閑話一話『木枯らし』

  ーーあぁ、めんどくせぇ

  バタバタと、薄暗い部屋を駆け回る音がする。

  ーーあぁ、めんどくせぇ

  スラスラと、何かを書き連ねる音がする。

  ーーあぁ、めんどくせぇ

  カチカチと、金属を打つ音がする。

  ーーあぁ、めんどくせぇ

  すぅっと深く煙草を吸って、ふうぅぅっと、深く吐く。

  口と鼻の両方から白く濁った空気が出てきて、視界がぼんやり白く染まる。

  ーーあぁ、めんどくせぇ

  とある屋敷の大広間ーー。その一番奥、上段の間に寝転がり、煙草を吸う大きな影がいた。蝋燭で暗く照らされただけの部屋の一番奥、まともに光も届かないようなその場所で、半目を開いて横になり、駆け回る弟分たちを眺めている。

  皆が忙しなく走り回る中、だらけているのはこの大狸だけだった。

  「兄者、報せが届いてますよ。」

  だらけきった雄狸の元へ、一人、別の狸ーー弟のフヂナが訪れる。

  「報せだぁ?そっちで処理しとけって…」

  どうせ見かけだけの付き合いの定型分が書かれた手紙か、自分以外の誰かの付き合いの手紙のどちらかだろう。

  それ以外だとしたら、

  「仕事の依頼か?」

  「仕事の依頼もそうですけど、違うんですよ。兄者に直接の御用件です。」

  「俺に?」

  自分に手紙を差し向けるような存在に心当たりはない。何せ、ほとんどの時間を家で過ごし、惰眠を貪るこの愚者。

  毎日朝日を眺めて、月明かりを楽しむ以外に表に顔の出さない自分に、手紙を出すような関係の他者とのつながりなどほとんどない。

  そんな自分に誰がわざわざ手紙なんか差し向けるというのだろうか。

  「本家の方からですよ。」

  「本家…?シナノか」

  「いえ、奥方からですね」

  「なんだ……」

  だとしたら、それはめんどくさい仕事の依頼だ。

  シナノはともかく、それ以外の本家の方々との繋がりなんて、表面上のものだけだ。それはこっちだけじゃなくて、相手方もそう認識しているだろう。

  最近ちょくちょく本家からの手紙がよこされるのだが、それが大体全部めんどくさい押し付け仕事なのだ。

  分かりやすくがっかりした姿勢を示す兄貴分に、フヂナがペラペラとめくった手紙の内容を読む。

  「『拝啓ーー、『化』の字の長殿ーー。花が枯れ落ち、実をつけ始めた折、貴方様のことを頭に浮かべ申したーー。果実の種が、さぞ可愛らしい暦になります。』兄者、花の実みたいだって言われてますよ。」

  「それは、『枯れた花に身の一つでもつけてみろ』って意味だ。」

  「…?これから花開くってことですか?」

  「旬が過ぎたのに種の一つもつけねぇのかよって意味だ。」

  「…?なるほど?」

  フヂナは、いまいちピンときてない様子。まあ、こんな言い回し、分かんなくても別に困らない。

  しかし、初っ端から皮肉たっぷりの文言でもう続きを聞くのが嫌になる。

  というか、なんてもん書いてるんだ冒頭から。余計なお世話がすぎる。

  「えーっと……あぁ、要件は短いですね。『此度の報せは、『化』の家の長方へ、直にお尋ねする機会をご用意させて頂いたからです』…だそうですよ。」

  「けっ、何がご用意させて頂いただよ。んなこと言わずに『仕事あるからやれ』って言えばいいものを…」

  「でも、直にって言ってますし、何か秘匿性の高い重大な仕事なのでは?」

  「直に…?」

  「はい、直に。あ、要件はそれだけです。後は日付と場所だけですね。で、場所はーー」

  「あぁあぁ、いい。読み上げんな、めんどくせぇ。」

  そんな態々呼び出すということは、場所は決まりきっているし、時間の指定もあってないようなものだ。

  「ほんじゃま、行くかね」

  「もう行かれるので?日付は…」

  「どうせいつ行っても変わりはしない。適当に話し切り上げて、とっとと帰ってくるさ。」

  

  面倒ごとはさっさと終わらせるに限る。

  巨体を持ち上げて、忙しなく走り回る子分達を邪魔しないようにさささっと、その身に合わない身のこなしで抜けていく。

  「では、行ってらっしゃい、兄者。」

  「あぁ、後は頼むわ、いつも通りで」

  襖を開け、紙束を小脇に抱えるフヂナに手を振る。子分たちの世話はひとまずいつも通り、彼に任せておけば問題ない。

  狭い廊下は、この巨体が通るには少々狭すぎる。狭いと二回言わなければいけないほど狭い。

  一体誰に似たというのだろう。

  死んだ母も父も、共に細身で、お世辞にも体格に恵まれたとは言えなかった。

  

