その間には、静寂だけが響いていたーー。
深く深く、意識を自身の奥底へと落としていき、気を沈める。洞窟に染み入る雫のように。静かに、静かに。
正座をして、横には刀を置き、心を落ち着かせて。息も忘れるほどに。
木製の硬い床に、どんどん体が沈んでいくような錯覚を覚える。このまま深く沈んでいったら、どこにいってしまうのだろう。
厚く硬いこの板の歪みとなって、そのまま地を固め、踏み鳴らされていくのだろう。代々受け継ぐこの家のように、どんどん自分は誰かの足蹴になり、忘れられてーーそして、消えていく。
積み重なる縁のその足場、自分もそのようにして後世へと繋げていくのだろう。
そのように生きると、そのようにしか生きれないと、もう心は決まっていた。
ならば、自分はその繋ぐ縁に、何を残せるだろうか。
「…………」
目を開くと、無彩色の瞳孔があらわになる。若干青がかった灰色の目を開けて、己の芯を眺める。
固く、硬く募ったそれは、己の命、道筋そのものだ。
なんとも不器用な己には、それを握ることしかできなかった。
己の刀を手に立ち上がり、そして腰に据えて抜刀の構えーー。
「しいっ……………」
歯の隙間から空気を吸い込み、吸い込まれた空気が音を鳴らして身体中を駆け巡る。
体いっぱいに酸素が巡り、感覚が鋭敏になる。気を抜くと気圧されてしまいそうなほど、その剣厚は遥かなるものだった。
今か今かと、引き抜かれるのを待つ刀が騒ぎ立てる。
腰に据えた己が信念を引き抜くはーー。その時は刻一刻と近づいて、そしてーー、
「父様ー」
幼い声が、道場へと響き渡るーー。
ただ、その声も聞こえないほどに、その集中力は極限へと迫っていた。
薄く開いていた目を完全に見開くと、その灰色の瞳が完全にあらわになる。どんな光にも属さないその瞳を鋭く歪ませて、牙を剥いて叫ぶ。
床板が捲れてしまうと錯覚してしまうほど、強硬な踏み込み音が鳴り
そしてーー
「ええぇぇぇぇええええいぃ!!」
「うわぁっ」
剣圧と声圧、そして威圧。
振り抜かれただけだと言うのに、その剣は打ち砕かれた金属のような音を響かせながら風を起こし、幼い体を圧倒した。
まるで突風が如く己の父の剣圧を、未成熟な体では耐えることは叶わないようだ。
振られた剣からイィンと音が鳴り、その音圧が鋭く耳に沈みわたる。ただ一関、振り抜かれた剣は美しく、目も耳も奪われた。ほんの数瞬の居合、その残響が鳴りやむまでは教時間にも思えるほどだった。空気の流れが徐々に弱まっていき、耳に響く抜刀音が冷め止んでいく。
名残惜しさを心に落とす静寂が再び道場を満たし始める。ただ一つの濁った音もなく、ただ無音が耳を満たしていた。
無音の空間ーーそこには、剣士がいた。
ただ一度の抜刀、にもかかわらず剣士の額には大粒の汗が浮かんでいた。清流な一関、その一つを放つためにどれだけの集中を要したのか。想像に易いとは言えまい。
その一閃は、その剣士が培った技術の髄。剣の知識などない、素人目からですら簡単とさ言えない所業だった。
鋼の音がやみ、剣士は肺に残っていた空気を吐ききり、再び時吸を始める。全属の鋭い音と入れ替わるように聞こえ始めた呼吸音は、確かな温かさをもっていた。
チンっと剣が鞘に収められる音がして、剣さは己の小麦色の毛を濡らす大粒の汗を手で拭う。
一関、それだけなのに額に浮かぶ汗の量は、重労働をこなして後のようだった。
また後で水浴びをしなければいけないなと、そんなことを考えながら、ふと戸の方を見ると、そこには自分の姿を小さく模した、小麦色の子大がたおれていることに気づいた。
口も目も開きっぱなしで、立ち上がることも忘れて呆気にとられている。そんなかわいいわが子の姿に、剣士は頬をほころばせる。道場を満たしていた剣呑な奮囲気が消えさって、山々の音が響き始める。
倒れている息子のところまで歩き、腰を下ろして、優しい目を向ける。
