閑話五話『カガチ』

  

  ーーー

  いつだって、俺の後ろをついてきた。

  いつだって、俺がお前を見下ろしていた。

  いつだって、俺の方が強かった。

  いつだって、俺はお前と笑っていた。

  いつだって、俺が守ってやるんだって、そう思ってた。

  いつまでも、ずっと、これからも、一緒にいると、そう思っていた。

  いつからだろう、お前の横に立つことを諦めてしまったのはーー。

  お前の横で、笑えなくなってしまったのはーー。

  →→→→→→→→→→→→→→→

  カガチという男は、どこまでも怠惰な狸であった。それは、家業に対しても、遊びに対しても。自分の感情に対してでさえも、カガチは怠惰であった。

  

  どんな感情にも「めんどくせぇ」の一言で蓋をし、世間とのズレを無理やり上書きして、間違っても世間から浮かないようにすごしてきた。

  幼く親を亡くしたカガチは、十二を超える頃には、『化』の字の主人として振る舞うことを強いられた。

  他の家から特段浮かないように、自身の家の仕事に向き合い、真面目で臆面ない姿で皆を化かしてきた。

  

  そんなカガチを当時の当主も、分家の長たちも、好意的に見ていた。ただ唯一、カガチ当人だけは本来の自分と周りが求めている自分への『ずれ』に対する言わんとし難い違和感を抱えていた。

  その頃からカガチは、自分の仮面にホオズキという名前をつけて、本来の自分とは別の『誰か』に化けることにした。

  家で弟たちを使役しながら怠惰に過ごすカガチ、外で勤勉に働きながらいい顔をして過ごすホオズキ。

  その二つの顔を思春期の頃から使い分けることを知ったカガチは、世間の誰もが本来の自分を偽って生きていることに気づいた。

  誰もがみんな、めんどくさい『誰か』を演じているのだと。

  「めんどくせぇ、人生。誰のモンか分かったもんじゃねえ。」

  カガチを生きるのか、ホオズキを生きるのか。

  おそらく、ホオズキを生きるのが世間の目からのウケはいいのだろう。

  一体誰のための人生だ、誰のためのカガチなのか。

  喜びたい感動も、怒りたくなる葛藤も、泣きたくなる衝動も、楽しみたい欲求も、何もかもが途端にバカらしく感じて。

  

  そんな仮面を演じる人生に意味はないし、そんな人生で得る感情は偽物だし、そんな人生で貰う評価は、他人のものだ。

  他人のために、自分を生きる。なんのための、人生。

  めんどくさい、だからめんどくさい。

  誰かのため、誰のためか、自分が生きるためか。否、世間から排除されないためにカガチの人生はホオズキを生きている。

  ホオズキの仮面ばかり厚くなって、いつしかカガチが偽物へとすり替わる感覚があってーー。弟達の前でも、気を抜く家の中でも、いつしかホオズキが顔を見せるようになった。

  そんな中、カガチが唯一素面にならざるを得ない存在がいた。否ーー、素面のカガチでも許してくれる存在がいた。

  「この度、次期当主として拝命した、シナノと申す、申します。各家の長共々、これからよろしくお頼みします。」

  いつもの家長会議、いつも通りホオズキがその場に居続けるのだろうと思っていた。冷め切ったカガチの精神は、いつの間にか鳴りを潜めていた。

  だというのにーー、

  いつぶりか、久しぶりに直接目を交わしたその時、カガチの中で埋めいていた灯火に再び熱がこもったのだ。

  小麦色の毛を揺らしながら、特徴的な灰色の目で眺められた時に、カガチは再び目を覚ます。そして目を覚ましたカガチの精神は、ホオズキの面へとヒビを入れた。

  いい子を取り繕っていたカガチが、急に態度を悪くさせたのは、先代から当代へ、当主が変わったのとはぼ同時だった。

  当主に対してあって当然の敬意を示し、他の家の長とも外面良く接していたカガチは失われた。その豹変に全家は困惑し、カガチを恐れ、遠ざけた。

  『化』の家の長が、ヤシロ家の者共をも化かし始めたと。

  そんなカガチを良い目で見る存在は、そこには居なかった。皆が慣れ親しんだホオズキの面、その残滓は時間が経つにつれて消えていく。皆がカガチを不審な目で見るようになるまでそう時間はかからなかった。

