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番外編:湯川さんと平凡な日常

  【登場人物】

  ◆湯川優大(まさひろ)……三十代のしろくま。やや太り気味。会社員だが自称「官能小説家」で、SNSに小説を投稿し続けている。運が悪くやることなすこと裏目に出るので残念な日常を送っているが、それなりに充実した毎日を送っているので、自分ではそれでいいと思っている。

  ◆画家……珍しい青い毛皮のくま。画家を生業としているが、お小遣い稼ぎのためにあちこちの駅前に出向いて似顔絵描きをしている。趣味がお洒落。たまに抜けている。

  ジリリリ……という無遠慮な音を立てる目覚まし時計を叩くと、ぼくは眠い目をこすった。体を起こしてあくびと伸びをすると、ナイトキャップをはずしてベッドを降りた。空色のカーテンを開けると、ふんわりと差し込む光に思わず目を細める。やわらかい光が自慢の青い熊毛を綺麗に輝かせた。

  少し頭がハッキリしてきたのでレコードジャケットを取り出し、ラッパのついたレコードプレイヤーに乗せて電源を入れ、静かに針を置いた。ゆっくりとグリーグの「朝」が流れ出す。

  キッチンには昨日買っておいたスコーンとアプリコットジャム、それからイングリッシュブレックファストの紅茶が置いてある。スコーンをオーブントースターに入れて焼き色をつける。その間に卵とベーコンを取り出し、手早くベーコンエッグを作って皿に盛り付けた。オーブンが焼き上がったと急かすので、きつね色になったスコーンを皿に取り出した。最後に小皿に自家製ヨーグルトを入れて、お客さんから貰ったブルーベリーソースを少しかけた。トレイにそれらと冷たい牛乳を乗せ、居間に運んだ。

  さて、今日は出かける日だ。といっても画家の仕事や取材ではないし、似顔絵描きの仕事でもない。以前、似顔絵描きのお客さんとして来てくれた、自称・官能小説家の湯川さんに声をかけてみたのだ。

  別にこれといった意味があって誘った訳ではない。たまたまぼくの仕事が一段落したタイミングで湯川さんもお休みだったようなので、せっかくだからどこかに行きませんか? と言ってみた訳だ。湯川さんも執筆活動に詰まっていたそうで、気分転換ができるならとふたつ返事でOKしてくれた。

  スコーンをかじりながら、ぼんやりと今日行きたいところを考える。二人ともどちらかというと気ままなタイプというか、その時の気分で動くタイプなので、集合場所だけ決めて気の向くままに行動しましょう、と言ってあるけど、最初の目的地候補くらいは挙げておきたいんだけどさ。

  色々考えているうちにスコーンとベーコンエッグを食べ終わると、シンクに食器を片付け、紅茶を淹れるためのお湯を沸かし始めた。ケトルに水を入れて火にかける。

  湯川さんはどういうところが好きなんだろうか。分かっているのは、文章を書くというクリエイティブな趣味を持っていること、ぼくの絵をすごく喜んでくれたことだ。そう言えばぼくらが初めて会ったときは『変わった形のサボテン展』を見た帰りだったというし、芸術的なものには造詣があるのかも知れないな。

  彼の立ち振る舞いを見ている感じ、一見してとても控えめな感じがする。適当に集めてきた九十九人の中に湯川さんを入れて、性格が明るく積極的な順番に並べたら、湯川さんは後ろから五人以内には入ることだろう。だけど鬱屈しているかと言えばそうでもない。執筆でガッツリ自己表現をしてくるし、また執筆やネタ漁りのためにはかなりアグレッシブに動いているようにも思える。だからか、平凡な日常に暮らしているにも拘わらず、すごく刺激にあふれた生活を送っているようにも見える。それはある種の才能なのではないだろうか。

