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豪奢な御輿の、カーテンの奥。その狼獣人の青年は、手持無沙汰そうにクッションに寄りかかり、脇息に片肘をついていた。せめてものヒマ潰しに……と革袋から杯に葡萄酒を注ごうとするも、悪路に御輿が上下にバウンドした拍子に少しこぼれてしまい、思わず舌打ちをする。
光の加減によっては銀色に輝く灰色の毛皮に、氷のように青く澄んだ瞳。長いマズルに、ふさふさとした尻尾。腰がくびれたように細いぶん、その四肢はより長く、逞しく見える。三角形の耳の先から尻尾の先まで丹念にブラッシングされたその美しい毛並みと言い、涼しげだがどこか傲然としたその顔立ちと言い、身に着けているものと言い、相当に身分が高いことをうかがわせる。
――それもそのはず、彼こそは『鼻の国』の王位継承権者第一位。名を[[rb:垂氷 > たるひ]]と言う。
「……叔父上め。戦略的意味合いがあるのは分かっているが、全く、この道はもう少しどうにかならんのか」
そう悪態をついて思い描くのは、当代の〈[[rb:磨崖 > まがい]]〉王のとぼけたような顔。彼とは父方の叔父‐甥の間柄に当たるだけあって、目や鼻と言った個々のパーツだけを見ればとてもよく似ている。しかしその配置がよろしくないのか、同じ狼獣人の中でも屈指の美男子と名高い垂氷と異なり、何だか間が抜けて、いかにもお人よしそうに見えるのだった。
――約一週間前、王の御前に呼び出された時のことを思い出す垂氷。
『……「左目の国」へ留学? 私が?』
『〈[[rb:端倪 > たんげい]]〉王から[[rb:文 > ふみ]]が届いてなあ。何でも、生まれつき心臓に欠陥がある末の王子が、ここんトコ体調が思わしくないらしい。それで、「[[rb:鼻 > うち]]」で転地療養させてやってくれないかって打診してきたんだよ。末っ子だし、病弱だしで特別可愛がってるんだろうなあ。あの〈端倪〉王もひとの親だったって訳だ』
『……それで、私に交換の「人質」になれ、と?』
〈磨崖〉王はいかにも心外そうに、
『まさか。俺は[[rb:陸 > くが]]殿下を人質扱いなんかするつもりは毛頭ねえし、それはあちらさんだって同様だろうさ。「留学」ってのが単なる政治的名目なのは認めるが、逆に言うと、嫌なら勉学なんてしなくていいって意味だ。観光気分でのんびり楽しんでこいよ、「[[rb:左目 > あそこ]]」のメシは美味くて種類も豊富だぞ?』
何なら自分が代わりに行きたそうにのんきな笑顔を浮かべる王だったが、垂氷の冷たい視線に少々真面目な表情になって、
『……何てったって、〈端倪〉王は当代一の術士だし。師事しといて損はねえと思うぜ。ええ? 「鼻」の次期国王サマ』
両者の間で既に話が[[rb:調 > ととの]]ってしまっていると理解した垂氷は、渋々ながらも『左目』への留学を了承した。このタイミングでいきなりそんな話が降って湧いてきた理由も薄々は察している。
――『[[rb:顎 > あぎと]]の国』の〝赤子〟のせいだ。
〝赤子〟。それは人間の子供にしか使われない呼び方。人類が遥か昔に滅び、『伝説上の化け物』となったこの世界では最早忘れ去られていた言葉。今からほんの数年前、突如として現れたその存在は、跡目争いで真っ二つに分かれていた『顎』を統一し、滅亡の危機から救ったことで国民から熱狂的に崇められていると言う。神意を告げる者、いや神の化身として。
(……ふん。馬鹿馬鹿しい)
作り物の火に惑わされ、《アニマ》を行使できないまでに魂の衰弱した人類が。今さら子供向けのおとぎ話の中からよみがえってきたところで、我等獣人にかなうはずもない。それもたった一匹だけで。
――先日、『顎』の領土にちょっかいを出した『鼻』軍が返り討ちにされたのは知っているが、それを率いていたのは〝赤子〟ではなく、跡継ぎの[[rb:碧 > へき]]王子だと聞いている。元々小手調べのつもりだった癖に、それを口実に『左目』との友好関係を強化しようとするとは、叔父上も見え透いた手を使うものだ。
そう結論づけた垂氷は、これでもう何度目か、カーテンの陰から外をうかがった。そこには『左目』から、道中の護衛にと派遣されてきた人物の丸っこい背中が見えている。
――雷の花と書いて「ライカ」等と読ませるからには、さぞかし見た目も中身も可憐で[[rb:雅 > みやび]]なのかと思いきや、いざ現れたのは可憐とは程遠く雅もへったくれもない、ずんぐりむっくりした壮年の象獣人だった。
くすんだ皺くちゃの灰色の肌に、まばらに生えた毛。事あるごとに馬鹿デカい耳をパタパタはためかせ、長い鼻のせいか声がこもって聞き取り辛く、小さな目はいつでもどんより暗く曇っていて知性のカケラもない。
――但し三日月状にカーブしたその立派な一対の牙と、その表面に浮かび上がった、咲き乱れる花にも似た複雑な模様だけは垂氷の審美眼にかなったのだった。
これから向かう『左目』は、本来獅子や馬や[[rb:犀 > さい]]等、平原に適応した獣人が主に生息していた地域。しかし当代の〈端倪〉王の徹底した実力主義により、[[rb:嘗 > かつ]]ては賤民扱いだった禿鷹鳥人やハイエナ獣人達まで重臣に取り立てているともっぱらの評判である。
