閑話七話『絶縁は青い花束と共に』

  灰色に染まった瞳には、赤く強く輝く炎が映っていたーー。

  辛く長い人生の終着点。意味もなく、理由もなく、只々在るべきと定められた無為の人生。ただ準備されていただけの席に座っていただけの人生から蹴落とされて、そしてそのまま消えてなくなる。そのはずだった。

  

  他人からそう在るべき、と思われた終幕。自分もそうなるべきだと思い、待ち望んだ最後だった。

  しかし、その果てに、また生きたいと願ってしまった。共に生きたいと、願ってしまった。

  どこまでも愚かな自分の内心は、どこか遠くの存在のように見えて、その愚かさは尚のことはっきりと形が見えた。

  だけどーー、

  「私は、どうすればいい、カガチ。」

  生きると、生きたいと願ってしまった。

  

  長い間お膳立てされた座に腰を下ろしていただけのシナノ。上から眺めていた景色は、シナノに責任だけを押し付けて、決して心地よいものとは言えなかった。

  風に後ろ髪を揺られながら、シナノは感慨のようなものを感じていた。

  長く長く連れ添ったこの山の外ーー、そこへ向かうということ。それは、シナノをヤシロ家当主としての呪縛から解き放つのか、それともさらに強く締めるのか。

  山を降りたことも、街へ降りて遊んだこともある。だが、本当の意味で山の外へーー、つまり、腰を据える場所を定めるのは今までもこれからも無いと思っていた。

  「私はどうしたらいい?」

  不安は尽きない。知らない世界というのは、いつだって好奇心をそそるが、それと同じくらい恐怖を伴う。

  不器用を煮て固めたような体たらくのシナノに、一人で外で暮らすなどということは不可能に近いだろう。

  だが、この山と同じく、長く連れ添った狸がここにいる。

  いざ頼りにする狸へとチラリと視線を向ける。熱心にシナノの傷口への応急処置をするカガチはその視線に気づくと、「あー」と低く声を出して、

  「…どうしたい?」

  「それは流石に、無責任がすぎるんじゃないか?」

  動かない右肩をカガチの服で止血してもらいながら、ため息をつく。ため息をつくと、カガチがムッとした顔で一層強く当て布を縛り付ける。

  「腕はまぁ、これでいいとして…腹ん方は屋敷に着くまでは我慢だな。……嫌がるかもだけど、ちゃんと治癒術受けるんだぞ」

  「治癒術か…。そう睨むな、受けるさ。ーー受けるとも。」

  一瞬、反射的に忌避感が顔に出て、カガチに睨まれる。

  己の腹回りの血を撫でながら、シナノは歯切れの悪い返事をする。治癒術ーー、というより魔法全般、ヤシロ家では悪術とされてきた。当たり前のように、それが悪だと教えられて育ってきたシナノには精神的に生理的な嫌悪感が刷り込まれていた。

  だが、シナノは山を降りて、どこでも何でもない者となるのだ。そう駄々をこねる必要もない。

  「…とはいえ、私が生きるのはあくまで、契約が破綻していないことが前提だ。齟齬が起きたらその時は…」

  「……あぁ、そんときゃ俺も責任持ってやる。お前だけに背負わせねぇよ。」

  シナノを生かすということ。それで結界に何か問題が生じれば、それは個人間だけにとどまらず、シナノが懸念していた通り群青という国全体に及ぶ。

  その時は、カガチがシナノの介錯をする。そしてシナノを生かした罰として、そして何よりシナノへ背負わせてしまったというカガチ自身もそこで消えるつもりだ。

  それを聞いてシナノは満足そうにふっと息を吐く。しかし、すぐに片手を頭に当てて恥ずかしそうに小さな声で、

  「…あと、お前の気持ちは…嬉しいが……でも、返事は暫く……死ぬまでに、考えさせてくれ…」

  「あぁ、それでいい。その間に俺がお前を全力で生きたいって思わせてやるよ。まったく、浮気な当主様だな」

  牙を見せて笑うカガチに、シナノは苦笑いするしかない。腐っても妻子持ちの父の身だ。実質的な離縁を言い渡されているようなものだが、生きながらえてすることが間男への返事を考える時間だとすると流石に罪悪感が湧く。

