二十二話『亡霊鉱山の魔法使い』

  ーー昔から、こういう話をするのは大好きだった。

  なんの根拠もない、ただ面白く脚色を加えた噂話。真偽は不明、出自も不明。根拠も何もない、けど、心を震わせる現実味のない現実のお話。いわゆる、『都市伝説』というやつだ。

  もちろんこの国ーー『群青』にもそれに該当する話はいくつも存在する。

  例えば、八代本山と呼ばれる山--その山に聳える本殿、その境内の端にある小さな墓石。その墓に触れたものは、武士の亡霊に自我を乗っ取られる。そういう噂がある。

  もちろん、実際に乗っ取られたものは存在しない。

  そもこの話は八代本山の当主が直々に否定している。

  だが、雨時になれば、怖いもの見たさで訪れる者が多い。実際に触れたことのある者も多いだろう。

  実際に遥か昔の剣士の遺骨が埋まっているらしいが、あくまで都市伝説ーー。実際に身体を乗っ取られたものはいない。

  他にも例えば、見えないところに不可思議な噂の矛先は向くのだ。

  例えば、地下街に潜むファミリーブレイカー。子供を攫い、その子供がいい子なら子供を、悪い子なら親を殺しに行くという猟奇殺人者。殺した子供は綺麗に保存されている。そういう噂がある。

  しかし、もちろんこれも根拠のない話である。

  だがしかし、そのような事件事態は実際に起きている。実際の事件を、不謹慎にも面白おかしく脚色し、噂として広まったのがファミリーブレイカーという殺人鬼だ。

  子供を殺し、時には親を殺し。それらの事件の被害者はいずれも、頭が失われている。

  その失われた頭はどこへいくのかーーその行き先として目をつけられたのが地下街である。

  そもそも地下街に詳しい奴の方が圧倒的に少ないから、実際にいるかもしれないが。見えないからこそ、そこに何かがあると思い込むのだ。そういう話は起こりやすいし、想像しやすい。

  他にも例えば、重ねられた歴史から突飛な捏造は起こるのだ。

  例えば、過去に四大害獣と呼ばれるそれは力を持ったヒトがいたという。その四大害獣の一人ーー氷結の獣。

  彼の周りは常に雪が降り、誰一人としてその極寒を耐えれるものはいなかったという。そして、その血を引いた子供がこの地に住んでいるという。そういう噂がある。

  はたまた、雪の季節になると実は氷結の獣が密かに復活しているのだと、そう信じる者もいる。

  氷魔法の適合者は、こぞって氷結の獣の子孫だという学者もいる。ただこれも、根拠も何もない、ただの噂である。

  この国を覆う大結界ーーその核を担うという氷結の獣ーー。その存在の是非を問う者も多いのだ。

  

  彼にまつわる都市伝説は後を絶たない。

  真面目に考察の余地ありとされ、研究を続ける学者も多い。

  それだけ、歴史的文献の残るものから生まれる都市伝説というのは、ヒトを魅了して止まらない。

  他にも、骨の湖、ウルフの遠吠え、バレル・ボレル、地獄旅行………たくさんの都市伝説が存在する。

  現実味はない。でも、それを現実だと仮定して考えたり見たり聞いたりすると、すごく冒険心をくすぐられる。

  そんなたくさんの都市伝説の中で、特別に好きなものがあった。

  それが、亡霊鉱山の都市伝説だ。

  亡霊達に見初められた者以外、立ち入ることができない山。

  

  僕は、ふと思い立ってその山へ登った。

  

  そこは、僕にとってお気に入りの場所になった。

  →→→→→→→→→→→→→→→

  暗い、薄暗い、誰もいない静かな空洞ーー。

  

  いつからあるのか、なぜあるのか、その空洞には、一体何があるのか。

  それを知っているものは少ない。

  ただ、その空間はこの国を維持するのに必要なものだった。

  そんな空洞に、カツンカツンと、石を踏む足音が響く。

  「さて、それじゃあ始めようか。」

  長く伸ばした黒髪をかき上げ、そして、空洞の奥へと歩く。

  「ーーーーー。」

  空洞の奥には、祭壇のようなものがあった。

  その祭壇には、多分、煌びやかに装飾されていたであろう後がある。

  ぱっと見は、その役割を終え、見捨てられた遥か昔の遺跡ーー。

  だがその実態は、この国を覆う大結界を維持するための術式が刻まれた、無くてはならない施設だ。

  「魔素濃度が高い……最近は安定してたと思ったけど、やっぱここは不安定だね。」

  大気中の魔素の多さに、脳がクラクラと揺れる感覚がある。

  あまり長い時間ここにいるのはよろしくない。

  祭壇の上にある丸い玉を所定の場所へ置き、そして、儀式は始まる。

  結界の維持、そしてこの国を潤す潤沢な魔力と魔素ーー。

  その全てをもたらし、そして、この国を守るための結界を張り続ける『氷結の獣』。

  その契約の証として彼女はーーサクラは、結界石としての役割を全うしていた。

  →→→→→→→→→→→→→→→

  ヴァンの投げた魔法剣が、再びヴァンの手に握られる。

  

  それが、開戦の合図だった。

  「シッーー!」

  「ハハッ、来い!」

  太陽が沈み、星たちが顔を見せ始める。

  グラデーションがかった空の下で、茶色い鼠と、橙の鼠が乱舞する。

  最後の戦いが、幕を開けた。

  橙色の耳飾りが、風に揺れる。

  先に動いたのはレンだった。

  左肩が揺れ、激痛が走り顔が歪む。下唇を噛んで、叫びたくなる激痛を気合いで無視する。噛まれたひた唇から血が流れ始め、口の中が血の味に染まる。

  順手で握った短刀で、ヴァンの肩目掛けて刺突。それを手に戻ってきた魔法剣で弾かれる。しかし、動きは止まらない。

  「あぁぁぁあああ!」

  自分から出たとは思えないほどドスの効いた声が喉から出る。

  弾かれた剣を逆手に持ちかえて、振りかざす。

  

