「そこまでええーっ!」
倒れ伏した怪物が息の根を止めたのを確かめると、イリス教授はけたたましい声をあげて演習の終わりを告げた。甲羅干しをしている時のようにご満悦な表情で生徒を見遣ると、満足げに長い首を前後させた。この瞬間、自分の代に極めて優秀な魔導士が輩出されることを確信したからである。
ジャックは桃色の舌を垂らし、身体の内側に充満した熱気を冷ましていた。黒檀の杖を握る左手はまだ小刻みに震えていた。灰色の毛並みにローブが密着していた。時に無茶な演習を課してくる老練なイリス氏が喚び出した言語に絶する異界の怪物と相見えたときには、流石に怖気付いたけれども、かえって冷静に思考を働かせることができた。敵の特質を批評・分析し、唱えるべき正確な呪文をロジカルに導き出せば、あとは叙事詩のように連なるその文言を澱みなく唱える。これまでの実戦演習で繰り返してきたことを、ジャックは未知の難問にあたっても、しっかりと繰り返すまでだった。
微細な臭覚が既に始まった怪物の死臭を捉え、鼻先が不快げにエンジンのような唸りを上げた。本能的に乾いた鼻を舐めると表面はザラザラとし、時代が下って画面に亀裂の入った油彩画のように感じられた。
「文句なしの合格だ」
イリス教授は惚けたような顔を瞬時に引き締めて、努めて厳かにジャックに向かい告げるのだが、浮き足だった声の調子は隠しきれていない。
「私の特級の試験に合格したのは、君で二匹目だ」
教授は思わしげに宙を見上げ、祈るように首を垂れた。同じ代で優秀な魔導士が二匹も生まれたという事実に対して至上の喜びを感じていた。
「君は学園の誇りになるだろう、ジャック」
「ありがとうございます、イリス教授」
ジャックは瞑想に耽っているかのように感じ入った教授と握手を交わし、森の奥まった場所に設られた魔導訓練所を後にした。澄んだ水の美しい大河に沿って歩くと、木々が緑緑として映えている山腹に要塞のように聳え立つオートゥスュイ魔導学園の校舎が見えてきた。彼が幸運な成り行きでこの学校への入学が許されてから今日に至るまで年が経っていた。ジャックは不意に目頭が熱くなり、今までのことを思い返さずにはいられなかった。
ジャックは労働者が文字通り牛のように犇くハージス地区の出身だった。都市の繁栄を支える工業地帯の裏で影のように付き添っているその場所で、彼は生まれた時より身寄りのない孤児であった。父も母もわからぬ境遇がいかに惨めなものであったことは想像するまでもなかった。生きるためには物心もつかぬ頃から、朝夜にかかわらず、環境の劣悪さも厭わずに働き続けるか、そうでなければ野盗にでもなる他はなかった。一生を裏ぶれて過ごしてもおかしくなかったはずのジャックが、世にも名高い魔導学校へ入学することになったのは、虚空からサッカーボールやジュースの缶を取り出す姿が目撃されたからであったが、その光景を偶然にも目撃したのが偶々ハージス地区へ出向していたイリス教授だったのである。窃盗を疑われて危うく警官にしょっ引かれそうになった彼は、イリス氏のとりなしによって幸運にも牢屋ではなく学園の門を潜ることになったのであった。
学園の寮は、校舎の東側で山麓寄りに連なった部分にあった。自分にあてがわれた寮の一室に入ると、ジャックは誰かの気配を感じた。誰もいない部屋を見渡し、大河の流れを見渡せる木枠の窓もしっかり戸締りされているのを確かめてから、ジャックは空間の点を見つめながらある呪文を呟いた。忽ちにして効力が顕れると、寝台の縁のあたりの空間が揺らぎ、そこに何かの輪郭が浮かび上がった。しばらくすると、まるで宙空に絵が描かれるかのように、透明な影に輪郭線が書かれ、陰影が現れ、量感を持った。まずジャックの目についたのは頭部から伸びた節くれだった堂々たる角。案の定だった。
「よう」
寝台に腰掛けたバークが声をかけてくる。全身を覆う漆黒の鱗が窓からの日差しに照らされて白く輝きを放って眩しかった。龍人特有の鬼神を思わせる鋭い眼光が嬉々としてジャックへと向けられていた。
「元気か?」
