二十話『ヴァン』

  ーーその存在に、オイラの中で天秤が大きく傾いた。

  あの日、初めてレイヴンと会った日。それは、ヴァンにとって、今まで生きて得てきた価値観が、大きく揺れた日だった。

  そもそも、この国ーー大陸の北に位置する群青という国にとって、獅子族というのはこの国を治める『王族』であるのが常である。

  この国の結界を構築し、維持し、この国に繁栄をもたらした氷結の獣。その氷結の獣と契約を交わしたのが獅子族だ。

  氷結の獣と契約した種族、その契約の初まりから今に至るまで。ただこの国の発展に力を入れて、群青という国を作り上げた。そして今もなお、獅子族はこの群青という雪の大地を受け継いできた。

  遥か昔から続く氷結の獣との契約、その契約の果てまで続く、約束された種族。

  代々続く王政の頂点ーーそれが獅子族である。

  誰に習うでもなく、それはこの国で暮らす誰もが知っている常識であった。

  獅子族であれば誰もが敬意を払い、頭を下げ、全力でもてなそうとする。それが当たり前であった。

  偉そうに伸ばした立髪を揺らし、我が物顔で国を歩けば誰しもが声を上げて称える。

  この国に限って言えば、すべての種族の頂点と言ってもいいだろう。敬意を持って『百獣の王』なんて呼び方をしているヒトも少なくない。

  地下街で暮らすヴァンにとっては、縁もゆかりも持つことすら許されない、そんな存在。

  

  だから、ボスに『獅子族の子を奇襲して連れて来い』と言われた時は、正気を疑った。ボスが正気である時の方が少ない気がするが、そういう問題ではない。

  もちろん、地下街で短い人生のほとんどを過ごしてきたヴァンでも知っている常識。獅子族は王族であること。その圧倒的頂点に立つ獅子族を拐ってこいと、そう言ったのだ。

  耳を疑ったし、あまりにもサラッと言うものだから、自分の常識が、本当に正しいのかも疑った。が、何度聞いてもボスの意思は言葉の通り『獅子族の子を連れてこい』といったものだった。

  

  黒い目がさらにどす黒く影って、その目に正気はないし、常識すら持ち合わせていないのかと思わせた。

  そもそもそこら辺に王族がフラフラと歩いているわけがない。いたとしても厳重な警備があるし、王族の一端を狙ったとなったら死刑を免れない。

  しかし、心が躍ったのも事実であった。

  

  当たり前のように鼠族を地下街に幽閉し、高みの見物を決めている獅子族の奴らが、一体どんな面をしているのか。特定の個人ではなく、『鼠族』という種族単位で蔑むべき存在が、目の前に現れたら一体どんな顔をするのか。

  拐うまでは行かなくとも、せめてその御尊顔に一泡吹かせてやろうと、そう息巻いていた。

  

  ーー息巻いていただけに、初めてレイヴンと対峙した時は心底がっかりした。

  それはレイヴンが『王様』ではなかったからだ。

  そも王族ではなく、狩人として明確に王の下に位置する立場にあったこと。事情は知らないが、獅子族たるものが狩人などという一度は廃れた組織に所属しているのだ。王たるべき存在が、自ら結界の外に出て戦うというのだ。

  そんな組織に所属し、当たり前のように商い通りで行列に紛れて普通に並んでいるのだ。

  なんで普通に並んでるんだ。王のくせに。

  まるでそこにいるのが当たり前かのように、列に並んで、当たり前のように皆がそれを受け入れている。そして、まるでその存在が獅子ではないかのような、そんな溶け込み方をしているのだ。

  横を通り過ぎる誰もが一度はレイヴンの方を見るものの、それでも誰も頭を下げたり、声をかけたりしない。

  レイヴンの方も同じだ。

  圧倒的権力とプレッシャーを持って下々の民へ自分勝手な命を下せばいいものを。自分がそこで、一般人として並んでいることになんの疑問も示していない。ただ気だるげに、時には暇そうに周囲を見渡したりあくびをしたりして、普通に、ただ普通にそこにいるだけだった。

  