  先も言った通り、大きな予備動作の攻撃というのは読まれやすいものだ。

  もちろんヴァンも、その攻撃をしっかりと剣で受け、その刃はヴァンに届くことはない。

  しかし、

  「ァァァァァアアアア!!」

  「おもっ」

  叫び声は止まらない。

  喉が張り裂けそうなほどの咆哮と共に、剣を握る手に力が入る。競って硬直していた剣が、徐々にヴァンの方へと押される。

  「あああぁぁぅ!」

  叫び声と共に、ヴァンの剣を振り払う。

  自分でも驚くほど力が出た。今までの力が本気だなんて、二度と言えないほどの力が出た。

  剣を弾かれたヴァンも流石に驚いた表情を見せる。水色の目が見開かれ、そこには血まみれの狩人が、鬼の形相で刀を振るっていた、

  久しく見る全力の命の咆哮に、ヴァンの魂は震えていた。

  レンの動きは止まらない。

  薙ぎ払われて無防備に晒されたヴァンの胸に、レンの剣が傷をつける。

  剣先で捉えたその一撃は、ヴァンの薄い服を切り裂き、そして一筋の血が垂れる。

  しかし、

  「まだーー」

  終わらない。

  攻撃が入ったとはいえ、あくまでそれは、トドメを入れるための手順の一つにすぎない。

  

  浅い切り傷の一つや二つついたところで、この戦場では、それでは全く足らない。

  

  剣を振り切った勢いを殺すことなく、そのまま回転し、開かれたヴァンの胴へと蹴りを入れる。

  「がッ」

  いくら小柄なレンといえど、蹴りの力は馬鹿にならない。モロに蹴りを喰らったヴァンが、その衝撃に短く声を上げて吹き飛ばされる。

  すぐに姿勢を起こすと思ったが、腹を抱えてヴァンは蹲ったままだ。みぞおちにでも当たったのか、こちらに目を向けるヴァンの表情は苦しげだ。

  

  この機を逃す手はない。

  重い左手を引き連れて、剣を構え狙うは右腕ーー魔法剣を握るその腕ごとーーその腕を振り回す肩へとおもいきり切り付ける。

  剣を奮うその腕さえ使えなくしてやれば、あとはこっちのもんだ。

  ズキズキとやかましく痛む左肩を揺らしながら、ヴァンの右肩に向かって剣を叩きつける。

  ヴァンの肩を、ヴァンとレンの歪な関係を別かつ、そんな一撃がーー

  「ヴァン、君のーー」

  

  ーー負けだ。

  ヴァンの肩に、レンの剣が突き立てられた。

  勝利へと繋がる一撃が、ヴァンの右肩から血を流れさせる。

  「焦ったな、レン」

  「ッづぅ、ぐ」

  

  勝利して終わる、レンが主人公の物語。

  しかし、そんな展開は訪れない。

  レンの太ももに、ヴァンの魔法剣が突き刺されていた。

  →→→→→→→→→→→→→→→

  共に、訪れた痛みに、顔の筋肉が歪む。

  共に、相手に突き立てた剣に込める力を緩めない。

  共に、勝利を逃さない。

  共に、負けることは許されない。

  倒れない、絶対に。

  そういう意思が、ここまで体を動かしてくれた。

  だがしかし、肉体に訪れる限界というのは、気の持ちようでどうにかなる範疇ではない。

  「焦ったな、レン」

  「あっぐぅ、ふぅぅう」

  悲痛な叫び声が山に響く。

  ヴァンの肩には間違いなくレンの短剣が突き立てられていた。

  だがしかし、レンの足にも同じように、ヴァンの魔法剣が突き立てられていた。

  突然体を支える足に激痛が走り、レンの体はヴァンに向かって倒れ込む。倒れ込んできたレンの体をヴァンは突き飛ばし、そして右肩を支えながら立ち上がる。

  「痛ッてぇ……本気で刺しやがった…」

  ドクドクと脈打つ右肩からは、剣が生えていた。

  方を少しでも動かすと、中で剣が揺れ、傷をつける。

  抜こうにも、やけにしっかりと刺さってるせいで自分では取り出せない。それだけレンが本気だった証拠でもある。

  一方で、ヴァンの刺した魔法剣は、刀身の先だけが浅く刺さっており、抜こうと思えば抜けそうである。

  立ち上がり、レンの足に突き立てた魔法剣を蹴り入れる。肉が裂けるその感覚に、レンの目には涙が浮かび、そして、悲痛な叫びが響き渡る。

  「ぎ、ぁぁぁあああ!」

  その叫び声に共鳴するように風が吹き、草木が音を鳴らす。

  騒がしい木々の音を聞きながら、ヴァンは倒れ込むレンの足を踏んづける。

  それは、山の頂を踏破した登山家のようであった。

  「ったく、最後の最後でとんだ馬鹿力出すなよ……」

  危うく負けるところだった。突然の起点と、レンの焦りを感知できなかったらおそらく負けていただろう。

  

  レンの剣が迫るギリギリで剣を左手で持ち替え、レンの足が来る場所へ剣を持って待っていた………ただ、それだけのことだ。

  普段なら絶対にしないであろう、幼稚な賭け。

  ただ、日が沈んで視界が悪いのと、お互いに余裕がなかったが故に有効に働いた、シンプルな罠。

  そんな見え見えの罠に気づかないほどレンには余裕がなかった。きっと、もっとちゃんと用意して戦っていたら、負けていただろうなと、そう思う。

  

  レンの見せたあの形相ーーあれだけの必死さを、純心さを、生き汚なさを、勝利への確信を、自分はこの戦いに持ち合わせていただろうか。

  「すげぇ…よ、うん、ずごい」

  完敗だ。結局狩人連中に、正面切って勝つことはできないままだ。

  卑怯な勝ち方しか知らないヴァンには、卑怯な手段を用いることしかできない。

  結局、どうあろうと、ヴァンは鼠なのだ。

  足を抱えてうずくまるレンを見下ろしながら、そんなことを考える。

  自分とは違う、鼠。

  だからこそ、

  「レン、オイラの勝ちだ。」

  レンは必要なのだ。

  この国のいいところも悪いところも両方知ってる、だからこそ、レンじゃなきゃいけないのだ。

  ヴァンの勝利宣言で、この戦いは幕を引いたーー。

  