(余程人材不足なんだろう。数だけは多い実子達も、要職を任されているのはほんの一握りだけらしいからな。
――まぁ、それでも『顎』の〈[[rb:韜晦 > とうかい]]〉王のように〝赤子〟だの、[[rb:鯱 > しゃち]]獣人だのに頼るよりは遥かに上等だが)
〈端倪〉王の見る目が確かならば、自分の実力を、アニマを高く評価してくれるだろう。いずれ自分が『鼻の国』を継ぐ日に備えて、色々と便宜を図ってくれるに違いない。自信に満ちた笑みを浮かべると、頬杖をついて外の景色を眺める垂氷。
――断崖絶壁に建つ『鼻の国』の王城に長年寝起きし、高所から他者を見下ろすことに慣れ切っていた彼は、己を待ち受けている運命など知る由もなかった。
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▼2
『左目』の王城に到着すると、垂氷は〈端倪〉王じきじきに盛大な歓迎を受けた。獅子獣人としてはもう老人と呼んでも差し支えない年齢のはずだが、並外れたその巨躯は今も筋骨隆々として、タテガミもふさふさと生い茂っている。
――しかし褪せ始めたその色艶や、その代わりとばかりに下顎から胸、腹、そしてもっと下方へと渦巻きながら続いている黒い剛毛。老いの印を如実に刻んでいる目元や鼻面の皺、そして口元のたるみは垂氷には(醜い)としか思えなかった。その玉座には何とも悪趣味なことに、戦で打ち破った相手から剥ぎ取ったのだろうか、左目のまぶたとその周りの皮だけを集めて縫い合わせた色とりどりの敷物が敷かれている。
そうは言っても、〈端倪〉王は威厳に満ちた、かつ友好国の後継者に対するのにふさわしい態度でもって垂氷に接してきたし、城内を案内される中でも晩餐会でも浴場でも美男美女に取り囲まれて、最上級のもてなしを受けた。
――専用の居室として一つ丸ごと与えられた離れの塔も彼好みの調度品で美しく装飾されていたので、いかに他者に厳しい垂氷でも、さすがに《楽土》一の強国だと感心せざるを得なかった。城内には歴代の『左目』国王のコレクションが展示されている部屋もあり、これを鑑賞できただけでもここに来た意味はあると考える垂氷。芸術談議に花を咲かせられるなら、あの老人に弟子入りするのも悪くないかも知れない。
アニマについて、より深く学ぶ為の留学……等と言うのは単なる名目だと考えていたのだが、それから数日後、垂氷は実際に〈端倪〉王からその誘いを受けた。何でも、城内に専用の部屋があると言う。
〈端倪〉は当代一の術士としてだけでなく、稀代の好色家としても《楽土》にその名を轟かせている。実子の数は本人が把握しているだけでも三〇〇人を超え、血の繋がった兄弟姉妹と知らずに愛し合う悲劇すら起こったと言う。
――今回垂氷と引き換えに『鼻の国』に人質に出された陸なる末の王子等、〈端倪〉が実の娘の一人に産ませた子供だとまことしやかに噂されている。
(ケダモノめ。晩餐会の席上でも、俺のことを品定めするみたいに無遠慮にジロジロ眺め回してきやがって。どうせ、どさくさに紛れてセクハラでもしてくる気満々なんだろう。
――幾ら当代一の術士でも、純粋な体力や腕力じゃこっちが上だ。友好国の手前、多少のことは大目に見てやるが……いざとなったら、返り討ちにしてやる)
『鼻の国』からちゃんと召使や護衛は連れて来ていたが、あからさまに警戒している態度を示すと相手に見くびられてしまいそうだし、何より己のアニマに絶対的な自信がある垂氷は単身、指定の場所へと赴いた。最悪地下牢かどこかに連れ込まれる覚悟はしていたのだが、いざ案内された先は書斎と言うより研究室を[[rb:彷彿 > ほうふつ]]とさせる小部屋。カビ臭いにおいは垂氷の鋭敏な嗅覚には[[rb:些 > いささ]]か辛いものがあったが、本棚にずらりと並んでいるのは『鼻』では見たことも聞いたこともないような古文書。ちょっとページをめくっただけで、教養のある垂氷にはすぐにそれらが同量の宝石より遥かに価値のある、希少な文献だと理解できた。アニマ関連はもちろん、『伝説上の化け物』――人間に関する書物もある。後世に編纂された歴史書のみならず、彼等が獣人と相争っていた当時の記録まで。
「《RED1052762》……?」
「興味深いであろう?」
それは最終決戦において、愚かにも人類が持ち出した細菌兵器の識別コード。潜伏期間が比較的長く、空気感染によって爆発的に蔓延するそれは獣人・鳥人・魚人・虫人・竜人のいずれにも甚大な被害をもたらし、一部の種族を完全に死滅させた。
――それでも元々生命力と繁殖力が強く、従って環境への適応力も高かった獣人達はやがて免疫を獲得できたが、突然変異を繰り返すうち人間自身にも有毒性を発揮し、耐剤性まで兼ね備えるようになったその細菌により、人類軍は総崩れ。結局因果応報と言うべきか、自滅同然の形で滅び去ったのである。
《楽土》に生まれた者ならば誰でも知っているそんな[[rb:おとぎ話 > ・・・・]]を思い返しつつ、垂氷はその記録を閉じて、
「……なるほど。この世界のどこかには今なお、かの細菌兵器が細々と生きながらえているかも知れません。或いは我々の中に、それを父祖から代々受け継いでいる者がいるのかも。それが再び変異し、我々に牙を剥く可能性を憂えていらっしゃるのですか? それとも、かの〝赤子〟がその兵器を利用する可能性を?