  しかし、目の前にいるのは間違いなく、腐っても獅子族である。

  その鬱陶しいほど伸ばした立髪も、鋭い目つきも、時折のぞかせる牙も、その体はそれはもう『自分獅子だ』と主張していた。

  何故狩人なんかに所属しているのか謎だが、王族の落ちこぼれだったりはぐれ者だったりするのだろうか。

  王ではない、狩人である。だが彼が獅子であることに違いはない。ならばせめて、狩人らしく、獅子らしく、強く気高いその姿だけでも見てやろうと、そう思った。

  「取り返してみろよ、エセ王族」

  市井の前で、カッコよく鼠という害悪を駆除して見せろと、そう思った。

  イラつき交じりに、適当に挑発する。最大の侮蔑の意味を込めてエセ王族と呼んだ。

  もちろんレイヴンは怒りの表情を見せた。そしてその怒りの業火がヴァンを焼き尽くすーーそう思ってた。

  しかし、その業火はまやかしで、レイヴンはヴァンと対峙し、そして逃げ出したのだ。

  威勢が良かったのは最初だけ。啖呵を切ったと思えばみっともなく逃げ出し、戦うことを捨て、あまつさえ自分に背中を向けた。

  これだけ一度に期待を裏切り、イラつかせられることがあるだろうか。

  あの獅子族が、鼠族を排斥し、鼠族に影を灯した光が、鼠相手に恐れをなして逃げ出した。

  

  そんなレイヴンの姿は、ヴァンの目には『偽物の王様』に写った。

  ヴァンが求めるのは本物の王様だけだ。鼠族を世の中から悪として排斥し、表上は平和な治世として定めるそんな『王』の存在を、ヴァンが自らの手で下したかった。

  だから、レイヴンがそのまま偽物の王様であったならヴァンもここまで執着することはなかっただろう。ただの無様な子獅子であればよかった。イラついた感情を消化して、それだけの関係で済んだ。

  だがしかし、そうはならなかった。

  恐れをなして逃げた子獅子は、突然その姿を消した。泣きじゃくって、みっともなく逃げた背中を隠して、今度は勇敢にーーいや、当たり前のようにヴァンを圧倒し始めたのだ。

  まるでヒトが変わったかのようだった。泣いた後や、鼻水が出ていた、ぱっと見は締まりのないただの泣き虫なガキそのものだ。ただ、その顔には間違いなく威厳があり、畏怖さえ抱かされた。

  壮厳な顔つきで、無様な精神性もなく、ただそこには間違いなく『王』があった。

  王を知った。

  逆らう気すら起こさせない程、圧倒的な何かがあるーーそれこそが本物の王である。

  鼠の身では絶対に届かないほどの圧倒的な暴力、そしてヴァンには与えられなかった魔法の才能、その悉くを一身に味わった、からではない。そんな武ではない部分にある何かーーそれを、服が焼けこげた臭いと、頬に受けた血の流れと共に感じた。

  「……アハ、流石に、獅子は違うな…」

  逃げるように、無我夢中で飛び込んだ亡霊鉱山で、頬を拭いながら口に出た言葉は、その存在を皮肉った言葉ではなかった。

  

  どん底からどん底に落ちた獅子の評価。しかしそれは、心の底から出た、賞賛の言葉だった。

  この世界で初めてヴァンが敬意を持ち、そして畏怖を抱いたのがレイヴンであった。

  約束されただけの種族、そう思っていた。でも、ずるいほど強く、ずるいほど魅せられた。

  そんな王を、自分の手で征服したい。

  のらりくらりと生きるだけだった自分の低俗な人生に、意思が宿ったのはーー。

  →→→→→→→→→→→→→→→

  華時の季節も終盤に差し掛かり、国を彩る花たちも花弁を散らし、身をつけはじめていた。街路樹たちも、葉を大きく茂らせ、青々と、大きい葉を風に揺らしていた。

  

  狩人の遠征の話で持ちきりの大通り、その裏で、狩人たちが暗躍してるなんて、誰も知りもしなかった。

  ーーただ、一匹の鼠を除いて。

  傾いて少し照った太陽の影を、橙色の鼠が不器用に走っていく。

  「くっそ、ほんとに痛いだけってのがムカつくな。」

  シアルドの塀から飛び出して、細い道を、足を引き摺りながら走る。

  水色の瞳で背後を定期的に確認しながら、ヨタヨタと足を庇いながら進んでいく。

  一体どんなやり方をしたらこんな傷み方をするんだろうか。血は出ていないし、軽く走る分には何の問題もない。ただ力を入れると少しズキっと刺激が入る。そのため全速力は出せない。軽く走っている今ですら力を入れるタイミングで痛みが生じるのだ。力を入れて跳躍とかもあまりやりたくない。