  

  それに、仮にだが、今後も生きるということは、我が子の成長を目にする機会があるかも知れないというわけで。

  「……モガミには、申し訳ないな…。せめてあの子にだけでも、私はーー」

  「諦めろよシナノ。お前は死んだ、どこにもいない。…わりぃけど、モガミには我慢してもらうしかない。」

  天真爛漫でシナノによく懐いてるモガミ。心の拠り所であろう父親を、カガチのエゴで離れさせてしまうことになってしまうのは流石に罪悪感が湧く。

  なにせ、今回のことに一切の関わりが無い上、おそらくだが、カガチの強行の尻拭いをすることになるのがモガミだ。

  あの齢で、再びシナノのように重責を押し付けられることになる。

  だが、そうならないために、モガミには頼れる兄貴分がいる。

  「…スギナが何とか、やってくれるさ。」

  家にシナノを連れ帰る以上、スギナには全てを話しておく必要がある。その上で、うまくモガミが潰れないようにしてくれるだろう。

  なにせ、次代の『化』の家の当主。カガチには勿体無いくらいできた弟だ。

  カガチには無かったが、自信の家の誇りを重んじるスギナなら、精神的にも肉体的にもモガミとうまくやっていけるだろう。

  「……あぁ、そうだな。スギナ殿なら、少々安心できる。」

  スギナとモガミの仲睦まじさはシナノも目に焼き付けている。幼い頃のカガチとシナノのように、垣根なくーーいや、正確にはある程度の距離感をスギナが保っているのだが。それでもシナノ亡き後、モガミと共にスギナがいるのなら、問題なくヤシロ家は回るだろうと、胸を張っていえる。

  「…だが、妻の手からは逃れられまい?……いや、流石に妻もモガミには」

  シナノが消えるということは、親権は妻に一任される。スギナとモガミの組み合わせに不安はない。まだ未熟なモガミをスギナが手厚く支えてくれるだろうという確信がある。

  だが、そこに妻の意思が介入するとしたらーー。

  手は出さないーー。そこの両分は超えていないとそういう希望はーー、

  「手を、出すだろうさ。」

  すっぱりと切り捨てられる。

  心のどこかで、まだ自分以外の悪意を信じたくないシナノに、カガチがキッパリと告げる。

  本来なら妻とも腹を割って話すべきことなのだろう。だがしかし、

  「時間がねぇ。わざわざ時間を区切ってきやがったってことは、なんかあるんだろうよ。っと、これでいいか。」

  自身の服を掻っ捌いて、シナノの腹の傷と腕への応急処置を済ませたカガチが満足そうにシナノの頭を撫でてやる。

  

