造詣があるから写真や絵画を楽しめますけど? と新聞営業のおっちゃんに見栄を張ってみたけど、正直なところ芸術的な絵や写真のことはよくわからないのだ。

  以前駅前を歩いていたら、綺麗なお姉さんに絵を見に来ないかと誘われたことがある。一緒にお茶に行ったら、きれいなイルカの絵のカタログを見せられ、買わされそうになった。お金がないですと言うと前金一万円でいいよと言われたけど、その時ぼくはお昼代六百五十円しか持っていなかったので、お姉さんは呆れて帰って行った。後でこれはあまりよろしくないビジネスだということを知ったのだけど、よりによってぼくを選んだのは完全なるミスチョイスだ。お金ないし。

  あっ、この写真ならぼくにでも分かるな。ちょうちょだよ、綺麗だね。あっ、これも分かるな。夕日だよ、綺麗だね。……高尚な文筆家であるぼくがこんな語彙力でいいのだろうか。

  写真はもういいよ、ぼくの目的はポートレイトだ。ぼくのすばら……ありのままの姿を残しておくため、若いうちに写真を残しておきたい。まあ実際はそれほど若くもないし、そもそもいい写真を残したところで誰が見るのかは分からないけど、ぼくが満足出来ればいいのだ。ぼくはスタジオ中央のモダンな木の椅子に座り正面を向いた。カシャと何度かシャッターを切る音が鳴り、数枚撮影すると「こんな感じですが」とタブレットを差し出された。……うん、これは証明写真みたいだね。別の角度にしよう。

  普通写真撮影ってさ、「いいよいいよ」「笑って」「いいねーもう一枚」とか褒めて笑顔を引き出すって言うじゃない。ところがカメラマンは「あーそっちのほうがマシかな」「まあ……」「それはやめた方がいいね」と、もう全然褒めるところがないとでも言いたげだ。まあそうだよね、いい歳の小太りのおっさ……おにいさんを撮っても何も創作意欲は浮かんでこないだろうからね。

  そうはいってもカメラマンもなんだかんだいってプロだ。写りのいいやつを何枚か示してくれた。但し、選ぶときに「まだこれのほうが見られるし……」と言っていたことは忘れない。でもさすがにプロの作品だけあっていいじゃない! 光の加減もとても綺麗だし、ぼくのちょっと残念な顔面もいい感じにフォローしてくれているよ。

  ……それにしても、ぼくってこんなに太ってたっけ? おかしいな、これは顔面の修復効果の副作用なのかな。ほかの写真も見てみる。……おやおや? ゴールデンウィークで太ったのがまだ戻っていないのかな? そういえば最近XXLのパンツがきつい気もする。お風呂のときパンツを脱いだら毛皮がゴムでへこんでいるもの。まあGWで太ったものはGWが明けたんだからそのうち戻るよ、ハハハ。今何月だっけ。

  ともあれ、イイ感じに修正されているから全体的には申し分ない。これで遺影にも困らないね。……ちょっとイケメンすぎじゃない? これじゃあ遺影を見た参列者が「葬式会場間違えたわ」といって帰っていってしまうかも知れない。

  なんでこんなに綺麗なんですかと訊くと、カメラマンは近年画像補正ソフトの出来が良くてねと答えた。そう言われれば、ハンバーガーの食べ過ぎで出来た吹き出物がないし、いつも眠そうな目がぱっちり開いている。なんだそうか、スマホアプリとかでもある、効果を強くしすぎると目が巨大になってあごがとんがって宇宙人みたいになるやつだね。自分でやってみますかとタブレットを渡された。補正メーターは最強になっている。メーターを少しずつ戻していくと、顔は徐々に太り、目はいつもの眠い目に戻り、みるみる現実を突きつけられる。

  しかしどうしたものか。ウソでもイケメンのぼくを残しておくか、きちんと残念なぼくを残しておくか。悩んだ末、ぼくはイケメンの写真を出力してもらうことに決めた。ただでさえ朝鏡を見る度にため息をつくぼくとしては、これ以上現実を突きつけられる機会を増やしたくはないのだ。