  引くはずだった。

  

  「ヴァン………、まだ、僕は……!!」

  「やめとけ、死ぬぞ…」

  痛みに瞳が揺れ、焦点があってないだろう目でヴァンを見上げるレン。

  さすがのヴァンも見ていられない。これ以上は、勝つ勝たない以前に死んでしまう。

  「まだ、僕は……」

  その異常なまでの執念に、ヴァンも思わず気圧される。ほんとに、もはや異常だ。

  「オイラにゃ無理だな…ほれ」

  しゃがみ込み、睨むレンの額にでこぴんする。

  「あぅ…」

  「もう頑張ったろ、寝とけ」

  イタズラのような軽いデコピン。だがしかし、限界に近かったレンは、その衝撃で地面に倒れ込み、そして目を閉じてしまった。

  同じ目を瞑っている顔なのに、初めて会った時とだいぶ印象の違うそれは、ヴァンの心に小さな痛みを生んだ。

  会って短いのに、殺し合いするような関係になってしまうなんて、想像もしていなかった。

  きっとそれはレンも同じだろう。

  胸にできた切り傷を撫でる。もう一歩踏み込まれていたら、多分かすり傷じゃ済まなかったであろうこの傷。

  その一歩は、きっとレンの最後の躊躇だったのだろうと思う。ノットは違ったが、狩人連中はどうも今一歩覚悟が足りないなと思う。………否、感覚がズレているのはヴァンの方なのだろう。

  

  狩人達が狩るのはあくまで結界の外をうろちょろする形の違う、意思の疎通もできない化け物であって、ヒトを殺すことではない。

  地下街で生きてきたヴァンには、もはやヒトに刃を向けるなんてあまりにも当たり前のことすぎて忘れていたが、普通は躊躇するのだと思う。

  それが、友達とあっちゃ尚更そうだ。

  「友達か……友達…」

  狩人と魔導士狩りーーその立場さえなければいい友達になれただろうか。こうやってたまに亡霊鉱山に登って、変な話をしながら退屈を凌ぐ。

  気の置けない仲になれていただろうか。

  そんなもしもはもう訪れることはない。そういう戦いだったはずなのに、どうしても後悔のような気持ちが胸に残る。

  

  気持ちは完全に敗北者のそれだが、勝負には勝ったのだ。これからは、レンにはヴァンと同じく日影の存在として生きてもらうことになる。

  

  「ごめんなレン」

  世界一空虚な謝罪の言葉を放ち、そして今度こそ、鼠たちの戦いは幕を引いたーー。

  →→→→→→→→→→→→→→→

  「レン、オイラの勝ちだ」

  まだ、まだ終わってない。

  「やめとけ、死ぬぞ」

  死なない、まだ、終わってない。

  まだ、まだーー

  「オイラにゃ無理だな……ほれ」

  

  まだ………なんで、

  

  「もう頑張ったろ」

  

  なんでーーー

  「寝とけ」

  「ごめんな、レン」

  なんで、僕はーー

  

  なんで僕は、一人で立てないんだ。

  →→→→→→→→→→→→→→→

  もはや、涙も流れない。

  地面に倒れ、瞼の裏を眺めながら、自分の体から熱が引いていくのを感じる。

  最後の一刀に、全てを注ぎ込んだ。熱も痛みも何もかも。

  だからレンの体には、今何も残っていない。残っているのは、後悔と使ってない魔力だけだ。

  『レン』

  ほら、起きろよ。レイヴンが心配してるぞ。

  『レンくん』

  ほら、起きろよ。ファンドが心配してるぞ。

  ほら、起きろよ。

  なんで、起きないんだ。

  なんで、この体は動かないんだ。

  もう、疲れたのか。

  もしもこのまま倒れたままだったら、自分は死ぬのだろうか。

  

  いや、多分ヴァンが自分を山の麓まで降ろしてくれるだろう。そしたら、自分はーー

  次起きた時は、きっと、ヴァン達の仲間になるのか。

  世の中の不条理を嘆き、かつての仲間達と敵対しながらコソコソとひっそり生きるようになるのか。

  『レン』

  「………」

  レイヴンに胸ぐらを掴まれる。

  初対面の、あの時を思い出していた。

  

  思えば、とんだファーストコンタクトだ。狩人になれば、何かが変わるとそう思って入隊試験に訪れたというのに、まさかまさかの入隊前に、ましては試験開始すらする前に喧嘩を売られるとは。