  「ーーー。」

  誰かに頭を撫でられるのは、いつぶりか。

  亡き父、母。そして、兄貴分として慕っていたカガチ。

  昔は、その三人からよく頭を撫でられていた。三十になっても小柄な自分は、カガチから見たら幼い子犬のように見えるのだろうか。

  だが、不快ではなかった。

  カガチの撫でを頭に受けて、目を閉じる。

  大人になって、当主になって、誰に甘えることもしなかった。甘えることを許されなかった。だから、今だけは少しーー

  「……お?」

  頭をカガチの手に擦り付けて、カガチの大きいてから温もりを感じる。

  モガミがよく、頭を撫でるシナノの手に頭を擦り付けてくるのを思い出す。どこか、誰かに似ていると思っていたその甘え方。それはシナノがよくやっていた癖だった。

  カガチのゴワゴワとした毛に覆われた手からの温もりを感じて、そしてシナノは立ち上がる。シナノが立ち上がるのに合わせてカガチも少し後退り、互いに顔を合わせる。

  立ち上がってなお埋まらない身長差。シナノは見上げてカガチは見下ろす。それは幼少の頃から変わらない差だった。

  「行き先はお前の屋敷でいいのか。生まれてこの方、『化』の家には出向いたことはないが。……そもそも私はそこまで生きて辿り着けるのだろうか?」

  処置を受けたとはいえ、右肩は沈むように重く、抉れた腹からは少しだけ中身が見えている。

  まさしく満身創痍と言うべきこの体で、そもそもシナノはもつのだろうか。正直、怪我の程度から考えても意識を保って、話せることそのものがすでに奇跡の範疇な気がするが。

  シナノの言葉にカガチは罰が悪そうに頭を乱暴に掻く。すでに満身創痍のシナノだが、まだやるべきことが残っているのだ。

  「その辺はお前の気の持ちよう……いや、俺が悪い。無駄に苦しめるつもりはなかったんだけどな」

  「どうするのだ本当に、私が死んでいたら。」

  シナノが冗談めいた声で笑いながらカガチに言う。それに対してカガチは何もいえない。苦笑いを返すのでいっぱいいっぱいだ。

  なにせ冗談ではなく、本気で危なかった。

  元々足狙いで打った風の矢だったが、わずかに標準が逸れて、その結果がシナノの腹の傷だ。

  

  もとより多少の……というか、明確に足が使えないようにするつもりでの攻撃だった。足を止めて、腕を落とせば抵抗されたとしても力づくで連れて帰れる。その算段だった。

  運悪く臓器を傷つけようもんなら屋敷まで持たずに、なんなら今こうして話す猶予なんてなく死んでいた可能性もある。幸か不幸か、殺しすハメにならなくて良かったと、裏でとても安心していた。

  

  とはいえこの状態のままいつまでも山の中にいるわけにも行くまい。境内の方は盛り上がりを見せて熱気があるが、そこから外れた山中、日が沈むにつれて気温が下がり体温を奪っていく。

  「綱渡りばっかなのは本当にすまねぇって思ってるよ。……思ってるんだが、あーー」

  「なんだ、今更隠し立てするようなこともあるまい。」

  すでに満身創痍なシナノ。

  だが、この計画をするにあたってまだシナノにはやってもらわなければいけないことがある。

  「お前をつれて帰る、生かしたいってぇのは本音なんだが…あー、俺にも、ほら、立場があるだろ?」

  「……私に立場を捨てろと言った癖に、自分は保身の策を巡らせるのか。」

  皮肉めいたシナノの言動に、耳が痛いとばかりに、目を逸らす。

  「しゃあねぇだろ、お前を匿うためにも俺がくたばるわけにゃいかねぇんだよ…。」

  自分の家でシナノを匿うためにカガチが負われる立場になっては本末転倒だ。シナノを庇うために、これからやらなくてはいけないことも増える。出鼻から間違うわけには行かない。

  

  だからシナノには申し訳ないがーー、

  「……目をよこせ、シナノ。それがお前を生かすための条件だ。」

  自分の赤い瞳を指でちょいちょいと示しながら、シナノへと命綱を告げる。

  シナノの何者にも染まらない灰色の目。その片方を抉り、シナノの死を偽装する。それがシナノを生かしながら殺したことにするための最低条件であった。

  

  流石にシナノも驚いたような表情を見せた。当然だろう。剣士の端くれ。シナノを構成するほとんどは、その目に頼ってきたと言っても過言ではない。

  この殺し合いの中でも体感した、シナノの圧倒的な視力と観察力。シナノの強さの根源と言っても過言ではないその器官を奪う。

  シナノの強さと剣才を支える類稀な天賦の目。それを奪うというのだ。

  言われてすぐにはいどうぞ、となるとは思っていない。

  だが、シナノの決断は割と早かった。

  シナノは少し考えたあと飲み込んだように静かに目を閉じて、顎を引いた。

  「私の目とカガチと私の命……比べるまでも、なかったか。」

  安い買い物、とまでは割り切れない。

  命の喪失よりは遥かに軽いものだが、今後生きるにあたって視力のあるなしは大いに影響する。

  