「何が『元気か?』だよ! 勝手に俺の部屋に忍び込みやがって」
「この程度の悪戯であれば、お前は見破れるだろう?」
「わからなかったらどうする?」
「寝込みを襲う」
「止せよ」
「で、イリス教授の試験。無事越したんだろうな」
「固い握手を交わしたよ」
「よっし! そう来ないとな!」
バークは太い腕でジャックと肩を組むと、祝福がてら、たてがみをくしゃくしゃにした。一個の岩塊のような筋骨隆々とした図体をしたバークの逞しく膨らんだ胸や腋にがっちりと締められて、ジャックは身動きが取れなかった。
ジャックが入学してきたのと同じ年に、バークもまた魔導学園に入学したのだったが、その立場はまるで正反対だった。バークの一族は古くはこの国で有数の貴族と謳われた由緒ある龍族の家系であった。その血を引き継いでいるバークは、容姿の淡麗さと龍族が放つ特有の色気もあって、入学当初から学園中の耳目を惹く存在であった。
ところが、学年ごとに行われる「魔道」の対抗試合で、誰もが優勝を疑わなかったバークが初等科の部の決勝でどこの骨とも知れない銀狼のジャックに敗れたことで、学内に少なからぬ波紋が生じた。彼らが互いを頭の片隅で少なからず意識するようになったのも、その事件からだった。
家柄だけでなく、生まれながらの秀才とも称されたバークは初等科にして古典呪文学の一切を難なくマスターしていた。数百に及ぶ古代文字を暗記し、多岐にわたる格変化と複雑な時制を持つ文法を我が物とし、縦糸と横糸とを編み合わせて模様を表現するのと同じように、古典魔術が取り扱う限りにおいて、呪文による魔法を扱うことができるようになっていた。いかにも自分の口から瘴気を吐きそうな立派な体格をした龍人が、杖を振りながら魔法を発現させる姿は迫力もあって、たちまち評判になったものである。
一方のジャックは座学では同級生たちにしばしば遅れを取っていた。古代文字の象形を飲み込むにもひどく苦労をしたし、文法の試験では毎回追試を受ける羽目になり、単語の綴りも何度間違えたのかわからなかった。魔法杖の握り方でさえ教師に繰り返し矯正された。『古典魔術αʹ』の教科書に齧り付くように勉強し続けたにもかかわらず、初等科から中等部への進級試験は落第寸前の成績で通過するのがやっとだった。
その間にもバークは古典呪文学に留まらず、古今東西の神秘思想を折衷した近代魔術や、近代物理学や科学の発達にも対応できる新魔術の分野にまで手を伸ばしていた。高等科へ進む頃には、ジャックとの間に開いた差はもはや歴然たるものだった。初等科の「魔道」戦の勝利は所詮まぐれにすぎない、などとジャックの陰口を叩いて平気な連中もいた。
落ちこぼれ扱いをされながらも、ジャックはめげずに魔術に向き合い、もがいていた。入学以前に体験した労苦に比べれば何てこともないと自分を励ましながら。それに、自分を拾ってくれたイリス教授もことあるごとに何かと目をかけてくれ、自分の秘める才能に目を向けよ檄を飛ばしてくれもしたが、わかりたいものがわからない苦悶は想像以上に大きかった。
「それで、あの化け物、お前はどうやって倒したんだ?」
バークはジャックの目をまっすぐに見つめながら訊ねた。その黒く丸い瞳には好奇心の炎が灯っていた。お互いの解答を早く擦り合わせたくてたまらないというように、尾が左右に揺れている。ジャックは理路整然と自分の解答を語った。それは優れた数学の証明のように鮮やかな解法であった。
「ほおん……」
バークは無精髭を気にする者のように、顎に爪を這わせながらジャックの答えを吟味した。
「唱えた呪文はだいたい一緒だ。でも、それまでに至るロジックが全然違う。へえ、そういう考え方もあったのか……ふうううん!」
「何だよ急に」
「今度パクらせてもらう」
「ふざけんな」
「んでだよ」
「こっちがだよ!」
その日も、追試に次ぐ追試をこなしてやっと寮の部屋に帰ったのであった。ジャックは扉の前にどっさりと使い古しの筆記帳が積まれているのを見つけた。また、古紙類を自分に押し付ける嫌がらせだろうかと思い足で脇へ退けようとしたら、ページの隙間から封の切られていない手紙が落ちてきた。見たところ書かれたばかりのものであるようだった。封には初歩的な封印術も掛けられていた。