  我ながら、子どもだなと思う。

  大人になりきれなかったなと思う。

  でも、本当に子どもでありたい時期を大人しく過ごしたのだ。めんどくさい人生観を持って、大人になる齢になってしまったのだ。

  だからカガチは、他の家から、弟達から、弟分から、シナノからどんな目を向けられようと、カガチであり続ける。

  

  不快な目も、不愉快な雑言も、甘んじて受け入れよう。それこそカガチは己をも『化かす』ことには慣れているのだ。

  怠惰で不遜な自分を周りがどう思おうと、心の奥底にある灯火を絶やさないよう『カガチ』であり続ける。

  この想いだけは、偽りにしたくない。

  『化』の家長カガチは、化かし続ける。自分と他人の表層だけの関係を、あの手この手で化かし続ける。カガチが生きるホオズキを、世間が求める果実を腐らせ続ける。

  只一人、彼を幼くから知る現当主ーーシナノだけは、そんな彼の姿を好意的に見ていた。

  

  笑って、見ていた。

  →→→→→→→→→→→→→→→

  カガチが木の上へと消えたのを見届けて、女は足早に境内へ続く階段を駆け降りる。すれ違う客達への挨拶は忘れず、外面良く振る舞い、階段を踏み外すことなくいそいそと降りていく。

  そして山を半分ほど降った場所で、待ち合わせた人物へと唇を開く。

  「ことは計画通りに。参りましょう」

  女の声に耳を反応させ、寝そべるウルフを撫でる手が止まる。

  それは、水色の毛を生した狼だった。彼は灰色の頭巾を外し、深青の双眸を露わにした。露わになった顔には、幾つもの傷跡があり、その顔はお世辞にも端正とは言い難いものだった。

  狼は最後にウルフの耳を軽く撫でて、視線をウルフから女へと向ける。

  「約束通り、個がするのは其の護衛だけだ。」

  と、女との契約に齟齬がないことを確認する。傷跡の深い左目で鋭く睨まれると、女は「ええ」と頷き、

  「契約に違えなく、貴方は…私の命を守った….。そのために力をお借しくださります。」

  それは二人の間にのみ交わされた契約。その他には立ち入れない領域。契約の認識にズしがないことを確認し、二人は動き出す。

  山上の惨状を賛辞する、催事の祭の裏、些事止むそのために。

  →→→→→→→→→→→→→→→

  煩わしいほどに、祭囃子の音が、響いていたーー。

  

  「やぁ、カガチ。」

  小麦色の毛を風になびかせて、酒瓶片手に黄昏る当主がーーシナノが、そこにいた。

  灰色の目は、カガチの存在をしっかりと認識し、無彩色の瞳に色を映す。

  「こんな時間から酒盛りたぁ、いい御身分だなシナノ。」

  「知らなかったのかい?私はいい御身分なんだよ。」

  「知ってるよ…だから、俺はここに来たんだ」

  鼻を鳴らしながら、珍しく自分の立場を誇示するシナノ。おそらく既に酔っているのだろう。神楽の前だというのに、おちゃらけた当主様である。

  そうーー、神楽の前。

  

  意図して設けたわけではない約束の時間、場所。ただ一度、ゆっくりシナノと話す時間が欲しかったために持ちかけた対談の時間。本来ならシナノと共に盃を交わし、酒を楽しみながら互いの近況や愚痴を交わすーー。その機会になるはずだった。