  だが、今後生きる不自由さなど考えるまでもなかった。そもそも死んだ者として生きるのだ。自由など、ほとんどないのと同じだろう。

  それに、自分の命が契約に亀裂を入れない、と言う保証もまだない。

  あくまでその裏を取れるまでの余生ーー短い人生を少し不自由に、肩の荷を下ろした分の自由を楽しむ分には易いだろうと思う。

  「………さぁ、やってくれカガチ。あまり、時間はかけてはいられないのだろう?」

  カガチへと向き直り、灰色の目を見開く。

  「…いいのか、本当に。後悔しても戻んねぇぞ。」

  「ヒトがせっかく覚悟を決めたと言うのに、それをゆらがそうとするな、カガチ。そんなこと、あるわけ……」

  やれやれと首を振り、そしてその拍子にふと山の麓にかけて広がる景色が目に入る。

  

  境内からほどは綺麗に見えないが、山に生えわたる木々の間から見える景色は、何とも美しく綺麗だった。

  

  近くを流れる沢の音、揺れる木々の音、騒ぐ大人子供の声。そしてそれらは、目から入ってくる情報によってより美しい色へと昇華される。

  華時に咲き誇った花々が枯れ落ち、雨時に向けて青々と葉っぱが茂って、山は活力に満ちている。

  

  そんな青く健やかな山が、陽の光に照らされて逆光で黒く落ちていく。その裏から見える橙の光が、この山をさらに大きく強くしていくのだろう。

  幼い頃から過ごしたこの山。

  幼い頃から見下ろしてきたこの景色。

  幼い頃から届かないともどかしかった空。

  そしてーー、

  「……、カガチ。」

  幼い頃から、共に成長の道を歩んできた、ただ一人の親友。

  

  あらゆる見納めが、そこにあった。

  

  目一杯にその全部を見渡して、その全部を記憶に焼き付ける。

  シナノにしか見えない景色。山が持つ霊力が、人々が放つ血の奥の流麗が、そして空から放たれる紅蓮の如く波動が、灰色の目に目一杯吸い込まれて、そして記憶の一部となって脈打つのを感じる。

  見納めのそれを咀嚼するように、目を瞑り瞼の裏に焼き付ける。

  己の目が不完全で良かったーー。他のヒトと異なる、色のない目で良かった。

  

  おかげで、忘れずに済む。

  シナノにもう、迷いはなかった。あるとすればーー、

  「そういえばーー」

  まぶたに全ての憂いを焼き付けたシナノが細く目を開き、左腕で己の腰に下げた肩の柄に触れる。

  

  自身の剣技の見納めーー。それと同時に、最後に断ち切る、断ち切らねばならないものがあった。

  

  長年連れ添った刀ーー、その等身が鞘から顕になり、山の景色を反射しながら、そしてシナノの顔すらも反射する。刀に映る自身の顔と目が合い、『サヨナラ』と別れを告げる。

  何とも弱々しい顔だった。だが、憑き物が落ちたようにその顔には確かに笑みがあった。

  「言っただろう?首以外を狙うたびに、一度切るーー。とな。」

  それは、殺し合いの前、シナノが告げたカガチへの宣告。首以外を狙うたびに、謀反者であるカガチが刻まれる。

  ここにきてカガチは、愚かにも全家からの命令を無視し、シナノを生かす道を選んだ。シナノを生かすために、目を奪うと、そう言った。

  だからーー、

  「お前の『迷い』も、ここで断ち切ってやる」

  どこまでも甘く優しい我が親友。

  その意識せずとも分かるデカ腹に、美しい一線が刻まれる。

  利き手ではない左腕での抜刀。だがしかし、それは斯くも美しい弧を描き、カガチの腹から胸までに、薄く傷口を刻んだ。

  致命傷とは程遠い、だが、ほどほどに痛む一撃に、カガチは驚いた表情を見せる。

  切り開かれた傷口から、うっすらと血が流れてカガチの腹を覆う薄黄色の毛皮を赤く染める。切られたサラシがほつれて、地面へと落ちる。

  「致命傷ではない、とはいえ、簡単に塞がる傷でもあるまい。」

  刀を鞘へとしまいながら、シナノは痛苦の表情を浮かべる。そんな状態で刀を振るって、脇腹の傷口がさらに開いてしまう。悪化に悪化を重ねて、治らなくなったらどうする。

  だが、

  「……あぁ、俺にはコレぐらいがちょうどいい。」

  腹から胸にかけてできた己の傷口を撫であげて、己の手を赤い血で染める。それを深く握りしめて、自分の中で行くべき道を一点に決意する。

  後戻りはできない。だが、後戻りできない道しか歩めなくなったのは、己の怠惰の結果。

  