  「ま、ただの怠惰の結果かね」

  誰にも似てないなら、それはただ己の内が外見にも現れたというだけだ。自分の怠惰な精神性が、表面上に現れているだけ。

  弟二人はそれぞれ父母にそっくりだし、まぁ、自分だけはなんか外れ値的な存在だったのだろう。

  ひねくれた結論をつけて、玄関の扉を開ける。

  

  扉を開けると、華時の終わり特有のやや湿り気のある風が靡いてきた。優雅な花の季節はあっという間に過ぎ去って、これから訪れるのは長い雨時だ。

  「あ、兄者、珍しい。」

  「見ないと思ったら、ここにいたのかスギナ」

  玄関先には、箒を持って家の正面を掃除する二人目の弟がいた。

  「兄者と違って、俺はこの仕事に誇りを持ってっからな。もちろん表面も整えてこそだ。」

  「偉いなあ、お前が家督を継いでくれたら楽なんだけどな」

  「まさか、誇りを持ってるってぇのは別に仕事をやることだけじゃない。形だけ整えりゃぁいいってもんじゃねぇでしょ。」

  「俺の長としての立場は形だけだけどな。」

  なんならお飾り、いや、ただの漬物石のようなものかもしれない。

  親が同時に死に、家の引き継ぎの話もせずに亡くなったため、自動的に長男であるこの男に長としての立場が与えられたのだ。

  「そりゃあ兄者には真面目に長としての立場をやってほしいけどよぉ、押し付けるってぇのもちげぇじゃん?」

  「んじゃ正式に奪いに来い、な?そしたらお前の信を置くところも傷つかないだろ」

  実際この立場を奪いに来るというのなら、別に譲るのもやぶさかではない。そこまでの執着はないし、それで駒になれと命じられるんだったらその通りに動いてやる。死ぬのは勘弁。

