前を向くのに必要なミートソーススパゲッティの作り方
世界というのは人が一人亡くなったところで何も変わりはしないのだという事を、僕は事実として知っていたけれど、理解までは全く、微塵たりともしていなかった。
夏も終わり、外に出ても舌を出さなくても良いくらいの気温になった頃だった。
もう一月二月もすれば換毛期でまた面倒だなとも思うけれど、それでもやっぱりぎんぎらぎんに輝く太陽に悪感情を溜め込む季節がどうにかやっと過ぎてくれつつある事がとても嬉しくて、それで仕事終わりともなればスキップしたくなる気分だった。
あの日の帰り道。オフィス街から満員電車を乗り継いで住宅街へと足を踏み入れた夜の匂いは、今でも昨日の事のように思い出せる。
換気扇からたっぷりと蒸気溢れ出させている家からは肉汁の混じったトマトソースの濃い匂いと、スパゲッティを茹でている小麦粉混じりの淡い匂いが。
ジャッ、ジャッと軽やかに物を炒める音のする家からは、そんな油のこびりついた沢山の野菜の匂いと一緒に母親らしき人の小言が聞こえてくる。
そして今日も今日とてどこかからか流れてくるカレーの匂い。
翌日の出勤のタイミングになれば、服にこびりついたその夕食の匂いと一緒に生活臭もこびりついてくるものだから、家と人と、そしてどんな生活をしているかまでを、一年も経たずとして簡単に紐付けられてしまう。
家の中の様子までが鮮明に分かる程の僕の鼻。そんな沢山の何気ない幸せに囲まれながら、その日は僕より先に帰っているはずの僕のパートナーの夜ご飯の献立を予想していた。
ミートソーススパゲッティ。レトルトでも十分美味しいけれど、もし凝り性なパートナーが作るなら野菜をじっくり炒めるところから始めて、きっと食べるのは僕がすっかりお腹を減らして流石に苛立ちを隠せなくなってくる頃だ。
シンプルな野菜炒めとかは安く済むけれど別に家計も困っていないから作らないはず。やるなら何か良く分からない調味料でもモリモリ入れて、どこかの国風にでもしていると思う。
カレーはちょっと勘弁したい。昼ご飯がカレーだったし。
でも、マンションの前にまで帰ってきて、部屋に明かりがついていない事に気付いた。
残業でも入っちゃったかな? と思ってチャットを確認したけれど、何もない。トラブルかな? と思って暗い部屋の鍵を開けて、電気を点けて、テレビを点けて。
「本日時頃、**駅前にて起きた交通事故の続報です。トラックを運転していた****氏は事故当時に意識がなかったとの事で、また携帯品の中には気つけ薬の類が発見されたとの事です。
現在、死傷者は名以上にも及び……」
パートナーの勤めている会社の最寄駅。心臓が強く縮んだ感覚。手にしていた端末から、電話が鳴り響いた。
僕とパートナーがそういう関係である事に関して、それぞれの親から前時代程に忌避感を覚えられていた訳でもないけれど、受け入れられている訳でもなかった。
ぐちゃぐちゃになったらしいパートナーの顔を病院に行っても僕は見る事もなかった。後から来た家族には直接の原因が僕にないと分かっていても溢れ出る感情が強く籠った罵声を浴びせかけられた。同族といえど、あんな殺意と牙と歯茎すら剥き出しにした顔を見るのは初めてで、その場に留まるようであれば冗談なしに喉笛を食い千切られそうで戻るしかなかった。
葬式に出る事も許されず、僕は終ぞパートナーの顔を遺影としてすら見る事もなく、パートナーは墓の下に入ってしまった。また後に唐突にやってきた家族達は僕とパートナーの部屋から無言でパートナーの物を容赦無く奪い去っていった。僕はぽつんと部屋の端で立っているだけで、何も出来ないままだった。せめて墓参りだけでもしたかったけれど、墓の場所すらもどれだけ頭を下げても教えてくれる事はなかった。
公式な関係にはなっていなかったのもあって、申請出来る特別な休暇も何もなく、有休はすぐに切れた。