  同じものを見ても、見る人によって感じ方は全然違う。例えば……そう、せっかく動物園に行ったのに悪天候で動物が奥に引っ込んでいたら、多くのお客さんはガッカリするだろう。でも湯川さんは全然動物が見られなくても、途中で雨に降られてびしょ濡れになっても、執筆の原動力に転化させることだろう。その日帰ってからSNSに、入場料千円も払ったのに一匹も動物が見られなかったよ、なんて書いたりして。でも同時に、動物たちが雨に濡れなくてよかったね、とも思っていそうだ。あまり結論に頓着しないのかも知れない。

  湯川さんとはそれほど深く話したことはないけど、SNSの発言を見る限り、ちょっと変わった視点というか、穿った見方というか……。あくまで普通のおじさんなんだけど、時々何か“違う”ような気がするのだ。それが何なのかはさっぱり分からないんだけど。

  おっと、お湯を沸かしすぎてしまったな。お湯でティーカップとポットを温め、ケトルのお湯を少しだけ冷ましてから、茶葉を入れたティーポットに注いだ。一式を居間に運んでティーカップに紅茶を注いだ瞬間、スマートフォンにメッセージが着信した。紅茶をひとくち含みながら、メッセージを確認する。えーと、三十分遅れるって? ……お気に入りのスニーカーで泥水たまりに踏み込んだので、コインランドリーで洗って乾燥中らしい。ふふふ、相変わらず“オイシイ”というかなんというか。ひとこと「了解です」とだけ送って、ぼくは次のレコードに掛け替えた。

  待ち合わせには、駅前の少し静かなカフェを選んだ。うーん、あの後時間があるからと調子こいてケトル一杯分の紅茶を全部ひとりで飲んでしまったのに、よりによって喫茶店なんかで待ち合わせするんじゃなかった。おなかがタポタポだよ。

  湯川さんが来るまでの間、手持ち無沙汰に紙ナプキンに適当な絵を描いていると、息を切らせた湯川さんがガラスの向こうに見えた。ちょっと——まあまあ太ったしろくまのおじさんは、お洒落なキャスケット帽にシャツとベスト、ベージュのチノパンというカジュアルフォーマルな格好をしている。きっとあれが一張羅なんだろうな。細身なら知的に見えそうな服装だけど、太ったおじさんが着ているとどこかコミカルに映る。コミカルなおじさんはぼくを見つけると、嬉しそうに手を振った。

  湯川さんはさっそく注文カウンターに行くと、メロンソーダとジャーマンドックとBLTサンドとプリンを頼んだ。ええと、すぐに昼ご飯の時間なんだけど、大丈夫なのかな。そんなんだから太……なんでもない。

  湯川さんはぼくの前に座ると、嬉しそうにサンドを頬張った。まあ今日は予定があるわけでもないし、こうやってダラダラ過ごすというのもアリかな。ぼくも追加でガトーショコラを頼むと、これからどうする? なんてことを二人で話した。

  ぼくの案はちょっと遠出したところの商店街に行っての街ブラだ。昔からある商店街だけどなかなか栄えていて、新しいテナントもどんどん入居しているから、新しさと懐かしさが同居しているらしい。湯川さんはそれはいいねと喜んでくれた。

  湯川さんの案は観光牧場だ。第一次産業の方がメインではなくて、乳搾り体験とか、バター作りとか、乗馬体験とか、そういうやつが主だ。それはすごく面白そうだ。ソフトクリームがおいしいらしいし、なかなかいいんじゃないかな。でもね、湯川さん。今日の湯川さんの服はおしゃれだし、靴も洗ったばかりじゃない。牧場に行く格好とはちょっと違うんじゃないかな。それに湯川さんのことだから、絶対うんこを踏むに決まってる。そういうと湯川さんは確かにと納得してくれた。そっちにはまた別の日に行こうということになった。

  ぼくたちはドリンクを飲み干すと、さっそく商店街に向かった。

  その商店街は、古びた駅からさらに十五分以上離れた場所にあった。お世辞にもアクセスがいい場所とは言えない。でも一歩アーケードに足を踏み入れると、人通りもあって活気に溢れており、昔ながらのお店屋さんがぼくらを迎えてくれた。