  スギナは箒を両肩に抱え、

  「まっさかぁ、確かに兄者にはしっかりして欲しいけど、俺は今の兄者のやり方嫌いじゃぁねぇぜ。」

  「そうかい、ならいいんだが」

  なにか特別なことをした覚えはないが、不満がないなら何より。なんなら特別なことをしなくても勝手に動いてくれる彼らに、本来なら感謝しなければいけないところだ。

  「んでよぉ、兄者。今からどこ行くんで?昼過ぎに出てくるってぇことはなんか急ぎか?」

  「めんどくせぇことに、本家の方に呼ばれたからな。ちょっくら顔出しに。」

  「その格好で?」

  「あん?」

  不意に格好を指摘され、己の外観をなんとなく眺める。さっきまで寝転がって煙草を吸っていただけなため、帯は緩く、上半身は半分露わになっている。

  上半身が露わなのはまだ良いが、サラシがほぼ意味をなしてない状態なのはいかがなものか。

  「兄者が本家の奴らが嫌いってぇのは分かるけどよぉ、視覚を操る家の長として、見栄えだけはしっかりしてけよな」

  箒を放り出して、スギナが乱れた服を整え始める。

  どうせ移動中にまた乱れるのだ。なら整えるだけ損じゃないかと、そう思うのだが。

  「あーあ、もう毛はしゃあねぇか。」

  手入れが行き届いていないゴワゴワとして毛を乱暴に撫でられ、少しくすぐったい。

  適当にぱぱっと毛を流されて、そして今度はサラシを引っ張り始める。

  「どうせ蜻蛉返りするつもりだ、態々揃える必要もないって」

  「兄者また太ったな?サラシが全然しまらねぇ」

  サラシをギューっと引っ張られ少し苦しい。

  太ったというのは、まあ、その通りだろう。

  「よし、まぁこんなもんか、おん。腹太鼓」

  サラシを巻いて、その上から帯を巻いて完成。さっきまでの肌けただらしない姿から、多少なりとも外に出しても恥ずかしくない格好にはなった。

  まあ、それでも上半身半分は見えているのだが。サラシをギュッと締めたおかげでだらしない印象はかなり減った。だらしない体はこの際仕方ない。

  サラシで引き締まってなおでかい腹をバチンと思い切り叩いて、スギナも満足げに笑う。

  デカい腹がいい音を鳴らして揺れる。

  「うしっ、じゃあ行ってこいや兄者。本家からの直接の仕事だろ?ぼったくって俺たちの取り分増やしてこいな」

  「まぁ、そりゃ仕事の内容次第だな」

  そもそも本家からの仕事であってもそれをやるかどうかはこっちが決める。

  まあ、基本尻に敷かれているから断れるものでもないのだが。

  危険な任の場合は流石に弟や子分達に任せられないし、まあ、楽な仕事だと助かるな。

  そんなことを考えながら、大きな家を囲う塀の上へと跳躍する。

  巨体が飛び上がり、ずしんという重い音がなる。それは彼が珍しく昼から仕事をするために動き出したことを伝えていた。

  身長も肩幅も、他の家族に比べて桁違いにデカい。

  一際目立つその体を素早く走らせて、山を降りていく。その巨体が通り過ぎたところに、静かに枯れ葉が舞い散る。まるで、風が通り過ぎたかのような静かさで、誰も気づかないような速さで走り去っていく。

  ーー『化』の家の長、カガチ。

  八代本山に聳える大きな殿を準ずるヤシロ家の分家。『化』の字を与えられたその家は、シノビと言われる、所謂、裏のお仕事を担う一族の影に中る家だった。

  その家の長カガチが、真っ赤な目を鋭く睨ませながら動き出した。

  →→→→→→→→→→→→→→→

  八代本山ーー鉱山の向かいにあるこの山は、国の中で一番高い山である。

  

  天には遠く及ばないが、それでもたまに頂上は雲の海に隠れて見えなくなることがある。

  そんな山の中腹に、ヤシロの神殿というのは建てられていた。

  

  ヤシロ様はこの国に潤沢な恵みをもたらして、人々の生活を支えているとされる。その感謝として年に一度祭りを催している。

  その時は国中からヒトが集まり、なんと見事に盛り上がるものなのだが、そうじゃない時はなんとも寂しいものである。

  用もなしに訪れるには少々高すぎるこの神殿。たまに参拝客が訪れる以外は、物静かで山の声がよく聞こえる。風の通る音、木々の波、虫達の昂る声、この山自体がヤシロ様の恵みを象徴していると言っても過言ではないのかもしれない。

  そんな神殿の傍に、これまた豪勢な建物が立っていた。

  黒を基調とした木材仕立ての建物で、どこか風流を感じさせる、そんな建物だった。遥か古くから建っているであろう厳かさを感じるが、手入れが行き渡っているのか古臭さは感じない。

  その建物の住人こそが、八代本山の所有者ーーそして、ヤシロ様を讃える一族『ヤシロ家』を束ねる、総本山である。

  分家のカガチにとっては、上司にあたる存在だ。一族といえど、そこに家族的な絆はなく、特に『化』の字の仕事柄、常日頃から意図的に距離を置かれているというのが現状だ。

  年に何度かある会合でも、疎外感を感じるので、できれば他の家の者と関わりたくないというのが本音だ。

  向こうだって、そうだろう。

  

  だから、関わるのは一瞬の時ーー仕事の交渉だけして、さっさとおさらばしようと、そう思う。

  互いのためにもそれが一番だ。

  めんどくさい、互いの気を伺うような問答すら不要だ。

  「風…」

  境内から、町を見下ろしている女がいた。

  山の上は常に風が吹いている。今日は特に荒れてもいないが、一瞬、その毛を激しく揺らすような風が巻き起こる。

  その風の流れを目で追い、そしてその先にはーー。

  「『化』の家長、カガチ。参上いたしました」

  焦茶の毛を束ね、紺色の布を身に纏う、醜い獣がそこにいた。赤い目で女を見下ろし、その圧に女は一瞬身をたじろがせた。

  しかし、すぐにその足をそろえて、しっかりと立ちカガチを見上げる。

  「ようこそいらっしゃいました、『化』の字の長様ーー、此度は呼び出しに応じてくださって、主人の代わり感謝申し上げます。」

  手を広げ、歓迎の意を示す女。小綺麗な衣装を見に纏い、その姿は可憐そのものだ。

  吹けば倒れそうな華奢な体つきで、カガチにかかれば簡単にへし折ることもできるだろう。

  なのにカガチでは敵わない。

  「そういうのはいい、要件を伝えろ。」

  歓迎されていないことはわかっている。

  分かりやすく歓迎の姿勢を見せても、その視線は『はよ出てけ』とでも言いたげな冷たいものだ。

  カガチとしても居心地が悪いし、相手も気まずさを全力で感じているだろう。

  