  そして何より、あのいかがわしい女の裏を話すはずだった。

  埋め火を、焦がすはずだったーー。

  それが今からーー、

  シナノは酒瓶をグラグラと揺らして、いっぱい飲み干す。そしてふぅ、と息を吐き、視線はカガチの顔から少し下がる。そして、ふっと鼻で笑うと、

  「相変わらずのデカ腹とは、弟君にやかましく言われているだろうに」

  「生憎だが、俺はこれで勝ってきてるからな。文句なんざ出てこねえ」

  ある意味自慢の腹太鼓をバシバシと叩いて、カガチも苦笑いで返す。

  挨拶と軽口代わし、そして猶予はない。

  本当に、嫌な場面と時間を選ぶ。

  神楽までの猶予は一時間ほど。準備の時間を神楽に含めるなら三十分とない。カガチにあるのは、その三十分の猶予だけだ。

  その三十分の間にシナノの身柄を確保し、目をくり抜き、カガチの血で偽装する。偽装するための時間も含めれば、尚のこと時間などそこにはない。

  「…刀、持ってきてんだな。」

  「あぁ、勿論だとも。この私が私たるための道標だ。なんなら、私の剣舞でも見ていくかな?」

  そう言ってシナノは刀を引き抜き、手の中で軽く揺らし始める。力なく振られた刀はふにゃふにゃと、ナマクラのようにシナノの手の中で踊る。

  そんなシナノを見て、カガチは大きなため息をついて赤い瞳を細める。

  「酔ってんのか?そんなんで神楽が務まるのかよ、ヘボ主人。」

  「失敬な、これでも十年以上舞を奉納しているのだ。それに、千鳥足な私の足踏の方が謎に評価が高い。必要だから飲んでるに過ぎないのだぞカガチ。」

  「知ってるって……にしても、酔ってんな。」

  「刀が私を支えて、酒が私の足を揺らす。攻守万全といったところだ。今なら負ける気がしない。」

  「……あぁ、勝てる気がしねぇ。そのまま寝てくれりゃ楽なんだがな」

  フラフラと体を揺らすシナノ。流石に危ないと思ったのか、刀を鞘にしまい、近くの幹に腰を下ろして空を眺める。

  頬を赤く染めて、完全に酔いが回っている。毎年神楽の際には酒を飲んで気持ちを高めているとは聞いているが、まさか毎年こんなに酔うまで飲んでいるのだろうか。

  

  カガチの心臓は揺れていた。

  それは、想い人が自分になら無防備を晒してもいいと思っていることへの、微かな誇らしさだった。こんなになるまで酔っ払って、刀から完全に手を離して座って空を眺める。これ以上ないほど、無防備な姿をカガチに晒していた。

  本来なら、ここでシナノと酒を飲み交わしてーー。楽しい話だけではないがこんな姿を楽しんでいられただろう。それだけに、悔やまれる。

  

  そして、そんな感慨と同時に、今からカガチがやろうとしていること、その後ろ暗さと失敗できないことへのプレッシャーが襲いかかっていた。

  どんな任務も淡々とこなすカガチ。失敗は殆どない。それは、失敗したとしても別に構わない、というカガチの精神性が表れている、心の余裕があったからだ。

  今回ばかりは失敗できない。失敗=シナノの死であり、最悪シナノの死と『化』の家の失墜の二つが襲いかかる。

  それだけは、必ず避けなければいけなかった。

  自身を一番に生きるカガチだが、家の者、弟達への愛着は少なからずある。自身が死んだとしても、その立場を追われたとしても問題なく弟達が馴染めるようにある程度の種は蒔いてある。

  だから、失うとしたら自分だけだ。

  シナノは生かす、弟達の行く道は示した。

  失うのは自分の命だけでいい。

  できるだけ拾い切る、その決意と裏腹に、カガチの頭には明確なプランはないに等しかった。無防備なシナノの顔を眺めながら、カガチは頭の中で考えを巡らす。

  チラリと瞳をシナノへ向けると、シナノは小首を傾げ灰色の瞳をこちらに向ける。

  「硬い顔をしているねカガチ、何か思うところでもあるのかな。」

  「……いや、別に。久々に会ったはいいけど、案外話すこともねぇなって考えてただけだ。」

  「別に、気を使わなくてもいいとも。無理に話す必要もない。」

  そう言ってシナノは再び酒瓶を口につけて喉を鳴らしながら飲み込む。

  