  でも、あの時は何とも思わなかった。

  街を歩けば変な目で見られるのは当たり前。変な因縁つけられたり、突き飛ばされたり、それで済めばまだマシな方。

  日の当たる世界を生きても、結局レンが鼠である以上、日の中を生きることは否定されてきた。

  これから、カツアゲされるのだろうか。きっと殴られたり蹴られたり、するのだろう。

  でも、そんなのは当たり前のことで、当たり前すぎて何も思わなかった。

  『お前……俺が怖いか?』

  胸ぐらを掴まれ、そして叩きつけられた体の首筋に、鋭く光る爪を突き立てられる。

  でも、こんなの慣れっこなのだ。

  『俺が、怖いか?』

  爪を突き立てられて、目を伏せるレンに、獅子は尋ね続ける。己が怖いかどうかを。

  なんて答えたら、平穏に終わるだろうか。

  そんなことを考えながら、チラリと獅子の顔を見やる。

  「………」

  その時、分かったのだ。

  きっと、何かに怯えながら生きているのは自分だけじゃ無いのだと。

  自分の胸ぐらを掴む獅子は、その行動こそ野蛮極まりなく、流石に周りの入隊希望者も、止めるべきではないかと、囁き始めていた。

  でも、その顔を間近に見るレンだけは違った。

  「なんでーー」

  『あぁ!?』

  なぜ、こんなにもこの獅子は、

  「なんで、何を怖がってるの?」

  この獅子は、怯えた表情を浮かべているのだろうか。

  凶暴な顔だ。牙がのぞいて見える。睨みつける目は、レンを焼き尽くさんとばかりに鋭いものだ。

  だけど、レンにはレイヴンが何かに怯えているようにしか見えなかったのだ。

  爪を立てて、一生懸命威圧する態度を作って、それでレンをその暴力の的にするーー。

  だが、レンを掴む手は震えているし、首筋に立てる爪だってそうだ。震えている、恐怖に。

  その時レイヴンが何に怯えていたのか、それは知らない。分からない。レンから見たらレイヴンは獅子で、とても大きくて、力が強くて、とても適う存在ではない。

  何を怖がる必要があるんだと、そう思うほどに獅子という種族は圧倒的な存在なのだ。

  でも、そんな存在でも、何かに怯えることがあるのだ。

  

  きっと、こうやって何かに怯えながらみんな生きているのだ。

  レンが今、今更レイヴンに恐怖心を覚えるように、きっと誰もかれもが何かに怯えて生きているのだ。

  

  最初はみんながレンを遠ざけたように、でも今は、みんながレンを仲間と認めてくれるように。

  

  きっと、知らないだけなのだ。知るのが、怖いだけなのだ。

  誰もが知らない何かを知ることに怯えて生きているのだ。

  でも、それはとても勿体無いことだとレンは思う。

  レンにとって知らなかった世界は、いずれもとても輝いていた。下の下のその下に置かれる鼠族、そんな種族にありながらも、レンの人生は輝いていた。

  狩人を志した理由もそれだ。

  知らない世界を見に行きたい。知らない世界を知りたい。

  剣も魔法も新しく得る知識も何もかも、レンには輝いて見えた。

  そして、亡霊鉱山に登ったときもそうだ。

  かつて鉱山として栄えていた山ーーだがしかし、ある時突然噴出したガスによって、その山は腐り果て、やがては山の周囲に暮らすヒト達にも被害を及ぼした。

  それからは、『亡霊鉱山』と呼ばれ、誰も立ち入らず、立ち入れず、ある種の未開の地になっていた。

  やがて旧市街地を含む山への立入許可も降りたが、誰もその山に立ち入ることはできず、その山は結局誰も寄りつかない捨てられた山になっていた。

  

  誰も登ったことがない、誰も立ち入れないそんな山。

  しかし、レンは登ってみせた。

  登った先には、何があるのか。都市伝説の通り、亡霊が待っているのか。

  好奇心に目を輝かせ、どんどん山を登り、谷を越え、そしてついにレンは開けた草原へと辿り着く。暴かれることのない、誰も知らない未到の地に、足を踏み入れた。

  その光景が、あまりにも綺麗すぎて

  「……わぁ…」

  思わず、口が開いてしまった。

  そこには、美しい世界が広がっていた。

  誰もいない、初めて訪れた場所。ただ、レンはその場所に来たとき、帰ってきたかのような、そんな感慨を覚えた。

  青い草木が、レンの足元を支える。一歩一歩が、レンを歓迎しているようだった。

  涼しい風が、レンのほおの毛を優しく撫でて通り過ぎる。挨拶をしているようだった。

  青く、透明な水のせせらぎが、レンの耳に優しく囁いた。話をしているようだった。

  ここにいる全てが、レンを否定しない。

  ここにある全てが、レンを拒否しない。

  ここにある全てが、レンを差別しない。

  ああ、そうか。

  このとき、レンは初めてこの世界で生きてて良かったと、本気で思ったのだ。

  知らない何かを知ろうと思ったとき、恐怖の感情が湧くのは当たり前のことだ。

  未知は怖い。知っていることだけで、何もかも知った気になっている方がよっぽど楽で、多分、賢い生き方なんだろう。

  でも、ほら。

  『レン』

  「レイヴン」

  声の主を仰ぐと、目が合った。

  立髪を揺らしながら見下ろすレイヴン。耳飾りがチラチラと舞う、見上げるレン。

  あの時は、知らなかった。

  こうやって、名前を呼んでくれる友達がいるって、僕は知らなかった。

  『ほら』

  「うん」

  差し出された手を取り、立ち上がる。種族の違うもの同士、最高の獅子と最低の鼠が手を取り合って、笑い合えるそんな時間を、知らなかった。

  こんな素晴らしいことを知らないまま生きるなんて、レンは嫌だった。知らないままの自分でいたくなかった。

  レイヴンと初めて会ったとき、レンはこの獅子のことを知らなかった。

  そして、レイヴンも同様にレンのことを知らなかった。

  互いに知り合う機会もなくて、出会いも最悪なのに、でも、レンはレイヴンと一緒にいることが嬉しいのだ。

  初対面のレンに、本心を覗かせてくれたことが、レンには嬉しかったのだ。

  だから、

  「ありがとうレイヴン、あの時、僕に怯えてくれて」

  それは、レンからレイヴンへの最大の感謝の言葉だった。

  それは、レンが、レイヴンと一緒にいたいと思わせてくれたきっかけだった。

  それは、レンがレイヴンと一緒にいることの、全てだった。

  『んだよそれ、そんなんじゃねぇよ』

  照れくさそうに頬をかきながら、レイヴンが牙を見せて笑う。

  多分、本人ならもっと大袈裟に恥ずかしがるだろう。

  『ま、それは俺に伝えるこったな……』

  頭の中の想像のレイヴンが、レンへと笑いかける。牙を見せながら、きっと、本当の笑顔を見せる。

  その牙に、レンの体はもう拒否反応を示さない。

  もう、怖くないーー。

  レンの恐怖の理由は、ただレンが変わってしまった、それだけだ。

  あの最悪な出会いから今日に至るまで、レンは仲間達と過ごす楽しさを知って、あの怯える目を忘れてしまっていたのだ。

  怯えて暮らす日々から、楽しく過ごす日々へと変わってしまって、自分も同じ目をしていたことを忘れてしまったのだ。

  あの時、商通りのレイヴンの目は、レンが初めてレイヴンと会った時と同じものだった。

  レンの知らない、『鼠』に怯えるレイヴンを、レンは知っていたはずだ。

  それを忘れていた、忘れてしまえるほど楽しい日々をレンは得てきたのだ。

  