  八百屋さんの店先には、段ボールを切って作られたPOP……という感じじゃないな。とにかく値札が差してあり、買い物かごを持ったおばさんに愛想よく野菜をすすめている。ニンニクをすすめて「今夜ご主人と一発どうだい」なんてホントに言う八百屋さんは初めてみた。一歩商店街を出たらセクハラもいいところなんだけど、商店街のお客さん達は気にする様子がない。気心の知れたご近所なんだろうな。いいか悪いかは置いといて。

  そんな懐かしい店が建ち並ぶ一方で、お洒落な店構えの美容室やブティック、小さなイベントスペースのような新しいものまである。へー、今は生け花を展示してるんだな。少し近づいてみると、地域活性化の名目で市が安く貸し出しているスペースだと書いてある。なるほど、この商店街ではいいものは古いものでも残し、かといって頑なになりすぎずに新しいものも受け入れる、そんな地域性のお陰でこの商店街は今も賑やかなのだろう。

  ぼくはスマホのカメラで珍しいもの、綺麗なものをたくさん撮った。写真や動画にしておくことで、その場所情報を閉じ込めておくのだ。

  でも湯川さんはほとんど写真を撮っていないような気がした。いや、まったく撮っていない訳じゃないんだけど、撮っているのは風景や人々じゃなくて、喫茶店のメニューや食べ物ばかりだ。これは小説のネタを探しているというより、食べ歩き用メモを残している感じだ。しばらく歩いていて横をチンドン屋が通っても、湯川さんはスマホを取り出さない。でも興味がないかというと、むしろ子供みたいに喜んでいた。

  少し疑問に思ったので、どうして写真に撮らないかと聞いてみると、写真を撮っている間はナマの景色——レンズを通さない——が見えないのが好きではないのだそうだ。なるほど、画家のぼくだって当然それを感じることはよくある。

  以前花火を見に行ったとき、花火客たちは空を見上げて歓声を上げていたけど、ぼく以外のみんなはスマートフォンや一眼レフを空に掲げていた。歓声を上げる彼らは感じていたのだろうか、頬を撫でる海風と、そのちょっとの生臭さ。花火が消えた後の火薬の匂い。遠くに見える月の輪郭、辺りからサラウンドのように聞こえる虫の音。爆音に揺さぶられる瞬間に感じる、少しの根源的な恐怖。

  人は写真を見て「思い返す」ことは出来るけど、はなから体験していないことを「思い出す」ことは出来ない。だから湯川さんはカメラを向けることを最小限に留めるのだろう。ほら、ああして草団子を……さっきあれだけ食べたのに草団子を食べていることも、味覚で……まあ、感じてる……のかな、食べたいだけだと思うけど。

  ひととおり商店街を回ると革製品の店があった。革製品を専門に、しかもオーダーメイドまでしてくれるなんて、都会でもあまり見かけないかも知れない。ぼくは身につけるような革製品をあまり持っていないし、湯川さんもそういう雰囲気ではないけど、合成ではない革製品にはどこか温かみを感じるものだ。

  店内には驚くほどたくさんの革製品が置かれていた。てっきり鞄や革靴がたくさん置いてある感じかな? と思っていたけど、革製のスマホケースに始まり、革表紙のノート、革財布、キーケース、革を切って作られたストラップ、メガネケース……などなど、収まりきらないほどの製品たちが所狭しと並んでいる。

  ぼくはそれほど革製品には興味がなかったけど、こうして作り上げられた工芸品のようなものにはどこか惹かれるところがある。ひとつひとつ手作りで作られたそれらは、始めて持つのにどこか手に馴染む感覚がある。革製品マニアの人達が、革を磨いて何年も使い込む気持ちが分かる。

  湯川さんはさっそく興奮気味に革財布を見ている。色合いはキャメル風で、布と革のコンビネーションになっている。大量生産品の財布と違って、こだわりのギミックもたくさん仕込まれていてとても使いやすそうだ。でも湯川さんは値札を見ると、しょんぼりして財布を元の棚に置いた。