――確かにその場合、再び甚大な被害をもたらすでしょうが。やはり歴史は繰り返し、〝より優れた者〟が生き残り……人間は滅び去るだけでは?」
「〝より優れた者〟か」
自分自身のことをそう信じて疑わない、若く美しい狼獣人を見つめて、〈端倪〉王は黒い縁取りのある唇を皮肉っぽく歪ませる。
「……否。生き残るのは、〝環境に適応できた者〟だ」
片手を伸ばし、垂氷に顎をクイッと上げさせる王。垂氷の涼しげな面差しにはとたんに嫌悪の皺が寄ったが、プライドの高い彼には珍しく、無理矢理接吻してきたりしない限りは我慢しようと、この小部屋のドアをくぐった時から覚悟を決めていたのだった。
――王は肉食獣らしい、耳から耳まで裂けたような獰猛な笑みを浮かべると、
「貴様には『見込みがない』な」
垂氷の左目周辺に鋭い痛みが走ったかと思うと、瞬く間に、まぶたも開けられなくなる位そこが大きく腫れ上がった。反射的にそこを手で押さえると、まるで水風船のようにブヨブヨに膨らんでいる。
――それこそは『左目』王家に代々伝わるアニマとして、この《楽土》に知らぬ者はない「流体操作」。今は各種の体液を肉と皮膚の間に強制的に漏出させているのだろう。玉座の悪趣味な敷物を思い出すと同時に、〈端倪〉が獲物から欲しい部位の皮だけを綺麗に、そして生きながらにして剥ぎ取った方法を今さら理解する垂氷。
「ぐっ……がああああ!」
自慢の顔面に傷をつけるのは癪だが、剥がされるよりはずっとマシ。垂氷はそうとっさに判断すると、漏出した体液を「氷結」させた。
――「流体操作」は確かに汎用性の極めて高い強力なアニマだが、その名の通り、気体と液体しか操れない。しかも操作するとは言ってもあくまで物理的に動かすだけで、その温度や酸性度、濃度等の性質を変化させることまでは出来ないのだ。
(何が当代一の術士だ。アニマには全て、[[rb:相性 > ・・]]と言うものがあるのだぞ。この思い上がった老いぼれめが!)
垂氷が全身の毛を逆立て、手の陰から怒りと憎悪に満ちた視線を投げかける。〈端倪〉王の体内を巡るありとあらゆる体液が瞬時に「氷結」し、無数の氷の刃となってその肉体を内側からズタズタに切り刻む
――はずだったのだが。王は余裕の表情で、先程垂氷が取り落とした記録を浮かび上がらせてきっちり端を揃えている。
「なっ……!?」
「皮を剥ぎ取る価値も無い」
そう無表情に呟くと記録を元の場所へと戻し、もうすっかり興味を失った風に背中を向ける。無視と言う彼にとっては最大の侮辱に逆上し、今度は〈端倪〉王自身ではなくその周囲の水分を「氷結」させる垂氷。
――しかし氷の刃が生成された瞬間、その全ての切っ先に、ほぼ同時に黄色い稲光が走って刀身を砕け散らせた。
「後は、貴様の好きにするがよい。[[rb:雷花 > らいか]]」
「はぁ……」
そのくぐもった、聞き覚えのある声の主を振り返ると、いつの間にか小部屋の片隅で、あの象獣人が窮屈そうにその巨体を丸めている。一体いつからそこに? 隠し通路でもあったのか? それとも――最初からずっとそこにいたのに、見えていなかっただけなのか?