  「……無防備」

  シナノが無防備だと評したが、カガチの目に隙は見えなかった。というより、隙をつかれるシナノを想像できなかった。

  今ここで、クナイを投げればシナノのこめかみに当たるだろうか。今ここで、刀を振り切れば首を刎ねれるだろうか。

  

  正面戦闘が始まれば、事態は困難を極める。かといって完全な不意打ちは通用しなかった。

  影に隠れ、風と共に歩むカガチをシナノの目は逃さなかった。視野が広いとか、勘がいい、という域を越えている。森の中を風と共に進むカガチの姿が、シナノの目には見えていた。そして、見られていることにカガチは気づいていた。

  「ま、話すことが無いでもない、かな。」

  「…おや」

  故にカガチは姿を表し、そして

  「『化』の字の家長カガチ、ヤシロ様へ従ずる全家の命に従いーー、」

  先ほどまでの軽薄なカガチとは打って変わり、ホオズキが形式を成り通す。

  幹に座るシナノの前へ顔を伏せて跪き、敬意を表しながら口を開ける。

  今から起こるのは、楽しい楽しいお祭りではない。

  虚しく寂しい血祭りだ。そんな血祭りを囃し立てるように、祭囃子はより一層盛り上げを見せる。

  『楽』の家の伝統、その賜物だろう。皮肉にも、今から始まる血祭りを盛り上げるように、響き響き、響き渡る。

  その音楽へ同調するように、カガチの心臓の鼓動も力強く脈を打つ。

  ーーもう、後戻りはできない。

  酒気をまとうシナノへひざまずき、そして懐へと忍ばせた五指を動かす。

  「貴様の座を消し去りに参りました。」

  宣言。

  鋭く穿つ赤い瞳で、カガチを見下ろすシナノを見上げる。灰色の目と赤い目が一つ交差した。その交差した一瞬で、シナノの顔が何かを『見た』かのように、強張る。

  

  それはカガチが動き出す、その瞬間だ。

  動かされた五指につながれた糸が、シナノをめがけて襲いかかった。

  正面戦闘では敵わない。遠距離からの不意打ちも敵わない。なら、どうするか。カガチが選んだのは、正面からの不意打ちだった。

  そしてそれは、完全な不打ちよりも相手の警戒と戦意を誘い難い。なにより、自分が加減を見誤ることもほぼない。

  

  下手人の正体は割れていて、そしてそいつはカガチだ。誰よりも幼少を共にすごし、競ってきた。

  故にカガチには自信があった。シャノならば、自分を前に多少の油断、動揺、困惑、失望、何かしら確実に隙となる感情を見せるとーー。

  「ーーーーっ」

  「っ、やっば」

  甘い見立てだったと、カガチは悟る。

  急襲を認識したシナノは、カガチの前にそのいかなる表情をも見せなかった。

  糸がシナノを捕えようとするや否や、シナノは酒瓶を放り投げ、腰に携えていた刀を引き抜き、

  「ふっーー」

  軽い吐息と共に跳び、足元を掬おうとする糸をかわし、そのまま下からすくい上げるように刀を振りあげる。振り上げられた一閃は、頭、腕、胴を狙う糸を一つ残らず断ち切った。汗ひとつかかず、静かな表情を崩さず難いかかる悪意を両断した。

  「まだー」

  

  想定内ーー、これはまだ想定内だ。

  酒が入っていて意識が揺らいでいればあわよくばと思ったが、流石にそれは高望みが過ぎた。

  だが、糸はあくまで意識を一瞬奪うための囮だ。

  

  カガチの動きは止まらない。シナノが刀を振るうその一瞬で糸が意味を為さないことを察し、その巨体を跳ねさせ、再び木の上へ。

  刀を振り、着地しようとしたシナノへ、息をつく間もなく攻撃が繰り出される。それをシナノは体を転がすことで回避する。シナノが着地するはずだった場所には、黒く光るクオイが刺さっていた。

  「『風よ』一」

  地面へと転がったシナノを見て、これを機と見たカガチが小さくつぶやく。その詠唱は意味をつむぎ、世界を歪め、無いはずの風を生じさせる。その風はカガチの巨体を後押しし、その動きを加速させる。