すると、小さな耳をぴょこんとはねさせて、呆気取られて惚けていた精神がすとんと体に舞い戻る。そして上体を起こして、小さな手を胸の前で握り、灰色の目にキラキうとした目を向ける。
「やっぱり父様はすごいです!あれだけの剣気、なかなかに見れないのです、です!」
しっぽをぶんぶんとふり回しながら、それは嬉しそうな顔でシナノを見る。齢八歳、まだまだ子どもである。そして好奇心旺盛な年頃だ。この輝きは、父親として伸ばしいかなければなと思う。
はしゃぐ我が子ーーモガミの小麦の毛を生やした頭を撫でてやると、嬉しそうに頭を押しつけてくる。数秒の穏やかな時間が流れ、モかミがハッと顔を上げる。
撫でられた感触を忘れまいと、自身の頭に小さい手をのせて、
「父様父様、スギナ兄ちゃんが父様にお話したいって、来てました!」
「スギナ殿が..。そうか、もう約束の時間だったか。」
日はちょうど頂点を通り抜け、傾き始めた頃。午後の日差しが立ち込めていた。
モガミに手を差し出して、そのままひっぱりあげながら立る上がる。灰色の目に陽の光が入り、思わず目を細めてしまう。雲一つない、良い天気であった。
「行こうか、モガミ。随分とお待たせしてしまった。」
「ハイッ!こっちです!」
甚兵衛の隙間から飛び出たしっぽを揺らしながら、モガミが走っていく。その後ろ姿を眺めて、
「こらこら、転ぶなよー」
と眉をハの字にしながら後をゆっくり追い始めた。
→→→→→→→→→→→→→→→
「スギナ兄……ちゃん!」
「おわっと、元気だなぁモガミ殿ぁ」
駆け出した勢いはそのまま、境内の神殿前に立っていたスギナの足にモガミが飛びつく。
飛びついてきたモガミの首元をわしゃわしゃしながら、スギナは顔を上げて、後から来た小麦色の剣士へと視線を向ける。
「こんな格好ですまないね、スギナ殿。元気だったかい?」
「お久しぶりだぜシナノ殿、ウチは全員元気にやってらぁよ。」
主人たるものへと態度とは思えないほどスギナの口調は砕けていた。だが、そんな砕けた態度が嬉しいのかシナノは口元を緩ませる。
「僕も元気にやってらぁよ!スギナ兄ちゃん!」
「お、そりゃぁいいじゃあねえかよ。ほぉれわしゃわしゃ」
スギナがさらにその器用な手を使って全力でモガミの毛をわしゃわしゃと撫でてやると、『きゃー』とくすぐったそうに笑いながら地面へと転がる。
その乱雑に地面に擦り付けられる服は一体どんな素材でできているのだろうか。まあ、安くはないだろう。
一通りくすぐってやるとモガミは満足したのか、舌を出しながらシナノの足の裏へと隠れる。
「あれぇ、急に反抗期?兄ちゃん悲しい」
「今日は大事な話って言ってたから、これで勘弁?してやる!へへへ」
「おぅおぅ、えらいこった。んじゃ、母ちゃんの手伝いでもしてやんな。」
「うん!スギナ兄ちゃんもまた遊ぼうね、バイバーイ!」
小さい手を大きく振りながら、モガミが屋敷の方へと走っていく。途中で転びそうになりながらも、その姿は屋敷の中へと消えていった。
最後に、屋敷の影から顔を出して手を振ってくるのに手を振りかえし、それで無邪気な時間は終わった。
立ち上がり、腰に手を当てて静観していたシナノへと目を向ける。
「あれで俺の主人になるかもしれないってぇんだろ?怖いったらないね。」
「そうかな?何気君は気に入られてる。右腕になれるかもしれないよ?」
「まさか、だったらシナノ殿。アンタもうちの兄者を右腕にしてるでしょうよ」
ヤシロ家現当主ーーシナノ。『化』の家の長であるカガチ。そのカガチが主人と仰ぐ、いわばヤシロ家の頂点。
スギナから見ても、もっとも高い位置に置くべきお方だ。
小麦色の毛に、灰色の目。カガチに比べたら二回りほど小さく、なんなら目線はスギナよりも下だ。
だがしかし、道着に身を包んでいるというのに、その下にある肉体はしっかりと鍛えてあることがわかる。その腰に下げている剣を、巧みに操るのだ。