  

  それに、この状態で兎と追いかけっこというのも良くない。兎は聴力だけでなく、脚力にも優れている。こんな速度で逃げていてもすぐに追いつかれる。

  あの二人がお行儀よく門から出てくるまでの間に、速く距離を取らなければ。

  「せっかく王様と再戦できると思ったのに…」

  

  かつて受けた頬の傷跡をなぞりながら、かつての期待を想起する。

  レイヴンがシアルドに残っているという僅かな希望を楽しみに今回の任務に赴いたというのに、最悪だ。

  確かにレイヴンはいたし、いたとしても一人じゃないことぐらい予想はついていたが。それでも運良く鉢合わせた時は一対一だったのだ。その間に少しだけでも剣を交えたかった。

  戦った上で、あわよくば勝った上で魔導書を持っていけたら最高だったのだが。

  結局魔法剣の力で無理やり突破して、こうして逃げて出てきてしまった。レイヴンが反撃してきたところを見るに、魔法剣の効果はもうむこうに知れ渡ってしまっているのだろう。

  淡い期待が叶わなかったことは仕方がない。逃げて出てきてしまった以上、今日の再戦は叶うまい。足痛いし。

  「とりあえず、どうしようか。」

  今ここから抜け道を通って地下街まで逃げるというのも一つの手だ。だがしかし、

  「あのおねぇさんが邪魔すぎんな…」

  足が痛むと共に、ファンドのしてやった顔が思い出される。戦闘力が控えめな代わりに、めんどくさいことをしてくる奴だ。

  どれだけ複雑な地下街とはいえ、兎の聴力があればヴァンの位置を探るぐらいわけない……と思う。

  狩人の、それも国直属の組織にいるのだ。聴力の訓練は当たり前のようにしているだろう。

  思えば、こうやって足を引き摺りながら走るなんて、兎からしたら格好の的なんじゃないか。

  「つい癖でこっち来たけど……下策も下策な気がしてきた。」

  今ヴァンがいるのは、人通りの無い、いわば建物の影にあたる場所だ。

  人気のない寂しい道に、足を引き摺るネズミが一匹。

  それはもう寂しすぎて街を悠々歩くウルフさえいない。

  いつもは目立たないように、かつ立体的に動きやすいようにこういう狭い裏路地を選んで逃げているのだが、追っ手が兎かつ自分が手負いとなるとこれはちょっとまずい。

  そんな場所で足を引き摺るなんて分かりやすいマーキングがあればーー

  「見つけた…!」

  「ヤッベ」

  追いかけてきたのは兎ーーではなく、獅子だった。立髪を長く伸ばし、空にそれを靡かせながら走ってくる。

  ヴァンがよたよた走った道を、レイヴンは力強く走って追いついてくる。先程までヴァンに向けられていた剣は、腰の鞘にしっかりとしまわれていた。この狭い路地で剣を振り回すのは難しいと判断したのだろう。

  しかし、獲物がない訳ではない。

  剣の代わりに、レイヴンは白く光る爪を構えていた。

  「しつこいな、また今度って言ったっしょ?」

  「うるせぇ、今度なんてあるかぁ!」

  足を止めず、後ろ歩きでレイヴンの姿を視界に収める。このペースで追いつかれるのは確実、ならある程度はいなさなければただただやられるだけだ。懐にしまっていた剣を再び取り出して、臨戦体制を取る。しかし逃げる足は止めない。

  ナイフを構えるヴァンを見て、レイヴンは凶悪な歯を見せて、邪悪に笑う。

  肉を軽々と引き裂く鋭い爪を、ヴァンをめがけて振るう。

  振るわれた爪をスレスレで避けて、そのまま後方宙返り。着地点に再びレイヴンの爪が振るわれて、それは剣で弾き飛ばした。

  「くっそ」

  橙色の毛と金色の毛が同時に視界に舞う。

  足を踏ん張れず、弾き飛ばした際にバランスを崩して倒れそうになる。

  倒れそうになったヴァンに間髪入れず、そのままレイヴンが畳み掛ける。剣の鋭さにも劣らないその爪を、おもいきり振りかぶる。

  「大人しくーー」

  振りかぶった爪が、ヴァンの鼻先ギリギリを通り過ぎ、そして、

  