  風の後押しによりカガチの体は瞬時に加速する。

  木を蹴り、勢いそのままシナノへと突撃する。両手にそれぞれ短刀とクナイを構え、狙うのはその足だ。足を奪い、屋敷へと連れ帰る。

  片足で足りないなら両足を、腕で抵抗するなら肩を、口で抗うなら顎を、そのことごとくを打ち砕いてでもシナノを連れ帰る。

  シナノは嫌がるだろうが、腕のいい治癒術師ならそれらのケガも治るだろう。

  カガチはあくまで一時的は不自由を、視力の一部を、奪うだけだ。命を奪うなどーー。

  シナノの目は、相変わらずカガチに向けられていた。何よりも冷ややかで、何ものにも囚われないその目。カガチはその目にどう写っているのだろう。その目には何が見えているのだろう。

  「ーーカガチ」

  不意に名前を呼ばれるが、カガチの勢いは止まらない。

  残酷な刃が、そのままシナノの足を深く切り裂くーー。

  赤い血がシナノの白い袴を赤く染め、涼しい顔をしていたシナノの顔に、苦悶が浮かぶ。

  はずだった。

  加速し、反応し難い速度でふるわれる凶刀を、シナノの目は視ていた。

  突撃してくるかがチの手の表層を、刀を素通くふることで切り製く。小指を支える筋肉が断たれ、カガチの手がゆるみ、カガチの両手から暗器はそのまま地面へと落ちる。

  それが当たり前かのように、流れるがままにシナノの刀を持つ手は迷いなく動き続ける。そのまま刀を手で回し、刃を握り、落ちてくるカガチの豊満な体へと柄が突き刺さる。

  「がっ…あ」

  カガチの体重で、豊満なその腹へ深く埋まる刀の柄。

  刃の方はシナノのすぐ横の地面へとつきささり、深く理まっていた。

  そのまま痛苦を抱えて地面へと転がり落ちると、シナノはカガチを横目に立ち上がる。

  カガチの重さで刀が押された結果、刃を握っていた手が切れて血が流れていた。

  シナノはしばらくその血を眺めてから、地面へと蹲るかガチへ目を向けて、

  「カガチ、一体どうしたと言うのだ突然。」

  と、当然の疑問を口にしたのだった。

  今更ながらに驚愕の表情を作り出すシナノの顔を見て、カガチは薄く笑う。

  ーー賭けに負けた。

  油断も隙も、見せてくれなかった。完全に見誤った。

  最初の攻撃で、せめて足を奪いたかった。

  剣の上から状態をずらして、そのまま地面を転がり、跳ね起きる。手のひらを見ると、綺麗に小指を握る筋肉だけが裂かれ、血が蠢く。

  これではもう、まともに力強く武器を握れない。

  小指、そしてそれと合わせて薬指も実質的に無効化されている。

  不意の一閃、たったそれだけのためにこちらは武器を握ることを封じられた。

  しかしそれはーー、

  

  「諦めねえ、まだーー」

  「カガチ…!」

  諦めることなど許されないし、許さない。

  なぜ襲われたのか理解していないのならそれは結構。納得する答えを探して惑えばいい。その思考、果たされる前に。

  「『風よ』ーー、我が身に宿り数多を防ぐ盾となれーー。」

  「風…?」

  再び詠唱があって、カガチの周辺の世界が歪む。どこからか風が発生し、渦巻き、カガチを中心にして集まっていく。

  その不自然な風の起こりに、シナノは怪訝な顔を浮かべる。山育ちのシナノが知らない、不自然な不気味な風。

  その風はカガチの呼びかけによって引き起こされ、その声の主人に集う。

  「シナノ、俺はお前を諦めちゃいねぇ」

  「カガチ…それはどういう」

  答える暇を与える間もなく、カガチは再びシナノへと突撃する。

  その巨体が出すにはあまりにも凶悪すぎる速度でカガチが踏み込み、右手を突き出して、シナノの頭蓋を狙う。シナノはそれを屈んで避けて、向かうは己の刀のもとだ。

  大ぶりなカガチの攻撃に、シナノは身軽な体で交わし続ける。

  だが、シナノの狙いはもちろんカガチも読んでるわけで、飛び退くであろう方向にクナイが射出される。

  クナイはシナノの頬を掠め、刀を囲うように陣をなす。

  「『結界術』ーー、虎の陣」

  親指同士を合わせ、印を結び、クナイを通してカガチと繋がった霊脈が小さな結界を構築する。

  