二人暮らしを前提としていた広いマンションは僕だけの稼ぎでは住めるような場所ではなかった。親からは優しい言葉を掛けられて、一度戻ってくる提案もされたけれど、僅かにでも同性との生活が終わった事にどこか安堵するような雰囲気を感じてしまうと戻る事は出来ないと感じてしまった。
適当な不動産屋で、安くて狭いアパートを適当に選んで引っ越す事にした。
残ったのは、パートナーの残した良く分からない調味料が沢山と、パートナーが選んだ料理家電くらいだった。大きい冷蔵庫は、狭い部屋に入れるのにトラブルがあって大きく傷がついた。
けれど、そんな最中も僕の周りは何一つとして変わらなかった。家々から感じられる匂いも、電車に乗る人々の無関心な顔も、仕事の内容も。家庭的な幸せな匂いを恨んでも、未だ墓の前にすら行けない事に泣き喚いても、それですら何一つとして思い切った行動を起こせない僕の頭を壁に打ち付けても、世界の方が変わる事は一つたりともなかった。変わったのは僕だけだった。
世界というのは人が一人亡くなったところで何も変わりはしないのだという事を、僕は事実として知っていたけれど、理解までは全く、微塵たりともしていなかった。
*
「去年の春は北の方に行ったんだよね。雪解けの季節にその地方の伝統の保存食とか、後は昔ながらの伝統文化を眺めたりとか。
都会だと、いつもいつも雑多な、物が加工された、ある意味マイルドな匂いで溢れていてそれが当たり前になっているけど、やっぱり自然の匂いはね、ストレートでシンプルで強烈なものばっかりなんだよね。でも不快とかそんな事は全くなくて。
一緒に……うん、僕にとっては合わないものもあったけれどそんな郷土料理を食べて、一緒に特にあてもなくぶらぶらと歩いて、妙な地形を見つけると突っ走ったり寂れた神社とかがあると必ずお参りをする僕に彼は苦笑いしながらも付き合ってくれて、それからただただ駄弁って、ホテルに戻って。雪景色の、硫黄とかは控えめな、僕達にとっては助かる露天風呂。色んな人が来ててね。親子から、友人関係から。別に何かそれらに対して変な事を思った訳じゃなくて。冷たくて静かな空気、熱いくらいの温泉。もわもわと湧き上がる湯気。満天の星空。そういう場所でゆったり一緒に時間を過ごせる事。それがとてもとても幸せで。ずっとずっと、ずーーっと続けば良いなって思ってたんだ。……うん、思ってたのに。思ってたのに……」
「……うん、うん」
「もう、一年近く経つのにね。僕、全く受け入れられてないんだ……」
「……うん……」
何度も何度も何度も何度も同じような事を聞いて貰っているのに、喋る度に鼓動が落ち着かなくなる。僕は未だにあの日から同じ場所に呆然と立ち尽くしている。何の心の整理も出来ていない。
思い出を吐き出していけば次第に落ち着くんじゃないかと思ったけれど、もうきっと十回以上同じ友人に付き合って貰っているのに僕は前へ一歩も進めていない。
「……ごめんね。何度も何度も付き合わせちゃって」
「いや、いいよ」
友人は強いお酒を少しずつ飲んでいく。過去に僕が手を出そうとして、やめとけ、と言われた。酒に溺れたら本当に戻れなくなってもおかしくないから、と。
「……それ、少しだけ、良い?」
「んー……」
友人は残り少ないそのお酒を更に半分ほどくい、と飲んでから僕に渡した。
「……ありがと」
ちょびっと舐めて、飲み干す。喉が焼ける。頭がすぐにくらくらしてくる。
「……馬鹿」
「うん……うん……」
僕はどうしたら前へと進めるんだろう。忘れたくもない。でもこうしてずっと引き摺っているのは、パートナーも望んでない。
夜遅く。
最寄駅の改札前まで付き合って貰う。電子マネーの残高がもうほぼ底を突いていたけれど、出てからチャージする気にはなれなかった。