  そんな日々を、守りたいと思うのは、いけないことだろうか。知らない世界に足を踏み入れて、見つけてきた新しい世界を守りたい、守らせてほしいと、そう思うのは傲慢だろうか。

  日影の人生ばかりでした。

  『おう。』

  

  だから、日向で生きることが憧れだったのです。

  『あぁ、そうだな。』

  日向は、僕を受け入れてくれました。

  『みんな、お前を知ってる。』

  日向で生きる楽しさを知ってしまいました。

  『お前を、待ってる。』

  だから、日向で生きる楽しさを守りたいのです。

  『あぁ、俺もそうだ。』

  それは、かつて僕がいた日影を見捨てる理由になりますかーー。

  レイヴンからの答えはない。

  答えの出ない問いかけーー。ヴァンの守りたい世界は、きっと、レンにとっては日影の世界で、レンが守りたいと思っている世界は、日向の世界で。

  ーーレンを知っているみんなを、レンは忘れたくない。

  

  まだ知らない世界を、みんなと一緒に見たい。

  

  そのために、僕は日向に飛び出したんだ。

  それが、答えだった。

  『だったらほら、倒れてる場合じゃねぇだろ。ほら、見てみろよ』

  手を伸ばすレイヴンに導かれるように、レンは薄く目を開く。

  「わぁ……すごい…」

  掠れた声で目の前の光景に、思わず感動の声が漏れる。

  目を開いたらレンの目には、満点の星空が広がっていた。

  ーーー『お前の世界は、こんなに輝いてんだぜ。』

  聞こえるはずのない声が耳元で響き、そして、その言葉の主は、レンのはるか奥底へと消えていく。

  

  名前の知らない星達が、綺麗に輝いていた。

  

  レンの知らない世界は、いつだって輝いているのだーー。

  →→→→→→→→→→→→→→→

  

  「寒ッ…早く降りねぇと…」

  日が沈み、星々の輝きに山は照らされていた。淡い青い光が山を覆い、先までの赤い夕陽の存在はすでに忘れ去られていた。

  気温が下がり、吹き抜ける風も冷たい。その風に晒されて、ヴァンの体温を徐々に奪っていく。

  

  最悪、山で夜を明かすことも考えてはいたが、この寒さの中で寝ていたら死ぬ。

  

  しかし、どうしたものか。

  この暗がりの中、山を降りるというのも自殺行為だ。この草むらは開けていて、うっすらではあるが、星たちの光でまだなんとか、ギリギリ視界が確保できている。

  

  だが、山の中は違う。木々に覆われていて、枝の先につく葉が、光のほとんどを遮断している。

  

  一人で降りるのも憚られるような、真っ暗闇だ。

  それに加えて、レンを背負っていかなければいけない。

  利き腕がまともに動かせない今、レンを背負って、視界の通らない山を一人で降りれるだろうか。

  否、最悪の想像しかできない。

  結局この山は良くも悪くもレンとヴァンしか登れないのだ。暗闇で事故るよりも、この夜を身を寄せて凌いで、明朝帰る方がまだ現実的な気がする。

  「んじゃま……やるか…」

  気が滅入るが、肩の剣を引き抜く決断をする。上着を脱いで、口に含み、左腕で右肩の剣を掴む。

  剣を掴んだだけで、痛みが生じて服を噛む力が強くなる。

  覚悟を決め、思いっきり剣を掴み、そしてーー

  「ゔっ、んんんんん!」

  おもったよりあっさりと剣は抜け、剣先から多分赤い血が数滴垂れる。痛い。

  噛んでた上着を裂いて包帯代わりにし、口と左手を器用に使って巻きつける。巻きつけた包帯に血が染みて、少し肩が重くなったように感じる。

  「そうだ…レン…」

  

  ジクジクと、血が流れる感覚のある肩を引き摺りながらレンの元へと歩く。大きな怪我が肩だけのヴァンと違って、レンは肩と足の二箇所に大きな傷を負っている。

  その状態で戦って、しかも相当血も流れただろう。

  先までのレンの形相を思い出す。あの様子だと、連れ帰ったところでまともに話すらもできなさそうだが、しかし置いていくわけにもいかない。

  早く処置をーー、

  「ッつ、あれ…」

  レンの元へ向かおうと歩を進めた瞬間、何者かに足を掴まれるような感覚がして、そのまま地面へと倒れ込む。

  何に足を引っ張られたのか、薄明かりの中、引っ張られた感覚がした足を見てみると、そこにはツタが巻き付いていた。

  「なん、で、いつの間に…?」

  ここに辿り着くまでの山の中ならいざ知らず、こんな開けた場所でいつどこで、こんなツタが巻き付いたのだろうか。

  肩から引き抜いた剣で巻き付いたツタを切り、立ち上がる。そして、足に何も違和感がないことを確認して、再び一歩進む。

  だが、

  「なっ、はぁ?」

  再び足を掴まれる。

  振り返ると、切断されたはずのツタがヴァンを逃すまいと再びその身体を伸ばしていた。

  

  「な、あぁぁああ!?」

  そのツタを切ろうとしゃがむと、今度はただ巻き付いただけでなく、足を引っ張られて後ろへと倒れ込む。

  身体を引きずられ、肩に結んだ服に赤い血がさらに染み出す。

  

  「クッソ、なんだッ止まれ!!」

  引きずられながら剣を足のツタに絡めて、なんとか切りはなす。

  反抗的な植物だが、その強度は普通の植物と変わらない。あっけなく切られてヴァンの足は再び自由を得る。

  