  あと一歩、刀に届かなかったシナノの右手が結界に阻まれ、『バチン』という音と共に弾かれる。

  「結界術…!いつの間にーー」

  「いつの間、だろうな」

  体ごと腕を弾かれたシナノが驚きの表情を見せる。結界術、それは何より縁を重要視する術だ。土地と自身の自身たる『核』をつなげ、その土地の力で己を守る。

  そしてそれは、『化』の字の家には伝わっていない、本家相伝の技術だ。

  「相変わらず、小器用だな」

  「うるせえ」

  体を弾かれたシナノが、肩を抱えながらカガチをそう評価する。肩が外れたのだろうか、指先にまで力が入っていない。

  そんなシナノを蹴り飛ばして、再びカガチが優位を取る。

  

  昔から何かを『盗む』ことにおいては他の追随を許さない。一度見て、理解して、それが再現性の高い技術であれば、カガチにとってできるも同然だった。

  ましてやそれは、かつてシナノが見せたものーー。

  本家相伝の結界術、それを行使する様を近くで数度見た。仕草、詠唱、掌印、そして発生の瞬間ーー。

  それだけ見れれば、見よう見まねぐらいはできる。

  付け焼き刃でも、ある程度の効果があるものの再現はできる。

  だがーー、

  「擬似的に縁を結ぶには、少々練度が足りないのでは」

  蹴り飛ばされたシナノへ再びクナイが投げ込まれる。もう何回かめのそのクナイを、シナノの『目』は見切り始め、投げられたうちの一つを手で掴むと、そのままカガチへと投げ返す。

  その灰色の目で射抜かれ、カガチは一瞬動きが凍りつくようだった。だがしかしー、

  「狙いがお粗末だな、シナノ」

  

  カガチというでかい的にそのクナイは当たることなく、カガチを通り過ぎて遥か彼方へと消えていく。

  悪意を込めて凶悪な笑みをシナノへと向ける。シナノは涼しげな顔のまま、カガチから距離を付かず離れずの位置を保ちながら飛び回る。

  再びカガチを中心に風が発生する。風は徐々に勢いを増し、カガチの周りを木の葉が舞い始める。

  さながら、木の葉隠れといったところかーー。

  風の勢いで舞う葉が、その遠心力でシナノへ向けて何枚か飛んでいく。その葉はシナノの耳を切り裂き、血を流させた。

  

  それほどまでに勢いを増した風装を纏うカガチが、シナノへ向かって突撃してくる。再び風が切れるまでの数十秒、シナノの体力を削りにかかる。

  避けられることは当然、避けさせる攻撃をして当然。

  決定的な隙を作るために、カガチはあえて大ぶりな攻撃しかしない。

  

  正面戦闘では、シナノに勝てない。

  剣を手放させてなお、カガチの攻撃は見切られ、かわされ、利用される。

  まともに当たったのは、不意も不意の結界術その一回のみ。

  

  クナイを使ったカガチの、というよりシノビの上等手段と思わせてからの本命。しかもそれは、本家相伝の技術ときた。それに、カガチは一度たりともそれができると言ったことも、見せたこともない。

  シナノに見せたことも、実家の誰の前でやってのけたこともない。

  まさに、予想のできない一撃。

  その灰色の目にすら映らないような、視覚外の一撃。

  