馬鹿デカい耳をいつもの癖ではためかせると、雷花はやはり垂氷の方など一顧だにせず、王に対してボソボソと、
「わたくしは、そのぉ……。この手の御仁は、あまり趣味では御座いませんでして、はい……。いかに見た目は[[rb:麗 > うるわ]]しくても、中身が伴っていなければ……。やはり[[rb:番 > つが]]いに致しますなら、もっと優しくて誠実で、家庭的と申しますかぁ……。ひととして尊敬できるようなお相手の方が、望ましいのですがぁ……」
「まぁ、そう申すな。心も[[rb:魂 > アニマ]]も卑小極まるとは言え、これでも『鼻』の正統な血を引く男なのだ。試しに一度味見してみて、口に合わねば、貴様の部下共にくれてやればよいであろう」
「はぁ……」
全く気乗りがしない様子で、垂氷をちらりと眺める雷花。その愚鈍そうな小さな目に嫌悪にも似た光がちらついたのを見て、あまりの怒りと屈辱にもう言葉さえ出なくなった垂氷はまず雷花の方から始末することにした。
――さっきは不意を突かれてしまったが、既に姿を現した今、狙いは定まっている。その名に違わず雷系統のアニマを有しているようだが、〈端倪〉王を巻き添えにしかねないこの小部屋では全力は出せまい。
(こいつら二匹の首をみやげに、『鼻の国』へと凱旋してやる!)
触れなば斬れん氷の刃が小部屋全体を埋め尽くすと同時に、雷花を、そして再び〈端倪〉王を体内から切り刻もうとする
――のだが。やはり生成された瞬間に稲光に打ち砕かれてしまった上、二人がダメージを負っている気配も無い。おっくうそうにこちらを向き、近づいてこようとする雷花に対して身構える垂氷だったが、
「あぎゃっ!?」
両手に氷の刃を生成した瞬間、同じく稲光に打ち砕かれてしまう。美しくしなやかだったその両腕には咲き乱れる花にも似た、感電による複雑なアザや火傷が残り、ブスブスと黒煙を上げた。心臓が止まりそうな衝撃に一瞬棒立ちになってから、よろよろと後ろによろめいて尻もちをつく垂氷。
「黒焦げになる前にぃ……一応、お教え、いたしますが」
口を半開きにして舌を垂らし、焦点の定まらない目でハッハッと荒い息をついている垂氷に、雷花はその巨大な足でのろのろと迫ってくる。
「わたくしのアニマはぁ……『尖ったもの』でないと上手く狙えない欠陥品でして、はい。普段はこうして……自分や陛下の方に向けられると、自動的に反撃するように。ええ、たとえそれが体内に直接生成されたものでしても……組織を切り裂く、寸前に。つまり、何を申し上げたいかと言いますとぉ……」
「貴様にとっては天敵だな」
それを見極められないまま、むやみに攻撃を仕掛けた挙句、自爆していては世話が無い……とばかりに嘲笑う〈端倪〉王。そして雷と言うものに流体の裂け目を縫うようにジグザグに進む性質がある以上、彼のアニマをもってすれば、幾らでもその矛先を逸らすことが可能なのだと。
「このッ、糞ジジイ……! 俺にこんな狼藉を働いて叔父上が、いや『鼻の国』が黙っているとでも――おっばっがっあっべっぎゃっらっ……!?」
端正な顔立ちを醜く歪め、全身の毛を逆立て、牙も歯茎も剥き出しにして吠え猛る垂氷。しかしその毛先や牙を「尖ったもの」として感知した雷花のアニマにすかさず反撃を受け、壁に寄りかかった体勢でビクンビクンと腰を、手足を跳ねさせる。
「元々出来のよろしくないオツムが、通電でいっそう馬鹿になったのか? ――貴様は、その叔父に[[rb:切り捨てられた > ・・・・・・・]]のだ」
この醜態を見れば納得も行くものだが……と、半ば白目を剥き、舌をだらしなく垂らしながら今も床の上で痙攣している垂氷に対し、酷薄な笑みを浮かべてみせる〈端倪〉王。
「留学など単なる名目。[[rb:儂 > わし]]の[[rb:妾 > めかけ]]として献上するから、今後とも両国のより良き関係を……とな」
ヒゲが焦げてクシャクシャになり、口の端からブスブスと煙を上げつつも、垂氷はろれつの回らない舌で辛うじて、
「ひっ、人質の、出し合い、では――」
「『人質』?」
聞き捨てならぬ単語が聞こえたように、ボリュームのあるタテガミにほとんど埋まった丸い耳をピクリと蠢かせると、〈端倪〉王は[[rb:踵 > きびす]]を返して垂氷の前まで戻ってきた。[[rb:嘲 > あざけ]]るのを通り越して憐れむような表情で垂氷の顔を覗き込むと、
「……儂の[[rb:最高傑作 > ・・・・]]が。貴様のごとき痴れ者一匹と釣り合うとでも?」
垂氷の心臓がキュッと縮み上がる。それは電気ショックの後遺症からか、「流体操作」で血流を乱されたからか、或いはようやく自分が置かれている状況を理解できて恐怖したからか。
――しかしその間、手持無沙汰にしていた雷花は相変わらず間延びした声色でモゴモゴと、