  「なんだ、なんだ…?」

  ツタを切り取り、そこから距離を取る。

  さっきからヴァンを邪魔するこのツタは一体なんなのか。嫌な汗が止まらない。

  

  ヴァンの不安を煽るように、山を覆う木々が風に揺らされ激しく揺れていた。

  そして、

  「マジかよ……」

  大量の緑が、ヴァンに襲いかかる。

  剣を取り、再び足に巻きつこうとしてきたツタを切断し、ヴァンに向かって突っ込んでくる植物の群れを回避する。

  化物じみた挙動で、ヴァンを襲うそれは、まるで飢えた野獣のように勢いよくヴァンを喰らおうと襲いかかる。

  「ッちぃ、めんどくせぇな!!」

  野獣のような動きでヴァンに襲いかかるそれは、薄明かりで正確に把握できないが、確かに植物の塊だ。

  よく見たら一つ一つの端は地面につながっており、一端にまとまってヴァンに質量攻撃を仕掛けてくる。

  明らかに腕の剣を奪おうとしてくるその植物たちの草木を切断し、そして一度飛び退き距離を取る。

  飛び上がったヴァンを捕える触手は止まらない。着地先で我先にと足を狙い続けるツタが、ウネウネと蛇のような動きでヴァンに襲いかかる。

  

  「なんなんだ急に、レンッ!!」

  猛攻を凌ぐごとに、レンから距離を離される。

  こうしてる間にもレンの体は刻一刻と死に向かっていくというのに、なぜここにきて別の障害が立ち塞がるのか。

  突然、ヴァンに牙を向いた自然の大波。

  まさかー、

  「まさか本当に、亡霊でもいやがるってのかよッ!」

  

  波波襲いかかってくる草木の攻撃ーー。その物量こそ凄まじいが、一つ一つの攻撃は大したことない。

  所詮は植物だ。簡単に切れるし、一つ二つ当たったところで致命的なダメージは負わない。

  だが、そのちまちました攻撃も、その物量から放たれるとなれば話は別だ。

  

  太陽が沈み、ただださえ視界が悪い夜の帷の中、ヴァンの瞳はツタや葉などの溢れんばかりの緑で埋まっていく。

  伸び縮みする枝がヴァンの頬を掠め、橙の毛が削がれ、血が流れる。

  足元をツタが絡め取り、バランスが崩れて倒れそうになる。

  足元のツタを対処してるうちに、また別のツタが今度は腕に巻き付く。

  剣を持つ手が拘束され、そして、緑の山が再びヴァンへと迫る。

  身体を思いっきり捻り、絡んだツタはそのまま引きちぎり、ギリギリでそれを回避し頬を拭う。

  亡霊鉱山ーー都市伝説の山。

  亡霊の住処たるこの地に立ち入れる者はいない。

  なぜなら、亡霊が全力で外からの干渉を拒むから。

  ガスから逃れられず、苦しみながら死んだ鉱夫達。その亡霊の呪いーー。助けを差し伸べてくれなかった外界のヒトを恨んで、その山の恵みは決して譲らない。

  攻撃を躱しながら、そんな胡散臭い話が脳裏に浮かぶ。

  まさか、本当に亡霊がいるというのか。

  その亡霊が、山に立ち入る不届きものを排除しようとしてるというのか。

  排除されなきゃ、いけないのか。

  「ここでも……ここも、どこもッ!オイラ達を排除しなきゃ気がすまねぇってのかよ!!」

  苛立ち、怒涛、否、悲哀、絶望。

  積もり積もった感情が爆発する。

  

  誰の、何の手もかかっていない山の上ーー。

  奇跡的に辿り着いたこの場所は、今まで見た世界のどこよりも美しかった。だというのに、ここでも結局ヴァンは淘汰されるのか。

  亡霊達がいるとして、その亡霊は鼠たちのことをどう思っていたのか。

  

  歴史は、ひどく残酷だ。

  「フヒッ、時代を超えた差別ッ!いいね、いいさ!いい御身分だなッ!おいッ!」

  見えない亡霊に向かって、憎悪と唾棄を吐きかける。

  既に死んだ遅れ者の分際で、だというのに生きてる鼠を揶揄って遊ぶのが趣味らしい、何といい御身分だろう。

  どこもかしこもこの国は、どうやら撒かれた因習の種は、どこもかしこに芽が生えているらしい。

  

  この芽の根っこだけを残し、表面だけをきれいに整えられたこの国ーー。

  貼られた根は、簡単に取り除けない。

  取り除かれる気配もない。

  だからこそ、許し難い。

  「亡霊でもなんでもッ、オイラの邪魔ァすんならーー!」

  魔法剣を構えるーー否、それはただの剣だ。

  だが、振り下ろした切先に、軌跡に沿って水の刃が出現する。

  剣を振り下ろすと同時に行われてきた補助ありきのヴァンの魔法はー、

  「違うよ」

  ーーいったい、何が違うというのだろうか。

  不意に耳に響くその声が、さらに苛立ちを加速させる。違うなら、一体何が、何がどう違うっていうのか。

  勢い任せに剣を振り、その軌跡を水の刃が突き抜けていく。

  刃は迫り来る草木を切り裂いて、そして一つの道を開くーー。

  その先にいたのは、

  「みんな、知らないだけなんだよ」

  「ーーレン」

  耳飾りが風に揺れ、それに同調するように体もゆらゆら揺れる。

  力なく、だけど力強く立つ存在がいた。

  血まみれの魔法使いが、立っていた。

  →→→→→→→→→→→→→→→

  自身の初めての魔法が切り裂いたその先に、その存在は不気味に佇んでいた。

  「ーーレン」

  