  その想定外をつなげるためにーー、カガチは再び風を纏いシナノに襲いかかる。

  そしてシナノもそれをかわすために、足を動かし続ける。

  ーーだが、

  「それは愚策だろ」

  あろうことか、シナノは避けるそぶりを見せず、入っていない右腕はそのままに、受け止める姿勢を見せる。

  愚策というのも愚かしいほど、その選択肢は浅はかだった。

  しかし、今更この足を緩めることも、術式を解くこともできない。

  そのままシナノへ、風の刃を纏った巨体が襲いかかるーーー

  血が飛び散り、表層をズタズタに引き裂かれ、ありとあらゆる場所から血を流すシナノがそこにいた。

  そこにいる、はずだった。

  「よっ、とぉ!」

  掛け声と共に冷ややかに萌ゆる瞳を開き、シナノはカガチの『風』を踏んで飛び上がった。体をクルクルと回転させながら、シナノは空高く舞っていく。

  「なッ」

  シナノを弾き飛ばした、空高く。木を遥かに超えるほど飛び上がったシナノを見上げ、思わず開いた口が塞がらない。

  まさか、風を踏んで飛び上がるなどと誰が想像できるだろう。否、踏んで飛び上がったのではなくその勢いを利用して跳躍した、というのが正しい表現だ。

  「ふっ、と」

  

  回転する体に力を入れ、地面に平行になる姿勢で地面を眺む。

  珍しく呆けて見せるカガチの顔を下に眺めながら、シナノは眼を見開く。無彩色の双眸に映り込むのは、赤く揺れる魂であった。

  燃える魂と繋がる地脈を断ち切った。

  それは、先ほど投げたクナイによってなされていた。

  カガチと山を繋ぐ擬似的な縁に、シナノという地主が割り込み、縁が歪に断たれている。

  

  そしてここは、シナノの山だ。

  誰よりも、この土地との縁は強いのだ。

  

  シナノは灰色の目を細めて、鼻先に左手だけで印を結ぶ。

  それは、シナノのできる唯一の結界術であった。

  「結界術、子の陣」

  左手の小指だけをたて、結界術が発生する。子から亥まである結界術の初歩の初歩。

  カガチの結んだ虎の印よりさらに弱い結界術が発生する。

  シナノが上体を合わせると同時に、カガチも動き出す。

  宙を舞うシナノへ向けて、左手の中指と小指が照準を成す。そして、右手で空をつまむように、手を窄めると、

  「『風よ』ーー、我が元に集い其の敵を穿て」

  弓を弾くような動作と共に、照準を合わせた中指へと風が収束し、きっと、シナノを貫く風の矢が形成される。

  練度の低い、聞き齧っただけの技術。魔術と言われるこの技術をカガチは勘だけで操っている。魔力を乗せた声で術式を繋ぎ、印を織り交ぜて精度を上げる。

  

  そしてそれは、風の矢を織りなす術式だった。指は気に集中した風の塊は、いわば小さな竜巻だ。小さく圧縮され、高速で渦巻いている。

  とはいえ、カガチの付け焼き刃。その圧はきっと、お粗末なものなのだろう。

  だが、今はこれで十分だ。

  クナイ、糸、手榴弾、投石、そのいずれでもなく。

  誰にも見せたことのない、不可視の矢。

  

  殺すまではいかなくとも、これが当たればしばらくまともに動くこともできまい。

  カガチの勝利条件は、シナノの死ではない。

  いかなる手段を持ってでも、殺さず、動きを止める。

  「あんのババア…ふざけやがって」

  矢を構えながら頭に思い浮かぶのは、あの女に唇を嬲られた記憶だ。あの時から、シナノを殺すことを画策していたと考えると反吐が出る。

  しかも、アレがシナノの妻を名乗っているなどーーー

  自身の内側で黒い感情が湧き起るのを感じ、下唇を強く噛み、自身を律する。

  

  そしてそのまま照準をシナノへと向ける。

  宙を舞うシナノも何かしらの印を結んでいるのが見えた。

  互いに印を結ぶ者同士、視線が交差する。

  

  和太鼓の音が、より一層強くなり山を包む。日が沈んでいき、山が赤く赤く燃え盛る。

  

  森に佇むカガチがより一層濃い影に沈んでいく。

  宙を舞うシナノが、暑く太陽の赤を帯びる。

  

