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大型の台風は昨日の内に温帯低気圧に変わり、雨戸をガタガタ言わせたり、電線をビュービューと揺らしたりするような強風は消え去った。それでも一旦崩れた天気はすぐには元に戻らないようで、大雨がまっすぐ地面を叩きつけるように降っており、まったく止む気配がない。今日はせっかくの休日だから動物園に行こうと思ったのだけど、それもちょっと難しそうだ。
でもそろそろ冷蔵庫の冷凍食品のストックが底を突きはじめているので、できるだけ早くコンビニに行かなければならない。……うーん、近所のコンビニくらいなら、何とか傘を差して歩けないほどでもないかな。ただアスファルトのくぼみには水がたまっていて、きっと水がお気に入りのスニーカーの中に浸入してきて、ぐじゅるぐじゅるになるだろうことが予想される。買い物は夜に天気がよくなっている可能性に期待して、今はあるもので何とかしたい。
そこでこのピザ屋のクーポンだ。ぼくの住む町内が新しくピザ屋の配達エリアに追加されたということで、ポストにチラシとクーポンが入っていたのだ。クーポンには太いフォントで『半額!』、しかも『初回配達料無料』と書いてある。これならたまには奮発してみるのもやぶさかでない。
さっそくパソコンでピザ屋のサイトを開く。うん、昔はピザといえば結構なお値段がしたものだし、配達手数料もそこそこして、ピザ一枚頼むのに三千円とかしたものだけど、今はお安くなっているんだね。チラシには一五〇〇円のピザもある。……ふうん、二枚目半額や無料というものもあるんだね。さすがにそれが出来るのは二千円以上する少しお高いピザのようだけど、半額になると考えればそれほど懐が痛まない。むしろ半額クーポンがある今こそ、普段は手が届かない高いピザを思い切って注文すべきではないだろうか。
熟考の結果、ぼくは二千円のピザを選んだ。半額で千円、かつ二枚目無料だ。つまり千円でお高いピザが二枚も食べられるのだ。トッピングは『ポテマヨチーズピザ』『マルガリータ』を選んだ。クーポンコードを入力すると、カートには千円と表示される。これで二千円もする本格的で温かいピザを食べることができるんだね。ワクワクしながらオーダーボタンにカーソルを合わせた——ところで気づいた。
……なんかわざわざ宅配までしてもらうというのに、注文がピザ一枚というのはちょっと残念なお客と思われてしまうのではないだろうか。ぼくはいつも食品宅配サービスを利用しているけど、あれは配送費用やサービス料というマージンがきちんと含まれている。オーケー、分かってる。ピザ屋だってそういうのを考慮した上で商品価格の設定をしているってことはね。ただ決定的に違うのは、ぼくは今回半額&配達料無料クーポンを利用しているということだ。いいかい、ピザ屋のアルバイトの時給が千円だとして、配達に三十分かかるとしたら、配達コストのみで五百円になる。材料費やガソリン代もろもろを含めると、差し引きで二〇〇円くらいしかお店の利益にならないんじゃないだろうか。ひょっとして、お店の迷惑を考えるとそれくらいなら注文しないほうがいいんじゃないだろうか。もちろん、あのクーポンは初回は採算度外視でとにかくお客さんに利用してもらって、「たまにはピザもいいから今度また使おう」という固定客を得るための広告という側面もあるだろう。だけどぼくは再び半額クーポンをもらえない限り、きっとピザ屋を利用することはない。だってお金がないんだもん。
ただぼくだってバカではない。そういうお客さんもいることを考慮の上で発行されているってことくらいは。でもなんかこう、このオーダーボタンを押そうとすると、店長さんの悲しそうな顔が目に浮かぶ。「もう一品、何かオーダーしてほしいな……?」なんていう。まあ実際は「なんだよシケてやがんな」と毒を吐きながら鼻をほじっている可能性のほうが高いとは思うんだけど。……うんまあ、そういうところも含めて考えすぎだということは自覚しているんだけど、なにしろぼくは小心者だ。タクシーもワンメーターだけならちょっと悪いなあと、大荷物を抱えて歩いてしまうくらいに。
よし、じゃあ……飲み物も一緒に頼もう。どうせピザを頼まなくても飲み物は飲むつもりだったから、ついでに頼んだって無駄遣いにはならないはずだ。コーラは……一七〇円。店長さんの「もう一声!」という顔が目に浮かぶ。仕方ない、夕飯のおかずもついでに買っておこう。サラダがあるね。六四〇円は少し高いけど、高いだけあって具もたくさん乗っていておいしそうだ。これでぼくの食欲も満たされるし、店長さんもにっこりだ。再びオーダーボタンにカーソルを……乗せたところで気がついた。