「毎度だが……馬鹿な事は考えるなよ」
「うん。……ありがとう」
「……おやすみ」
そう言って、友人は逆方向の地下鉄へのエスカレーターに乗って行って、振り返る事はなかった。
少しふらふらとした足取りで外に出る。深夜でも生温い風。また、夏が来ていた。
夏が過ぎれば一年になる。一年になってしまう。生温い風と共に家庭の匂いが飛んでくる。夕飯は過ぎて、お風呂の湯気からは石鹸の匂い。ある家の子供部屋からは精の臭いが漏れ出ていた。パートナーとは積極的に交わる訳ではなかったけれど、確かに僕達は愛し合っていた。結婚とか、そういう言葉で括られる関係よりはもう少し緩い関係であっただけで。
世界は変わらずぐるぐると巡っている。どこかでは内戦が起きているし、治安の悪い国ではきっと今日も誰かが些細な事から殺されている。沢山死んでいる。とても沢山死んでいる。それも今の僕とは関係ないように、パートナーの死もほとんど大半の人とは無関係。
世界はとても残酷で、でもだからこそ美しいだなんて、僕には思えない。そんな事を言えるのは、その残酷さをその身に受けていない人だけだ。
交差点に出る。この時間だというのに週末だからか車は良く行き交っている。
「…………」
ここまで落ち込んでいるままにずーっと時間を過ごしてきたのに、馬鹿な事をする気にはどうしてかなっていなかった。
どこか、こんな今の僕の現状を俯瞰している僕が居た。どこかに冷静に日々を過ごすばかりは遂行出来る僕が居た。そしてずっとパートナーの事を引き摺っている僕が居る。理由は、分かりきっていた。
僕はパートナーに形式だけですら別れを告げられていない。僕の世界からパートナーが居なくなるまで、そこに僕の手は何一つとして入っていない。入る事を許されなかった。
ずっとこのままだったら、多分きっと、これもまた何でもない日に限界が来て僕は彼と同じように唐突に、けれど自発的にぷっつりと命を落とすのだろう。
異臭がぼんやりと漂う狭いアパートに戻る。
「……ゴミ、捨てなきゃ」
コンビニ弁当の空き容器ばかりが積み重なっている台所。パートナーが居る頃だったらあり得ない散らかり具合、汚れ具合。使われていない、ほとんど空っぽのままヴーヴー唸っているばかりの冷蔵庫。でも、我慢出来るくらいだと我慢してしまう。シャワーも浴びずにこれもまた湿って臭いが少しずつきつくなっている布団に倒れ込む。
「ああ……」
ぐるぐるとしたまま、今日も一日が終わる。
*
朝早くに目が覚めた。目からは涙の跡がたっぷりとついていた。
体を起こして顔を洗って水を飲み、からっとした天気の中に窓を全開にして布団を外に干す。
ゴミ袋を広げて、テーブルから洗面台にまで各所に積もっているプラ容器を片っ端から入れていく。
ぐしゃぐしゃと潰しながら全てを入れると、次にどうでも良いようなタオルを手に取って軽く湿らせ、床を拭う。各所に積もった埃がタオルに分厚く重なり、何度か洗い流していると部屋に漂っていた臭いが少しずつ薄れていく。
風呂場へと。抜け毛が排水溝にぎゅっと詰まっていて、少し躊躇ってからそれに指を突っ込んで引き上げる。ついでに溜まった水垢と黒カビもゴシゴシと一気に拭って、一気に雑巾のようになったタオルをゴミ袋に入れた。
トイレに洗剤をかけて、けれどこびりついた糞尿は手強く、強力な洗剤を後で買ってくる事にした。
最後に外に出てぱんぱんに詰まったゴミ袋を捨て、空を見上げた。
「そう言えば、お盆……だったんだ」
夢の中でパートナーと会った。
何を話したのか、起きた今では全てをはっきりと覚えている訳ではないけれど、それを夢、自分の妄想が生み出した哀れな幻覚と断じるには余りにもはっきりとし過ぎていた。
『そうだよ』
「ほあっ!?」
気付いたら陽炎のように、目の前にパートナーが。