  ーーカガチの細長い目にハマる赤い瞳が、暗く黒く沈んでいく。

  ーーシナノの柔い目に、太陽の光が反射して赤く赤く染まる。

  これが、最後だとなんとなく直感していた。

  これを外せば、もうシナノと言葉を交わさなければならない。

  そしたらきっと、シナノは家を守る道を選ぶのだろう。自分の命をかけて、家を繋ぐことを選ぶのだろう。きっと、シナノはそうする。

  不器用ながらに主人として振る舞うシナノの姿をカガチは見てきたから。だから、ここで決めなければならない。

  弓を引く右手により一層力が籠る。

  ないはずの弓が強くしなる音が聞こえる。

  これが当たれば、シナノを連れ帰ることができる。

  

  苦悶の顔に満ち、自己嫌悪に浸り、一人自分の血で神聖な一族を怪我したことを悔やみながらーーー

  

  そして、それをしたカガチを。シナノはーー

  『おまえが、次期当主だ……カガチ、精々苦しみ、忌み嫌われろーー』

  

  「……っ!」

  突如、頭に降って湧いたのは呪詛の声。自分はこうはなるまいと思ってきた、その声が鳴り響く。

  しかし、その声の主は、呪詛を吐いた父の声ではなく。

  シナノの声で再生されていた。

  突然沸き起こった躊躇、突然響いた怨嗟。それは、カガチの抱えた罪だった。

  照準が僅かにずれーーしかし、それに気付いたのはすでに摘んだ矢が発射されたあとだった。

  

  照準は僅かにそれて、シナノの足を狙った一撃は、その的から僅かにそれた。

  そして、そんなカガチの選択を攻めるようにカガチの肩をつんざいたのは、シナノが結界術によって弾き飛ばした刀だった。

  「あっ、た」

  左腕に突然湧いた痛み。それは、左肩を切り裂き、血が流れていた。相変わらず痛みには慣れていない。突然降って湧いた痛みに、カガチは肩を抱えて目を瞑り下唇を噛む。

  飛んで行った矢がどこに当たったのか、それを確認するまでもなくカガチは額に汗を流しながら地面へと顔を伏せる。

  

  「カガチ」

  肩を抱えて片足をつくカガチのもとへ、シナノの声が声をかけた。その声にカガチは肩を振るわせた。

  「シナ……ノ…」

  いつのまにか地面へと降り立ったのか、シナノは一歩一歩カガチへと歩いてくる。歩いてくるということは、やはり矢は足に当たらず、どこか別の場所へと消えてなくなったのだろう。

  そしてカガチの心のうちには、暴風が荒れていた。

  それをヒトは恐怖という。

  恐怖心なんて、いつぶりに感じるだろうか。冷や汗が止まらない。

  それは、死への恐怖だ。

  魂の喪失ではない。自分が最も守りたいと、助けたいと、救いたいとそう思った者からの最上の軽蔑。

  それを受ける覚悟も勇気もありきだったというのに。

  ザッザッと地面を踏みしめながら一歩一歩近づいてくるシナノの方を、カガチは見上げることができなかった。

  だがしかしーー、

  「ーーー、っやはり、痛いな」

  一層大きな音がして、その違和感にカガチはシナノの方を見上げる。すると、脇腹を抱えながら地面へと膝をつくシナノの姿があった。

  「ふっ、当主がこれでは情けない、な。反逆者にこうも、圧倒されるとは…」

  「お、おれの…」

  動く右腕だけで頭を抱え、己の頭を駆け回るその感情を掻きむしる。痛みつける。

  照準のズレた風の矢は、シナノの腿ではなく、そのさらに上の脇腹を掠めたのだ。血は流れてこそいるが、動いて喋れるところを見ると深い傷では無い、だろう。

  きっと、そうで無いとーー俺はーー

  「話を、しよう。カガチ」

  痛みを耐えるシナノの顔には、いつになく汗が浮かんでいた。

  

  ーー未だ、勝てない。

  ここから勝ちを拾うためのビジョンが思い浮かばず、カガチはーー

  「……いや、今は違げぇ…」

  めんどくさい、という感情を押し殺し再び自分が何を為すべきか頭を巡らせる。

  怠け癖という檻から、漸く脱しようとしていた。

  だが、もうーー