  もっとシナノに寄り添ってやるべきだった、それを放棄してきた結果だ。だから、この罪は

  「俺が全部持っていく、それが俺の、俺がやるべき最後の責務だ。」

  シナノの独白ーー。それを聞いて、カガチは己の怠惰を自覚した。

  シナノが疎まれていることも、嫌われていることを知っていてずっとずっと動こうとしなかった。

  シナノの人生を縛ってきて十数年ーー、それらの果てに、シナノを生かすための代価をシナノだけに払わせること。

  「安すぎる気もするけどな…」

  「もとよりお前に支払わせるものなどない、私の不得だ。お前が考えることじゃない」

  

  腹の傷を抱えながら、シナノは顔を上げる。頑固。意固地。否、もう覚悟は決まったという顔だった。

  その顔は、やはりどこか幼さが残る。齢三十の顔立ちにしては幼さと初々しさが残り、しかし、灰色の瞳は子供の頃とは違って、確かに力強いものだった。

  ーーー。

  ーーーー。

  体が強張る。

  何度も、やったことはある。『業』の家の家業の一端。だが、カガチにも経験はある。

  目の下に指を擦り込ませて、そのまま奥側から掬うように引っ張り出して、眼球と繋がる筋肉から引きちぎる。

  強張っているのは、カガチだけではない。目の前に佇むシナノもそうだ。緊張しているのか、口が半開きで、額から汗は流れている。

  痛みはあるだろう。むしろ、重要器官を一つ失うのだから、その痛みは体にも心にも相当な痛みをもたらすだろう。

  それを半端な覚悟で受けることなど、並大抵のことではない。

  だから、なるべく素早くーー。

  ーーー。

  ーーーー。

  体が強張る、だけどーー。

  「俺の、最後の仕事だな。」

  

  シナノの亡き後、カガチから次代のスギナへと家督は譲るつもりだ。だから、シノビとして、カガチの最後の仕事。

  うまくやれる、うまくやる。やってきた。それが『カガチ』という男だ。

  手を伸ばして、シナノの目へと手をかける。手が近づくたびに、シナノの瞳が揺れるのが分かる。

  緊張の波はーー、最高潮に達するーーーー。

  集中の糸ーー、その糸は切れないーーー。

  

  ーーーーーー。

  ーーーー。

  ーー、ー。

  

  意識の外側ーー、完全にーー、

  「ーーカガチ!!」

  好いた男の、聞いたことのない揺らいだ声が聞こえた。

  →→→→→→→→→→→→→→→

  ーーその衝撃の最中、カガチの目には感動が写っていた。

  「ーーカガチ!!」

  ああ、何と心地の良いことだろう。

  誰でもない、自分が愛した者が身を挺して自分を守ってくれることが。

  必死な顔で、今までそんな顔、誰に見せたことがあるだろうか。

  誰かのために命を張れるあなたが愛おしい。

  そして、その誰かになれたことが何よりも嬉しい。

  ああ、なんと居心地の悪いことだろう。

  誰でもない、自分が愛したものに、ただ守られているだけである自分がここにいることが。

  必死な顔で、目を見開いて、全てを投げ出すような格好で、そんな姿をさせてしまった誰かがいるのだと。

  憎たらしい、悍ましい。

  ーーーーそして、それは自分だった。

  →→→→→→→→→→→→

  何もかもが、崩れ落ちていく感覚と共に、カガチは目を開く。

  何が起こったのか、何の衝撃か。鼻先から、土の匂いと落ち葉が乾いた匂いがする。視界が茶色い。それはカガチの毛よりも黒く、そしてガサガサとしている。

  