後ろの背景もはっきりと見える程透けて見えるのに、パートナーの姿は毛先の輪郭までしっかりとしているし、色まで分かる。
僕よりやや大きい、すらっとした……でもちょっと贅肉が目立ち始めている体つき。と死んだ時そのまんまの、白に近い灰色のボサボサとした夏毛。同じくボサボサとした尻尾は嬉しさを隠しきれないようにブンブンと振るわれている。鋭い眼差しとずんぐりとしたマズル、ちょっと欠けた左耳。丁寧に整えられた爪。一本だけ折れた牙。
本当に、上から下まで、鼻先から尻尾の先までパートナーだった。
『ほら、尻尾なぞ動かしてないでさっさと動く! 一日は短いんだからな!』
「え、あ、はい。……幻覚じゃあ、ないよね?」
『帰っても良いんだぞ? もう二度と来れないがな』
「あっ、いやっ、ごめんなさい、ずっと居てください」
『それは無理なんだな』
……取り敢えず家の中に戻った。
言われるがままにシャワーを浴びて、積もった衣類を洗濯機にごうんごうんと回す。
写真を撮影しても、心霊写真のように写ってくれる事もないパートナーが呆れて口を開く。
『紙とペン!』
「え、あるかな……端末のメモ帳じゃダメ?」
『思い出として残すのに電子データは味気ないだろ』
「思い出……」
パートナー曰く、こうして一日だけでも現世に戻って来れたのは奇跡のようなものらしい。不幸が重なって想い半ばで死のうが、その殆どはすぐに消え失せてしまうという。
そして、その一日で来たのは僕の方だった理由は、単純に親よりも僕の方が心配だったとも。
『まー、何があったかは大体想像つくけどさ、思いの外しっかりと生きていて俺の方もほっとしたんだぜ?』
「……うん、色々とあったよ」
放置している引越しの箱から探すのは諦めて、会社の鞄からメモ帳を引っ張り出した。
『じゃあ、レシピ書き込んでいくぞ』
「はいはい」
言いたい事は沢山あった。言える時間も一日という時間があれば何でもある。
でも、パートナーは夢の中で言っていた。
『俺は変な事故に巻き込まれて死んじまったけどさ、お前にはこれから生きてきた時間の、ひょっとしたら倍以上の時間がまだまだ残されている。
まあ……正直さ、お前が別の奴とくっつくのに抵抗が無いかと言われればそりゃあるんだけどさ、でも俺はまだまだこれから先も生きるお前の重しになぞなりたくねえ。だから、女々しい事は言わない。そう決めた。
ただ、な。忘れ去られるのも嫌だからな。綺麗な思い出として残りたい。そうも思ってな』
それがレシピを残すという事だった。
別にネットの海を探せば似たようなものどころか同じものすらあるだろうけれど、調味料だけでもしっかり残してくれていたなら使い切るくらいはして欲しい、とも。
そして、僕が覚えているはずもないどっかの国の調味料の名前とかがすらすら出てくる事が、これが僕の妄想ではない事を教えてくれる。パートナーは、本当に幽霊になって僕の前に出てきてくれている。
『料理はお前にとって趣味じゃないだろうけどさ。コンビニ弁当だけってのも味気無さすぎるだろうから、偶にはしてくれよ。
今日一日で軽く手解きもするからさ』
「うん……。一応聞いておくけど、他に何かしておきたい事とかは無いの?」
親に遺す言葉とかさ……、と続けようとして、口が止まった。今まで沈んでいた怒りがふつふつと湧き上がってきたように。
『無い事は無いが、お前以外に俺は見えないようだし、お前以外に遺すものもないよ』
読まれていたかのように言われた。
「……そう」
全く使わない台所をふわふわと全てを透けながら眺めて、調味料を使い切る為レシピを書き終える頃には、朝も過ぎていて。
『それじゃ、買い物だ』
「はいはい」
『食べたいものは?』
「ミートソーススパゲッティ」
気付いたら即答していた。
『お? 珍しいな』
「……あの日の思い出かあ」
『あの日?』