  出来たばかりの写真を持ってるんるん気分で家に帰った。実際はこんなに格好いい訳ではないと分かっているけど、少なくとも土台はイケメンだと思うと嬉しいね。さっそく壁にかざる。……まてよなんだこの違和感は。

  よく考えてみたら、自分のポートレイトを逃げ場のないワンルームの部屋に飾るのはちょっとアレかもしれない。常に自分に見つめられているというのはどうだろうか。ベッドに入っても目を開けると壁の自分が見つめてくる。ぼくは写真をそっとクローゼットにしまった。結局普段見ることもない自分の遺影といらない紙に無駄金を払ってしまって、すごく苦々しい気分だよ。

  *

  ある日マインスイーパーで最高記録を叩き出し、久しぶりにいい気分で退勤すると、駅前で似顔絵描きをやっていた。へえ、オシャレじゃない。絵描きさんの周囲にはサンプルが飾られていて、星の下でカップルがティータイムをしている絵や、少年が桜の中で手を振っている絵が輝いている。いいじゃない! 大きさは手のひらサイズから、この間の忌まわしき遺影と同じサイズまで描いてくれるみたいだ。ぼくは迷わず椅子に座った。だって損したままじゃ腹の虫が治まらないじゃない。ぼくは遺影サイズを指定した。

  すると、ぼくと同じくま科とは思えない整った顔立ちの、青い熊のおにいさんが筆をとる。毎朝スコーンやケーキをお紅茶で頂いていそうなお上品な感じだ。そしてこれまた素敵な笑顔でフランクにぼくに話を振ってくれる。なるほど、似顔絵を描くには色々人となりを引き出さないといけないし、トーク力も必要ってことか。「好きな食べ物は?」「最近面白かったことは?」うーん、そう言われても最近のぼくといえば、パンツがきつくて全部捨てたり、土砂降りに遭ったり、料理を投げ出したりしてあまりロクなことがない。

  そう言えばところてんの黒酢と三杯酢を間違えたこともあったな。そんな話をするとおにいさんはどこかツボに入ったらしく、楽しそうに笑った。今の話のどの辺がそこまでツボに入ったのかは分からないけど、彼が何かをひらめくには十分だったらしい。うん、おもしろ人生を切り売りするのはちょっとアレだけど、そんなに喜んでもらえるのならぼくも自分をネタにするのもやぶさかではない。

  しばらくの間ぼくはおにいさんを笑わせようと、これ以上ないほど自分を切り売りしていると、周囲の人がクスクス笑っている。ぼくらの話を聞いていた観衆だ。ぼくはどうやら混雑する駅前で不特定多数の人に恥を晒したことになっているようだ。早く帰りたい。

  ほどなくして絵が完成したよとおにいさんが色紙を渡してくれた。……うわあ凄いね、超イケメンじゃないか、やっぱり元がいいんだね。ぼくのスマホの待ち受けにして毎晩拝もう。……だが問題はそこじゃない。色紙にはなぜかところてんを噴きだしているぼくが描かれていた。

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  絵描きとして生きていて、ところてんを噴きだしているシーンを描くことって普通ある!? 逆に言えば、おにいさんはこれから「ぼくはところてんを噴いているシーンを描いた絵描きだぜ」「君はところてんを噴いている絵を描いたことがあるかい? ないだろ?」と名乗る権利を手に入れたわけだ。うん、そんなトロフィーいらないよね。残念なものを描かせてすみませんでした。ぼくがもっとかっこいいオオカミとかだったら良かったのにね。

  ひとつ気になる点を挙げるとすれば、……あれぇ? ぼくってもう少し、もうすこーしだけだけど、スリムじゃない? やけに太いような気がする。でもよく考えてみれば、写真展のときも写真に写る姿がやけに太かった気がしたし、考えてみたらパンツはすべてXXLだし、ひょっとしてぼくはデブなのだろうか? そろそろデブだということを認めないといけないのだろうか?