  星の青い光に照らされて、映し出されるのは血まみれの茶色い鼠ーーレンだ。

  オレンジ色に靡く耳飾りを揺らしながら、ただそこに立っていた。

  茶色の鼠は、緑の双眸を覗かせて、言う。

  「みんな、知らないだけなんだよ」

  ヴァンを襲う数々の緑の応酬ーーその根元にあるのは、レンだった。

  

  「お、オマエ…」

  立ち上がってレンの膝には、まだヴァンの魔法剣が突き刺さっていた。ヴァンが瞳をその剣に向けると、それに気づいたレンが徐に魔法剣を引き抜く。

  剣はあまりにもあっさりと抜け、そして血が噴出ーーしなかった。

  引き抜かれた穴は、まるで何事もなかったかのような茶色い毛に染まる。

  それは、その魔法はヴァンも体感したことがある治癒魔法と同じものだ。

  ノット達と対峙した日、山に登ってレンと会った時に、レンが差し向けてくれた優しさだ。

  驚異的なまでの治癒の速度を見せるそれは、もはや何なのか、理解できなかった。自分もあれを受けたのかと思うとゾッとする、そんな不気味さがあった。

  そして、引き抜かれた魔法権は、赤く血を垂れさせながらヴァンへと向けられる。

  

  「ヴァンーー」

  短い呼びかけ。それと同時に、再び緑の騒乱が幕を開ける。

  ーー話が違う。

  これだけの魔法を発動させておいて、自分は能無しだと嘯いたのか。いや、なんなんだ、この魔法は。

  

  ヴァンが知っているのはあくまで治癒の魔法だけだ。そもそも魔法は、魔法を発動させるための術式というのは、一人につき一つ、生まれながらに持っているそれしかない。

  そう、ボスから聞いた。

  実際に相対してきた魔法使いのいずれも、それに該当する者だった。

  

  レイヴンは火球を、ファンドは触れた面から発生する水源を、ならばレンは、得た生命力を治癒に変換する術式ではないのかーー。

  ならばこれは、魔術かなんかだとでもいうのか?

  否ーー、ならばわざわざ死に際まで温存する必要はなく、先んじて発動しておくべきものだ。

  

  ーーふざけてる。

  ーーーーふざけてるふざけてる、ふざけてるッ!!

  奥歯を噛み締め、相対する狂った現実を目の当たりにする。

  ふざけている、そういうしかない。

  だが、じつにヴァン好みの戦い方だ。

  

  己の本領を偽り、敵を欺き、そして敵対する者の武器を奪い、一度取らせた勝ちを奪う。

  それは明らかにヴァンが『知っている』鼠だった。

  結局、

  「オマエもッ、鼠ってことだッ!アハハハハッ!!」

  ああ、初めまして、レンの中の鼠。

  暴かれたその本性に、ヴァンの心が沸る。燃える、吹き立つ。怒り、悲しみ、分からない。感情が揺れ動く。

  光の中で生きるレンの中にも、結局鼠が持ち合わせる負の部分は持っているのだ。

  その事実に、甲高い笑い声を上げる。

  それは希望か失望か、もはや分からない。

  いっぺんにことが起こりすぎて、もはやヴァンの情緒もぐちゃぐちゃだった。

  「見せろレンッ、狩人の力をッーー鼠のオマエをッ!!」

  闇を照らす狩人の輝きーーその悉くを踏破し、レイヴンに至るーー。

  光に生きるレンの闇ーーそれを暴いて、一緒に戦えと叫ぶ。

  どちらが、本心なのだろう。

  

  向かってくる緑の大波を切り裂き、飛び乗り、潜り抜け、剣を奮って逃げ回る。

  吐き捨てた台詞は、もはや空元気に近かった。

  

  逃げ回る中、切り裂いた一部から、レンと一瞬視線が交差する。一瞬のその交差で、ヴァンの体は刹那の凍結を覚える。

  水色の瞳に映ったレンの顔に表情はなかった。

  冷え切った目をしていた。

  逃げ回るヴァンに向かって、魔法使いは語る。

  「知らない世界を見たんだ。」

  魔力が身体を焚き付ける。

  「知らない世界を知ったんだ。」

  その世界は、自分には勿体無いくらい輝いていた。

  「知った世界で、生きたいと思ったんだ!」

  身体中から魔力が溢れ、それが全身を包むような、不思議な感覚に包まれる。

  今までにない感覚に、レンの体は興奮冷めやまない。

  

  溢れる魔力、その全てを正確に操ることはできない。

  初めての感覚だ。

  

  なににも阻まれる感覚がない。押し戻されるような違和感も感じない。ただ、あるがまに、すーっと気持ちよく流れていく。

  レンの魔法は止まらないーー。

  「オイラたちが生きてる世界を、オマエはッ、知らないだろうがッ!!」

  もはや何のために戦ってるのかすらも分からない、何のために剣を振っているのかも分からない。

  植物を捌くるヴァンの怒号が響く。

  「オイラが生きていい世界をッ、オマエは知らないだろうがッ!!」

  それは、ヴァンの知らない世界で生きるレンへの、憧れ、だったのかもしれないーー。

  同じ鼠、違う世界で生きた、同じ鼠が、こんなにも輝いて見えるのは、きっとーー、

  感情が溢れ出し、それが、涙となってヴァンの橙の表層を撫でる。

  疎まれ続けたヴァンの人生と、認められて生きていたレンでは、見た世界も、生きた世界も違う。

  だからーー、

  「ヴァンだって、知らないじゃんか!」

  「何をーーッ」

  「僕が、生きた、世界を!!」

  

  レンが生きた、レンが主人公の物語をーー。

  体中にツルが絡まり、体の動きが鈍くなったヴァンに向かって、足から引き抜いた魔法剣を構える。

  知らないなら、知ってしまえーー。

  心の中で叫びながら、魔法剣片手に、ヴァンの元へ開いた道を一直線に走っていく。

  