「それで、あのぉ、陛下……。王命とあらば、味見をすること自体はやぶさかでは無いのですがぁ……。消し炭にしてしまっても、構いませんので?」
このいかにも鈍重で、頭の回転も遅そうな男の口からそんな物騒なセリフが飛び出してきたことに垂氷は我が耳を疑ったが、対する〈端倪〉王も平然と、
「〈磨崖〉の奴から特に注文は受けておらぬが……名目だけとは言え、『留学』扱いになっておるからな。消し炭はさすがに勘弁してやれ。それ以外なら、貴様の部隊の肉便器にでも何にでもしてやるがよい。この世間知らずな――否、身の程知らずな皇太子殿下には良い社会勉強になるだろう」
「はぁ……」
雷花の気の抜けたような返事も咎めずに、小部屋のドアに手をかける王。
「……しかし〈磨崖〉の奴め、あんな出来損ないを寄越しおって。必ず埋め合わせはしてもらうぞ」
ドアがバタンと閉まると共に、雷花がどんよりした目を垂氷に向けた。さすがにもうむやみに攻撃を仕掛けるような愚は犯さなかったが、ミジメに逃げ回ったり許しを乞うたりするのは垂氷のプライドが許さずに、
「くっ、来るな! この下郎が!」
「そう申されましてもぉ……。王命、ですのでぇ……」
本人には全くそんなつもりはないのだろうが、まるで激しく消耗し、怯え切った獲物をじわじわと追い詰めるようにゆっくり迫ってくる雷花。床に尻もちをついた体勢で見上げると、その体躯は圧倒的なまでに大きく見える。
「そっ、そうだ! 俺の配下にならないか!? その様子では、〈端倪〉にはいつもいつも、やりたくもない任務を押しつけられてるんだろう。お前さえその気なら、『鼻の国』の重臣に取り立ててやるぞ!?」
「もう『鼻の国』に、あなたの居場所なんて無いのに、ですかぁ……?」
巨大な影が垂氷の体の半分を覆う。
「き、きっと何かの間違いだ! あの叔父上が、大切な跡継ぎであるこの俺を――乳飲み仔の頃から知っている、血の繋がった甥っ子を切り捨てたりするはずが無い! そうだ、妾だの何だのと、あのスケベジジイが勝手に誤解して……」
「それにぃ……。ついさっき、わたくしのこと、『下郎』って呼んだ舌の根も乾かぬうちに、そんなこと……」
雷雲のように暗く澱んだ雷花の黒い瞳に、ほんの一瞬のことながら、稲光にも似た激しい怒りが閃く。
「わたくしぃ……優しくて、誠実な方じゃないとって……。確かに、申し上げませんでしたかぁ……?」
その影が完全に垂氷を覆い、長い鼻が大蛇のように首に巻きつく。何とか動かせるようになった両手でほどこうとするも、爪の先を僅かにそちらに向けた瞬間に再び黄色い電光がほとばしって、垂氷の指を十本まとめて焼いた。
「あぎゃぎゃぎゃぎゃっ!?」
「あ~あ……。それはもう、切断待ったなし……ですねぇ……」
そのまま垂氷の体を持ち上げ、書き物机の上に投げるとぶつかった振動で、炭化した指が数本、ボロボロと根元から崩れ落ちた。その光景はもちろん、「全く痛みを感じないこと」にショックを受けている垂氷から、雷花が着衣をむしり取る。体の他の部分と同じ、灰色の毛に覆われた鞘が[[rb:露 > あら]]わになった。
「みっ、見るな! 触るな、下郎!」
「タコの一つ覚えみたいにぃ……。本当に教養あるんですかぁ、あなた……?」
垂氷の両足首を握り、股を開かせると長い鼻を伸ばし、上唇と一体になったその器用な先端で尻のはざまをまさぐる雷花。やがて菊門を探り当てると、鼻の穴を密着させてその隙間から息を吹き込む。
「うあああ!? きっ、貴様ぁ……!」
「身だしなみには気を配られる方だけあって……こちらも清潔になさっていて、何より。
――おや~? ひょっとして、象獣人とまぐわうのは……はじめて、ですかぁ? 前戯でこうして……膣や腸を、膨らませて、おくんですよぉ……」
『鼻の国』では皇太子と言う身分はもちろん、狼獣人きっての美男子とあって同性とも異性とも数々の、華やかな浮き名を流してきた垂氷であるが、その行為はあくまで[[rb:下々 > しもじも]]の連中に王家の子種を恵んでやるだけのもの。相手が象獣人か否かに係わらず、一度も受け身に回った経験はない。
――雷花も前戯を続けるうちにその事実を悟ったのか、
「それならなおさら……念入りに、膨らませておかないといけない、ですねぇ……?」
「よっ、よせ、離せ、このッ! 俺を誰だと心得る! 汚らわしい――」
ところどころ指の欠けた手を机の上でばたつかせ、なけなしの抵抗を示す垂氷。書き物机の上にあったペン立てや燭台がぐらぐらと揺れ、雷花の方に向かって倒れた次の瞬間に稲妻に打ち砕かれる。幸い足のつま先は既に雷花の後方にあったのでそちらの指まで失うハメにはならなかったが、象獣人の腕力ではビクともしない。