  視界の先、そこに小麦色が倒れたいるのが見えた。

  なぜシナノはーー、地面に転げて倒れているのか。

  自分は今、何から守られたというのか。否、そもそも何かから守られたのだろうか。何のために、押し飛ばされたのか。

  認識の外側で、何が起きたのか。ただ、一つ言えるのはシナノがあんなに必死な顔でカガチを無理やり押し倒して、転げ落ちたことだけだった。

  明暗する視界を無理やり凝らして、自分を庇ったはずのシナノの姿を探す。

  「シ…ナノ…?シナノ…!」

  怪我をしているがそんなのお構いなし、両手で体を押し起こす。そして、茶色い地べたに横たわって体を震わせるシナノを見つけた。

  そのまま立ち上がって、自身を庇い地面に倒れたシナノの元へと駆け寄る。

  シナノは体を小刻みに震わせながら、駆け寄ったカガチへと顔を上げる。そしてーー、

  「カガチ……無事か…?」

  「あ、あぁ、無事…だけど、無事だけど一体何をーー」

  針ーー。

  顔を上げるシナノ。地面に転げて茶色くくすんだ長毛の隙間から、わずかに銀色に輝く針が刺さっていた。元々刺さっていたというわけではないだろう。鈍く鋭く刺さるその針は、カガチの毛に半分ほど埋まって見えた。

  シナノの首筋に刺さった縫い針のような小さい針。刺さればちくっと痛むその程度の針。散々斬り合い、差しあった二人にとってはその程度何の脅威でもない。

  だが、だけど、その一刀が、何かすごく、致命的な間違いだと、心が訴える。

  「あらあらあら、まあ。」

  そして、背中の方から聞こえてくる声に、その心の訴えは肯定される。身震いする、それと同時に、怒りが湧いてくる。

  その声の正体はーー、

  「当主たる者が、そんな下衆な存在を庇い立てするなんて……いけませんわ、旦那様。」

  そこにはーー、口元を愛らしく袖で隠しながら微笑む女がいた。何も知らない、危害を加えることを知らないかのような佇まいで、儚げに立つ女が、そこにいた。

  儚げに、物憂げに瞳を揺らし無害を装う。だが、その手には確かに、針を飛ばしたであろう吹き矢が持たれていた。

  「『化』の字の当主様ーー、ご無事で本当に……本当に、あなたは間の悪い、間男に相応しいたち振る舞いしかされませんわね。」

  唇を舐める女の目には、明らかに悪意があった。

  そして、今になってカガチは女の狙いに気づいた。

  その瞬間に、カガチは全てを確信した。

  この女の狙いは、カガチであった。

  