  互いに視線で牽制し合う時間が続く。

  「こんなところで立ち話というのもなんですし、どうぞ屋敷に入ってくださいな。」

  「立っているのは貴様だけです。下賤はこうして、木の上に座っております」

  「契約は対等でなければかなわないでしょう?どうか降りてきてくださいまし。」

  「降りても貴様の視線は下がることはないでしょう?ならば、そんな時間を取らせることすら勿体なきことです。」

  赤い瞳と黒い瞳がじっと互いを攻撃し合う。

  無謀な時間が過ぎ去り、女が『はぁ』とため息をつく。

  「相変わらず意固地な方ですね、あなたは。柔軟さが求められる『化』の字の長として恥ずかしくないのですか?」

  「うちの家業を直接ご覧いれようか?」

  「結構です……、全く。その齢になっても子供のような精神性はその体に見合わず幼いままなのですね。」

  「その幼いものに影の仕事をさせる貴様の心はよほど残酷と見える。」

  普段は山の中で薪を割り、山の実りをいただき、それを街で売り歩いている。それが表向きの『化』の家の仕事だ。

  だがその実態は、表沙汰にできない、法に触れるようなことを生業とする、腐った家だ。

  普段はなんでもない、無害を装った風防をしておきながら、その本性は仕事一筋の無法一家。

  

  報酬さえあれば、盗み殺しなんでもする野蛮極まりないシノビの集団。

  

  それが『化』の家の仕事だ。

  そして、そんな『化』の家業というのは、そんな頻繁に訪れるものではなかった。ーーこの女が本家に嫁いでくるまでは。

  「前回は遊女の暗殺、その前は狩人共の戦利品の強奪……。一体何を企んでいる?」

  「まさか、私はただ、ヤシロ様に不敬を働くことをよしとしないだけです。」

  「どうだか」

  これ以上は踏み込むな、とでも言いたげな女の笑みに、カガチはこれ以上の詮索をやめる。

  いずれも女名義の依頼だった。報酬はしっかりと貰っているし、こちらとしても足取りは残らないように徹底しているから、特に不都合があるわけでもないが。

  「これです、よろしくおねがいしますね」

  懐から紙を取り出して、それを揺らして主張する。

  どうしても地面に降りてきて欲しいらしい、仕方なしに木の上から飛び降りる。飛び降りた衝撃で女が軽くバランスを崩し、その手から紙きれがひらりと舞う。

  それが地面に落ち、カガチがそれを拾おうと地面に屈む。

  「あら、申し訳ありません。」

  地面に屈むカガチを見て、女の顔が不敵に歪む。

  申し訳ないと口では言っているが、その心、態度はそんな申し訳なさを微塵も感じさせない。

  むしろ、優越感に浸ってさえいるように見える。

  「ええ、確かにこうやって見下げるのに、大した労力はかかりませんね。」

  落ちた紙切れを拾い、立ちあがろうとしたカガチの肩に女が触れる。

  赤い目で女のことを睨みつけるが、女はもろともせず悪辣な笑みを浮かべていた。その黒目の奥に映る黒く濁ってそれは、それこそが本来『化』の家が入り伏せるべきものだ。

  

  「見下ろされるのは、あまり気分がいいものではありませんからね。やはり取引は、対等に行わなければなりません、ね?」

  どの口が、と言いたくなるところだが、何を言ってもどうせ伝わらないし、そもそも相手の方が立場的に上なので、言いたいことを押し込んで、拾った紙切れを見る。

  見る、が

  「…?なんだこの紙切れは。」

  紙切れは、ただの紙切れだった。何度も表と裏をひっくり返して確認するが、そこには文字も記号も、暗号らしい暗号もない。

  太陽にすかして見てみても、何が浮かび上がるわけでもなく、本当にただの紙だった。

  困惑するカガチに、女がフフっと口元を隠しながら可憐に笑う。そして、カガチの両肩を掴み、その顔を自分の方に寄せて、

  「直に話したいと書いたでしょう?」

  「なんの、つもりだ…」

  吐息が耳に吹きかかるほど近い位置で、女が静かに語る。艶めかしく唇を舐めて、女は続ける。

  「祭りの始まるより少し前、どうか誰にも言わずに屋敷に訪ねて来てくださいな。そこで私共一族から、皆で貴方にお願いしたいことがあるのです」

  「……まて、一族みなというのはーー」

  一族総出で頼まれるとか、絶対に碌なことじゃない。むしろ、そんな大事なことをなぜ今カケラも話そうとしないのか。

  尋ねたいことを口にしようとしたその瞬間、その口は、女の口で塞がれる。

  

  「むっ、うぅ!」

  不意の口付けに、カガチは驚いて、そのまま女の体重に押されて地面に倒れ込む。

  そして女は左手でカガチの鼻を塞ぎ、カガチの空気の通り道をなくし、口を無理やり開けさせ、そこに舌を入れる。

  腹を片膝で押さえつけられ、左腕はもう片方の手で踏みつけられる。

  

