[chapter:1.]
ガスコンロにかけた土鍋がくつくつと煮える。中華風の白菜と肉団子の鍋だ。
11月も半ばを過ぎ、もう朝夕はすっかり冷え込むようになった。そんな日の夕食にはうってつけだろう。
同居人である柴本が帰ってきたのは、今まさに鍋が煮え上がろうとしている、絶妙なタイミングのときだった。
自営業で決まった休日のない柴本に代わり、わたしが休日に夕飯を用意するのは既に習慣になりつつある。
「たっだいまー!」
底抜けに陽気な声の直後、ドアが閉まる音。どたどた[[rb:喧>やかま]]しい足音が近づいてくる。
陸上防衛隊の特殊部隊に籍を置いていた噂が流れているのが、信じられないガサツさ。防衛官だったのは間違いないとしても、特殊部隊とかは噂に尾鰭が付いただけだと思う。本人は昔のことをあまり語らないので分からないが。
「あー、腹減ったー! お、何だこれ? 食っていい?」
鍋の火を弱めて振り向く私の視線の先には、赤茶の毛並みに三角耳の犬獣人――彼ら自身は[[rb:犬狼族>けんろうぞく]]と称している――の姿。身長はわたしより低い162センチ、体重はわたしより重たい78kgだ。
その丸っこい目は、テーブルの上に置かれた菓子折を目ざとく見つけたらしい。
「つーかこれ、駅前のプティ・シャトーのじゃん! 高ぇんだよな!」
台所と隣接したリビング、その真ん中に置かれたテーブルの上には艶のある包装紙に包まれた箱。柴本はその前に陣取り、太短い指で包装紙のテープを剥がしに掛かっていた。テンションが上がっているのを示して、ふさふさの巻き尾がふるふると小刻みに揺れる。とても分かりやすい。
ご飯の準備出来てるから、もう少しだけ待ってよ。わたしがそう言うと
「ん、分かった」
包装紙を破きかけた箱を、すごすごと未練が透けて見える手つきでテーブルに置き直す。本当に分かりやすい。
「で、どうしたんだ、これ?」
あなたに渡してくれと頼まれたと返すと、柴本は元々丸っこい目をさらに丸くして
「おれに? 何かあったっけ? 誰から?」
矢継ぎ早の質問に、今の仕事に関係のある人からだと答えると今度は首を傾げる。
「イノさんじゃねーよな、このチョイス。あのオッサンなら酒とかだろうし」
近所のスーパーの万引き対策係、それが今の柴本の仕事で、イノさんこと[[rb:井上太>いのかみ・ふとし]]はそこの店長だ。[[rb:猪族>ししぞく]]の獣人で、親切な人柄が取り柄だけど、価値観が四半世紀くらい前のまま止まっているのが玉に瑕だ。
わたしが何か言うより先に、鼻の辺りの毛並みにわずかに皺を寄せながら、黒く濡れ光る鼻先で菓子箱の表面をなぞり始める。
「んー、香水か。女物だなこれ。それも人間が付けるヤツ。身なりに気をつかうタイプか」
柴本は嗅覚にすぐれた犬狼族のなかでも特に鼻が利くようで、人間であるわたしが気付かない匂いを器用に嗅ぎ分ける。今のように差出人不明の物品を送った人物の種族、性別、大まかな年齢、あるいは体格や健康状態などを推測するのは造作もないらしい。
一緒に暮らし始めて間もない頃には、いきなり鼻を突っ込んで匂いを嗅ぎ始める光景には驚いたものだ。けれども今では、もうすっかり慣れてしまっている。匂いを嗅ぐのは、彼らにしてみればごく当たり前の行為なのだ。
「女性で割と歳が高め。パートのおばちゃん達じゃねーのは確かだ。牧瀬さんならオフで付けてるかもだけど、もっとケバいの選びそうだしなあの人」
本人たちに聞かれたら文句のひとつも言われそうなことを口にしたのは聞かなかったことにしてあげよう。ちなみに、わたしは牧瀬さんがどんな人なのか全然知らない。
[newpage]
[chapter:2.]