「あの時のノート、まだ持ってくれてたんだな」
バークはジャックの本棚に並べられた古びたノートを指差して面白がるが、照れ隠しをしているようにも見えた。
「同封してあった手紙も残ってるよ」
「誰が自分の書いた手紙を読みたいって思うんだよ?」
「せっかくだから、読み上げてやろうか?」
「止せっつうの」
バークはイリス教授の真似をして肩をすくめ、首を引っ込める素ぶりをした。
手紙は今も同じノートの、同じページに挟まれたままにしてあった。あの時俺に勝ったお前がこのまま学園で燻っているだなんて、誰よりも俺が許さないからな!……そんなことが熱っぽい文章と雄渾な筆跡で何枚も綴られていた。ノートは、初等から中等までの必修科目である『古典魔術αʹ・βʹ』、『基礎錬金術』、『魔法生物学概論』などに関する講義の内容がまとめられていた。実技上の杖の操作についてもわかりやすく図像化されているだけでなく、動く映像になる魔法が掛けられていた。どの項目にも、バーク自身が事細かに施した注釈があり、理解を大いに助けてくれた。
思いがけぬ相手からの贈り物のおかげで、ジャックは勉強にいっそうと力を入れることができた。次第に、低位だった学年での成績が上向き始めた。元来持ち合わせていた魔術の素養も相まって、復習を繰り返しながら順位はみるみる上がり、高等部最初の年の試験には、バークと同じ点数で学年トップの成績になっていた。悪口を言う輩も自然と失せた。
ジャックはバークに肩を組まれながら、校舎中を練り歩いた。酔っ払ってでもいるかのようにバークはふらふらとした歩調で進み、時々よろめいて他の生徒や教員にぶつかりそうになった。学園の校歌を時折り陽気に口ずさんでは、ジャックの合格をしつこいほどに祝った。ここまでご機嫌なバークの姿は滅多にお目にかかれない、とジャックは思った。図体の良い龍人とそれに比べればなよなよとした狼である自分の体格差では、まるで大人と子供のように錯覚もされるが、今や二匹は対等な好敵手であり、誰よりも気の置けぬ友人同士であった。心を許し合うようになってから、この高貴な血筋を持つ龍人の少年は、厳粛な見た目とは裏腹に気立てのいい男だった。
オートゥスュイ魔導学園の校舎を出て連れられるままにやって来たのは、手付かずの自然が残る大河の岸辺である。バークに初めて呼びつけられたのも同じ場所だった。
放課後、夕日が暮れなずむ頃おいに約束通りやってくると、特大サイズの朱色の制服に黒いローブをまとった学園の正装姿で、バークは一匹しゃがみ込んで川の流れを見つめていた。左右に振れる尾が河岸の石を払って、じゃらじゃらと低い音を立てていた。がっちりとして豪勢な龍人の背中が、その時はなぜだか卑小に見えた。
――ノート、ありがとう。
ジャックは隣りにうずくまり、黙りこくるバークとともに徐々に影を濃くする水面を見つめた。
――おかげで色々と助かったよ。けど、なんで俺にそんなことしたんだ?
――……俺が何のために魔術を学んでるか、お前、わかるか?
彫琢された石像さえ思わせるバークの整った顔つきは、間近に見れば何てことはない一匹の少年の顔をしていた。自分のやることなすことに確信を持ちきれず、常に不安と迷いの中にある未成年の脆弱な姿。
――魔術、嫌いだったのかよ。
――ぶっちゃけていえば、そうだよ。
頭を抱えながらバークは鬱積してきた思いを全てぶちまけた。本当は、魔法なんかクソ喰らえだったんだよ、俺、とバークは毒づいた。それがちょっと魔術の才能があるだなんて言われたせいで、俺の意見なんて全然聞かずにトントン拍子で周囲が話を進めちまって。成績だって常に良くなきゃ周囲から何を言われるかわかったもんじゃねえから、とにかく必死に勉強、勉強、勉強だ、わかんなくてもわかんなくちゃならねえ。ああっ、クソったれ!……
――本当は何になりたかった?