「……君が死んだ日。その日も色んな家庭から色んな匂いがしてたけど、ミートソーススパゲッティの匂いが一番印象に残っててさ。……そう言えば、君はあの日何を作ろうとしてたの?」
『カレー』
「あっはい」
『何だその反応は』
「いや、その日の昼に食べてたから」
『……なるほどね』
スーパーに寄る。本当にパートナーは他の人には見えていないようで、傍から見たら僕は独り言を時々呟いている変な人に見えるらしい。
『ひき肉は脂があり過ぎても無さ過ぎても困るから、うん、要するに普通の合挽肉を買えば良いな。
玉ねぎは少なめ。一応俺達にとっちゃ沢山食わないと、という但し書きが付くがそれでも毒だからな。その代わりに人参とセロリを多めに。それからブイヨンとトマト缶。トマト缶はカットじゃなくてホールな? 煮込みにはそっちの方が良いんだ。それからニンニクは……チューブで良いか、うん。これも毒だがな、同じく沢山食わねえ限りは別に問題ないからな。
あ、それと塩とか砂糖すら無かったよな? 俺には信じられねえよ』
「そりゃあ悪かったですね」
その位のものは、引越しの時に捨ててしまっていたから。
スーパーで買い物に付き合う事はあれど、食べ物とかを何をどうして買うのかは全てパートナー任せで、今まで聞いた事も殆どなかった。だからそういう意味で一緒に買い物をするのはこれが最初で最後な訳であって、それだけで涙が出そうだった。
けれど堪えて、会計までさっくり済ませる。
泣くのは後で良い。泣く時間は後で一杯あるから。
『じゃ、さっさと帰るぞ。昼飯は遅くなるが別に構わないよな?』
「まだ昼には時間あるけど、そんなに?」
『俺なら出来るだろうけど、どうせお前が包丁持ったの一年以上前になるんだろ』
「あー、はい」
便器用の強力な洗剤を忘れていたのに気付いたのは、帰りの半分以上の道のりを過ぎた後だった。
特に寄り道もせずに帰り、そして全く使っていなかった鍋とフライパンを引き出す。埃が薄く被っていて水で洗い流す。
他にもまな板と包丁と……段ボールに入ったままのもあった。
オリーブオイルという洒落たアイテムをドバドバとフライパンに入れて、そこに塩を混ぜたひき肉を入れて焼く。
『必要な事は、しっかりと焼き色を付ける事だ。要するに、焦がす事だ。ハンバーグとかさ、真っ黒な部分があっても美味しいだろ? そういう事だ』
「初心者にはハードル高くない?」
『何度もやってりゃ慣れる』
「何度も、か……」
『はい、その間に野菜を切りますからね』
「え、ちょっと手離すの怖いんだけど」
『この位の火力なら分くらい放置してても問題ないし、そうやって並列にこなしていかねえといつまで時間があっても足りねえぞ』
「初心者のやる事じゃない……」
そう言いながらも、ひたすらに指示に従って工程を慎重に、丁寧にこなしていく。
野菜を全て微塵切りにする。狼なのに猫の手と何度も言われる。しっかりと焦げ色の付いた肉を一旦皿に避難させて、フライパンに刻んだ野菜を全て入れる。そして塩を入れてひたすらに炒める。こっちは焦げ過ぎたらいけないので何度も混ぜながら。すると嵩が瞬く間に減っていき、そして全体から水分が外に出て段々としんなりしてくる。これ、いつまでやるの? と聞いたら理想は水気がなくなって、全体がお前のここあたりの毛皮みたいな色になるまで、と言われた。俗に言うキツネ色。
換気扇カバーの付いていないそのままの換気扇から沢山の水蒸気が流れ出ていく。
肉を戻し、赤ワインをドバドバ流し込んでアルコールの匂いが鼻を突き刺していくのが終わると、ブイヨンとトマトを握り潰しながら入れる……壁に、顔に汁が飛び散った。
『あっはっは! やると思った!』
「あのなぁ……」
『でも、これで後は基本煮詰めていくだけだからさ』
「へぇ……」
面倒だけど、まあまたその内やっても良いかな、と思う位。
『程良く煮詰まるまで、後は洗い物ですよ。そっちは言う事無いよな』