  ーー赤い瞳と水色の瞳が一瞬交差する。

  「ちょい!」

  レイヴンの振りかざした手を、そのまま地面に倒れることで回避。地面に倒れた時、相手は自分のほぼ真上。ならばその時どうするか。

  それは、あの猫が教えてくれた。

  

  「んなッ……テメェ……」

  「おぉ、やってみるもんだね」

  記憶の端で、ノットがやっていたのを思い出して真似してみたが、猫だろうが獅子だろうが鼠だろうが、弱点はみんな同じらしい。

  悪どい笑みを浮かべ、痛まない方の足で、思い切りレイヴンの股間に蹴りを入れた。

  蹴り上げた足がレイヴンの股間にクリティカルヒット。

  勇ましくも凶悪なその顔が、一気に青ざめる。苦悶の表情を浮かべ、痛みに耐えきれず膝から崩れ落ち、うずくまる。

  

  「おまぇ……マジで、蹴りやがったな…」

  「命のやりとりだよ?安いもんでしょ。」

  水色の目を細め、舌を出して応える。

  命のやりとり、正しくは魔導書のやりとりだが。負けた方が悪い。流石の狩人とはいえ、この痛みに耐える訓練はしていないらしい。してたらしてたで怖いが。

  「王様の玉取ったなんて、永遠に自慢できるね。」

  「おま……ふざけんな、よ……」

  痛そう、とかではない。痛い、絶対に。やった本人が言うのもあれだが、やはりかなりえげつない。これが自分に訪れたと思うと、下腹部辺りが痛くなる気がする。

  この先獅子族たるお方が玉を蹴られてうずくまる姿なんて見られるだろうか。実はかなりレアな光景を目の当たりにしているのかもしれない。

  そう思うとしっかり目に焼き付きておきたいと思わないでも無い。

  がしかし、そんなことしてる余裕はない。こちらは手負いで、せっかく作った逃げるチャンスだ。勿体無いがここはササっと逃げさせてもらうとしよう。

  股間を押さえてうずくまるレイヴンを尻目に、再びヨタヨタと走り出す。

  レイヴンは蹲りながらも、しっかりと目をこっちに向けて、赤い目を唸らせて逃すまいとしていた。

  「アハッ、いい目するじゃん」

  その目は確かに、あの日見た『王』の圧を感じさせるものだった。

  うずくまるレイヴンを置いて、そのまま再び細い道を駆け出す。

  しかし気がかりなのは、兎の姿が見えないことだ。

  

  レイヴンが追いかけてきた時点で、確実に耳を使って追いかけてきているとは思うのだが。

  しかしだとすると、レイヴンが戦っている時に姿を現さなかった理由がない。助太刀するなり、それこそ水の魔法を使って足止めするなりはできたはずだ。

  

  「ま、いっか」

  レイヴンはしばらく動けないだろうし、あの兎一人だけなら十分相手できる。それは間違いない。

  がしかし、それでもずっと追いかけられ続けることに変わりはない。

  どこかで撒かなければ、いつか確実に追いつかれるだろう。

  どこか、そんな都合のいい場所がないだろうか。

  

  先も考えたように、地下街はダメだ。逃げ場が少なく、何より他の仲間を巻き添えにする可能性がある。ノットを倒した経験があるとはいえ、あれはあくまで全員が用意できていて、初見殺しが刺さった賜物だ。今のヴァンが味方を庇いながら戦うのは、流石に無理である。志半ば倒れるには、まだ早すぎる。

  運良く退けられたとしても、それは今後、万全な状態の狩人の群れが攻めてくる可能性が出てきてしまう。

  

  そして何より、今ボスの元へレイヴンを連れて行きたくない。ボスの手にかかれば、ファンドとレイヴンを退けることなんて簡単なことだろう。

  圧倒的技術で、二人を無力化し拘束するぐらいわけないだろう。

  だがしかし、

  「まだ決着つけてねぇ」

  レイヴンと戦って、それで勝ちたい。正面から、正々堂々と。その決着がつくときまでは、誰にもレイヴンを負けさせたくない。

  もし今ボスの元へレイヴンを届けたとして、その身柄を自由にさせておくわけがない。そもそも、獅子族の子を、レイヴンを連れてこいと、わざわざ名指しで指名までしたのはボスの方なのだ。