その後継、それがモガミだ。
今はあんなふうに無邪気にふわふわしているが、もう少し成長したらヤシロ家当主としてスギナをこき使う立場になるのだろう。それはそれで楽しそうだし、面白そうだ。
スギナは「まぁ」と口元を歪めながら、
「うちの兄者はやらねぇけどなぁ、当主様よぉ」
飄々と、そう言ってのけるスギナ。
それに対してシナノは、
「要らないよ、カガチはカガチだ。」
と、すっぱりと切り捨てる。その表情は少し寂しそうで憂いを含んでいた。だが、すぐにその表情は鳴りを顰めて、いつも通りの幼さが残るいつもの剣士の顔へと戻る。
スギナはその答えに不満そうに目を細めて、
「そうかよぉ」
と、口を溢した。
別に兄者ーーカガチにシナノの側近になってほしい訳じゃない。アレでいないと困る存在だ。普段太々しくああやらこうやら言いながら、それでもよく見ていて全員の状態、状況を把握している。
カガチだからこそ統制が取れているのが現在の『化』の家だ。
だが、こうもはっきり『要らない』と言われると少し思うところがある。それも、煮え切らない表情と共に放たれたのだから何よりだ。
シナノはふっと口元に笑みを作ると、
「スギナ殿、カガチのこと、好きかい?」
「んぇ?あぁ、おう。俺たちの自慢の兄者だぜ。教えんのうめぇし、なんだかんだなんでも大体できるし。どこに出しても恥ずかしく……んゃ、結構恥ずかしい……いやむしろ表に…出せない…?」
自慢の兄者、ではある。
が、それがどこでもお出しできるか、と言われるとそれはノーだった。どこに出しても恥ずかしいし、どこに出すこともしたくない。せめて身だしなみだけはきっちりしてほしいものだ。
頼りになるかと思えば、家でぐだぐだと過ごして、何か動き出したかと思えば街でフラフラと食い歩いて夜明け近くに帰ってきて寝て、なぜか規則正しい時間に起きてくる。
「割と、いや、表に出しちゃダメなモンスター…!?」
「そ、そんなにひどいのかい、カガチ…」
スギナの答えにシナノも流石に想定外だったのか気まずい顔だ。
顎に手を当てて普段のカガチについて考えると、むしろなんでアレで許されてるのか疑問に思えてくる。
「すまんシナノ殿、ありゃ外に出せねぇわ…」
「カガチ……何をしたらそんな評価になるんだ…」
何をしたらと言われたら、何もしないから、なのだが。
これで完全な無能ならまだ言いようもやりようも捨てようもあるが、アレでいてシノビとしては優秀で、最近はなぜか魔術の研究まで初めて。
シノビとしての誇りも何もないのに、なぜかその技術だけはずば抜けて高い。生活力もそれだけあげてほしいものだが。
「なんか、すまないね…。」
「いやぁ、ありゃあ兄者がわりぃわ。やっぱ貰わね?シナノ殿。追い出した方がしっかりしそう。」
まあ追い出したら追い出したで、いつのまにか自分の部屋に戻ってそうなのがカガチだが。
追い出した先でいい感じに自分の自堕落生活を構築してそうでもある。厄介モンスター。
「お荷物を主君に捧げるとは…なかなか面白いことを言うものだね。もう一度言うけど、要らないよ」
「フヂナもつけるけど?」
「兄君を簡単に売らない!」
フヂナもセットで追い出したら流石に手が回らないので、まあ、冗談だが。微妙な表情をするシナノ、対して同じように微妙な表情をスギナもしていた。
なぜだろう、敬愛しているはずの兄なのに、考えれば考えるほど厄介なお荷物みたいな存在になるのは。
「兄君二人、君の唯一の肉親だろう?冗談でも、売り飛ばそうなんて口にするものじゃないよ。」
「分かってるって、照れ隠しみてぇなもんだよ。」
有能な兄二人、その二人のおかげである程度自由が効く。理解してる。
シナノが苦笑いしながら口に手を当てて、
「言霊はあるんだよ、易々とそう言っていいものではない。」
「言霊ねぇ…言ったらそうなるってやつだろ?」
「そう、言葉は力だ。曖昧なものをハッキリとさせる。それは不確定な幻想を、現実に起こさせるんだ。」