  湯川さんを観察しているうちに、店員さんが声をかけてきた。商品じゃなく湯川さんを見ていたから、退屈している付き添いのように見えたのかも知れない。

  店員さんによると、革製品の寿命は十年ほどだそうだ。でもそれは糸のほつれや金具の劣化が主な原因で、きちんと修理すれば革自体はもう少し持つらしい。そうして使い込むことで、その持ち主の使い方にフィットしたクセがついてくるし、風合いもその人に馴染んだものになってくるのだ。へー、革って取り扱いやケアが大変そうなイメージがあるけど、ダメージもまた革の記憶なんだな。ぼくも少し欲しくなってきたかな。

  三十分ほど商品を楽しんだ。商品だけじゃなく、お店の雰囲気や革製品の独特の温かみも感じることが出来た。画を描くときに、ヨーロッパの雰囲気を出したり、革の素材感を出したりするのには役立ちそうだ。

  湯川さんが一通りフロアを回って戻ってくると、何かプレゼントを贈り合おうと提案された。といってもあんまり大げさなものはナシってことで。

  ああ、人によっては「贈り物を贈り合うなら自分でそれぞれ買えばいいだろ?」という向きもあるだろうけど、まあこういうものは相手からもらったというカタチが大切なのだ。

  ふたたび別々にフロアを一周する。それなりにお安いものといえば、キーホルダー、ストラップ、ペーパークリップ……湯川さんといえば小説だ。でも小説を書く人は今日日パソコンに向かってばっかりなんだよなあ……あっ、革製マウスパッドというのがあるな。プレゼントに適しているかは分からないけど、これなら湯川さんは確実に使ってくれるだろうし、手を置くという性質上、使い込まれて味も出るだろう。お値段も手頃だし、これにしようかな——

  と思っていると、湯川さんは自分の財布を確かめ、ハッとして店を飛び出していった。……ああ、分かった。あれはコンビニのATMに行ったんだな。ふふ、締まらない人だなあ。ぼくはその間にお会計を済ますと、さっきの財布と同じキャメルのマウスパッドを買った。

  まもなく湯川さんは軽く息を切らしながら戻って来て、とある棚にあった何かを手に取ると、ぼくに隠すかのようにレジに向かった。その棚にあったの、名刺入れだって分かってるんだけどなあ、しかも青色の。きっと以前ぼくがネームカードを渡したときに、アルミ素材の安っぽいものを使っていたのを覚えていてくれたのだろう。ふふ、丁度あれを買おうかどうかちょっと迷ってたし、嬉しいな。

  ぼくらは最後にと喫茶店に行き、革のことについて話した。プレゼントは帰るまで開けないってことにした。もう何が入ってるかお互い分かってると思うけど、こういうのは盛り上がりが大切だ。

  ひとしきり今日の街ブラの感想を話し合った後、ぼくらは駅前で別れた。

  レコードプレイヤーでベートーヴェンの悲愴をかけながら、ソファーにどっしりと体を埋める。ふー、疲れたな。湯川さんもそろそろ帰りついて、プレゼントを開けるところだろうか。

  ふふふ、実はもうひとつ仕掛けをしておいたのだ。あの革ショップの隅にはキーホルダーが置いてあったので、それも買って入れておいたのだ。といっても小さな端材を動物の型で抜いただけのもので、おそらく金具代と手間賃くらいしかかかっていないのだろう。お値段も六百円程度だった。お店としても儲けがどうというより、ちょっとした遊び心で置いているんじゃないかな。そして湯川さんへのプレゼントの中には、あそこにあったキャメルのくまのキーホルダーが入っているはずだ。

  いよいよプレゼントを開けようというところで、湯川さんからメッセージが来た。なになに……マウスパッドがすごくしっくりくるということと、キーホルダーをありがとうと書いてある。ふふふ、どういたしまして。じゃあぼくもプレゼントを開けようかな……あっ。

  袋の中には青いくまのキーホルダーが入っていた。

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