――菊門から吹き込まれる生ぬるい鼻息が腸壁を炙り、そのヒダを押し広げてくるおぞましい感触に垂氷は総毛立ったが、
「がっ!? ひっ、あっ、ばっ」
それと同時に再び一本一本の毛先に、垂氷の毛皮を網目状に覆い尽くすようにして電流が走った。毛が焼け焦げる程ではないものの、一瞬意識が飛ぶには十分な強さのそれに、垂氷は机の上でのけ反りながらガタガタと痙攣し、後頭部を机の角に打ちつける。
「はぁ……。何と申しますか、学習能力の無い方ですねぇ……」
尻のはざまから鼻を抜くと、ほとほと呆れ果てたと言った顔で呟く雷花。ガチャガチャと音を立てながら下半身の装備を外すと、垂氷の両足首を握り直してグイッと自分の方に引き寄せる。
――ようやく電気ショックから回復するも、己の股間の上にそびえ立つモノを目にして、いっそ気を失ったままの方が良かったと後悔する垂氷。
「まっ、待て! そんな物、入る訳が――」
「わたくしだって、本当は入れたくなんかないんですけどぉ……。一応、王命ですからぁ……」
垂氷の腕どころか、脚とほとんど同じ長さと太さのその獣根の切っ先が、菊門へとあてがわれる。
「ですが、どうかご安心してくださいぃ……。わたくし、象獣人の中では……至って、平均的なサイズですのでぇ……」
「ウギャアアア! 貴様ァ、許さんぞ、必ずこの手で――ぇべべべべ!?」
何とかして頭を起こすと再び顔を歪め、牙も歯茎も剥き出しにして叫ぶ垂氷。そして前回同様に、たちまちその犬歯や突き出た舌先、逆立ったヒゲ等にアニマによる反撃を受けて脳髄まで痺れさせられる。
「黒焦げは勘弁してやれ、との御命令でしたのでぇ……。一応、さっきより威力は弱めてありますがぁ……。大丈夫、ですかぁ……?」
小馬鹿にするのを通り越して、本当に心配になってきたように尋ねる雷花。だが当の垂氷はそんな声も聞こえていないのか、完全に白目を剥き、涙と鼻水とヨダレを流し、泡を吹きながらビクンビクンとのけ反っている。元が端正な顔立ちなだけあって、そんな今の有様はいっそう無様で滑稽に見えた。
(後略)
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▼3
所変わって、『顎の国』の王城。普段は警備の兵も出入りを禁じられている区画に、〝赤子〟こと第二王子:[[rb:赫 > かく]]の居住スペースはあった。
嘗て人類が「隔離施設」として利用していたらしい遺跡の一部を、そっくりそのまま移設した部屋。数少ない窓も今は分厚いカーテンを引かれている為、真っ昼間だと言うのに薄暗い。
――豪奢な天蓋つきベッドの真ん中に、横臥しているのは小さな子供。ふかふかの枕に頭をうずめ、顎の辺りまでシーツを引き上げている。軽く手足を曲げ、目を閉じているが、薄暗がりの中ではその黒髪が、そして抜けるように白い肌がいっそう引き立った。
『顎』は温暖湿潤で四季を通して快適な気候だが、それはあくまで半陸半海の生活に適応した獣人達にとって。毛皮も鱗も、エラもヒレも持ち合わせず、そもそもの免疫系が獣人達と大きく異なる彼にとっては何が命取りになるか分からない。
――そこで特別用が無い時にはこうして、人間に過ごし易い環境に調節されたこの場所で身を休めているのだが……。
「……」
そんな寝室の片隅に、静かに浮上する影があった。自称赫の一の子分、鯱獣人の[[rb:潮 > うしお]]である。頭のてっぺんに開いた呼吸穴と白い目玉のような模様、そしてその下にある本物の両目を「水面」から覗かせて、赫のあどけない寝顔をじっと見上げている。
――鯱族としては、もう中年に差しかかった年頃。武骨で無表情だが、見ようによっては愛嬌のある顔立ちである。
「若……」
切なげな声を漏らすと、もうそれ以上自分を抑え切れなくなった風に、音も無くベッドまで潜航する潮。右、左とベッドの端に両手をかけると、「水中」からザバリと[[rb:陸 > おか]]に上がる。筋骨隆々とした上に適度に脂肪の乗ったツートンカラーの巨体が、軍旗程もある背ビレが、そして同じくみっしりと肉の詰まった太い尻尾が露わになった。身にまとっているものと言えば、白い下帯一丁である。
――石の壁も金属のドアも「液状化」し、水同然に通り抜けることの出来るアニマの持ち主にとっては、人類の遺産だろうが何だろうが恋の障害にはならないのだった。
「……?」
その途方もない体重でベッドが沈んだことで、赫はうっすらと目を開けた。その目じりや頬に残っている涙の痕を、太い指でそっとぬぐってやる潮。彼等鯱獣人は持ち合わせていないまつ毛が繊細に震えて、[[rb:愁 > うれ]]わしげに伏せられた。