  レンの知ってる世界は、輝いていた。

  全てが幸せなわけじゃない。全てが最高なわけじゃないけど、だけど、

  「オイラが鼠である限り、幸せになんてなれねェんだよォッーーー!!」

  体中にまとわりつくツルを最後の足掻きで全て引きちぎり、剣を抱えてその悪意、憎悪、怒り、悲哀をレンへとぶつける。

  鼠であることの呪い。それをずっと受けて生きている。

  でもその呪いは、いつか見えなくなる、それはもう、忘れてしまいそうになるほどに。

  消えなくても、見えなくなる日が来るーー

  だから、そう、まずは、

  「僕達は、この世界で生きていいんだってことをーーッ!!」

  知らないことばかりの世界は、とても輝いていた。

  知らない世界は、僕をいつか受け入れてくれた。

  その世界は、レンにとって『生きる場所』だったーー。

  

  剣の上下を反転させ、刃を握りしめる。

  

  刃をレンに向けるヴァンは止まらない。

  刃を握りしめる手から血が流れる。

  だが、そんな痛みは、もはや止まる理由にならない。

  互いに生きる世界が交差し、そして、

  「ヴァン、」

  

  こんな悲しそうな顔をする鼠の男の子を、拒む世界があってたまるものかーー。

  だから、まずは

  「『僕』を、思い知れーー」

  

  ヴァンのみぞおちに、レンの握りしめる剣の塚が突き刺さる。

  

  あぁ、カッコ悪いなぁ、あんなに『剣で決着つける』ってカッコつけたというのに。

  剣では負けて、運良く発動した魔法に助けてもらって、そして決着はただの殴打でーー。

  そんな感慨に浸りながら、思いの外宙に浮いたヴァンを眺める。

  

  亡霊鉱山の魔法使いの、遥かなる初陣だった。

  →→→→→→→→→→→→→→→

  

  最後の衝撃に、ヴァンの意識は、沈んでいく。

  「『ーー』を、ーーしれーー」

  沈みそうになる意識の最後、多分、レンが何か言っている。

  何かを知れと、言っている。

  分からない。

  分からないけど、でも多分、それはヴァンとレンの差なんだろうなと、そう思う。

  「何やってんだ…オイラ…」

  落ちる意識の狭間ーー最後に、空に輝く無数の星が目に映る。

  その空は、ヴァンにはとても輝いて見えた。

  

  ーーー

  ーー

  ー

  そして、橙の鼠の意識は、空より深い青色へと沈んでいった。

  →→→→→→→→→→→→→→→

  ヴァンの体の傷を魔法で直しながら、ヴァンの体を縛り上げる。

  傷はたちまち塞がり、あっという間に新しい橙の毛まで生えて、まるで何事もなかったかのように綺麗になる。

  己の力で直したその肩を撫でながら、レンは眉をひそめる。

  「やっぱ…変だよ、なんでなんだ……ヴッ!」

  自分の魔法の通りが、ありえないぐらい調子がいいことを疑問に思ったと同時に、頭をガツンと殴られるような衝撃が襲いかかる。

  頭を抱えながらうずくまり、奥歯を食いしばる。

  「ぬ……ふっ、はんッどう……か…」

  それは、魔法を行使しすぎたものへの代償だった。

  魔力が大量に消費され、それに加えて今までやったことないような速さで術式を回した。

  その反動が、頭痛として現れていた。

  しばらく地面にうずくまり、肩で息をしながら、頭の痛みに耐える。しばらくしてその反動が少し、ほんの少し楽になったところで顔を上げる。

  頭がぼーっとする、体がフラフラと足取りが覚束ない。

  

  深呼吸をして、早くなった脈を落ち着けて、地面に横たわるヴァンを抱える。

  普段あれだけ生意気そうな顔をしているヴァンも、こうやって意識の閉じた顔を見てみると、それは子供の顔だ。なんなら、エルドといい勝負かもしれない。

  「…あかり……ないかな…」

  流石に星の灯りだけでは頼りない。

  ここは開けていて星の光でもまだ見える程度の明かりがあるが、山の中はそうはいかない。

  星達の放つ微量の光は、木々に阻まれ、星の光は簡単に見えなくなってしまう。

  この暗闇の中進むのは、流石のレンにも躊躇が生まれた。

  「そうだ……この剣で…」

  意識を失うヴァンに魔法剣を握らせ、そしてレンが少しだけ、また魔力を行使する。

  今更少し頭痛の痛みが増えるのなんて気にならない。

  思惑通り、ヴァンの持った魔法剣は淡く水色の光を放ち出し、その光は多少なりとも足元を照らすのに役立ってくれるだろう。

  「…よし。」

  誤って自分で剣に触れないように、ヴァンの手を使って、自分の足の鞘に魔法剣をしまう。足元が水色に照らされて、ないよりマシ程度にはなったか。

  ヴァンを背負いあげて、自分とヴァンの体を硬く縛る。これで、ヴァンを落とす心配はないだろう。

  一緒に落ちた場合はーーいや、そんなことを考えるのはやめておこう。待っている仲間もいるのだ。無事に帰って、全力で褒めてもらうのだ。

  空を見上げると、そこにはやはり美しい星達が輝いていた。この世界で生きるレンに、微笑みかけているようだった。

  不意に、吹き抜ける風にほおを優しく撫でられる。

  その風は、からっきしの体のレンを励ますかのように、ほおの毛をゆらゆらとゆらす。

  「……帰らなきゃ…」

  いろんなものに支えられて、重い足を上げる。

  

  水色に輝く道標を頼りに、亡霊鉱山を降り始める。

  魔力も体力もからっきしのフラフラで、でも、それでもヴァンを連れて山を降りるまでは終わらない。

  「ああ…流れ星……」

  狩人として華々しく咲く、その物語は、

  「…願い事……帰れるかな…」

  力なく微笑んで、山の影へと進んでいく。

  この世界で生きる一匹の鼠。その話は、まだ始まったばかりなのだ。

  誰も知らない物語は、まだ始まったばかりなのだ。

  

  亡霊鉱山の魔法使いはーーゆっくりと、その場を後にした。

  去っていく魔法使いの背中を、大木の影が寂しそうに追いかけていた。