  噛みちぎってやろうかーー。

  そう思えるほど、カガチの肝は座ってなかった。

  侵入してくる舌は、カガチの舌を貪欲に絡めとる。舌先同士が合わさり、そして、互いに唾液が行き交う。

  

  塞がれてない方の手で、その体を引き剥がそうとするが、その女の体を傷つけてしまいそうで躊躇が生まれてしまった。腐っても当主の嫁ーーそんな考えが頭をよぎり、引き剥がそうとする腕が力無く地面に落ちる。

  女は右腕で、カガチの胸周りをゆっくりと撫で回す。それは、カガチの意識に、自分という女の意識をすり込ませようとしているようでーー。

  意識ごと、舌で絡め取られそうになる。

  それを、自分の手に生える爪で太ももを引っ掻く痛みで耐えながら、その責苦を受け続ける。

  仕事柄、自分から色仕掛けをすることはあっても、自分に仕掛けられることはほとんどない。

  刺激を与えるのと与えられるのでは、全く違う。その刺激に耐えられず、全身から徐々に力が抜けていく。

  抵抗しなくなったカガチを見て、女は不敵に笑い、最後に一つ、深く接吻をする。

  その接吻をカガチは受け入れるしかない。意識を失おうにも、定期的に左腕を踏み潰される痛みで、意識は度々起こされる。

  酸欠になりそうになるたび女は適度な間を作り、時々空気を取り込む時間を作る。口を閉じる隙は与えられない。

  それだけでなく、口移しで度々、人工呼吸の要領で酸素を送り込んでくるものだから、酸欠で倒れるのも叶わない。

  あの手この手でカガチの意識を刈り取るまで終わらない。

  それを察したカガチが抵抗を辞めて、女の舌に、自分の舌を絡め始めた時、女の接吻は終わりを告げた。

  最後に再び唾液の交換が行われ、そしてカガチの舌は解放される。

  女の口から糸を引く唾液が、カガチの舌につながっている。

  その糸を女は、カガチの胸を撫でていた方の手で断ち切り、そしてその指を口に含んで舐めとった。

  まるで極上のご馳走を楽しむ野獣の如く、カガチの口を貪った女はその味を楽しんでいた。

  

  「ふふ、素直であれば尚幼く見えますね。」

  「クソ女が…」

  涙目で女を睨むカガチを、狡猾な瞳を光らせて、女は見下していた。

  「お慕いしております、と言ったらどうされますか?」

  「…子持ちのババァがいう台詞じゃねぇって…」

  そもそも子持ちのババアがするようなことでもない。旦那もすぐ近くにいるだろうに、何をしでかしてくれたのだこの女は。

  肩を踏む足がどいて、腹の上に立てていた膝も消え、カガチの体を押さえ込む鎖はなくなる。

  だが、普段使わない体力をふんだんに持って行かれて、カガチは半身を持ち上げるのが精一杯だった。

  カガチの赤い目を背中に受けながら、女は何事もなかったかのようにスタスタと歩き出す。

  そして、濡れる口元を袖で軽く拭い、可憐な笑みを浮かべて振り返り、

  「それでは『化』の家の長様ー、よろしくお願い致しますね。」

  と、先までの蛇のような狡猾な顔が嘘みたいに完璧に笑って見せたのだった。

  そして、女は人差し指を口に持って来て『そうそう』と、続ける。

  「このことは他言無用で…。お代はそちらに置いておきましたよ。」

  と、言い残して、屋敷の方へと歩いて行った。

  

  途中で、いつの間に来ていた参拝客に軽く腰を折って挨拶し、今度こそ女は姿を消した。

  「見られてないだろうな…」

  あの参拝客に見られていたとしたら、シノビ失格どころかヒトとして大失態だ。消さなきゃ。

  だがしかし、あの女と普通に挨拶して、とくに視線をこっちに向けたり、ぎこちない歩きかたをしていないところを見るに、先の醜態は見られてはいないのだろう。

  そう、信じよう。

  「はぁーあ……」

  

  チラリと足元を見ると、確かに、いつもの報酬を支払う時の銭袋が置いてあって、その膨らみはいつもと同じく、潤沢に金が入っていることを示していた。

  聞きたいことを、無理矢理有耶無耶にされ、多分これは承諾したということになってしまったのだろう。

  