潮は知っている。生まれてまだ十年も経っていないこの少年が《楽土》の統一を目指しているのは、再び獣人達を支配する為でも何でもない。唯、父親に――〈韜晦〉王に、子供の頃からの夢を叶えさせてやりたい一心であるのだと。そうする以外に、今まで人間等と言う『伝説上の化け物』を匿い、育ててくれた恩義に報いる術が無いと考えているからなのだと。
そしてまた、知っている。長らく一人の男しか、その男から注がれる無償の愛しか知らなかったこの少年が、事もあろうに、実の父親に恋してしまったことを。気が弱くて優柔不断で、王の器には程遠い、年配の海竜族の竜人に。
「若。オレじゃあ、駄目か……?」
うっかり押し潰してしまわないよう、潮は慎重に体重を移動させながら赫の上に覆いかぶさる。首をかがめ、口吻を押し当てようとすると赫は黙って顔を背けた。
「必ず、若を幸せにするから……」
片手でシーツをズリ下ろすと、薄暗がりに白く清らかな裸体がぼんやりと、それ自体が光を帯びているかのように浮かび上がる。早くも磯臭い息を荒げ、目を血走らせながらその柔肌に手を這わせる潮。華奢な肩から薄い胸、なめらかな背中と来て、尻尾も何も生えていない柔らかな臀部にそっと指先を喰い込ませると、赫の唇から悩ましげな声が漏れた。
「若。ああ、何て柔らかい。何て美しいんだ……」
『顎の国』が跡目争いで真っ二つに分裂し、周辺諸国をも交えた泥沼の内乱の様相を呈していた頃。潮はその混乱に乗じ、近海を荒らし回っていた海賊団の頭目だった。或る時は『上顎』の船の積み荷を奪い、また或る時は『下顎』領の港を襲う。
いずれはどちらか優勢な方の味方をして重臣に取り立ててもらおうか、第三国のお雇い海賊になって上下共に滅ぼす手助けをしてやろうか。それともドサクサに紛れて、いっそ自分が『顎』の君主に収まってしまおうか?
――夜な夜な馬鹿騒ぎをしては子分達とそんな未来設計をしていた潮の元に、ある日、『下顎』の〈韜晦〉王の使者だと名乗る小さな影が乗り込んできたのだった。
『たった一人たぁ、いい度胸じゃねぇか。その無謀さに免じて、このオレ様がじきじきに、丁重に歓迎してやるぜ』
そして散々[[rb:嬲 > なぶ]]り者にした末に、[[rb:熨斗 > のし]]をつけて送り返してやる。そんなつもりで不敵に相手の前に立ちはだかり、指の骨をボキボキと鳴らす潮。しかし相手が目深にかぶっていたローブのフードを黙って脱ぐと、余裕綽々だった潮の表情が一変した。
――なぜならその下から現れたのは、角も牙も、毛皮も鱗も、瞬膜も持たない赤裸の……人間の〝赤子〟の顔だったのだから。
『……!?』
その異形を目にするなり、蛮勇をもって鳴らす子分達の間にも一斉に動揺が、ほとんど畏怖に近いざわめきが起こった。生まれてこの方、一度もマトモな教育を受けたことがない潮でも、《楽土》に伝わる〝おとぎ話〟位は知っている。本能的な憎しみや恐怖心を父祖から脈々と受け継いでもいる。
しかしそれ以上に、生まれてはじめて目にする人間のことを――『伝説上の化け物』のことを、潮は美しいと感じてしまったのだった。鯱族の中でも変わり者として知られていた彼は、きっと生まれつき……[[rb:美的感覚 > ・・・・]]も、狂っていたのだろう。
『どうした? 丁重に歓迎してくれるのでは無かったのか?』
いかにも貧弱で頼りない、吹けば飛んでしまいそうな外見とは裏腹に、挑発的にこちらを見上げてくる〝赤子〟。そのアーモンド形の黒い目も赤く薄い唇も、潮にはこの上なくなまめかしく見える。
――子分達が固唾を飲んで見守る中、石像のように硬直していた潮は巨体をかがめ、〝赤子〟の前にうやうやしくひざまずくとこうべを垂れた。恐る恐るその小さな手を取り、口吻を押し当てる。
『どうか、オレの嫁御になってくれ……!』
「オレの気持ちは変わらねぇ。いや、あれからもっともっと強くなってる」
赫の片腕を取ると、白いゴム質の皮膚に覆われた己の分厚い胸板に手のひらを当てさせる潮。そこでは極寒の海でも凍ることのない赤い血潮が、赫への愛にいっそう熱く煮えたぎり、力強く脈打っている。
「殿様の夢を叶えるのが若の夢だって言うんなら、若のその夢を叶えるのがオレの夢だ。どこまでも若についていく。若の為なら何だって出来る。だから、どうか――」
再び口吻を近づけると、赫はそれ以上拒まなかった。柔らかな頬を、口元をちょんとつついてから、恐る恐る舌を伸ばす潮。空いている方の手で頭をこちらに傾けさせ、まだ硬く引き結ばれている唇の合間に、舌先を滑り込ませる。赫の唇が薄く開き、見慣れない形状の歯列が覗いた。
「若……」
鯱の鋸歯状の牙で傷つけてしまわないよう細心の注意を払いながら、潮は赫に接吻する。舌を深く絡めようとすると、まるで獲物を捕食するみたいに大顎を開け、相手の頭に横向きにかぶりつく格好になってしまう。