焼き菓子の送り主より先に、柴本の仕事について話をしよう。
[[rb:柴本光義>しばもと・みつよし]]は便利屋だ。
法に触れない範囲で、頼みごとを有償で請け負うことを生業としている。
買い物や家事の代行あるいは庭仕事。独居老人の生存確認を兼ねた話し相手、ついでに身の回りの手伝い。
逃げ出したペットを捜していたかと思えば、ライフル片手に害獣駆除に繰り出すこともある。
忙しないながらも自由で刺激に満ちている日々は、朝起きて家と勤務先を往復し、土日の休みには特に何もせず時間が過ぎるばかりのわたしとは大違いだ。
ルームシェアを始めて半年あまり。
最初は興味本位にあれこれ質問していたわたしに『誰にも言うんじゃねーぞ』と前置きしてから、彼なりに慎重に言葉を選んで話していた。それが今では、聞いてもいないうちから向こうの方から色々と報告してくれる。
そんなわけで、最近の柴本がどんな仕事をしているのかは、大体把握しているつもりだ。
地域密着型のスーパー、イノカミマートは、生鮮食品の質や品揃え、お総菜の美味しさから、昔から地域住民に愛され続けてきた。
わたしもよく利用していて、今用意している料理の材料の一部もそこで買ってきた。
ところが、この店で、最近万引きが増え始めたという。
万引き自体は以前から時折起きていたようだが、ここ数ヶ月のうちに軒数も被害額も大幅に増えたらしい。対策を練ろうにも経営規模の小さい店で、大手の警備会社への依頼は金銭面で厳しかったようだ。そこで、フリーの便利屋である柴本に白羽の矢が立ったと聞いている。どうやらイノカミマート逆泉店の店長である井上とは知り合い――先輩の友達の元カノのはとこの旦那の兄貴くらい――らしい。
わたしと柴本が暮らす[[rb:淡海県河都市>あわみけん・こうとし]]は、人口百万人規模の政令指定都市である。けれども都会に見えるのは街のごく中心部だけで、少し外れると森や田畑ばかりの[[rb:長閑>のどか]]な景色になる。この家やイノカミマート逆泉店のある[[rb:古森区逆泉町>ふるもりく・さかいずみまち]]もまた、その例に漏れない。人間関係だって、良くも悪くも田舎的だ。
[newpage]
[chapter:3.]
万引き対策に話を戻そう。
店内の巡回は柴本だけでなく、数名が交替で行っている。
陸上防衛隊の特殊部隊に籍を置いていたらしい柴本といえど、彼の背丈より高い棚がずらりと並ぶ店内を、ひとりでくまなく見て回るのは難しい。さほど規模の大きくない店とはいえ、不特定多数が出入りするのだから尚更だ。
**********
見張りを始めて数日が過ぎた頃、怪しげな挙動や不審な匂い――人類を含めたあらゆる動物は感情で体臭が変わると柴本は言う――は何名か確認出来たものの、決定的な証拠は掴めずにいた。
そんなある日の午前中、怪しげな客を見張っていたところ、ふと別の客が柴本の目鼻に引っかかった。
70歳手前くらいの人間種の男性で、背丈は柴本より頭ひとつ分は高く、肩幅も広い。
白の割合の方が多い灰色の髪を整髪料でべったりと撫で付けて、服装は黒いジャージの上から仕立ての良いジャケットを羽織っていた。足にはサイズの合っていない女物の突っ掛けと、見るからにちぐはぐな格好だったという。
少し離れた場所から様子を見ていると、お菓子の棚のすぐ隣、酒のつまみの乾き物などを並べたコーナーの前で、陳列された品物を鷲掴みにし、上着のポケットに突っ込んだ。
「お客さん。今、ポッケに何入れました?」
柴本が声をかけるや、男は恐怖と焦りを放散しながら絶叫し、一目散に逃げようとした。だが、足に合っていない履き物のせいでよろめき、買い物途中のご婦人を巻き込んで盛大に倒れ伏した。
哀れなご婦人の介抱は他の店員に任せ、柴本は『助けてくれ』だの『殺される』だの[[rb:叫>わめ]]き散らす男を掴んで、どうにか店のバックヤードまで引っ張っていった。
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[chapter:4.]
「もう一度聞くよ。あんた、名前は? なんでこんな事したの?」
「弁護士を呼べ! それまで! 何も! 話さん!」
質問に答えようとしない男を前に、店長の井上はため息をついて肩をすくめた。バックヤードに隣接した事務所、そのパイプ椅子に男は座らされていた。男が放散する体臭は、怒りが恐怖を追い越しつつあった。
「君たちは! こんなことをして! 許されると! 思っているのか!」
手首と椅子を軟質プラスチック製の結束バンドで固定されているのも気にせず、ガタガタと身体を揺らしながらわめき続け、ついにバランスを崩して椅子ごと床に転がった。倒れた衝撃と痛みで男は苦痛を放散し、再び叫び声を上げた。
「イノさん、ご家族呼ぶ前に警察呼んじゃったほうが良いかもしれないッスね。――お、裾になんか書いてある」
助け起こそうとした柴本は、倒れた拍子にめくれ上がった上着の裾に、布の名札のようなものが縫い付けられているのに気が付いた。
「えーっと。[[rb:寒川久児>さむかわ・ひさじ]]、62歳。へぇ、お住まいはこの近くですか」
ポケットから携帯端末を取り出し、地図アプリで検索すると、このスーパーから歩いて10分くらいの場所にあるマンションがヒットした。言葉に反応してか、ふたたび寒川の体臭に恐怖があらわになった。
「連絡先が書いてある。イノさん、この番号に電話して」
「でかした!」
満面の笑みで親指をぐっと立てる井上を、柴本はちらりと横目で見てから寒川氏に向き直り、ハンドサインだけを井上に向ける。
「さっすが防衛隊の特殊部隊にいただけのことはあるぜ!」
「イノさん、今そういうことは――」
調子に乗る井上を柴本が[[rb:窘>たしな]]めようとしたとき
「防衛隊だって!? ひ、人殺しぃー!!」
椅子ごと倒れたままの寒川が、口からあぶくを飛ばして絶叫した。井上は電話の子機を片手に、にんまりと満面にサディスティックな笑みを浮かべて見下ろし
「おうよ。こっちにいるのは防衛隊のエリート様だった男だぜ? あんたみてぇなケチな泥棒、どうなっちまっても文句は言えねぇなぁ」
「ひぃーっ! 来るな! 来るなぁー!」
「イノさん、もう少しだけ黙っててくれません?」
柴本は横目でじろりと睨んだ。
[newpage]
[chapter:5.]