  銭袋を掴み、懐に入れる。

  懐に入れる際、自分の胸がさっきまであの女の手に撫でられていたことを思い出し、その感覚を早く忘れるため、晒していた半身を、垂らしていた布で覆い隠した。

  そして口を拭い、唾を吐き捨てる。

  あの女の舌を受け入れるぐらいなら、自分の舌を噛み切ってやればよかったと、接吻の感触が残る口をモゴモゴさせながら、カガチは山を降りて行った。

  他言無用なんて言われなくても、こんなこと、誰が話したいと思うものか。人妻に組み敷かれ、あまつさえその唇を許したとあっちゃ、家の者にですら軽蔑される。

  「っち、めんどくせぇ…」

  今後の関係を考えると頭を抱えたくなる理由が増えてしまったなと、山上の建物を見ながらそう思うのだった。

  →→→→→→→→→→→→→→→

  

  山を降りて、ゆっくりと家に向かいながら歩く。

  消えない接吻の感覚を消すため、街中を、いろんなものを食べながら歩き回った。元から大層な腹太鼓が、満腹になることでさら張っていい音を鳴らしそうである。

  むしろ、そのために金を置いて行ったのではないかとさえ思う。

  「んなわけねぇけど」

  あの性悪女が、そんな気遣いできるわけない。

  というより、そんなことする必要が向こうにはない。所詮はただの口止め料だろうが。

  まぁ、どんな形であろうと得た金だ。存分に楽しませてもらって、いつのまにか時間は夕刻だった。

  

  なんだかんだ結構食べたが、それでも袋はジャラジャラと音がなるほど入っていた。

  

  「安く美味く、徹底している証拠だな。」

  最後に食べた団子の串を噛みながら、そんなことを呟く。いろんな甘味を食べて回ったが、どこの店も値段相応か、それ以上の出来合いを出してくれた。非常に満足である。

  通り過ぎるヒト並みを眺めて、目を細める。

  この町は至って平和なものだ。

  時々、たまに出歩くたびに、そう思う。

  客の訪れない暇な時に、隣の店主同士が談笑しながら時間を潰し、その談笑に割って入るように客が入り込み、そしてある程度の時間を仲良く話して、そして買い物を忘れてさっていく。

  子どもたちが街を駆け回り、こけた子を通り道の大人が手を貸してやり、街を丸くウルフが心配そうに寄り添って、そのウルフの頭を子供が撫でてやる。

  そんな様子を、片手間に眺めながら、お茶を啜る。

  物騒な家に生まれて、物騒なことを考え、たまに動く時は物騒なことをしに行く。

  世の中の悪いところを圧縮したよう人生だからこそ、この平和な町並みはカガチの中で一際輝いて見える。

  「よ、ホオズキの旦那。今日もよく食べるね」

  天を仰ぐカガチに、団子屋の店主が声をかけてくる。

  ホオズキというのは、カガチが世を歩くための名前だ。裏と表で顔を使い分ける必要のあるカガチが、表でも臆面なく生きれるようにと考えたのが、ホオズキという名前だった。

  たまに出かけた時はホオズキと名乗り、カガチという存在が表に出てこないように、そうして自分なりに自分の好きな景色を守っていた。

  「まあな、ごっそさん。久々にうまかった」

  口端に笑みを浮かべ、串を地面に突き刺し、踏んづけて地面に埋め込む。

  赤い瞳を店主に向けて、笑顔で挨拶すると、

  「また来いよ!」

  と、笑顔で送り出してくれた。

  こんな風に普通に生活しているヒトを守るために、夜な夜な悪巧みをしていると考えれば、今の仕事も捨てたもんじゃないなと思う。

  

  ただーー、

  『このことは、他言無用でーー』

  度々頭に流れてくるあの女がノイズになる。

  忘れようとすることは、忘れないことと同義とはよく言ったものだ。忘れようと思って色々食べて回ったのに、結局忘れたかどうかを頭が無意識に確認し出して、思い出す。

  多分ここ数年は忘れられないんだろうなと、ガックリと肩を落とす。

  脈絡もなく、急にあんなのかまされたらいかに経験があろうと忘れられるわけがない。しかも、相手が本家の主人の妻ときた。分家の長とはいえ、本来触れることすら許されない相手だ。

  「あぁあ…めんどくせぇ」

  持って帰って来てしまった紙切れを見て、深くため息をつく。やっぱ今からでも断りを入れに行くべきだろうか、とそんなことを考える。

  祭りの時期は遠くない。こんな悶々としたものを誰にも明かさず抱えながら、本家の奴らに囲まれるなんて地獄がすぎる。

  いつも以上に視線は鋭く感じるだろうし、そもそもこっちが言わなくても、あっちが言いふらしていたら、爪弾きにされるのは想像に易い。

  ただでさえ一族全体から嫌悪感と恐怖感を向けられているのだ。

  これ以上肩身が狭くなる可能性、本当にめんどくさいことをしてくれたものだ。

  