――救急隊員。
――騎士とか、そんなこと言うんだと思った。
――むかし、俺がまだ小さかった頃、こんなデカい川で溺れたことがあったんだ。溺れ死にそうなところを助けてくれたのがワニの兄ちゃんでさ、すげえ、カッコよかったんだよ。俺もその兄ちゃんみたいになりてえって今でもずっと思っていて、森の中を延々と走り込んだり、この川を体力の続くまで泳いでみたり、無理だとわかるくせして今でも身体がつい動いちまう。
ったく、家柄なんて関係なしに俺は俺が好きなように生きたかったぜ! バークが吹っ切れた叫びにはまだ年端も行かないのに既に老成した諦念が漂っていた。
――だからあの時、お前に負けちまったけど、俺はホッとしてたんだよ。俺よりも上に、どうしようもなく才能のある野郎がいてくれれば、それを言い訳にしてここから逃げられるかもしれねえ、なんて考えたからよ、でも……
「もしお前みたいな奴と切磋琢磨とかできるとしたら、このクソみてえな魔術だって楽しいと思えるかもしんねえ、って俺は思ったんだ。なあ、わかるだろ?」
「それ、もう何度聞いたかわかんねえよ」
二匹はあの時と同じように川辺にうずくまって、大いなる川の夕暮れを眺めていた。取り止めのない会話をして、話題がなくなるとバークはいつも最初にここで話をしたときのことを掘り返すのだった。いい話は何度話したっていいんだからいいじゃねえかよ! バークは空惚け、ジャックの背中を叩く。力を抜いていたとしても、龍人からくらう一発は、堪える。
「……俺も」
じんとくる背中を気にしながらジャックは立ち上がり、手持ち無沙汰に掴んでいた石を川面に投げた。水の立てる音は案外大きく響いた。
「身寄りもなく、魔術で生きていくしかないと言い聞かせて、ずっと努力してきた。けど、どうすればいいか本当にわからなくなっていた時に、お前が手を差し伸べてくれて。上手く言えないけど、良かったと思う、本当に」
「……言葉にされると、やっぱ照れるもんだな」
「あの手紙、やっぱり朗読してみるか?」
「止せって、マジで」
「恥ずかしがんなよ! 誇り高い龍人だろ!」
「一匹狼めがよく言うぜ!」
二匹はしばらく岸辺で小突き合いながら、何がおかしいのかわからないけれども、それでもおかしくてたまらなくなって腹を抱えて大笑いした。こだました笑い声が、沈みゆく夕日とともに山際に溶けていった。
「……来週、高等科で最後の『魔道』だな」
バークは呼吸を整えてから、ジャックを真剣な顔で見据えた。
「初等科で初めて顔合わせした時と同じように、また対等な立場で向かい合えるってワケだ。俺と、お前が、やっと!」
ジャックは深く頷いた。
「もう誰もケチをつける奴もいねえ。お互い、ここまでやってこれたんだ。最後に学園中に見せつけてやろうぜ。俺たちが学んだ成果ってのを」
出し抜けにバークは手を差し出した。ジャックの頭をそのまま包み込んでしまいそうな手を広げ、切実な視線は相手の顔に向けられている。
「絶対に負けねえからな!」
「こっちこそ!」
二匹は固い握手を交わした。
――イリス教授は自分らを取り囲む野次馬の混沌とした叫びに耳を澄ましながら、喉元を大きく、ゆっくりと膨らませた。閉じていた目を緩慢な動作で開くと、決戦を前に共に正装して指揮者のように杖を握り締めて相対する二匹の獣人の姿を確かめる。孤児の身分から学園で一、二を争う魔術師にまで成長したジャック。一時期学内で成績が落ち込んだ時にはどうなることかと思ったが、やはりその才能に間違いはなかったと、改めて教授は胸を撫で下ろす。そして、貴族階級出身のバーク。才能については申し分なかったものの、魔術の道が本意ではなかったことはよく知っている。彼に必要だったのは真の意味で競い合えるライバルであり友の存在だった。何もかも恵まれたように思える彼の心の空隙を埋めうるのは、ジャックの存在だった。身寄りのないジャックにとっても、家族同然に接することのできるバークの存在こそが、秘めた才能を輝かせるトリガーであったのだ。
実に、惹かれ合うべきものは磁石のように惹かれ合う。教授は感慨すること頻りであった。頭上高くに輝く太陽へと首を伸ばし、誰もみなご照覧あれと言わんばかりに、顎が外れそうになるまで口を開いた。ジャックとバークはそっと杖を重ね、擦り合わせた。
「始めええーーーっ!」
あらんばかりに張り上げた教授の金切り声とともに「魔道」が始まった。こつり、と杖と杖のぶつかり合う音を聴きながら、イリス氏は学園でもこれから語り継がれることになるであろうの試合を取り仕切ることができることを心から誇りに思うのであった。