窓の外を見る。今の天気はどうだろうか。さっきと同じく、相変わらずそれなりの雨が降っている。傘を差して歩けはするだろうけど、跳ね返る水で靴の中がぐっぽぐっぽになるレベルだ。こんな天気にピザ屋のバイトさんを走り回らせていいのだろうか。まあぼくはそんな日に配達を受け付けてバイトに押しつける店長さんがひどいと思うんだけど。
ブラウザの別タブを開いて「ピザ 雨」で検索してみる。すると思いのほか多くの検索結果が出る。へえ、案外ぼくと同じような小心者がたくさんいるんだね。ひとつリンクを辿ってみる。「気にしなくていいです」「お店もサービスですから」うん、大丈夫そうだね。ブラウザのバックボタンを押す。ふと下を見ると、三番目の検索結果が目に入る。
『ピザ屋の店員だけど、雨の日に頼むヤツは死ね』
おやおやこれはひどいね。でも現役のピザ屋さんのバイトのご意見らしく、貴重な現場の感想だという事実は否めない。リンクをクリックしてみると、表題を肯定する過激な意見が並ぶ。ひどいよ! こんなんじゃ小心者のぼくはピザを食べられないじゃない! そもそもだよ? 悪天候の日だからこそ「今日はピザでも食べようかな?」となる人も少なくない訳で、そういう人達は晴れだったら別のものを食べに行くよ!
なんかもう考えるのが面倒くさくなったので、普通にオーダーボタンをクリックした。
ぴんぽーん
十五分とちょっとすると、インターフォンが鳴った。ヘルメットを被った店員さんが映っている。ドアを開けると、雨粒に濡れながらも笑顔でピザやサイドメニューを取り出してくれた。支払いが済むと店員さんはまたどうぞーと明るく言って帰っていった。
ピザの箱はほんのり温かく、香ばしい生地とチーズの香りがする。まだ箱も開けていないのにおなかが鳴る。やっぱりあたたかい料理というのはいいものだね。さっそくピザを開け、コーラを取り出す。ひとくち食べると……ああこれだよ、ぼくが求めていたものは。コーラにピザなんてデブまっしぐらではあるけど、ぼくにだってたまにはこういう幸せな日があってもいいはずだ。ぼくは久しぶりにあたたかいものをおなかいっぱい食べることができた——
ようやく雨が小降りになり、こころなしかジメジメした気配も遠のいた。そろそろ執筆を再開したいところだけれど、さっきピザを食べ終わってからはずーっとベッドでぐーたらと伸びている。執筆意欲自体が衰えている訳ではないのだけど、暑さと汗が不快すぎて、体力と集中力がついていかない。さっきから一〇分ほど書いてはベッドに寝そべり、コーラを飲んではベッドに寝そべる、というルーチンを繰り返している。
今の集中力で健全な執筆活動を行うのはちょっと難しそうだ。だから気分転換という訳ではないけど、今のうちに体を動かして家事を片付けてしまうのがいいだろう。そう言えば洗濯物が結構たまっている。この連休の残り二日のどちらかで一気に洗濯してしまわなくては、着るものやタオルがなくなってしまう。それに最近の暑さを考えれば、こまめに寝具を洗わないと枕やシーツから「おとうさんの香り」が漂うことになってしまうかも知れない。……いや、ぼくはまだそんなアダルトな香りを醸し出してはいないけど、こういう臭いは自分では分からないというからね。まあ、今のうちから念のためにというかね。
そんなわけで洗濯を始めよう。お気に入りの花柄まくらカバーとシーツをベッドから引っぺがし、ランドリーバッグの下着やタオル類を洗濯機にぶちこ——もうとしたところで違和感を覚えた。なんだろう、この生臭さは。臭いの元を辿ってみると、どうも洗濯槽の中からしているみたいだ。
原因を探るため『洗濯機 臭い』で検索してみると、どうも洗濯槽にカビや汚れが付着してしまっているようだ。さらに説明書きを読むと「月一回洗濯槽を洗浄してください」と書いてある。月一回……この洗濯機を買ってから何年だったっけ。月一回どころか購入以来一度も洗浄していない。
こんなにも洗濯槽が汚れている以上、洗濯をする前に洗濯槽を洗浄しない訳にはいかない。こんな臭いのする中に、お気に入りのまくらカバーを入れたら雑菌臭くなってしまう。説明書きを頼りに洗濯槽洗浄モードに切り替えて、スタートボタンを押した。洗濯機のインジケーターに、洗い終わるまでの時間が表示される。
『11h』
長いよ! 今からだと洗浄を終えるのに深夜までかかってしまうよ! その後から洗濯を始めたら、シーツやまくらカバーが乾くまでに朝になってしまうよ! というか夜は近所迷惑だからそもそも洗濯できないよ! ……この時点でぼくが取りうる選択肢はこれらだ。
1.洗濯槽を今日洗い、シーツ類を明日洗う(今晩汗臭いベッドで寝る)
2.洗濯槽を明日洗い、シーツ類を今日洗う(シーツ類が雑菌まみれになる)
ガッデム! どっちを取ろうとも、絶対どこかで臭い目に遭うしかないよ!