「……呪術的な話か?」
「違うよ、もっと大事な、感情の話さ。兄君を、大切にする想いを無碍にしてはいけないよ。」
お叱りの言葉にいまいち要領を得ないスギナにシナノも苦笑いが絶えない。
言葉にしたものが現実に、なんて突飛な説明をした自身も悪いと思うが。
「それで……祭りの話だろう?」
「それだ、それ。その話しにきたんだった。」
思ったよりもゴミみたいな実兄の話をしに来たわけではないのだ。
もうわずか三日後に迫ったヤシロ祭。その出店を、『化』の字の家も出すのだ。
こういう時ぐらい、嫌な顔せず他の分家とも交流したいものだ。
「兄者がよぉ、神楽の前に来いって言ってたんだよな」
「カガチが?またなんで?」
「さぁ?兄者に聞いてもなんでか教えてくれない」
肩をすくめながら、スギナは告げる。
昨日突然、肩を掴まれながら言われたのだ。『シナノを出店に連れてこい』と。
理由は答えてもらえなかった。
カガチ自身が出店に顔を出すつもりもないくせに、一体何をしようと言うのだろうか。
もっとも、
「神楽の前…は、流石に外せないかな…」
「だよなあ。」
神楽、この国を潤沢な魔力で満たすヤシロ様への感謝と祈りを告げる舞。毎年、ヤシロ家の当主が舞って、その祭りの一番の見せ場となる。
「シナノ殿ヘッタクソだもんなぁ」
先代の神楽を知っているから、尚の事。本人はいたって真面目なのだろうがどことなくぎこちなく、それでいて何か独特なオリジナリティを感じる、なんと言うのだろうか。お遊戯会とでも言うのが正しいだろうか。
ちょっと笑えてくる。
「流石に不敬であるぞ…」
自身の神楽をストレートにへたくそ呼ばわりされ、流石に赤面するシナノ。
だが、脳裏にスッと独特すぎる神楽の一部が再生されて思わず微笑してしまう。裾で口元を隠しながら、
「おっと、化け物ジョーク、うまいうまい」
声にすでに笑い声が漏れているため、もはやバカにしてるようにしか聞こえない。実際バカにしてるのだが。
「ここに丁度いい刀があるのだが…」
耳の先まで真っ赤に染まったカガチが必死の形相で自身の腰に下げた刀に手をかける。
流石に抜刀されてはたまったもんじゃないので、ポンと木の上に移動して刀の射程範囲から消える。
シナノはその高速移動を見逃さず、赤面したままスギナの方を見上げる。
「降りてこい!主君命令!」
「うちのトップは兄者なので、兄者通してください」
「ああいえばこう言うなぁ、もう」
カガチを通されることは実際ほぼない、ということは黙っておこう。実際に依頼の分別をしているのはフヂナである。
笑いたくなる衝動を無理やり抑えて、スイッチを切り替えてキリッとした表情でシナノに告げる。
「我が敬愛する『化』の字の長、カガチから当主様へ。神楽の時が前に、遊興の時をお誘い申し上げる。」
恭しく一礼をして、シナノの灰色の目を見る。
急に形式張った誘いにシナノの顔の熱が飛んでいく。シナノは腕を組み、刀に手を置きながら喉を唸らせる。
下手くそと嘲笑ってもシナノは否定しなかったように、シナノにとっても自身の神楽の珍妙さは深刻な問題なのだ。舞って十四年。未だに師範からの合格点はもらえた試しがない。だから、神楽の前とは言わず、祭りの始まる前から舞の練習はしておきたい、のだが。
「………いや、やはり無理だ。衣装の着付けの準備もある、神楽前はやはり時間は取れないだろう。」
目立つし。何より自由に動ける時間がほぼない。
誘いは嬉しいし、実際出店への興味もある。だが、役目は果たす必要がある。当主として、在るべき務めがある。
だが、
「……神楽よりそのもっと前、祭りが始まって間もない頃なら時間を取れるだろう。」
祭りが始まってすぐならば、まだ余裕がある。
本当ならばその時も神楽の練習に注ぎ込みたい。だが、
「そちらの長殿にも長いこと顔を合わせていない。祭りの時、それから半時間ほどなら時間を作ろうか。」