「そっちは僕のメイン作業です」
意外と洗い物も少なかった。
はたまた良く分からないスパイスやハーブや、それからケチャップも言われるがままに入れて。ついでに使ったスパイスの名前を特徴と共に何度も口で言わされながら覚えさせられ。かなり煮詰まって来たかと思えばまだまだと言われる。
『水分をかなり飛ばして、ねっとりする位にしないとスパゲッティに絡みついてくれないんだよな』
「時間掛かるなぁ……」
『でも、パスタを茹でるのは今から位で多分大丈夫』
「はいはい、じゃ、鍋に火をつけますよ」
気付けばもう昼過ぎ。あっと言う間に時間が過ぎ去ってしまっていくようで、少し恐ろしくなる。
「……明日も明後日も居れば良いのに……」
『俺がここに居るのも例外みたいなもんだからな。諦めてくれ』
「ずいぶんあっさりと言ってくれる」
『事実だからな。事実は受け入れるしかない。例え、それがどんなに受け入れ難くても』
「……うん」
パートナーも、多分、いやきっと確実に、僕以上に苛まれたのだろう。口調から、そんな風に思えた。
沸騰した湯にスパゲッティを入れる。微妙に入りきらないが、すぐに鍋の中で曲がって入りきった。
ザルを用意。皿とフォーク、それから粉チーズを用意。テーブルを改めて片付ける。あの日の帰り道に抱いていたワクワク感が少しずつ再現されていくよう。
スパゲッティが鍋の中で踊り始めて、でも一本を引き上げて食べてみるととまだまだ硬い。
『後ちょっとかなってところで引き上げて、ソースと火にかけながら混ぜて完成だ。あ、別にフライパン用意な』
「やってたね、そんな事」
別に用意したフライパンに一食分の赤黒くこってり煮詰まったミートソースを取り出し、そこに茹で汁を敢えて碌に切らないスパゲッティを入れて、ぐちゃぐちゃに混ぜて更に煮詰める。綺麗だったスパゲッティが一気にミートソースの脂で染まっていき、更にそこに好きなだけ粉チーズを追加してまた混ぜた。
皿に移して、テーブルに運んだ。……一人分だけを。
「食べる度に泣きそうだなあ……」
『うじうじするだけで何もせずに生きているよりはよっぽどマシだろ?』
「……うん……」
出来上がったミートソーススパゲッティ。色も匂いも、パートナーが作っていたのとそっくりだった。皿もフォークも使っていたもの。でも、盛り付けまでこだわっていたんだな、とパートナーに気付かされる。
『ほら、さっさと食えよ』
「うん。…………美味しい。……美味しいよ」
肉。脂。チーズ。野菜の甘み。トマト。肉。チーズ。脂。スパゲッティ。完璧。
『良かった』
端的に言うパートナーは、どこかほっとした顔をしていた。
涙を抑え切る事は、出来なかった。
……それからの時間もすぐに過ぎ去っていった。何気ない事を喋りながら段ボールに入ったままの荷物をしっかりと引き出して台所を充実させて。
再びスーパーに行って洗剤やら、調理器具やらを買い足して、掃除をして。そうしている内に日が暮れてくる。
『こういう時刻を、逢魔が時って言うんだよな。何故そう言うのか、今分かった』
振り返ると、パートナーの姿が薄れつつあった。
「あ、あ……。も、もう?」
『みたいだな』
膝から崩れ落ちた。
抱き締める事は出来ない。匂いを嗅ぐ事も出来ない。だから、涙を流して視界を曇らせるのも嫌で。
ミートソースの匂いが、彼の作ったものと一緒の匂いがまだ篭っているこの空間。僕は、溢れ出した涙を必死に堪えながら立ち上がった。
『大丈夫か?』
「大丈夫かと言われたら、大丈夫じゃないけれど……それでも、昨日よりかは大丈夫」
『なら化けて出て来た甲斐もあったもんだ』
「うん……ありがとうね」
『こちらこそ。最後に会えて良かった。…………』
こうしている間にも、少しずつ薄れていっている彼の体。色が分からなくなっていく。輪郭がぼんやりとしていく。そして、彼は何かを言いあぐねていた。