どのみち洗濯槽は今日明日のどちらかで洗うしかないから、一日は臭さに我慢せざるを得ない。完全にこれまで家事をサボってきたツケが報いてきたわけだ。だけどワガママなぼくとしては、なんとか洗濯槽の洗浄をしつつ、シーツの洗濯を済ませ、快適なベッドで眠りたい。そんな都合のいいことはないだろうか。あるわけないよね。ああ、ぼくの部屋に乾燥機付きドラム式洗濯機があればいいんだけど。
……乾燥機? あるじゃない! そう、コインランドリーだね!
でもぼくはこれまでコインランドリーを利用したことがないから、どのあたりにあるのか分からない。さっそくスマホで調べてみると……へえ、コインランドリー検索サービスというのがあるんだね。そういえば郵便ポストの検索サービスもあったし、世の中便利になったものだね。さっそくぼくの住所付近で調べてみると、すぐそこに一軒あるみたいだ。さっそくランドリーバッグに洗濯物などを詰め込んで部屋を出た。
へえ、こんなところにコインランドリーがあったんだね。コインランドリーの外観って、もっと田舎の国道沿いにあるコイン精米所のようなイメージがあったけど、今はこんなにお洒落なんだね。前を通りがかってもちょっとした喫茶店と間違えてしまいそうだ。これから洗濯をするだけだというのに、どこかワクワクしながら自動ドアをくぐった。
クーラーの効いたコインランドリー内に入ると、四角いランドリーがいくつも並んでいる。あれが乾燥機付きのドラム式洗濯機だね。ぼくは使ったことがないけど、一度に乾燥までやってくれるというのは魅力的だ。以前ちょっと欲しいなと思ったけど、そもそも一人暮らしの部屋には大きすぎて入らないというのでやめたのだ。まあ、お金もなかったけど。
コインランドリーの中には、洗濯機のほかに自動販売機やマガジンラックがあり、快適に待つことができるようになっているようだ。それからひとつドアがついていて、となりの喫茶店に繋がっている。なるほど、コインランドリーに来る人のほとんどが時間つぶしに困るから、喫茶店との相性は最高ということだね。
あっ、変わったものがあるよ。なんだろう、電子レンジかオーブンかな? ……へえ、スニーカー洗濯用ランドリーというのもあるんだね。靴洗いというのはたらいに入れて水に浸け、柄付きブラシでゴシゴシと洗うという結構な手間がかかるものだ。それがお金を入れて待つだけで綺麗になるならやぶさかではない。……ぼくの靴はいつから洗っていないだろうか。今日はまだ道がぬかるんでいるから洗うには適していない。また今度来たときに洗おうね。
さっそくランドリーバッグから洗濯物を取り出すと、一番近くの洗濯機に放り込んだ。これはいいね、シーツと服を含めると結構な量があるのに、かなりの量が入るね。洗濯機のドアをパタンと締めると、洗濯物の量を選んでコインを投入した。じゃあ洗剤を入れようね。……投入口がない。よく見ると「洗剤・柔軟剤 自動投入」と書いてある。いいじゃない! 今回は洗剤を持ってきたけど、これからは洗濯物とお財布だけ持って来ればいいということだね。
スイッチを入れると洗濯機が回り始めた。洗濯・乾燥が終わるまでは四十分ほどかかるようだ。そこそこ待たないといけないけど、十分かけて部屋に戻ってまた来るのはちょっと億劫だ。大人しくここで待つことにしよう。自動販売機でオレンジジュースを買い、マガジンラックから適当な雑誌をとってお洒落な白い椅子に座った。ぼくは普段雑誌をほとんど読まないけど、こういう機会に普段は味わえない経験をして、新しい情報をインプットしておきたい。こういうところにこそ、小説のネタとなる新しい情報のインプットが望めるというものだ。
どれどれ、最近の男性誌はどうなっているんだろう。十年ほど昔に散髪屋さんで読んだ男性誌では、シルバーアクセをジャラジャラつけた読者モデルが「しろくまは全員抱いたぜ」なんてカッコよく言っている写真が踊っていたものだ。
さっそく目次をひらく。ファッションコーデのページまでめくると、お洒落なコーディネートをまとったモデルさんたちが、誌面を華やかに飾っている。別のページには最近流行りのオトナな趣味が、さらに別のページにはおすすめのインテリアや文房具などが載っている。あっ、腕時計のページがあるね。カラー一ページまるごと使って、高級そうな腕時計の写真が載っている。ぼくは弟からもらったスマートウォッチをしているから不要ではあるけど、高級な腕時計というのは男子としては憧れるところだ。