『化』の家の長ーーその切れ長の目を思い出す。凶悪な顔つきの男だった。たまの家同士の集まりでも、いつも不機嫌そうに、窓際で煙管を咥えながらその時間が過ぎるのをぼーっと待っている。
家の者たちもみな、そんなカガチの態度を見て口元を隠し、極力聞こえないように悪言を放つ。
『化』の家は、シノビの家系。
その姿は夜闇に紛れて、暗躍する得体の知れない集団。その組織のあり方から、本家ですらその内情をほとんど把握していないし、聞いてものらりくらりとかわされる。
たまに家に訪れてみれば、なんの不思議もない整えられた客間に通され、『化』の家で暮らす狸達も、他の家のヒト同様、恭しく首を垂れる。
そんなよくわからない家の長ーーそれがカガチだ。
いつ寝首をかかれるかわからない。だからなるべく関係を持たず、下手な恨みを買わないようにする。
そんな場所でずっと、カガチは居心地悪そうに窓の外から山麓を眺めて煙管をふかす。
みなの侮蔑、恐怖、疎外の目を一点に受ける『化』の家。
そんな家の代表として、それらの目を一点に受けるカガチーー。
だが、シナノにとってカガチはーー
「寛大なお心遣い、感謝します。当主様」
脳裏に浮かぶカガチの像を見ていたシナノの傍で、いつのまにか木の上から降りていたスギナが作法通りに頭を下げる。
片膝をたて、たてた膝の上に手を置き、頭をシナノへと下げる。
先程まで軽薄だった彼も、こと仕事をこなすとなればしっかりと形を通す。スイッチのオンオフを徹底している。
カガチの教育の賜物だろう。
そんなスギナの姿勢にどこか悲しさを感じながら、シナノは灰色の目を山の麓へ向ける。
決して簡単ではないヤシロ本山への登山。
階段があるとはいえ、その段差は千を超える。参拝客も多くなく、山の上まで登ってくるヒトは少ない。
だが数日後ーー、祭囃子が鳴り響く頃にはこの階段も境内も多くのヒトで埋め尽くされるのだろう。
その光景の一端に、あの狸と逢瀬を交わせたらーー。
シナノはふっと柔らかく笑い、頭を下げるスギナへと振り返り、鞘に収めた刀をスギナの首へと当てる。
「当主シナノが命じる。『化』の家の者よ、己が主人に告げよ。祖が申し出、承ったと。黄昏時、境内の外れで待つと。」
命じる。その命を使って、役割を果たせ。
これはそういう『言霊』である。
形式ばっかを重視する気はシナノにない。
だが、相手がそれを重んじるのならそれに応えるべきだろう。
スギナが首に当てられた刀に触れ、顔を上げる。
カガチと同じ切れ長な目だが、カガチほど圧力はない。三白眼じゃないし、目の色が柔らかい緑色だからだろう。
「その使命、承りました。必ずや果たしましょう。」
灰色の目と緑の目の交差があり、ここに契約は結ばれた。
文字通り命を賭してこの役目を果たす、そういう契約だ。
シナノは刀を腰に戻し、深く息を吐いて
「これでいいかな、スギナ殿。」
と、緊張の糸がほぐれたように抜けた声をかける。片膝をついたままのスギナへと手を伸ばすと、スギナはその手を掴み立ち上がる。
そして、切れ長な目でニッと笑い、
「おぅ、感謝するぜいシナノ殿。合わせてくれてありがとうよ。」
そう言うとスギナは再び風のように走って木の上へと隠れる。
シナノの目にはその動きの始終がハッキリ見えている。素早く、相手の死角を取るための動きだとわかる。
「もう行くのかい?あれなら、茶の一つでも入れるが…」
「それ、淹れんのはシナノ殿じゃないだろって」
「いやあ、流石に茶を注ぐぐらいならできるよ」
手で急須からお茶を入れる動作をするが、その入れ方だと蓋が落ちて茶が溢れる。そのことに気づいていないのか、シナノは自信満々である。そんなことで自信満々のうちの主人、なんなんだろうか。
多分このヒトを台所に立たせたら家は燃えるし味噌汁は地でできてるし野菜の中から指が生えてくるのだろう。