僕は彼の名前を呼んで、前を向かせた。
「……好きだった。愛していた」
きっぱりと。そして、これは別れの挨拶だった。
そしてそれは、僕にとってパートナーの死が、僕が生きる為の障害にはもうなり得ないという宣言でもあった。
だから、パートナーも僕と向き合って、口を開いた。
『俺も。好きだった。愛していた。……本当に、本当に、ありがとうな。
元気に、暮らせよ』
「うん」
途端に、一気に薄れていくパートナー。
「あ、ああ、ああああ……」
思わず手を伸ばすも、何も届かない。にっこりと笑ったパートナーの顔が、僕の手の中で消えた。
「ああ、うう、うううう、ううああああああ……ああああああああああ!! ああああああああああああああああ!!」
僕は、泣いた。
鼻先を布団に押し付けて、布団を食い破って、布団を引き裂いて、枯れ果てるまで泣いた。
そしてミートソーススパゲッティを夜飯にも食べて、洗い物をして、お風呂に入って。
レシピの残ったメモ帳をペラペラとめくって、また泣いて。
そしてボロボロになった布団の中でぐっすりと寝た。
*
*
「……うん。不動産屋から手紙が届いてさ。
一応、事情を知ってるから。処分するかどうか聞いて来てくれて。でも、届けてくれってお願いして。…………前までの僕なら捨ててくれって言っていただろうけどね、気が変わって。
その中に書いてあったんだ。謝罪の言葉と、一周忌の案内が。
流石に……一周忌に出る事まではちょっと、うん、僕はウルフだけどチキンだし……手紙はきちんと手書きで、誠実さも伝わって来たんだけど、それでも謝られても許したくない部分もあるから。でも、墓参りだけはきちんとしようと思って。
そういう僕の心情も少しは想像してくれたのかな、墓の場所も書いてあったから。
だから、来週行く予定。一緒に来る?
…………。うん。ちょっとあってね。今はそんなに苦しくない。時々、まだ泣くんだけどね。それはもうたっぷりと。でも、前を向けているんだ。……うん、うん。まあ、来週会った時に話すよ。……それじゃ、また来週」
通話を切る。端末をポケットに入れる。うだるような暑さが終わりを迎えているけれど、今日は特別に暑い日。舌を出して、息を吐いて。空を見上げる。
世界というのは人が一人亡くなったところで何も変わりはしない。でも……それは小さな事だけれど、ゼロではない。決して。
その僅かなものを拾い上げて、抱き抱えて前を歩く事。それは、これから生きる人にとってとても大切な事。
それに気付くのにすら、僕には奇跡が必要だったけれど……でも、お陰様で前を向けた。
「……本当に、本当に、ありがとうね。…………今日は、何を作ろうかな」
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ミートソーススパゲッティの作り方
1.ひき肉に塩をまぶして炒める。しっかり焦げ目が付いて香ばしい匂いが付くまで無闇に弄らない事。
2.ひき肉が炒まったら取り出して、そこに微塵切りにしたニンニク、玉ねぎ、人参、セロリを入れて塩を振って、水分が飛んでキツネ色になるまで炒める。狼なら玉ねぎを少なめにして、その代わりに人参とセロリを増やす。ニンニクも少しで良いから入れたい。
3.ひき肉を戻して赤ワインをたっぷり入れる。強火にしてアルコールを飛ばす。
4.ホールトマト缶を握り潰して入れて沸騰させる。
5.ローリエ、オールスパイス、ナツメグ、クローブを適当に入れる。ブイヨンとケチャップも入れてとにかく煮詰める。ケチャップは入れ過ぎるとケチャップ味にすぐに染まってしまうので慎重に。
6.固めに茹でたスパゲッティと別のフライパンで茹で汁と共に煮詰めて、粉チーズを好きなだけ。お好みでタバスコをかけてめしあがれ。