――しかし、鯱以上に上下の顎が発達し、牙も鋭い海竜と……父親と接吻するのに慣れているからか、赫は特に怯えたりもせずそれに応じてきて、うっとりと目を閉じた。潮が磯臭い唾液をたっぷりと分泌し、お互いの舌の間でこね回しながら少しずつ口腔内に注ぎ込んでやると、細い喉を鳴らして飲み下す。
「若……ほら、触ってみてくれ。若があんまり可愛くて綺麗だから、もうこんなになっちまってるんだ……」
胸板の感触を楽しむようにそこをまさぐってきていた赫の手を再び取り、己の股間へと導く潮。白い下帯は先走りの汁でぐっしょりと濡れ、絞ればボトボト大粒のしずくが落ちてきそうな程である。通常は体内に格納されている肉銛がその前袋を窮屈そうに突き上げて、薄手の生地に赤黒い色を透けさせている。
――赫の指がぎこちなくそこに触れ、ヌメヌメした液体に滑りながらも焦らすように愛撫すると、それだけでもう潮は興奮と感動のあまり精を漏らしてしまいそうになった。肉銛が一回り大きく膨張し、その弾みで前袋の脇から飛び出す。
「ああっ……! 若……」
(後略)
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▼4
「……」
そんな[[rb:妄想 > ・・]]をオカズに無人のベッドに顔をうずめ、赫の残り香を嗅ぎ回りながら一人淋しく獣精を搾り出した潮であったが。絶頂の余韻も冷めやらぬ中、ふと冷たい視線を背ビレに感じて振り返る。
――赫は潮のヨダレでビチョビチョになったベッドや、まるで失禁でもしたかのように床に広がっているその子種を眺めると、無言で静かにドアを閉めた。
「ちょっ……!? まっ、待ってくれ若! これには海よりも深い事情がっ……!」
慌てて身をひるがえし、床を「泳いで」追いかける潮。そのままドアも一直線に突っ切るとザバリと陸に上がり、先走りでグショ濡れの下帯を締め直しながら、廊下をすたすた歩いて行く相手に追いすがる。
「……ひとが不在にしている隙に寝室に忍び込んで、自慰にふける合理的理由があるのなら、ぜひとも聞かせてほしいものだな」
「そっ、それは――そう、イメージトレーニングだったんだ! 来たるべきオレと若との初夜の……」
「そんな日は永遠に来ない。そしてそれ以上近寄るな、イカ臭い」
相変わらず取りつく島もないが、そんなつれない態度にも[[rb:却 > かえ]]って興奮してしまうのが惚れた弱味と言うか、潮が変態扱いされているゆえんである。体外に露出したままの肉銛が前袋の中でまたぞろ膨らんでくるのを隠しながら、
「それで……若。どちらにお越しで?」
「なに。牢屋に、ちょっと世間話にな。――お前はついてこなくていいぞ。むしろ邪魔だ」
現在収監されているのは、あの捕虜一人きりのはず。一度部屋に帰ってきたのは、〝交渉〟に当たって一応身なりを整えておくつもりだったからだろう。潮の前では普段、そんなもの全く気にしていない癖に。
――そう考えるとメラメラと嫉妬心が燃え上がってきた潮は体の半分だけ「潜航」して、
「……あんな野郎、若にはふさわしくねぇですぜ。多少は名の通った将軍だったかも知んねぇが、オレに対しちゃあ文字通り、まるで歯が立たなかったんだ」
「アニマには相性と言うものがある。それともお前は、『流体操作』の攻略法を編み出したとでも言うのか?」
返答に窮する潮。対象を「液状化」する彼のアニマは、『左目』王家の「流体操作」とは相性最悪。急場はしのげたとしても、結果的に敵にとっての選択肢を増やし、逆用されてしまい兼ねないのだ。
「でも……それなら別に、あの野郎じゃあなくっても……」
「文句があるならついてくるな」
そう冷たく突き放されてまた興奮してしまう潮だったが、やがて目的地に到着すると頭を切り替えて気を引きしめる。牢番に声をかけると、燭台を手に薄暗い、ジメジメした通路を進む赫。
――そこは天然の鍾乳洞の構造をそのまま利用した地下牢。小柄な赫はともかく雲衝く大男の潮には狭すぎる入り組んだ空間だったが、「液状化」で楽々とすり抜けて行く。二人の息づかいや足音が天井や床、そして鍾乳石に反響した。
目指すは一番奥に位置する独房。近づくにつれ、それまで完全に暗闇に溶け込んでいた猫科の獣人の輪郭がぼんやりと見えてくる。
――片膝を抱えて顎を乗せ、何やら物思いにふけっていたらしいその黒豹の偉丈夫は、赫が鉄格子のすぐ傍で足を止めると、ようやく薄く目を開いた。緑と金が複雑に入り混じった色合いの瞳が、燭台の光にまぶしげに瞳孔を細めながら、静かに赫を横目で見てくる。
「また少しやつれたんじゃないか? [[rb:墨雲 > すみぐも]]」
「……」
(後略)
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