  なんだかんだ言っても非常に素晴らしい絵なので壁に張ることにした。描いてもらうまではトイレのドアに張るつもりだったのだけど、これはあまりにも素敵な絵だからスキャンしてクラウドに保存してふくろに入れて壁に張ろうね。

  *

  新聞契約時に損はしてしまったけど、無事に遺影じゃなかったすばらしい絵を手に入れることが出来て満足している。ぼくはいつも残念な日常を送っているけど、たまにはこういういい日があってもいいよね。

  すると玄関からドサアという音がした。あれは積んでいた新聞紙が崩れた音だ。玄関ドアの脇を見ると、案の定新聞紙が倒れていた。まだ二十日くらいしか経っていないけどまあまあな厚みになっている。もうこれ以上置く場所がないな。大体ワンルームのどこに九十日分の新聞紙を置いておけというんだろうか。こまめに捨てれば問題ないのだけど、重いし毎回ゴミ捨て場まで行くのがキツい。

  こうして怠惰なことばかりしているから太ってしまうんだろうね。3XLのパンツを買う日が来なければいいんだけど。

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  ◆第九話 通院前にはパンツを履き替えねばならない

  ひさしぶりに体調を崩すと心細いものだね。朝起きると頭がガンガンに痛くて、体もだるくて食欲がない。体温を測ろうとしたけど、普段はカゼも引かないぼくはもう何年も救急箱を開けたことがない。何か役に立つものは入っていないだろうか。ほこりを払って救急箱を開けると体温計が入っていた。脇に挟んで、熱にうかされながらぼーっとしていると、全然反応がない。十分ほどしてから異変に気づいて体温計を取り出すと、液晶が消えていてボタンを押しても反応が無い。うん、バッテリー切れだね。……ぼく何年開けてないんだっけ? コレ。

  昨日おふろの後に毛皮を乾かすのがめんどくさくて、ちょっとぺっちょりしたままパンイチでくつろいで、動画を見ながら美顔ヨガをしていたのがマズかったのだろうか。体温を測るまでもなくどうせカゼだ。ごはんを食べて寝ていれば治るだろう。あとは仕事を休む連絡をしないといけない。

  普段官能小説の続きが書きたいとか、単に仕事がめんどくさいからずる休みするときは、わざとらしくゴホゴホと演技しながら欠勤連絡を入れるけど、こうやって本当に体調を崩してしまって心が弱っているときに限ってなんか休むのが申し訳なくて、つい無理してでも出勤しようかと考えてしまう。このあいだ消費期限切れのまんじゅうを食べておなかを壊したときに無理して出勤したら、勤務時間中ほとんどうんこをしているハメになった。

  職場に電話をかけると同期が出た。カゼを引いたから休むと言うと、湯川でもカゼ引くんだなあなどと言われた。どういうことだろう。ぼくの体は大きいし栄養もたくさん溜めておけるから、風邪を引いても治りやすいって意味だろうか。ナントカはカゼ引かないっていう意味じゃないよね、ぼくは知的で高尚な文筆家なのだから。それはそうと、担当者のぼくがいないのに今日は職場のコピーとシュレッダーはどうするのだろう。

  とにかくこれで今日一日お休みだ。平日に堂々と休めるのはなんだか気持ちがいいものだね。小学生のころに学校を休んで教育テレビの科学番組なんかを見ていた頃を思い出す。

  そうだ、ごはんを食べないといけないな。昔体調を崩したときはコンビニまで体を引きずって消化のよさそうなものを買いに行ったものだけど、今は食品配送サービスがあるから楽なものだ。少々お金はかかるけど、こういうときくらいは贅沢してもいいだろう。まあこういうときでなくても利用してるんだけど。だって執筆中にごはん買いに行くのめんどくさいんだもん。

  さっそく食品宅配サービスのアプリを立ち上げ、体調不良でも食べられそうなメニューを探す。ハンバーガー……フライドチキン……とんかつ弁当……やけに脂ぎったサジェストだと思ったら最近のぼくの購入履歴だった。道理でふきでものが絶えないわけだ。