  自分以外が、あの獅子を下してなるものか。

  自分以外に、あの獅子を下させてなるものか。

  「ハハッ、なんだそれ」

  卑怯な手管が常套手段だったというのに、いつから正々堂々なんて望むようになったのだろうか。そんな自分の考えに、自嘲めいた声が出る。

  ヴァンの人生、正面から正々堂々なんて考えたこともなかったし、これからもそんなことはないと思っていた。

  生まれてこの方、日の目の浴びない地下街で生活してきた。それに、表立って何かすることもなかった。

  地下街で、掃き溜めのような空間で、力の弱いヴァンが生き残るには、卑怯にならざるを得なかった。卑怯でなければ、生きていけなかった。狡猾に、貪欲に、悪様に、不恰好に、それが当たり前で、それが地下街の法だった。

  腹がすけば他人のパンを盗み、喧嘩になれば第三者を巻き込み漁夫の利を狙う。そして、地上に出るようになってからも、それは変わらなかった。腹が空けば、他人の皿を奪い、戦いになれば相手の魔力を奪って、魔法で返す。

  そして、獅子族が憎ければ、その座から引きずり下ろす。

  盗んで盗んで、盗んで盗んで盗んで、それがヴァンの人生だった。

  

  魔導書を盗み、天下の獅子族の立場を盗む。いつもと同じ、ただ奪い取るだけ。

  それだけだった、はずなのにーー。

  「…今は、ただーー」

  今はただ、全力を以てあの獅子と対峙したい。

  

  レイヴンと会って、敬意と畏怖を知った。

  ノットと会って、剣を交える楽しさを知った。

  そして、もう一人ーー、

  「狩人、すげぇじゃん」

  不意に口から溢れたそれは、紛れもないヴァンの本音だった。どこかで聞いた、見た、知った言葉ではない。自分の心の、その感情が表に出た言葉だった。

  逃げ帰るだけが狩人、なんて、どこかで言った気がする。逃げ帰る無様な背中を見た。背に傷を負い倒れた背中を見た。砕かなければ砕かれた魔法の髄を見た。

  だけどその度、心を突き動かされるのはヴァン方だった。

  閉鎖されていた地下街から飛び出して、魔導書を盗み、獅子の子を追いかけ、そして狩人と対峙して、その度に自分の世界が広がっていくのを感じた。

  奇襲、搦手、そのことごとくを存分に奮ってようやく勝負になるような世界。それこそ、ノット相手に勝てたのは、仲間たちの負傷と、魔法剣の初見殺しあってのことだろう。

  それまでは防戦一方で、そのままジリジリと押し切られていたに違いない。

  他の仲間たちの犠牲ありきでようやく狩人一人を戦闘不能にできる、それだけの戦力差があった。

  