  それに、自分のせいで今後家を継ぐことになるだろうフヂナとスギナ、或いは可愛い弟子達が後ろ指を刺されることになる可能性がある。

  

  考えれば考えるほど最悪だ。

  なんてことをしでかしてくれたものだ。これを出汁に今後あれこれ好き勝手やらされると考えると、もうなんなら死にたくなるまである。

  

  そもそもー、

  「何やってんだよシナノ……」

  なんでこんなヤバ女の手綱を握らず自由にさせてるのだあの主人は。シナノに限って無いとは思いたいが、あの女の毒牙にやられてるわけではあるまいな。

  「今度偵察に行かすか……」

  女のあの暴走ぶりというか、奔放さを見ると、家の中でも相当やばいことをしでかしている可能性がある。シノビの隠密さは、こういうことを調査するためにあるのだ。なんて言ったらスギナに怒られそうだが。

  

  いや、あんな痴女に今後暫く家の権力をすげすげと渡すような真似だけはさせまい。

  何か弱みを握ってそれを出汁に忘れてもらうことにしよう。

  とりあえず、今度の集まりは行くとして、その後だ。

  なんとか無かったことにできないものだろうか。

  いっそのことーー

  「ネズ公ごら!かえしやがれぇぇええ!!」

  顎に手を当てそんなことを考えていると、日が沈み始めて寂しさが立ち込める街に、一つの大きな声が鳴り響く。

  

  この辺りでは珍しく無い、万引き騒動だ。多分商品を取られた店の店主が、箒片手に声を荒げながら盗人を追いかけていく。

  腕を組みながらチラリと目線を上にやると、鼠っぽい細い尻尾を揺らしながら走る影が見えた。

  「ま、めんどいがこれぐらいは……な」

  今日は登山もしたし、金も稼いだし店じまい。と言いたいところだが、あいにく腹がいっぱいで気分がいい。この辺りの店には世話になってるし、気まぐれで人助けというのも悪く無いだろう。

  

  このぐらい可愛い事件ばかりなら、カガチも楽できるってもんだ。

  

  「へへっ、せっかくとったもん返す馬鹿がどこにいんだよ!」

  「あーはいはい、そういうのいいから取り敢えず返しな」

  「なっー!」

  屋根の上、小包を小脇に抱える小鼠の前に、突如として巨体が現れ道を塞ぐ。突如現れた巨大な存在に、思わず鼠も動きがとまる。

  

  「と、呆気に取られてる場合じゃー」

  すぐにハッとしてその余計な巨体を避けて走りだす。

  すぐに逃げ出す判断ができるのはなかなか上場である。だがしかし、時すでに遅し。

  「おぉ元気だなお前、まぁ、ちっと遅かったな」

  あとミリ秒でも早く走り出していれば逃げられたかもしれないのに、その隙はシノビであるカガチからすれば万にも等しい。

  カガチの袖から飛び出た紐を引っ張り上げると、鼠の首根っこに引っかかった針ごと鼠が飛んでくる。

  「え、なんだ、なんだただだだだぁぁ!!」

  「はい、捕まえた。ほら、盗ったもん返しな。」

  空を舞い自体が飲み込めずジタバタする。そしてカガチの豊満な腹に落下し、首筋をその太い腕で抑えられ、腹と腕で顔が埋まりそうだ。

  「んむー!!分かった!!分かったから離せー!!しぬ!死ぬから!」

  小さな手足で腕をベチベチと叩かれ、うっすらと涙目が見える。少しずつ力を弱めて、睨みをきかせて

  「返しな坊主。また俺の腹に埋もれたくなかったら、今すぐその脇に抱えてんのをよこしな」

  と、どすの利いた声で脅す。

  その迫力にビビった鼠が、刻々と小さく素早く頷き、小包をカガチへと差し出す。

  「はい、素直でよろしい。お疲れさん、もう帰っていいぞ」

  

  「うぇほ、けほっ……あぁ、なんだ?俺を詰所に突き出さねぇのかよ」

  解放され、適当に屋根に放り出された鼠が涙目でカガチを見上げる。その反抗的な目線に、どこか懐かしさを覚えながら、目を細めて空を眺める。

  「俺はそんな、ヒトの悪事に優劣つけるほど偉くねぇしなりたくねぇかんな、ほら、とっとと失せろ。」

  「はぁ?わっけわかんねぇ、なんのために出てきたんだよ」

  「あぁ?めんどくせぇなぁ、そんな豚箱行きになりたいなら勝手にしとけ。俺は帰る。」

  屋根にへたり込む鼠は納得していないような表情をして、背を向けて地面へと飛び降りるかカガチを目で追っていた。

  カガチが地面に降りていったのを眺めて、『変な奴』と誰にも聞こえないように呟いて、鼠はそのまま走り去っていった。

  詰所に行くのは裏家業という名の無法行為をしてるカガチ的にも都合が悪い。だからなるべく関わりたくないというのが本音だ。

  