  スクロールすると和食というカテゴリがある。おっ、いいじゃない。やっぱり弱っているときは和食だね。お弁当、うどん、寿司など食べやすそうなものが並ぶ。あっ、おかゆ専門店なんてあるの? このたまごかゆなんてよくない? トッピングで梅干しも追加できるみたいだ。聞いているだけで食欲が出てくるね。普段おかゆを食べることはあまりないだろうしこれにしようね。さっそく梅干しを追加して注文ボタンを押した。

  すこしまどろんでいるとインターフォンが鳴った。ずるずる毛布を引きずりながら応対すると食品配送サービスだ。さっそくおかゆセットを受け取りふくろを開ける。液漏れしないようきっちりパックされたおかゆに、上品ないれものに入った梅干しが添えられている。よだれが出る。はやる気持ちを抑えながらふたを開けると、ふわぁとたまごとごはんの香りが立ち上る。わあ、もうひとつ頼めばよかったね。すごくおいしそうだよ! 付属のさじですくう。……ああ、あったかいね。そうそう、病気のときのあったかいごはんって本当に心にくるものがあるよね。最近はゲリや腰痛やサボりでしか休んだことがなかったから忘れていたよ。

  半分ほどおかゆを堪能すると付属の梅干しを入れる。大粒だししそまで巻き付いて、なんだかちゃんと漬けられた梅干しって感じだ。……おお、ちょうどいい塩加減だね! こんなにおいしいなら梅干しだけ売ってくれたらいいのに。ナントカ梅とかいうなんか謂れのあるブランド梅干しなのかな? なにげなくアプリを開いて注文履歴を開いてみ——なにかなこの数字は。いち、じゅう、ひゃく、せん……ぼくおかゆの値段見てる? 注文の詳細をタップする。『高級おかゆ専門店 ひなぎく』いやな予感がする。ぼくはリストの最上部を見た。『梅たまごがゆ 二九八〇円』『五十年熟成梅干し プラス一九八〇円』

  ガッデム! おかゆならちょっと高くても千円くらいかな? と思っていたらこれだよ! 配送料サービス料込みで五四六〇円と書いてある。ただでさえここ最近出費が激しかったというのに、これじゃあ家賃が払えないよ!

  諦めて消沈しながらベッドに倒れ込む。しばらくまどろんでいると意識が途切れた————

  時計を見ると夕方まで寝ていたらしい。体調は……芳しくないね。このまま寝ていても埒があかなそうだ。面倒くさいけど内科に行くことにした。

  診察室に入ると喉の奥の腫れや心音や血圧をチェックされ、カゼと診断された。頭痛がするしおかゆしか食べられないと言うと、栄養注射を打ちましょうと提案された。ぼくは注射は平気なほうだから余裕の表情で処置室に入ると、なかなかかわいらしい白衣の虎さんが待っていた。

  「はーい、二本打ちますからね」

  ちょっと待って、それは聞いてない。看護師さんに説明を求めると、ぼくは体積が大きいから一本では足りないらしい。ぶっとい注射器が二本置いてある。

  「じゃあおしり出してくださいね」

  そういうわけでしりたぶのLRに一本ずつ注射を打たれてしまった。いやまあそれはまだいい。問題はかわいい虎さんにぼくのよれたビキニパンツを見られてしまったことだ。もうお嫁に行けない。行ける予定はないけど。

  医者に行くときはきれいなパンツに履き替えていかなければいけない。いやまあ確かに看護師の方なんて毎日しりを見てるだろうから全く気にはしていないだろうけど、そういう問題ではない。ぼくが気にする。脈があろうがなかろうが、かわいい子にダルダルのパンツを見られるのは恥ずかしいじゃない? 際どいパンツを常用している人は気をつけようね。

  [newpage]

  ◆第十話 なすびを残してはならない

  最近だるい。原因はわかってる、ろくなものを食べていない、あるいはろくでもないものを食べているせいだ。朝はシリアルを食べ、昼は会社でゼリー飲料を飲み、夜は宅配サービスのロースト肉とフライドポテトを食べ、寝る頃にはおなかが空いているのでおやつを食べるという生活をしている。改めて考えてみたらすごくひどいじゃない!