  否、正確にはシナノとカガチ両方を纏めて始末することであった。女の裏の顔を知るカガチ、それを今、シナノと共に始末する機会を女は伺っていたのだと。

  そして、シナノを殺す口実ーーシナノに穢れなど存在しないのだと。

  寧ろ、穢れているのは

  「『風よ』ー!!」

  術式を発動して、全身に風を纏う。

  周囲の風が全てカガチに向かい、カガチを中心に渦が発生する。

  その動作に、攻撃の予兆を感じたのか、女は再び針を吹き矢で、カガチに向かって飛ばす。

  しかし、その針はカガチに届く前に風に攫われ、空に飛んでいく。

  「あら、これはいけませんね。」

  その結果に女は思わず後退する。しかしーー、

  「逃すわけねえだろ、痴女。てめぇ洗いざらい全部吐き出しやがれぇ!!」

  女が後ずさって逃げるより、カガチが追いつく方が何倍も速い。風を踏み台に飛び上がり、カガチが一気に山の斜面を飛び上がる。そしてーー、

  「テメェの人生、その胸と目で払わせてやるーー」

  飛び上がり、その華奢な体に、カガチの凶悪な爪が振るわれる。その爪が顔面の皮を剥ぎ、胸を抉る。

  その光景が現実になるその瞬間ーー、女は口元を舌で濡らす。

  「悪いが契約なんだ。個のため、その女は守らせてもらおう」

  聞いたことのない声がして、そして、声の方に目をやるとーー

  「……お前は」

  見覚えのある男ーー。覚えている、直接の面識は無いが、仕事をこなす上で何度か目にした男だ。

  狩人の、青い狼ーー。その珍しい毛色と、狩人所属という異端も異端のその存在は、意識せずとも記憶の端に存在した。

  そして、その記憶の逡巡ーー、それを突き破るような衝撃が訪れる。

  「ゴアッ」

  その衝撃に、腹の奥底から鈍い声が出る。

  横っ腹から突然押し出され、そしてそのまま、登ってきた斜面を転がり落ちる。

  転がり落ちた先には、倒れて蹲るシナノがいた。

  「シナ……ノ…」

  「よそ見をしている余裕があるのか」

  倒れたカガチへ容赦なく次の構えをする狼。その瞳はひどく冷徹で、ただただ自分の役をこなす歯車のようだった。

  そしてそんな男は、表情ひとつ動かさないまま、差し出した手を握りしめる。すると、攻撃の予兆ーー不自然な揺れが足元から迫ってくるのをカガチは察知した。

  「っく、そあぁ」

  地面が揺れる。その揺れに嫌な予感を感じて、カガチはシナノを抱えてそこから飛び退く。

  抱えたシナノはぐったりとしていて、全体重が問答無用でカガチへとのしかかる。

  力がない、出せていない。シナノの額はぐっしょりと汗で濡れて、そして肩で息をしていた。

  顔色も悪く、今に目を閉じて死んでしまってもおかしくない。

  「逃げ……」

  道は、存在しない。いつの間にか、おそらくカガチが吹き飛ばされた瞬間だ。

  女が水色の狼の後ろで、小さな手で印を結んでいるのが見えた。

  それは、カガチもシナノもよく見知った『結界術』の印だった。

  「めんどくせぇことしやがって」

  結界術の真髄ーー、外からの侵入を許さないのと同じく、中から出さないこともできる。それはあくまで結界の中にいるものを外部から隔離して守るため。

  だがこの際、それはカガチとシナノを逃さないための檻として機能していた。

  カガチの使った虎の印、シナノの鼠の印。大きさに差はあれど、強度に大差はない。

  強いていうなら、ヤシロ本山との縁が強い分、シナノの方が若干強度も反動も強い。

  結界術に大事なのは、結界と自信を結ぶ縁の強度であり、その強度は術師の素養よりも場所に左右される。

  素養があり縁がないカガチと、素養がなく縁が強いシナノでは、シナノの方がより強い結界を結べる。

  実際にカガチの肩を抉った一刀は、シナノの作った鼠の結界の反動によるものだ。

  そして今、カガチとシナノ。そして水色の男と女を囲うこの結界。

  「逃げられねぇ、クソっ。」

  無理やり力づくで壊すのは無理だ。壊そうとすれば、それだけ反動がくる。もし結界を壊せたとしてもカガチの体が限界を迎えるだろう。

  もしできるとすればーー、山により縁が深いシナノ自身が四隅のどこかしらを上書きする。もしくは

  「…あいつを殺す……。っち、めんどくさい時にめんどくせぇやつ呼んでくれたな」

  女を守護するように位置取る狩人。冷たい目線でこちらを見下ろすあの男を突破して、女を殺さなくてはならない。殺さなくとも、一瞬、結界を維持できなくなるほどの衝撃を女に与える必要がある。