年甲斐もなく興奮気味にページを繰っていると、入り口の自動ドアがガーと開いて虎おじさんが入って来た。かなりの厳つい顔に思わず身構える。半袖短パンサンダル子供連れでなかったら、アブナイ人かと思って怖くて逃げ出していたところだ。おじさんは子供を椅子に座らせると、ランドリーに洗濯物を投入しはじめた。……へえ、なかなか可愛らしいパンツをお持ちですね。普段下着なんか気にもしなそうな人が気を遣ってお洒落なパンツを履いていると、どこか微笑ましいものがあるね。その後もおじさんはシャツやズボンなどを投入し、ランドリーのスイッチを入れた。すると子供が興奮気味に騒ぎ出した。
虎おじさんは困ったなと頭をかくと、マガジンラックから絵本を取り出した。そして子供に絵本を読み始めた。
「ほれ、くまさんがなァ……そんでハチミツ取りに行きおって……」
かなり男らしい読み方だけど、あれは情操教育的に大丈夫なのだろうか。でも優しい低音が心地いい。くまさんの冒険譚を聞いているうちに、ぼくもうつらうつらしてしまった——
ピーッ、ピーッ
はっと目を覚ますと、ぼくが使っていたランドリーに終了の表示が出ている。虎の子供は寝てしまっていて、虎おじさんもそれを優しく撫でながらうとうとしていた。ぼくは起こさないように洗濯物をゆっくりランドリーバッグに入れると、静かにコインランドリーを出た。
さっきまでの雨が嘘だったかのように空は晴れていて、太陽も顔を覗かせている。人通りも増えている。きっと雨風で外出できなかった分、外の空気を吸いに出たのだろう。楽しそうな子供の声を聞くと、思わず顔がほころぶ。いい気分で部屋に帰ろう、洗濯物もあたたかくふわふわになったことだし。
ランドリー前の道路を斜に渡ったところで、後ろから野太い叫び声が聞こえた。いやな予感がする。だって後ろからぼくを呼ぶのは明らかにさっきのおじさんだから。実はあのおじさんはやっぱり怖い人で、ぼくを殴ったりするのだろうか。逃げるように早足で歩くと、さらに大きな声が飛んできた。
「おーいニイちゃん、パンツやパンツ! パンツ忘れとったでぇ!」
衆人環視の中で散々パンツを連呼され、ぼくの顔は火照る。そしておじさんは頭の上でぼくのピンクのパンツを振り回しながら、こちらに走ってきた。
「パンツやパンツ。ニイちゃん良かったなあパンツ。それにしてもええパンツ履いとるやないか。パンツ拘ってんのか? たまには高いパンツもええなあ、ワシもええパンツ買うてこようかなァ」
ぼくはこれ以上ないほど顔を赤くすると、おじさんからパンツをひったくって顔を隠しながら逃げ出した。
*
先週はひどい目にあった。みんなに見られている中でパンツを連呼されるのも恥ずかしいけど、何よりぼくがどんなパンツを履いているのかを公衆の面前でつまびらかにされたことが恥ずかしい。
まあ済んだことは忘れよう。それよりも今日は先週行けなかった動物園にでも行こうかな。お気に入りのスニーカーを履いて、足取り軽くアパートを出た。
ぱしゃん。
サノバビッチ! お気に入りのスニーカーでドロドロの水たまりに踏み込んでしまったよ! せっかく楽しい休日を過ごすつもりだったのに、出鼻をくじかれてしまったよ!
だけどぼくにはまだ救世主がいる。そう、コインランドリーにはスニーカー用のランドリーがあったはずだ。スニーカーを洗って乾かした後、何事もなかったのように動物園に行くのだ。ぼくは靴を履き替えて、ドロドロのスニーカーを持ってコインランドリーへ急いだ。
コインランドリーに着くと……虎おじさんがまたランドリーに来ていた。やだなあ、なんか恥ずかしいし気まずいなあ。今日はスニーカーをランドリーに入れたら、となりの喫茶店で終わるのを待とうかな。急いでランドリーを開けると、おじさんがニヤニヤと話しかけてきた。
「いやあ、あれからパンツ買いに行ってなあ」
おじさんはピンクのパンツを指でくるくる回して得意げにした。
「ええやろ、お揃いや」
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