  おまけに運動もしてないし、官能小説を書いていたらいつの間にか夜更かししているし、そりゃあパンツも2XLの壁を破りそうだし、吹き出物がなくならないわけだよ! ガッデム! このままの生活じゃ若くして……若……まあそれほど経たないうちに死んでしまうよ!

  そんなわけで健康的な食生活を目指して、妙案はないかと夜更かししてネットで探してみた。こういうのを本末転倒というのだけど、まあ問題を解決するまでの話だから許して貰いたい。すると返信欄がバッシングリプだらけのぼくのSNSアカウントに——バッシングの理由は、うーん、熊親父と猪親父が重なって組んずほぐれつイイコトしている小説に「爆乳」タグをつけたからだろうか。熊親父が爆乳なのは設定なのに、どうして炎上したんだろう。

  閑話休題、SNSに有用な情報を見つけた。

  「宅食サービスがいいよ」

  宅食? へえ、なになに……。毎週お弁当を届けてくれるサービス? しかも栄養のバランスをちゃんと考えて作られているらしい。いいじゃない! ぼくが宅配サービスを使うのは家を出るのが面倒くさいからだから、宅食は宅配サービスの置き換えになる。それに宅配サービスみたいに肉! とか甘味! とかひとつのものじゃなくて、お弁当にはたくさんの食材が含まれているから飽きがこない。さっそく宅食のサイトを見てみた。

  おお、すごいね。お弁当というくらいだから、もっとコンビニにおいてあるようなデーンとメインディッシュとごはんが置いてあって、つけあわせに柴漬けがついているようなものを想像していたけど、鯖味噌煮・おひたし・豆腐・サラダなどがついている。これは体に良さそうだね。シェフ監修と書いてあるから味も悪くなさそうだ。

  しかもこれの凄いところはメニューが三十種類も四十種類もあって、その中から毎週どれを届けてほしいか選ぶことができるのだ。すごいね! 栄養バランスのよさそうなお弁当といえば幕の内弁当をイメージしていたけど、ポークソテーやカレー、ゴーヤーチャンプルーまである。これをチンするだけなら毎日飽きずにつづけられそうだ。

  ええっ、一食五百円だって? 今まで食べていた千五百円もする宅配サービスはなんだったんだろうというくらいお安いじゃないか。

  これは注文しない理由がない。さっそくタブレットで注文する。一週間で七つ注文したから、毎日ひとつずつ粗食を健康的なものに置き換えられるね。これならふきでものも治るかも知れない。

  *

  へとへとで仕事から帰宅すると、まもなくクール便が届いた。わくわくしながら開封すると、ビーフストロガノフやハンバーグ、エビマヨなんかが入っている。うわあ、おいしそうだね。さっそく晩ごはんはこれにしよう。とりあえず試しに鯖の味噌煮をレンジに入れた。ほどなくして魚のおいしそうな香りが漂ってくる。あとはパックご飯も温めて出来上がりだ。

  ふたを開けるとほかほかした鯖の味噌煮が出てくる。うわぁ、いいにおいだよ。付け合わせのおかずも三つもついてるね……野菜ばっかりだけど。ぼくは野菜が好きではない。茎ものが特に苦手だ。ま、まあぼくも大人だから多少は食べられるようになったし、シェフ監修のこのお弁当なら、やわらかく食べやすく作られているんじゃないだろうか。

  問題は先送りして、まずは鯖の味噌煮をごはんに乗せて食べる。……おいしいね! これは本当においしい鯖味噌煮だよ! つけあわせに豆腐とフキがついている。フキも苦手だけど、ほろほろになるまで煮込んであるから食べやすい。

  さて敵は野菜だ。ほうれんそうのおひたしはまだ食べられる。だが問題はブロッコリーだ。こんなに固いノルウェイの森みたいなやつなんて本当に食べられるのだろうか。……おお、食べられるね! さすがシェフ監修! 結局苦手な野菜もすべて、味が濃い味噌煮のソースにつけることで全部平らげてしまった。