上着に縫い付けられた連絡先に電話をかけて間もなく、寒川の妻が事務所に駆け込んできた。
夫と同じく人間種の女性で――法の下の種族平等が掲げられてから長い時間を経ても、異種族の夫婦は珍しい――、品の良さそうな面差しには、疲労による[[rb:翳>かげ]]りがありありと浮かんでいた。
夫とは違いきちんと服装を整えて化粧を施し、品の良い香水の香りを纏っていた。それでも困惑と、絶望と言い換えてもいいほど深い諦観の匂いを上書きするには至っていなかったとは、柴本の評である。
「この度は主人が本当に申し訳ありません」
頭を下げる妻の横で、相変わらず椅子に縛られたままだったが、助け起こされた寒川は、バカヤロー! だの、おれは悪くない! 等の罵声を上げ続けた。
少しの間は堪えていた寒川夫人だったが、やがて堪忍袋の緒が切れたのか怒りの匂いを文字通りに爆発させ、夫に負けじと声を張り上げた。
「いい加減にして! あなたのせいでメチャクチャなの! 何もかもよ!」
しばらくは何事かモゴモゴと口ごもっていた寒川氏だったが、やがて夫人のただ事ならぬ剣幕に圧されたのか、俯いて黙り込んだ。
ふたりの間に立っていた井上は、茶色の毛並みの中に埋もれた小さな眼をぱちくりと瞬かせて、怒りを露わにする女性と、それに圧される男とを交互に見た。
それから、困ったように眉間にしわを寄せて柴本に目を向けた。
「ねぇ、どうして? ちょっと前までこんなじゃなかったのに。一体どうしちゃったの? ねぇ?」
仕立ての良いジャケットの襟を掴んで声を震わせる妻を前に、寒川はさっきまで威勢良く暴れていたのが嘘のように静かだった。その困惑しきった目は宙を泳いでいた。
柴本は濃厚な困惑を寒川から嗅ぎ取った。自分がどうしてこうなったのか、彼自身にも理解できないでいたのだ。
「奥さん、旦那さんは急にこんな風になられたので?」
ひとしきり怒りを放ち、寒川夫人が冷静さを取り戻した――あるいは怒りの匂いを薄れさせた――のを見計らい、言葉を掛けた。
[newpage]
[chapter:6.]
一同の目が視線が柴本に集中した。
「え? ええ、そう! そうなんです!」
怒りは立ち消え、霧のように濃厚な困惑。そこにかすかに期待や喜び――やっと理解者に出会えた――が入り混じった。
「旦那さん、もしかしたら病気かもしれません。一度、病院で診てもらうといいですよ」
「どうして?」
自分の方を向いて目を[[rb:瞠>みは]]る夫人に続けた。
「病気の人って独特の匂いがするんですよ。おれは医者じゃないから病名までは分かりませんがね。とにかく、旦那さんも悪気があってやった訳じゃない、そうでしょう?」
「あ、ああ。そうだ。そうなんだ」
柴本が寒川氏に目線を合わせると、さっきまでの荒ていたのが嘘のように静かな表情で頷いた。
「どうしてか分からないけど、衝動を抑えられないんだ。気付いたらやってしまって、やってから後悔する。その繰り返しで」
訥々と言いながら、俯いて悔しげに涙をこぼす夫を前に、夫人もまた堰を切ったようにその場に泣き崩れた。
ふたりが落ち着くのを見計らって、柴本は1枚の紙切れを取り出した。名刺だった。
「法に触れない範囲でなら、どんなことでも相談に乗りますよ。掃除や買い物代行、旦那さんの通院の付き添いでも、手が必要ならこちらまで連絡ください。お安くしますよ」
「そこはお前『タダにしておきますよ』じゃねーのかよ」
ドサクサに紛れて営業活動を始める様子を、井上は呆れたように見やった。
「おれだって、生活かかってるんですってば」
溜息とともにジト目で返す柴本だった。
[newpage]
[chapter:7.]