  「…カガチ…」

  シナノに小さな声で名前を呼ばれた。額には汗が浮かび、顔色も悪い。それでも、薄く開いた目からは、諦めなど存在しないとでも言いたげな、熱い気を感じた。

  ここまでの何からどこまでがあの女の手のひらなのか。なんなら、今までの全てがあの女の手のひらかもしれない。

  今こうして、抗おうとする意思さえも、あの女の手中かもしれない。

  だけど、誰よりもその画策の被害者であるシナノが、誰よりも諦める意思を見せない。

  抗うことを、諦めていない。

  だからーー、

  「やってやろうぜシナノ」

  飛び退いて、そして着地した先でシナノを近くの木に預ける。再びカガチは立ち上がり、動かない左手をぶら下げて、片手にクナイを構える。

  青く輝く氷の花が咲き誇っていた。

  カガチの横っ腹を殴ったのも、地面を揺らしたのも、あの氷の花が正体だ。

  女一人と狩人が一人ーー。しかもその狩人は魔法の熟練者と来た。

  逃げるためには最低でも、女の結界術を止める必要がある。そのためにはーー、

  「お前ら二人とも、塵芥にしてやる」

  風が舞うーー

  カガチを中心として大きな風が舞い始める。

  ズキズキと頭が痛む感覚がある。分かっている、魔力不足だと。この状態で、熟練の狩人に追いつけるはずなどあるわけが無い。

  シナノにすら追いつけない、そんなカガチの戦闘技術。

  でも、それでもーー

  「諦めるなんざ、やってやるかよ。誰がそんなめんどくせぇ方に転がってやるかってんだ!」

  今生一番のやる時ーー、それが今だ。

  風に乗り、再び立ち向かう。クナイを投げ、しかしそれは青い花に阻まれる。だが、カガチはその花が咲く瞬間に身を隠し、死角へと移る。

  クナイを投げては移動して、そうやって風に乗りながら、相手に自分を捉えさせないようにひたすらに動きながら、カガチはあるべき隙を狙う。

  「……これは驚いた。全以外にもこれほど魔術に長ける者がいたのか。」

  どこで聞いたか齧ったか。独学で扱うには何とも高い練度にまとまっていると、男は耳を揺らしながら感心する。あれば、狩人としてその力を振るってほしいが。

  しかし、

  「付け焼き刃だ。個には見えている。」

  カガチの素早い動き。クナイを避けて、剣で弾きながら男は次の発火点を定め、手を伸ばす。

  あちこち、木を蹴りながら飛び回るカガチ。身体能力だけでそれらをこなしていれば、まだカガチに部があったかもしれない。だがーー、

  「個の氷は、その程度の炎で溶解などしない」

  

  青く輝く氷の花がーー、風になるカガチの前に咲き誇った。

  

  →→→→→→→→→→→→

  ふらふらと、頭が揺れる。

  

  首に打ち込まれたこれは、きっと毒か何かなのだろう。

  ただでさえ血が足りてない体に、何か異物が充満する感覚が訪れる。体の底からジワジワと、体温を奪いながら全身に広がっていく。

  少しずつ、嬲り殺される。

  きっとこのまま死ねば、シナノの憂いは無くなるのだろう。

  だがーー、

  『やってやろうぜシナノ』

  そう言って、敵の懐に飛び込む心友を置いて、逝けるだろうか。

  

  薄く開いた目から見えるその光景は、カガチを一方的に追い詰めていた。

  投げられるクナイは全て氷の盾で防がれ、近づいたかと思えば、今度は足元から氷の華がカガチを貫こうと咲き誇る。

  妻は、いつの間にか氷の花で厚く覆われて、狙うものも狙えない状態へと変わっていた。

  どこまでも、都合よく回らないこの世界。きっと、自分はこの世界で幸せになることなど許されないのだろう。そう感じるほど、戦局も、人生も、シナノに牙を向ける。

  だがーー、

  『俺がお前を望んでやる。生きろって、そう言ってやる。』

  初めて、本音をぶつけたのだ。

  初めて、必要とされたのだ。

  初めて、この世界で生きたいと思えたのだ。

  だからーー、

  「……結界術…丑の陣…」

  一つ枷を外す。

  もはや痛みすら感じない、震える右腕と左腕を胸の前で掲げて、印を結ぶ。

  シナノに許されてきた結界術。その壁を一つ打ち破る。

  今なら、血が流れた今なら、この山とより深く結ばれているそんな気がする。

  「行け……カガチ…」

  印を結び、そして朦朧とする意識の中で、重い体を持ち上げる。

  刀を携えて、走って向かうは敵の首。

  「『風よ』ー、穿てーーー!」

  

  カガチの詠唱ーー、それと同時にシナノの刀が振るわれる。

  二つの衝撃が同時に水色の狼を襲う。

  そして、結末は訪れるーー。