そんな大惨事の目撃者になるわけにはいかないので スギナは微笑を返して遠慮の姿勢。黒い頭巾をかぶってそのまま山を降りようとする。
が、ふと視線を感じるチラリと目をやるとーー
「あーー…」
わざとらしく、シナノに聞こえるように声を出して、かぶった頭巾を一度外して再びシナノを見下ろす構図になる。
腰に手を当てて遠景を眺めていたシナノが、その音を小さな耳で拾い、スギナの方へと目をやる。
「シナノ殿、奥方は…あー、どうした?」
「妻かい?妻なら家にいるが……必要なら呼んでこようか。」
我ながら変な聞き方をしたなと思いながら、視線を感じた方へと再び目をやる。
そして、再び視線をシナノへと戻し、
「……いや、大丈夫だ。奥方にもよろしく言っといてくれや。モガミっ子の成長喜ばしいなってな」
「…?あぁ、伝えておこう。」
「…あぁ…じゃ、帰るわ。」
「あぁ、気をつけて。」
頭巾をかぶって山の茂みへと消えていくスギナを目で見送って、境内にシナノが一人だけ残される。
否ーー、
「うーん、私が何かしてしまったのだろうか…」
チラリと境内の奥の木の方へ目をやると、その木の中程で不自然に枝が揺れた。
そして境内は今度こそシナノ一人だけのものとなる。
静かな境内で、腰に携えた刀の鞘に手を置き麓に続く階段を眺める。
風が吹き、シナノの後ろ髪を短く束ねる白い帯が風に乗って泳ぐ。その白い線が泳いだ先に目をやると、大きな積乱雲がもくもくと立ち込めていた。
鼻を効かせるとなんとなく湿った気配を感じた。
「雨が降らないといいのだが…」
年に一度の大きな祭り、雨で中止になってヒトが集まらずとも神楽は執り行われる。
不恰好な神楽、見るに耐えないそんな舞。代々受け継がれてきた中で、シナノほど不器用に舞う者はいなかっただろう。
ヤシロ様へと捧げる、神聖な時。民衆に見られることが目的じゃない。不恰好でも、そこに気持ちが宿ればそれは意味をなすと。そう思って毎年神楽を舞うのだ。
だが、せっかくなら多くのヒトが神楽の時を共に過ごし、シナノの舞を見て少しでも楽しんでくれたらと、そう思うのだ。
雨で中止なんてそんな事態になってくれるなと、言霊は命ずるのだった。
→→→→→→→→→→→→→→→
入道雲が移動してきて、太陽を覆い隠して森の中は暗がりへと変わる。
そんな暗がりの中、言い争う声が聞こえた。
「あなたはなんですか、バカなんですか。カガチ様の実の弟の分際でなんなんですか。」
黒…ではなく、灰色の装束に身を包みながら、その隙間から目を覗かせるのはカドマだ。
カガチに命じられ、本家の奥方を監視していた、はずなのだが。
「うるせぇ、俺は兄者と兄貴と違って頭使うのは得意じゃねぇんだよ。そもそも、あんな目配せ一つで何が聞きたいかまで察せねえってぇの。」
山の中腹、カドマに首根っこを突然掴まれて宙ぶらりんになりながらスギナが答える。
先程境内で、わざとらしく視線を飛ばしてきたのがカドマだ。おそらく、シナノから奥方の最近の家での動きを聞きたかったのだろうが。
「それ含めて調査すんのがお前の仕事だろうがよ、そんなだからハドマに追いつけねぇ…うわっぷ!!」
突然首根っこを離されて、そのまま地面へと顔から落ちる。柔らかい土と落ち葉で構成された地面は、スギナを怪我させることなく優しく受け止めた。
「今姉様は関係ないでしょう。もう、シナノ様に気配を悟られました。どうしてくれるんですか。」
「俺が知るかよ、己が未熟さをヒトのせいにしてっからお前は二番手なんだよ。」
「…!そんなことーー」
ーーない。
「ーーあるだろ」
カドマの首筋に、いつのまにか冷たい感触が当てられていた。それは、さっきまで地面に倒れていた男のものであった。すなわちーー
「俺の姿を見てるはずなのに、こんな簡単に背後を取られる。未熟以外のなんでもない。」
「ーーっ」
死んでいた。