  まるで世界が違う。

  地下街でイキがってただけのガキのまま生きていれば、見えなかった世界がそこにあった。

  故にーー、

  「さらに先へ、もっと広い世界を見せろ!狩人ッ!」

  「うるせぇ!何言ってやがんだテメェ!」

  「オイラもわっかんねぇ!アハハッ!」

  走り続けるヴァンの顔は、追い込まれながらもそれでも笑顔だった。不審な顔を浮かべるレイヴンだが、そんなのお構いなしに笑い声を上げる。

  ファンドの水鉄砲が何度も脇を掠め、いつのまにか復帰していたレイヴンの爪を何度か弾き飛ばし、徐々に、だが確実に追い詰められていた。

  足の痛みも徐々に引いて行き、無茶な動きもできるようになってきて三人の走る速度も徐々に上がる。

  ヴァンの立場上、今後もこんなふうに何度も追いかけられ、ときには追いかけて、剣を交えて魔力を交わす。

  きっとそんなことの繰り返しになるのだろう。

  ヴァンの世界が広がったように、それが、地下に幽閉されるみんなの元に訪れるまでは、永遠に彼らとは分かり合えないし、何度も衝突するのだろう。

  だけど、それでもいいと思った。

  王様と、ノットと、そして他の狩人達も全員がヴァンの世界をこじ開けてくれる。そんな世界なら、

  「この世界で、そんな生き方をオイラ達ができるようになるならーー。」

  どんなことでもやってやる。水色の瞳に、決意が宿る。

  正々堂々だけじゃ行かないことばかりだ。だけど、そんな暗闇の中で、時々こうやって無理やりにでも光を投じてくれる奴らがいるのなら。

  「今は、ただ走れ。」

  罠にでもなんでも飛び込んでやる。捨て駒でもなんでもやってやる。悪役でもなんでも買ってやる。だって世界はーーきっと、この世界で主人公たるのは、彼らなのだから。

  ボスの望みにたどり着くまで、何度も捨て石のような扱いを受けるだろう。

  ただ、それでもーー

  「王様ーーいや、レイヴン」

  走っているうちに、そこは旧市街地だった。互いに息も絶え絶えで、レイヴンもファンドも、そしてずっと逃げていたヴァンも、息が上がったままだった。

  初めてレイヴンの名前を呼んだ。

  初めてここで会ってから、ずっとずっと、王様とそう呼んできた。しかしそれは敬意からそう呼んでいた訳ではない。そう呼べば呼ぶほどレイヴンが惨めに見えるから、王様王様と呼ばれるヒトが鼠にこっぴどくやられる様。そうして、貶めるために呼んできただけにすぎない。

  だが、今は違う。

  もう、知ってしまった。

  『王様』を。

  自分が、打ち倒したいと思った、そのヒトが魅せる強さを。

  突然名前を呼ばれたレイヴンが、驚いたように動きを止める。その隙に、亡霊鉱山の木へと手をかけ、登っていく。

  魔法の射程圏内、しかしレイヴンは撃てまい。

  亡霊鉱山の麓の木々は腐っていて、とても乾燥している。レイヴンの魔法が炸裂したとして、とんでもない二次被害は免れない。

  それをレイヴンも理解してるのだろう。無防備に立っているヴァンに手出しできない歯痒さを噛み締めていた。

  「また遊ぼうね、今度は正々堂々さ。」

  「おい!」

  驚いた顔をしたレイヴンに歯を見せて笑う。イタズラっぽく細めたヴァンの水色の瞳と、そんなヴァンを睨みつける炎の瞳が交差する。

  向こうはそう思ってはいないだろうが、『また』の約束を取り付けられて思わず頬が緩んでしまう。

  強くなろう、本気でそう思う。

  今のままの自分じゃ、こうやって手の届かないところへと逃げるのが精一杯だ。

  『また』の時が来るまで、それがいつになるかは分からない。もしかしたら明日かもしれない。でも今日よりも、昨日よりも、そして、初めて相対して敗走したあの時よりも。

  全力を以てヴァンの『王様』を越えようと、そう決意した。

  決意新たにそのまま向かうは亡霊鉱山の中。草原が広がる山の中腹へと、するすると抜けていく。

  「そういや、レンが来てるんだっけね。」

  額を流れる汗を拭いながら、茶色い鼠の存在を思い出す。今日はあの約束の日からちょうど一週間経った日だ。

  思えば、レンもヴァンに新しい世界を見せてくれた一人だった。

  最初はままならなかった山登りも、おかげで悠々と登れるようになった。時々枝を引っ掛けながらも、登れる木、そうじゃない木を見分け、ぴょんぴょんと飛んでいく。

  技術を盗む、ヴァンのその才能が、遺憾無く発揮されていた。

  ーーただ意味もなく、ただ一日が早く終わらないかと望むだけの無気力な人生。それをひたすら消化するだけだったこの世界は、王様に会ってから、オイラにとって最高の遊び場になった。

  →→→→→→→→→→→→→→→

  山を登り、開けた草原へと着地する。

  

  相変わらずバカみたいに広く開けたその場所は、ヴァンを優しく歓迎した。

  

  レンとヴァン以外は立ち入れないこの場所は、鼠だからといって、そんな理由で追い出したりしない。

  地上より遥かなその場所は、誰にでも等しく侵入を拒み、誰でも等しく歓迎するのだ。

  橙色の毛を撫でるように吹き抜けていくこの風も、耳を癒す水のせせらぎも、足元を埋め尽くす草たちも。ヴァンを拒んだりしない。

  驚くほどヴァンの胸中は晴れやかだった。

  「よぉ、レン先生。」

  「ヴァン…」

  草原に佇む一本の大木ーーまるでその木の子株のように茶色い鼠が立っていた。

  風が吹くたびに木陰が揺れて、その度にレンの若葉のような緑色の瞳に光が灯る。

  華時特有の、強い乾いた風が二人の毛を撫でる。

  ーー相対する鼠の決着を、大木は静かに眺めていた。