  屋根から飛び降りると、ずしんという重い音と共に、軽い包みを店主へと放り出す。

  「ほらよ、取り返したぜ」

  ゴワゴワとした胸の毛をわしゃわしゃ手で掻き回しながら、店主を見下げる。

  店主も顔を見上げて、一瞬ホッとしたような顔をしたかと思ったら、すぐにその眉を眉間によせる。

  「なぜあやつを逃したホオズキ!お前ならあんな輩一捻りに捕まえられるだろ!」

  と、小さい体で大きく怒る。

  

  「許せって、今日はもう食べ過ぎて体動かんのよ、取り戻しただけよしとしてくれんかね」

  腕を組んでプリプリ怒る店主にホオズキーーもとい、カガチはペコペコと頭を下げる。

  その様子を、街を行き交うヒトたちがくすくすと笑いながら通り過ぎていく。

  後ろ暗い仕事ーーその背後にあるのは食いしん坊のちょっと抜けたデカ狸。そんな日常が、カガチの数少ない楽しみであった。

  日暮に大きな影が落ちて、その日は幕を閉じようとしていた。

  

  →→→→→→→→→→→→→→→

  

  「いやぁ、食った食った」

  自慢でもないが大きい腹をパンパンに張って、夜の街を歩く。結局あのあと、盗品を返した店主の家に引っ張られ、謎に説教されながら夕飯をご馳走になった。

  めんどくさいなぁ、と思ったが、親がいたらこんな感じなんだろうなとしみじみ感じて、甘んじて説教は受け入れていた。

  そしたらこの時間だ。

  時間は既に夜遅く、シノビが活動するには最適な時間帯である。

  きっと多分、そろそろ家から誰かしら飛び出していくのだろう。

  家長として、何かそれっぽい助言でもして送り出すものなのだろうが、あいにくそういったくすぐったいことをするのには慣れていないのだ。

  いつもは家にいて、何かしら声はかけるのだが、気をつけて、以上のことを言える気がしない。

  気をつけて、以外に言うことがある時は大体スギナが伝えている。

  

  本当に優秀な弟だ。足を向けて眠れない。

  そんな優秀な弟たちの出迎えを期待しつつ、明かりの消えた町を歩く。

  数時間まで賑わっていた道も、夜となればそれがまるで嘘だったかのように不気味に変わる。

  

  なるほど、シノビが出歩くわけだ。

  不気味な雰囲気に、影に紛れるシノビはしっくりくる。

  「おぉ、今日は満月……じゃないな、まだだな」

  爛々と輝く月を眺める。まだ少しまん丸ではない。

  狸は月夜に腹を叩くとは言うが、生憎家の狸の中で腹が叩けそうなのはカガチだけだ。

  せっかく整えてもらったサラシがゆるゆるとほつれてところどころにカガチの腹の毛が飛び出している。

  

  ふふん、と鼻を鳴らして笑い、そのデカい腹をポンポンと適当なリズムだ叩きながら夜の町を歩いていく。

  

  夜の世界というのは案外昼よりも美しく、楽しいものだ。だからこそ、自分の家の業が余計に黒ずんで見える。

  だからーー、

  「お、珍しいねぇホオズキの旦那。どうだい、玉ァ揺らしてかないかい?」

  と暗い町の中で薄暗く輝くその店の前に立っている男に声をかけられる。

  カガチは少し考えるように頬をかき、

  「お前が相手してくれるんだったら、まぁ、金落としてやってもいいぜ、今日は。」

  懐から昼に女にもらった麻袋をジャラジャラと鳴らしながら赤い目を細める。

  その音を聞いた男は一瞬飛び上がり目を輝かせて、

  「おっほぉ、オレかぁ!ホオズキの旦那直々のご指名とあっちゃあ断れねぇや、ほら、入った入った」

  と、あからさまな上機嫌でさっさと暖簾をくぐっていく男を目で追う。麻袋を懐にしまいながら『厳禁な奴だな』と心で呟き、

  「おい客を置いていくな、ちゃんと準備できてるんだろうな」

  と、カガチも目を邪悪に歪めて暖簾をくぐって入っていった。

  現金なやつだからこそ信用できる。それは、カガチ達シノビの家の皆が信じる信用の掟だった。

  シノビが蔓延る夜の帷ーー、今日くらいはその業を忘れて楽しもうと、カガチは思うのだった。