これが、本当の戦いなら。首筋に当てられたクナイ。これを引かれただけで今カドマは死んでいた。なんなら、もっと容易く、これが喉元に突き刺さるだけでーー。
「カドマ、覚えておきな。兄者はあぁだから俺たちゃ割と軽い間柄だ。それが兄者の方針だから、俺もそれに従ってそれなりに自由にさせてもらってる。」
冷たい声がカドマの耳に入り込んでくる。冷や汗が止まらない。スギナは「だがな」と、続ける。懐に潜む暗器の音をわざとらしく鳴らしながらーー
「俺は、筋は通すぞ」
「……っ!!!」
その声は何よりも冷ややかで、何よりもカドマの脳をつんざいた。
殺意、敵意、わからない。ただ、その言葉を聞いた瞬間、反射的にカドマの体は後ろに立つ男へと足を回して蹴りを喰らわせた。
それは、自分の魂が鳴らす警鐘。抗わなければ死ぬと、そのように自分の魂が叫んでいた。
勝手に動いた足の先には、すでにスギナはおらず辺りを見回す。
「ひでぇよカドマ…落とすこたぁねぇだろ…」
次にその声が聞こえたのは、カドマがスギナを放り捨てた先。倒れたスギナが地面に手をつき、状態を起き上がらせようとしていた。
「今……確かに、」
首筋にあった冷ややかな感覚はすでに消え失せていた。命の危険はない、だが。
恐怖は確実に刻まれた。
逆らったら、じゃない。機嫌を損ねたら、でもない。
何が引き金でさっきの時間は訪れた。スギナのあんな顔、今までだって一度も見たことない。
なんだ、何が、なにがーー
スギナはさっきのことは無かったかのように木をするすると上り、カドマと目が合わさる高さまでくると、
「じゃ、俺は帰ってるからよぉ。邪魔して悪かったな。」
「いえ、別に…」
何もなかったかのように振る舞うスギナ、でも確かに、スギナの目にはさっきまでの冷ややかな影が落ちている気がしてーー。
「あ、そうそう。」
そのまま降りていくものだと思っていたが、黒い頭巾を被ったスギナが振り返り、
「俺たちは『化』の家だぜ、化かして馬鹿して上等だろ。シナノ殿も分かってらぁよ。」
「……そう、ですね。」
背中越しに固い木の感触を確かめながら、腰の暗器に手を添える。背中は取らせない。相手に先に命の値踏みはさせない。
次は、絶対に目をはなさい。次は絶対に目をはなさい。次は絶対にーー
緊張し体を強張らせるカドマを見て、スギナは不思議そうに首を傾げ、
「ま、邪魔したな。また『次』、家に戻ったら話そうぜ。」
そう言って、黒いシノビは手を振りながら影を落とさず消えていった。
「ふ……ぁ…」
緊張の時間が過ぎ去り、身体中の力が抜けて自身を支える木の枝に座り込む。
「次……次は、ない…」
何に対して、何にかかってる言葉だ。
分からない、分からない。何が、どれがスギナの本性なのか。いつもの軽薄な、それでもカガチへの忠誠は欠かさないスギナ。
あんな顔、今までで一度だって見たことなんてなかった。
何より、あのカドマをも凌ぐ身体能力だ。
なぜあれを誰にもどこにも、カガチにも見せないのだ。
現在『化』の家のツートップ、姉のハドマ、弟のカドマ。この二人をカガチはいたく信頼している。
それゆえに危険な任務も多いが、それだけ信用を得ている証拠でもある。あの家で、自分はカガチから見て姉の下で、カガチからみて二番目で。
だから、姉に対抗心を燃やした。だがーー、
『俺は筋は通すぞ』
冷ややかな声が聞こえたのは、それだけカドマの脳に深く傷を残したからだろう。傷跡は、簡単には消えない。
分からない、分からない。
「姉様……」
聡明な姉なら分かるのだろうか、自分の過ちが。
スギナの感情が。
カドマのこの気持ちが。
「……雨…?」
不意にポツリと水滴がほおを撫でた。
木の枝越しに、黒い雲が空を覆っていることに気づいた。
おそらく今から夕立が降るのだろう。
「……今は…」
雨を凌げる場所までーー。
ささくれ立つ心を抱えた灰色のシノビが、森の奥深くまで消えていく。
その足音を、雨は優しくかき消した。