  これは健康的でいいね。しろくまのぼくにはもうすこし量があってもいいかなと思うけど。これで夜に小腹が空いてところてんを食べても相殺されて罪悪感がない。……なんか間違ってるかな。

  *

  宅食はいろんな味がするから、今日も楽しみに家に帰ってきた。今日はビーフストロガノフを食べよう。健康的な味付けとはいえ、ビーフストロガノフを家で、しかも五百円で食べられるのはうれしいね! さっそくレンジであたため、紙のふたをペリペリ剥がした。ビーフストロガノフが顔を出す。

  うわぁ、おいしそ……

  ナスだ。ぼくの、そして人類七十億人の敵、ナスだ。なんかこう、ぐにゃっとして飲み込めない。これは食べられない——

  けど、誰しもが母親に散々こんなことを言われるはずだ。

  「好き嫌いをなくしなさい」「食べ物をすてちゃダメ」

  ぼくはここに引っ越してくるまでは実家にいたから、ナス料理が出てきたとしても小皿に取らなければよかった。しかし一人暮らしになって弁当に入っていると、なんとかナスを消化しなくてはならない。

  ちなみに母は好き嫌いがないと言っていたので、じゃあドリアンは食べられるの? と聞いたら「屁理屈こねるんじゃありません!」としばかれたことがある。くまの手でしばかれることってある!? マジに四人掛けテーブルごと吹っ飛ばされて、額と口の中から血を流しながら次の部屋につっこんで止まった。普通そこまでやる!? 野菜より息子の命大事にしない? まあぼくもくまだからそこまで重篤なダメージは受けなかったけど。

  ぼくの地味にイヤな思い出はこのくらいにしておこう。現状の問題はこのナスをどのようにして消滅させるかだ。……やろうと思えば捨てることは簡単にできる。しかしここでナスを捨ててしまっては、よい子のみんなに示しが付かない。

  ピンポーン

  誰だろう。宅急便か新聞勧誘か宗教かどれかかな。モニターを覗き込むと、見たことのないかわいいヒグマが映っていた。ぼくは即ドアを開けた。

  「すいません、ドリアン切りすぎちゃって」

  ドリアン切りすぎることとかある!? ていうか今きみの部屋めちゃくちゃくさいんじゃないの? と言いたいところだけど、下心が抑えきれないぼくは呼吸を止めながら鼻が詰まったような声でアリガトウと受け取ってドアを閉めた。

  さて。今ぼくの部屋にはふたつの問題がある。ひとつはナス、もうひとつはこの異臭を放つ緑の物体だ。そしてぼくは食べ物を粗末にできない。自分がナスを嫌いなことはもう分かっている。ドリアンは確かに臭いけど、これだけ世間で食べられたりスーパーでも売っているということは、一度口に入れてみたらおいしいのかも知れない。ぼくは恐る恐るドリアンを口に入れる。

  ぶぼらッ

  あまりの臭さに転げまわる。なんかにんにくの臭いがする。水を飲んでも飲んでも臭いが消えない。二リットルペットボトルを二本ほど飲むと、なんとか呼吸できる程度には収まった。ぼくは躊躇なく全力でドリアンをキッチンのゴミ箱にブチ込んで、すぐにくくり、袋を三重にしてゴミ捨て場に放り込んだ。消臭スプレーが空になるまで部屋中にまき、寝るまで換気をした。おかあさん、ごめんなさい。でもあなたがアレを食べたとしても同じことをするでしょう。母は暴力的な分、より始末が悪いけど。

  ナスが食べられるようになった。ドリアンの洗礼を受けたぼくはナスなど何ら問題にしない。野菜が多い宅食もおいしく食べられるようになった。荒療治というやつだろうか。

  ピンポーン

  いやな予感がする。モニターを見ると案の定ドリアンヒグマだ。しぶしぶドアを開けた。

  「すいません、臭豆腐作り過ぎちゃって……」

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