以上が数日前に、わたしが柴本から聞いた話である。
「そっか、それじゃこれ持ってきてくれたのは寒川さんの奥さんか」
そうだったよと、鍋の火を調節しながら言葉を返す。
「寒川さん、びっくりしてたろ?」
わたしは頷きながら、昼過ぎにこの家を訪ねてきた寒川夫人の姿を思い返す。名刺と表札を交互に見比べて違いに困惑し、さらにドアチャイムに続いて出て来た[[rb:人間>わたし]]に驚いた様子だった。
「この辺りは獣人ばっかりだからなー。まさか人間が出てくるなんて思わなかっただろうよ」
それもあるけど、名刺と表札の名前が違ったら困るだろうね。名刺には柴本って書いてあるのに、表札には[[rb:眞壁>まかべ]]って掛かってるんだから。
わたしと柴本が暮らしているこの一軒家の家主は、今はいない。海外での仕事が多く、家を空けがちな友人に代わって家を管理する代わりに住まわせてもらう、これもまた便利屋の業務のひとつだと聞いている。
毎日暮らしていながら手入れが隅々まで行き届いているのは、防衛官時代に培った経験だという。柴本いわく、新米の防衛官が最初に教わるのは銃の扱いや近接格闘ではなく、制服のアイロンの掛け方や部屋の掃除、完璧なベッドメイキングなんだとか。
ちなみに、わたしはまだ眞壁さんに直接会ったことはない。ルームシェアを始めてから半月くらいの頃に、Webチャットを通じてパソコンのディスプレイ越しに1度話をしたきりだ。
また話題が逸れてしまった。
「で、寒川さんの奥さん、どうだった?」
名刺も表札も応対した人物も、何もかもが違って困惑していた夫人を思い返す。
たしかに疲労の色が濃く見えたけれど、それでも今から思い返せば、どこか安堵したような表情だったような気もする。話のところどころで笑ったりもしていたし。
ふつふつ煮え立つ鍋の火を弱めながら、ありがとうって言ってたよと伝えると
「そっか」
小さな、けれども喜びの色がありありと取れる表情で呟くのが聞こえた。
[newpage]
[chapter:8.]
柴本の見立てた――嗅ぎ当てた?――通り、検査の結果、彼女の夫は脳を患っていたことが判明した。
効果的な治療薬は未だなく、向精神薬で衝動的な行動を抑えるのみに留まっているそうだが日常生活は可能で、とくに寒川夫人の心身にかかる負担はかなり減ったという。
「不幸なモンだよな」
彼にしては珍しい、少し抑えめのトーンに頷く。
日本での有数の証券会社で働いていた寒川氏は、早期退職し、これから悠々自適の暮らしを送ろうというところで、大病を患ってしまったのだ。何の前触れもなく、突然に。
『あともう少しだけでも、この状態が続いていたら、どうなっていたか分からなかったわ』
どこかホッとしたような声音の、夫人の言葉を思い出す。
偶然に柴本が気付かなければ、寒川氏は今も奇行を繰り返していたことだろう。精神的に追い詰められた夫人が、なんらかの凶行に及んでいたとも限らない。
更なる不幸を未然に防ぐことが出来た、それだけでも良かったと思うほかないだろう。
ふたりの関係が修復できないくらいバラバラになってしまうのを寸前で回避できたのだから。
あとは寒川夫妻のプライベートな問題だ。頼まれもしないのに赤の他人が立ち入るべきではない。
そもそも、今の柴本はそれどころではない。
イノカミマートの万引き被害は今も続いている。近所の交番に詰める警官もこまめに立ち寄るようになったそうだが、犯人はいまだ見つかっていないと聞く。
「それより、今日のメシは? 腹減ったよー」
肉団子と白菜の鍋は、花椒を効かせたごまだれで食べるのが旨い。実は先々週も作ったのだが、柴本にリクエストされてまた作ってしまった。
もう少しだけ待っていてね。すぐに出来るから。
わたしの言葉に、柴本は丸っこい目をキラキラと輝かせ
「何か手伝おうか?」
それじゃ、お箸と取り鉢を出しておいてよ。あと、冷蔵庫の麦茶をコップに注いでくれる?
「あいよ!」
椅子から立ち上がる柴本を横目で追いかけながら、ぐつぐつ煮える鍋をカセットコンロの上に置く。
今夜は一段と冷えそうだけれど、この家の中と食卓は暖かい。
寒川夫妻が囲む食卓もまた、どうか暖かいものでありますように。
そう願わずにはいられなかった。
(続)